描かれたディストピア

早稲田暴力会

 日々、我々は目の前の文字を読んでいる。私も例外ではなく、文字を読み続けている。そして、その内容を理解しようと努めている。すでに紙の右半分は文字で埋まっていて、文字は今も書き込まれ続けている。文字を生み出す黒いインクは毒蛇の牙から滴り落ちる毒のように紙に溶けていく。ペンを操る右手はうねるように紙面と宙を往復して円運動を繰り返している。時折、文字を書くのをやめ、ペンの端を噛みながらそれを読もうとする。すると、途端頭がぼーっと熱にうなされたようになり、頭の中に原稿用紙から浮き上がった文字が侵入し身勝手に回転し始めた。読み返していくとそれは、別の世界について書かれた既述であることが分かる。

 それは物語であった。なぜそれが物語の形になっていくのかは分からない。ただそこには、物語の中の「私」がいて取り憑かれているように私は書いた。そうして読んでいると、私はふと誰かに見られているような、そんな感覚に襲われる。

 一通り満足がいくまで書いてその原稿用紙をファイルにしまった。

 廃品回収業の朝は早い。

 書くことさえその普段の一部になりつつあるが、私にも仕事がある。今日もこれからその仕事に行かねばならないのだ。

 外がまだ太陽も昇らぬうち、鳥がさえずり始めるような、いや、もっと言うと朝と呼ぶことさえできないかもしれないうちから我々の仕事は始まる。と言っても、やはり今のは言い過ぎたかもしれない。鳥がさえずるというのは、私がなんとなくそんな気がしているからで、ひょっとすると鳥はさえずっていないかもしれないからだ。いや、もちろんこれは私の記憶が曖昧なだけで、けして嘘を書きたかったわけではないのだが。

 とにかく、私の仕事の開始時間が早いということを書きたかったわけだ。となるとやはり、朝が早いと言えば、明朝からさえずる鳥とくるのがふさわしく思えたし、やはり曖昧な記憶ながら鳥はさえずっていた気もする。

 ある日現場に新人がやってきた。おそらく研修でおおよそ何をやる仕事なのかは把握しているだろうと思い仕事の説明を軽くしてそのまま現場に連れていくことにした。

「はじめのうちはよく分からないこともあるだろうから、気にせず言ってくれ」と言うと、彼は「はぁ」と一言、返事とうめき声の中間のような生返事をしてきた。

 その日の仕事は単調だった。

 依頼のあった家を一軒一軒回っていき指定廃品を回収し、最後に私有地に放棄されたごみを回収することだった。

 最後の私有地、といっても共同管理の土地なので、出資者の共有スペースになっている。

 訪問先では、各種さまざまな廃品に値段を付けて回収していく。リサイクル可能なものは買い取る形で引き取り、リサイクルできないものは処理代、引き取り代を徴収する。一件目の家は問題がなかったのだが、二件目の家の住人が厄介だった。彼は、白髪交じりの髪に指を入れ動かしてしゃべった。

「いやぁさ、こっちもね、二万とかは言わないよ。だって相場がね、あるからさ。でもさ、一万切るってのはどうかね、おたくもそう思わない? なんか変だなってさ」

 こまったな。と彼はまたゆっくりと髪をもぞもぞと触りながら、長く息を吐き出したのちに口を結んだ。長年の勘だかなんだか知らないが、自分は世の中のことをよく知っているという風な人間だ。たまにこういう客に出くわすと長引くことが多い。こういう時に無理に説得を試みるのは逆効果だったりする。むしろ、話し相手がいないから、お店での接客や、家に来た業者に話すしかなくなるということも大いにあるのだった。

「にぃちゃんさ、最近はやっぱり不況だよな」

 自分たちの業務ではこれが限界であることを丁寧に説明し、その後はひたすら世間話の聞き役に回った。とにかく彼は不況について語ることで、何かコミュニケーションをとりたがっているようだった。

「やっぱり、空気が違うよ。最近じゃ外を歩いている家族もね、会話がないんだよね。やっぱり、どこの内も空気が沈んでるんだよね」

 私は、なるほど、とか確かにそういうこともあるかもしれませんねと、肯定も否定もしないような相槌を続けて、相手の話が途切れても黙って頷き、話を受け止めているような姿勢を見せた。こういうのは反応が良すぎても良くない。真摯に話を聞きながら、それでいて話を加熱させないことが重要なのだ。私は相手の話のタネが尽きると見るやいなや、自分たちの立場と今できることをもう一度丁寧に説明し、話を切らせるように促した。

