愛しているのは貴方だけ

石谷 弘

愛しているのは貴方だけ

 延々と連なる蚊取り線香の煙、太鼓の音。行き交う人々の汗の匂い、客の前で兎だ桜だと姿を変える飴細工の甘い香りや周りを囲む鎮守の森の湿り気を帯びた熱気、それらを夜の中に溶かし込んだ夏の縁日という空間。

 その中で少女は一人、金魚すくいの水槽を眺めていた。お下がりを繰り返し、少し黄ばんだ浴衣の中ではアヤメが風になびき、鳥が羽ばたいている。だが、夜店の店主も周りの人々もそれを気にすることはない。

 ここは、そういう場所。

 店主が声をかける。逆光でよく見えないものの、にこやかに笑いかけるねじり鉢巻きの店主の顔が見下ろしていた。

 いや、逆光ではない。アセチレンランプの少し臭い炎は水槽の真上で揺らめいている。光のせいではなく元々がそうなのだ。

 少女は辺りを見回すが、周りに他の人はいない。二、三歩向こうには同じように顔のよく見えない、全身が影のような人達が夜店を巡って歩いていた。

 坊主頭に耳隠し、中にはまげを結っている者もいる。さすがにがいないところを見ると、ずっと居続けるというのも飽きるらしい。

 視線を戻すと店主が笑ってポイとアルミの器を渡してきた。引っ掻くと嫌な音のしそうなそれを受け取り、ポイを水に浸ける。

 水の中には赤、黒、まだらと色も大きさも様々な金魚が泳いでいる。近づけると金魚の方からポイに乗ってきた。

 黒い出目金をすくい上げる。けれど、器に入れる前に暴れて飛び出し水槽の外へ。跳ねた雫が一瞬ずつ止まったように輝きながら、暗闇に吸い込まれていった。

 少女は取り乱し、光の届かない足元を両手で必死に探すが黒い金魚は見つからない。

 憔悴しきった少女に店主が言う。あれは鬼子だったのだろう。あんた、何か悪いことでもしてきたのかい。

 少女はただ泣き続けるばかりだったが、やがて袖で涙を拭うと、小さく穴の開いたポイを再び水面に滑り込ませた。すぐさま赤い金魚が二匹一緒に乗り上げてきた。

 慌てて上げながら器を滑り込ませる。それと同時に破れて開いた大穴から二匹は器に飛び込み、元気に泳ぎ出した。

 赤い二匹が透明なビニールの巾着の中で泳いでいる。愛おしくて、何度も覗き込みながら、夜店の列をカラン、コロン歩いて回る。

 顔のよく見えない人達はいたり、いなかったり、蛍の光のよう。ぶつかる、と思った瞬間消えていたり、急に目の前に現れ、慌てて避けたりと忙しい。

 何度目かに現れた肩車をした親子の脇を抜けた時、不意に色の見える姿が現れた。

 異国の祭で被る目元を隠す派手な仮面。燕尾服を着た小柄な少年は明らかに異質な存在だったが、やはり気にする人はいない。

 しかし、少女にはそれが誰なのかはっきり分かった。

 少年は親しげに近づき、夜店の列の外側へと誘う。少年のまだ小さな手が触れた時、仮面の向こうにいくつもの姿が重なって見えた。

 地主や村長むらおさの子、一国の王子、厳めしい軍人に縄張りのボス。そのどれもが少女のいつかを愛してくれた顔だった。

 手を取り抱き寄せた少年と異国の舞を踊る。まごつきながらも、くるりくるりとステップを踏んだ。視線が絡み合う。そこには身を焦がさんばかりの情熱が迸っていた。

 踊りが終わり、少年が巾着を覗き込む。薬指を差し入れると、その先から糸のような濁りが現れ、絡まり合ってやがて一匹の黒い出目金になった。

 少年は満足げに頷くと、再び少女の手を取り踊り始めた。

 楽し気な少年に満たされる思いを感じる一方で、少女の中の何かが急速に冷めていく。彼ではないという思いが膨らんでいく。

 とうとう少女はその腕を振り解き、少年を残して雑踏の中に戻っていった。

 再び顔のよく見えない人の中を歩いていく。

 夜店の列の終わりにもう一人、色の見える姿の少年がいた。

 よく日に焼けた半袖短パンの少年。その顔は狐のお面で隠されているが、間違えるはずなどなかった。

 気が急いて躓いた少女を抱き留めると、やはりいくつもの姿が重なって見えた。

 書生風の青年に姉さん被りの女性、厳めしい甲冑を身に付けたあどけない少年に、白骨のドクロ。そして猫。

 それを見て少女は安堵する。その全てがかつての恋人の姿。運命の人。

 子を成したこともあった。男同士の時も、女同士の時もあった。叶わぬ恋に骨だけを受け取り、その身に取り込んだこともあった。果ては野の獣として寄り添ったことさえも。

 二度と離すまいと抱きしめた時、少女の身体に衝撃が走る。恐る恐る見下ろすと、白地の浴衣を真っ赤に染める大輪の曼殊沙華。

 抜かれ際、痛みに跳ねた身体が地面へと崩れ落ちる。狐のお面の少年はしっかりと抱き留め、ゆっくり石畳の上に降ろした。その前には短刀を握り、呆然としている異国の仮面の少年。

 我に返ったのか、狂ったように泣き叫び、そのまま辺りを紅葉もみじに染め上げ、果てた。

 力無くその様を眺めていた少女は思う。

 次もまた。

 添い遂げるつもりはない。何度会っても幸せになることはない。けれど、身を滅ぼす程の情熱で少女を求める彼の事をもまた。

 霞みゆく意識の中、狐のお面の少年にビニールの巾着を託す。中にいるのは赤黒三匹の金魚。来世の子ども達。

 大丈夫。この人なら大事に育ててくれる。

 泣きながら受け取る少年に微笑み、少女の姿をしたものは震える声で囁いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛しているのは貴方だけ 石谷 弘 @Sekiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る