「うん、悪いね。引き留めて、君らも大変だろう。こんなに不況だと」

「そうですねぇ、なかなか思うところがあります。それでは、また」

「うん、またなんかあったらね」

 その家の男性は、それじゃあねと最後に申し訳なさそうに笑うとそそくさとドアをしめて引きこもってしまった。

 私は後輩にこういう時間だけ取られて単価の低い仕事はなるべく時間を減らすようにと軽く言って、次の仕事へと向かった。

 だいぶ無駄な時間がとられてしまったので、そこか回る予定だった仕事を回収を行った後、共有スペースの清掃へと向かった。

 共有スペースは共有して使われているだけあって、だいぶ小綺麗だった。普段から各自で清掃がなされているのだろう。私たちが行うのは、住民たちが手に負えない部分についてであった。それは撤去が大変なものの処理だったり、細かい部分の清掃だったりした。案の定今回もそうした撤去作業が必要な仕事だった。撤去したものの多くは再利用すらできないためそのまま廃棄されることが多い。今回撤去したものもそうした廃棄確定のものだった。

 清掃が終わったところで新人の姿が見えなかった。気が付けば彼はよく分からない赤いシミのついたぼろ布のようなそれを見ていた。よく見れば、それは鳩のような鳥であった。鳩のようなというのは、おそらく鳩なのだが、車に轢かれたのか、カラスに襲われたのか、首に当たる部分がなく、足も左右どちらだか分からないが、片方が失われ、その断面から桃色の紐のような筋が飛び出していた。何を物珍しそうに見ているんだと不思議に思い

「アレもちゃんと回収しなきゃダメだよ」

 グロテスクかもしれないけどさ、と付け加えながら言った。

「グロテスクですかね?」と彼はぽつりとつぶやいた。

「まぁ見ていて気分のいいもんじゃないだろ」

 と言ってみたが、彼はふーんとうなったのち、そんなもんですかねとつぶやいた。一体誰に向かって言っているのか、彼の声は空気に溶けて消えてしまった。

 気味の悪い奴だな、と内心思いながら、ぽんと彼の肩に手を触れて帰るぞと告げる。

 自宅に帰って、すぐに執筆にとりかかった。

 私はすぐに空想の世界のもう一人の「私」の物語について書き始めていた。


 スクリーンは点灯している。画面右半分はすでに文字で埋まっていて、現在進行形で文字は打ち込まれている。文字を打つ右手はうねるようにキーボードと宙を往復して円運動を繰り返している。時折、文字を書くのをやめ、それを読もうとする。すると、途端頭がぼーっと熱にうなされたようになり、頭の中で文字がくるくると回転するようだった。それは、読んでみるとそのストーリーはいつのまにやら形になり進行しているという具合なのだった。

 これはある種の治療のように思える。原因不明の悪夢とそれによる不安の治療。悪夢、と言えるのかは私にも分からない。何故なら、朝目を覚ました瞬間覚えている光景はその日の昼過ぎにはすっかりと消え去っているからだった。最初の内は記憶にとどめておこうと努力したりもしたが、それでもその記憶も夕方頃には精細さを失い、まるで人から聞いた話のように実感が無くなっていた。何を見たのかを私は思い出せない。ただ悪い夢を見たという記憶だけが残り、自分は悪夢に悩まされているのだという自覚に更に悩んだ。いつしか、私はそのことに不安を抱き始めた。私自身に何か重大な変調が起こっているのではないかという疑念が頭をもたげた。軽い不安障害のようなものだと言い聞かせたりもしたが、意味はなかった。誰かに相談しようとは思わなかった。なんとなく、決定的に何かを変えてしまう気がして気が進まなかった。なにより不安があるなら、まずその正体を把握することが重要だと思えた。その方法とは、夢で見た光景を書き留めるというものだった。

「ここまでにしよう」

 私はパソコンを閉じて、いつも通り窓の外の青空を見ているとコンコンと扉をノックする音が聞こえてきた。コンコンと書くと二回しか扉が叩かれなかったように感じられるが、実際はノックの音は三回だったかもしれない。しかしそれは些末なことだろう。

 私が後ろを振り向くと、扉を後ろ手に閉めながら一人の男が入ってきた。

「こんにちは」とこちらが声をかけると、男はこんにちはとそっけなく返した。

「今日の調子はどうかな」

「まぁ、普通です」

「それはよかった。いい兆候だよ」

 私は、棚からボードを取り出して、据え付けてある紙面に今日の日付と彼の名前を書き込んだ。

「まぁ、そこに座って」

 彼は、いつも通りかといった様子でのそのそと観葉植物近くのソファに腰を掛けた。

「あれから何か変わったことはあったかな」

 私がそう聞くと、彼は「特に何も」と言ってこちらを見据えたまま口を閉じた。

「うん、そうか」

 私は彼に笑って見せた。相手の緊張をほどくには、こうして相手の言うことに対して笑顔で相槌を打ってみせるのがよい。なにより、彼のように人とのコミュニケーションを積極的に取らないタイプには、あまり大げさにせず、静かに受け止める姿勢を見せることも肝心だった。

 しかし、私のそんな思惑とは裏腹に彼はまっすぐこっちを見たまま身じろぎ一つおこさなかった。まぁ、いいだろう。新人の頃はこうした長期戦には焦ったものだが、焦りは禁物だ。百害あって一利なし。こうも自分をさらけ出さない相手だといろいろとやりにくさはあるものだが、そういうところも併せて彼という人間を知る必要がある。

 私は、こんなものは形式的なものだと言わんばかりに、何も書いていないボードを再び棚にしまって、もう一度彼に話始めた。こうすれば、事情聴取をされているような印象を少なからず減らす効果があると思ったからだ。だが、それでも彼は「別に」とか「そうですか」とそっけない反応を続けた。敵対的な反応こそないものの、およそ好意的とは言いがたい態度だ。

「こんなこといつまで続けるんですか」

 一通り世間話のような雑談が終わると、彼は唐突にそう呟いた。

「こんなことと言うのは?」

「こういうことですよ。俺はもう終わりでいいです」

 彼の語調はけして荒くはなかったが、態度にはいささかの変化が見られた。いつもより若干の早口。組まれた指にはわずかに力がこもっているのか、手の甲に少し歪みを生じさせている。

「意味がないと思われるかもしれませんが、実績はありますから」

「そうじゃなくて、俺に必要なのは治療じゃないってことです」

 彼は私の目を見据えたままだった。

 このようなケースは特段珍しいことではない。患者自身に病識がないケースというのは多く存在する。むしろ、そのようなケースこそ我々が対処すべきものなのだ。

「そうですねぇ。では、考え方を変えましょう」

 そう言って私はゆっくりと彼と同じ姿勢をとって話を続けた。

「あなたは今苦しんでいる。その苦しみを減らすお手伝いをさせてください」

「言葉を変えただけじゃないっすか」

「なぜそう思うのですか」

「喜びも苦しみも全部俺です。手伝わなくていいんで」

 苦しみの渦中にいる人間はこうも思考が歪んでしまうものなのだろうか。私は彼に同情すら感じ思わず困惑の表情を見せてしまいそうになったが、そこは自制した。ゆっくりと、それでいて強引でないような力加減で、口角を引き上げ目を細める。

「あなたの人生はもちろんあなたのものです。そこは私も否定しません。しかし、人の能力には限界があります」

 私は諭すように彼に言った。彼はそれを頷くでもなく否定するでもなくただ聞いていた。

「あなたの人生を適切にサポートするのが私の役割です」

「いらないです」

「はじめは皆さん、そうおっしゃるんです。他人に人生を任せているようで気味が悪いと」

 私は彼の考えを復唱し、でも安心してくださいと続けた。

「ものは考えようです。私たちがやっていることはいわば負担の肩代わりです。あなたの人生の負担を減らすための。医者を考えてください。患者は医者に自分の体のことを任せますがそれは医者に身体を支配されることではない」

 それを聞いて彼は沈黙した。しかし、おそらく納得したわけではないというのは見てとれた。私の目線は彼の顔に向けられていたが、焦点は彼の後ろに位置する観葉植物に合わせられていた。そうして彼から次の言葉が出てくるのを待った。

「じゃあ俺は異常者です」

 長い沈黙を経て彼の口から発せられたのはそんな言葉だった。少し期待が外れた返答だったが、それでも動揺してはいけないのである。

「あなたの検査において、すべての数値は正常ですなのですが」

 私は、ゆっくり首をかしげて彼にそう言うと、彼の眼はまるで熱がこもったように一層力がこもったように見えた。

「俺は人を殺さなきゃいけないんですよ」


 朝の目覚めは、いつも不思議だ。決まって同じ夢を見ていたかのような気がする。それでいてその夢の内容はてんで思い出せないでいた。私は、まるで長く、別の世界にいてそこらからようやく戻ってきたような不思議な感覚に囚われていた。

 私は、食器棚から容器を取り出して、近くにおいてあるシリアルと牛乳を容器に適当に流し込んでそれを朝食とした。新フレーバーや新ブランドが出る度、それを買うのがひそかな楽しみでもあった。食後にすぐ自宅を出て仕事場に向かう。

「廃品回収に参りました」

 今日の仕事は廃品回収の仕事だった。人の私有地の中に捨てられた廃品を回収する。これも我々の仕事だった。リサイクルできる廃品の回収であれば、こちらがお金を渡して回収という流れになるのだが、今回は通常の清掃業なので格安というわけにはいかない。私有地に不法に存在する廃棄品はリサイクルショップですら買い取られないからだ。純粋にごみ処理場へと送られ、そこで洗浄、解体、精査が行われて最終的に使えるものだけが市場に再度出回ることになるのであるが、基本的に市場に出すまでのコストのほうが高いため、ゴミ収集業者は送られてくる廃品に応じたコストを送り主に対して請求するのである。

 今日の仕事は順調だった。私有地には建物がなく、あるのは様々な色によって塗られた鉄製のオブジェクトだった。私有地の外には通常どおり建物が立ち並んでいる。ここは都会にぽっかりと空いた穴だった。まるで草むらの一か所だけ除草剤がまかれて土がむき出しになってしまったように、その私有地は見晴らしがよかったのである。鉄製のオブジェクトはというと、それらは鉄の棒が組み合わさって球体のようになっていた。その球体の骨組みの鉄棒をつかんで力を入れると、それは地面に接触している部分を軸にして回り始めるのである。

 ほかにも、何かの小型ゲートのような枠が地面から生えていたり、動物を模した乗り物があったりと、面白いオブジェが複数存在していた。

 唯一手間だったのはその私有地に据えられたベンチにあった廃品であった。異臭を放つそれは、慣れていなければ回収する気を起させない。新人の手前、ベテランな姿を手本としたい気分に駆られたが、何よりも重要なのは効率性である。私はそれに特別な薬剤を散布し、その手順を新人に見せながら回収した。新人は終始無言だったが、異臭のせいか顔をゆがめていた。

 その後もなぜか不機嫌な新人との会話が気まずかったため、私は社内で動画サイトの度を探して再生した。しかし、自動再生される広告が今度は私の気分を害した。

 この手の広告には時々センセーショナルな題材を取り上げてそれを民衆に問うようなものが紛れている。炎上商法というやつだ。普段はばからしいとさえ思って見向きもしないのだが、今回は廃品回収社業という仕事を問うという内容だったのだ。

 ごく簡単に言えば、私たちの仕事を貶す内容だったのだ。私はそれに酷く憤慨した。

 私はそれに同意を求めようと新人の方を見やったのだが、肝心の新人の方を相変わらず神妙な面持ちで沈黙を守るだけであった。まぁ、この仕事を始めたのもつい最近の話だ。だから彼のアイデンティティとこの仕事がまだ強く結びついていないために、彼は怒る気持ちになれないのかもしれないと考えた。彼にもいつしか自分の仕事に誇りを持ってほしいものだと考えながら私は彼に話しかけた。

「頭にくるよ」

 私がそう漏らすと、彼は一瞬驚いたようにこちらを見て、しばらく様子をうかがってから口を開いた。

「何がですか」

「こういうCM」

 私は口を閉じたままゆっくりと呼気を鼻から出した。彼はなんだCMのことかと少し安堵というか落胆したようだった。自分のことについて言われたのかと思ったのだろうか。

 まったくくだらない番組だった。こんなことをして一体どうなるのだと問いたくなる。

「でも、問題提起は分からなくはないです」

 しかし新人は私の感情を知ってから知らずかそんなことを口にした。仕事に熱意がないだけならまだ分かるが、まさかあんなくだらない煽りに同意を示すとは思っていなかった。

「でも、これから続ける仕事なんだよ」

「あぁ、すいません。分かっています。この仕事に従事している人をとやかく言うつもりはありません」

 彼は私が何に怒っているのか、ようやく把握した様子で少し早口で弁明した。

「仕事がある以上、それは需要があるということだよ。需要ね」

「需要と供給の需要ですよね。大丈夫です」

「需要があるというのは、それが必要とされる価値のある仕事であるってことだろ」

 私は、CMがいかにばかげたことを言っているのか彼に説明を試みた。しかし、彼はそれに対してはぁ、とかまぁはいといつものような生返事をして反論するでもなく沈黙した。

「大体人の食い扶持に文句を言うなんてだめだよ。どんな仕事にだって誇りをもってこなす人がいる」

 そう言うと、彼はまぁ、それは分かりますと力ない同意の言葉を口にしつつ、また沈黙した。

 そこまで言って私は、気まずさを紛らわすという本来の目的を思い出して少しバツが悪くなった。

「すまない。気を悪くしたら謝るよ」

「いえ、大丈夫です」

 彼は、そう言ってところでと話を切り出した。

「ずっと続けるんですか、これ」

 私は彼の言ったことがよく分からなかった。こんなこととは何を指しているのか、なんとなく今日の仕事のことを聞かれているのかと思って「現場研修は嫌か」と聞いた。

「そうじゃなくて、この仕事全般のことです」

 彼は何の感情も感じさせない口調でそう答えると、そのまままた「変な質問ですね、やっぱりやめときます、はい」と言い直した。今後一緒に働くうえで彼のことをもっと知る必要があると感じたが、その前に自分について知ってもった方が彼も話しやすいのではないかと思い彼の質問に答えることにした。

「まぁ将来の不安とかはないと言ったら嘘になる。でも職業適性検査を受けて、適正がある仕事の中で行き着いたのがここだったんだ。仕方ないと思っているよ」

「あの適正検査あてになるんですかね」

 彼はへへっと笑って自嘲気味にそう言った。

「遺伝子情報まで入れてんだから多少は当たるだろ」

 私がそう答えると彼は少し目を見開いて、そんなもんですかねと何か納得したように返事をした。

「どんなに社会が遺伝子による差別は良くないって言っていてもそんなものは上っ面だよ。結局精度が高いんだからどの企業もそれに頼らざるを得ない以上、あったっていようがいまいがそれは採用される。いまや性格特性のほとんどの部分が遺伝子分析の段階で分かっちゃうんだから」

 私は皮肉気味にそう言いながら、別の話題を考えていた。

 辛気臭い話ばかりではアレだと思い、私は彼に自分が書いている小説について話すっことにした。彼は存外、というよりそんなタイプに思えなかったのだが、この小説の話題に興味を示した。

「どんな小説を書いているんですか」

 彼は両手で互いに手首あたりをつかみながら、顔をこちらに向けてそう聞いてきた。

「まだ書き始めたばかりだけど、自分でもこれからどうなるのか分からないんだ。自然とストーリーが進むというか、勝手にキャラクターが動き出す感じがある」

 それを聞くと彼は何を思ったのか一瞬、右眉を吊り上げてそれからふぅんと変な声を漏らした。

「どんな話なんですか」

 彼にそう聞かれて、いや、案の定という感じではあるが私はいささか勿体つけていやそんなに大したはなしじゃないんだけどと前置きしてからこう告げた。

「ある一人の男が夢の内容を小説にするという話なんだ」

 

 文字を読むたびに突き刺すような感覚が頭を襲う。眩暈と動悸は止まらない。毒が体を巡るような感覚がありながらも、不思議と心は落ち着いていた。その夢を記録するようになってからしばらく経った。それまでの文章を読み返してみると、夢の世界はこの世界ではない別の世界の光景だということが分かる。今ここにはない世界、今の社会状況では想像することさえ能わない。その世界の「私」は今ここにいる私ではなかった。全く別人の、全く考えも生い立ちも違う人間だった。私はその人間に乗り移ったようにしてその世界を見ていた。彼の内側から、彼の視線と思考を通して、その世界を見ていた。不思議な感覚だった。「私」は確かにそこにいるのに、それは現実の私ではなく、別人の「私」なのだから。

 そして、私はその世界の様子を彼の視点と思考を含めて描くことにしていた。

「さてと」

 私はまるで呪文のようにそんなことを口にする。私は誰に聞かれるわけでもないそんなことを口にして仕事モードに切り替えるのだ。私は窓のそとをみて、風にそよいでいる大樹を眺めて呼吸に意識を集中する。吸って、長く吐いてを繰り返し気分を整えた。

 そうこうしているうちに彼がやってきた。コンコンとドアがノックされたのちに開く。

 私は回転式の椅子の背もたれに深く腰をかけて笑みをもって彼を迎えた。

 あれからというもの私は彼を救うべく、懸命に説得を続けている。彼は自分が異常者で、人を殺さなければならないと感じているらしい。私は例えばそれは妄想や幻聴の類ではないかと疑った。誰から命令されているように感じてはいないか、いないはずの声が聞こえたりしないかと用心深く探り、また彼が異常な被害妄想に取りつかれてはいないかという点に注意を払った。しかし、そのどの兆候も彼には見られなかった。どうやら彼は、彼自身の意思で人を殺す必要があると考えているようだった。

「それは例えば比喩のような意味ですか」

 私は、彼の考える殺人について一体彼が何を思っているのかを知りたかった。

「まぁ? でも言ってるだけじゃ意味がない」

 彼は身を乗り出している。眉間には力が入っているのか、肉が寄せられ少し盛り上がっていてそれが妙に彼の眼光を強めているように感じた。

「しかし、あなたに殺人衝動のようなものは確認できませんでした。あなたは、何かほかに言いたいことがあってそれを表現できずにいるのではないですか」

「言いたいことないです」

 彼はいつもはっきりとそう口にした。

「そうですか、しかし、なぜ殺人なのですか。あなたに暴力的な衝動があり、それを達成する理由はなんですか」

 私はそんな彼の様子に少し気押されながらも、それを表に出すまいと平静を保つよう努めた。

「衝動とかじゃないです」

 彼はため息とも怒りの唸りとも分からぬ声を出した。私は、なるほどと彼の眼を見たまま言った。そしてしばらく彼の言ったことをメモに取りながら反芻し、彼の意見に慶弔する姿勢を見せてから再び

「では一体何なのですか」

 と尋ねた。

 私がそう尋ねると彼はしばらくの間考え込むように組んだ指の先を見つめて沈黙した。

「とにかく違うんです。俺は」

 長い沈黙ののち出てきた言葉は質問への回答という形をとらなかった。しかしそれも途切れて続かず、彼はまた沈黙してしまった。そのまま、メトロノームのカチカチという音だけが部屋に響いた。

 しばらくうつむいていた彼はため息とも怒りの唸りとも分からぬ声を出して、また私を見た。いや、私の後ろにある窓の外を見ていたのかもしれない。

「今日はここまでにしますか」

「ぶっちゃけ殺人じゃなくてもいいんすよね」

 彼は面倒そうに視線を泳がせながら乾いた声を出した。頭に手をあててそわそわと髪を触りながらそう言った。

「それはどういうことですか」

 私は、彼の変化に興味をもって彼を問いただした。

「俺に必要なのは意味を知ることなんで」

「人を殺すというのがどういうことか、あなたは知りたいのですか」

「貴方は俺がおかしくなったんじゃないかとか思ってませんか。でも、俺はおかしくなったわけでも、異常な性質を持っているわけでもないんすよ。とにかくこのままじゃいられないんです」

「落ち着いてください。そのために私がいるので、まずは考えていることを話すことに専念しましょう」

 私がなだめるようにそう言うと彼は、ひときわ大きく息を吐き出し、ゆっくりと続けた。

「先生は人を殺したことがありますか」

 彼は迷った末にそう言った。

「なぜですか」

「なぜって、あったらここにいません」

 私がそう言うと、彼は一気に興味を失ったように「そっかぁ」と小さく呟いた。

「そうですよ。それにそんなことは不可能です。あなたの欲望を解決する上で重要じゃない」

「なんで?」

 彼は再びいら立ったようにそう言った。

「別の方法もあります。今度はそれを試しましょう。そのうちあなたにも最適な人生プランが見つかりますよ」

「そういう、プランとか、計画とか、どうでもいいんすよ」

「プランと言ってもそんなに人を縛ったりするものではないんですよ。あなたの嗜好、欲望に合わせて最適な人生選択を手助けする。助言できる。そういったものなんです」

 私はなんとか彼に説明を試みたが彼の顔からは力が抜けて、それ以降はまともに返答しなかった。遺伝子情報から読み取れる情報はいまや多岐に渡る。もはや、それは健在的イな欲望のみの判定に留まらない。判定された数値をもとに本人すら気が付かなかった望みや欲望を発見できるにまで至った。それに加えて、脳に埋め込むインプラント技術の向上により、本人の意思によって本人の欲望は思いのままにコントロールすることができるのである。問題はそれが他の人間の欲望の選好とバッティングしないかどうかであった。その調整、いわば欲望の選別と調停のために我々は存在するのだ。

 私はその後彼の口を開こうと他愛のない世間話を続けた。

 しかしなかなか彼の口を開かせるには至らなかった。彼は、私の世間話に対してそれを即座に終了させるような言葉を選んだ。はい、とか、そうですね、とかとにかく素気のないものだった。私は、やれやれと思ってつい自分の最近のプライベートに話を転換した。その時だった。

「小説書いてんですか?」

 私が趣味で小説を書いているということを知ると彼は意外にも興味を示した。

 私は彼の心を開き警戒心を解くチャンスだと思い、畳みかけるように「小説がすきなんですか」と少し大げさに喜んで見せた。

 まぁ少しは、と彼は少し気まずい様子だったが、私は「まぁ、たまにはこういうプライベートな話もしてみましょうよ」と彼を促した。それから彼は自分の好きな小説について、それは例えばアイン・ランドであったり、カミュであったりを挙げてぽつりぽつりと話し始めた。しばらくして、彼は「あの」とか「よければ」とか珍しくかしこまった物言いで何かを言おうとしていた。私は「どうぞ」とにこやかに言って彼の発言を促した。

「どんな話になるんすか?」

 彼から出てきた言葉はそれだった。私は、自分のプライベートについてべらべらと話すことがこの対話においてリスクになりえるということは理解していたものの、同時に彼がはじめて積極的に会話をする姿勢を見せていたため、中断するのもいささか問題だと感じた。虎穴にはいらずんばなんとやらである。

「予定があるわけじゃないんだ。ただ自分が書いたものが形になっていく。それに興味があるんだよ」

 私がそう答えると、彼は小さく「なるほど」とつぶやいた。

「どんなんです? 主人公」

 彼にそう聞かれたので私は、目線を上に向けて何を言うべきかを考えた。私は、

「彼は日々の仕事をこなしながら趣味で小説を書いている人間だ。そんなある時、彼の職場には新人が現れる。そいつが彼の生活に影響を及ぼす――みたいな話になるんじゃないかな」


 今、私は目の前の文字を読んでいる。しかし、我々は目の前の文章を十全に理解し、それから何か影響を受けることは可能なのだろうか。影響が認められるとして、果たしてその影響を知覚することは可能なのだろうか。子供のごっこ遊び、コスプレ、思想の引用、生活スタイルの模倣。フィクションは溢れ、我々はそれに憧れを抱いたり、そこから何かを学び、あるいは嫌悪する。我々は常に、誰かの、何かの模倣の中にいる。そこで私は思った。我々がものを書く時も同じであるのではないか。我々は常にその書かれているものに影響を受けている。それは自身の内部から生み出された言葉でありながら、我々の目の前に現前し読まれた時点で自分から切り離された他者である。身体で喩えると分かりやすい。それは自分の体外に排出された体液と同じである。誰もそれを自分の体の一部だとは思わないだろう。

 今日も朝食のシリアルを胃に入れて、とある居住区へと廃品回収をしに向かった。

「ゴミだと思うなら作らなきゃいいのに」

 新人は回収業務を終わらせて、訪問宅を去った後になんの感情もこもっていないかのようにそう毒づいた。私は、随分と変なことを言うものだと感じた。

「そりゃお前、不要なものを出すなというのは無理があるよ。人間そんなに計画的に生きられないんだ」

 どんな産業だってごみは出る。ゴミの出ない社会というのは私にはなかなかに想像の難しいものだった。

「気持ちは分かるけども」と私は付言して、でもどんな文明にだってゴミの問題はあったのだということを彼に笑って聞かせた。歴史のことなんて特に知りもしないが、きっとそうだと思えたのでまぁいいだろう。そこに関しては彼も気にしていない様子だった。

「でも、僕らみたいな仕事が必要なことがそもそも変だとおもいませんか」

 しかし、それでも彼は納得しない様子で、そう言った。どうやら今日の彼は虫の居所が悪いらしかった。私はというと、彼のそんな態度にもすっかりと慣れてきたものだった。どやら彼には、というより、彼にもと言った方が正しいだろう。まぁ、たいていの人間はそうだということなのだが、彼も例にもれず機嫌の悪い日というものが存在する。最初こそ何を言っても響かない、反応の鈍い奴だと思っていたが、同じ無言でも肯定的な無言と否定的な無言があるというのが分かってきた。否定的な時はとにかく動かない。体が硬くなって、そのついでに口も動かなくなっているようだった。

 そんなことがだんだんと分かるようになると、今度は彼の方もいろいろと言うようになってきた。彼自身の提案なり、質問なりというのも増えてきた。彼はどうにも無神経なところがあり、それを自覚してか知らずかだいぶ人の神経を逆なでするようなことを言ったりする。もちろん彼なりに配慮はしているようで、こちらが気まずく沈黙すると謝ってきたりもするので、おそらく悪意はないのだろう。そんなわけで、私は彼の質問に少し悩んだうえでこう答えることにした。

「おかしくはないさ。価値を創出できないものは捨てられるしかない。それが宿命だよ」

「宿命、というか必要悪的なものだってことですか」

 と彼は言葉を返した。

 私は彼の言った「必要悪」という言葉がしっくりとは来なかったが、面倒なので「そうだ」と一言頷いてみせた。

 しかし、今日の回収品は新品なのでそこまでつらい仕事ではないはずなのだが、彼にはどうも心理的な負担があったようである。

 なるほど確かに、新品でも廃棄する人間がいるというのは物悲しいことではあるかもしれない。だがそれは自然の摂理だ。今に始まったことではない。それをいちいち悲しんでいたらこんな仕事は、というか世の中を生きることさえできないだろう。彼は少し潔癖すぎるのだと私は感じていた。

「まぁ、町の清掃の方がきついさ。アレは慣れるのに時間がかかるからね」

 私はそんな取ってつけたようなことを言いながら、彼と拠点へともどることにした。

「そういえば、小説の方はどうなったんですか?」

 車中、彼は唐突にそんなことを口にした。

 あれからというもの彼は私の小説について関心があるのか、はたまた会話の内容を考えるのが面倒くさいのか、時折こちらの進捗状況を聞いてくるのだった。

「そんなに小説が好きなのか」

「いえなんとなくです」

 聞いても彼はそっけなく返すだけで、結局彼の意図は今のところよくわからない。「昔はよく読んでいました」とは言っていたが、聞いた本のタイトルは私が知らないものばかりだった。

「世界観が固まってきたよ」

 私は得意げに自分の小説の内容についてそう言った。

「たしかファンタジーとかなんとか言ってましたよね」

「そうだね、というよりひと昔前のSFに近いかな。まぁ俺も映画好きで見てただけなんだけど」

「スターウォーズみたいな?」

「あれはバトルものでしょ?」

「あぁ、違うんですね」

「もっと社会的なやつ」

 私がそう言うと彼は、いや、分からないですと言って詳細な説明を求めてきた。そこで私は満を持してというか、まぁ説明を試みた。しばらくはお互いの理解を確認するのに時間が必要だったが、彼はしばらく聞いて何やら納得した様子で次のように聞いてきた。

「全体主義的な奴ですか」

「まぁそんな感じかな」

 久しぶりに聞いたな、そんな単語と思いながら答える。

「SFっぽいっすね」と彼は言ってまた頷いてからしばらく考え込んで、「その世界に疑問を持った主人公が反逆するというよくあるやつですか」と続けた。

「うーん、ただそれはちょっと違うな。きっと、そんな世界に住んでいる人間はその世界に対して疑問を抱かないと思うんだよね。ディストピアにはディストピアなりの日常があって、そんな日常に疑問を持たずに生きている人間が大勢いるからその社会が維持されるんだよ」

「はぁ」

「だから、その社会はその社会なりに大勢の人間にとっては快適なものなんじゃないかと思うんだよ」

「まぁ、そうですね」

 そこまで聞いて彼は無言になった。この無言は否定的でない、肯定的な無言だった。彼は何かを考えているのだろうか。そんなことを思いながらも、私は、自分の設定について話せた満足感と、彼から肯定的な無言を引き出した満足感で気分がよかった。

「まぁ確かに、古いSFなんか見ていても、人間に苦痛を与える必然性がないというかさ、強制労働だって結局のところ機械に任せればいいんだし、あれですよね」

「そうだね、どちらかというと幸福の形が定まってしまうことが問題な気がするんだよね」

 そうして私は仕事を終えて、自宅に帰るとそのままシャワーを浴びて、食事を済ませようと机の引き出しを開いた。そこには、様々な種類の固形完全栄養食品がそろっていた。私はそのうちの一つを取り出して、開封し、ブロック状のそれをかじった。そして、晩酌ついでに原稿用紙を取り出し、私はそこに文字を書き始めた。


 書くということ、それには何か謎がある。いつしかそう確信するに至った。何かをじっと観察すること、それについて思索を巡らせること、または言葉にすること。

 なぜ物語を書こうと思ったのか、きっかけが思い出せない。違和感の塊のようなもの。全てが奇妙に思えてくる。

 まるでそれは、どこか遠くから飛来してきたような、長く自分の魂の奥深くに眠っていたものが目覚めたような、そんな感覚さえしてくる。

 何かについて書くこと。私にはまだそれが何なのか分からない。私が何を書こうとしているのかさえ分からない。ただ、それでも書くこと。言葉にすること。それは正しいことであると私には思える。

 何を書くべきなのか、どのように書くべきなのか、私にはそれが分からない。分からないが、分からないままそれを書こうと思う。そして、今こうして、私は何かを書いている。

 私はついに自分が小説を書くことに対して、一つ重要なことを思い知った。これはひょっとすると修正の必要な欲望なのかもしれない。というのも私が書いている内容にもかかわらず、この小説は私をひどく不愉快な気分にさせるからである。しかし、それだけ他社の願望を描き出すことに成功しているのではないかと思い直し、私は頭を振りパソコンを閉じた。

 そして、いつものように仕事場に行き、食事が運ばれてくるのを待った。今日の昼はなんだろうと予測を立てることもなくなった。多分今日は、ハンバーグランチだろう。送信されたバイタルの状況から、その時食べたいと思うであろう最適の食事が運ばれてくるのだ。そうして運ばれてきたそれは予想通りハンバーグランチだった。こうして私が食べたいと思ったものが、何も言わずとも運ばれてくることに私は何の驚きも感じなくなっていた。私は食事を済ませると再び彼を待った。

「こんにちは」

 やってきた彼はいつもと同じように椅子に座り、私もいつもと同じように彼と話を始めた。

「君はこの間、人生設計が嫌だというようなことを口にしていたよね? あれは一体どういう意味なんだい?」

「人生設計が嫌とかじゃなくて、人生をモノみたいに扱われたくないんです」

「人生をものみたいに扱うというのはどういうことですか?」

 人生はものなんかじゃない。だからもののようになど扱えない。設計するという言葉がもののように扱っている感があるという話ならおかしな話だ。誰もが自分の人生を思い通りにしたいと考えている。それは当然のことだ。特別なことじゃない。一体何をもって人生をものみたいに扱っていると言っているのだろうか。

「みんな知った気になって思い通りにしようとする」

 彼はゆっくりと脱力した様子でそう言った。こわばっていた肩からは力が抜け、目線もどこを向くのかさえ安定していない。

「人生と言わず、もっと具体的に考えましょう。例えば、依存症の場合を考えましょう。依存症は確かに自由に選択をした結果と言えるかもしれませんが、依存症患者は豊かな自由を謳歌していると思えますか? 自分の人生をよりコントロールしやすいようなお手伝いをさせてくださいという話なんです」

「確かに快適かもしれないですけど、そっちの方が良い自由かもしれないですけど、そんな人生嫌でしょ」

「どういうことですか?」

「全部思い通りでコントロールって、発想、なんて言うか、狭いんですよ」

 彼ははっきりとそう口にしたが、何度か言葉に迷うようなそぶりを見せた。ゆっくりとした調子でしっかりとこちらの目を見据えて、それでいて本当に自分がそれを言おうとしているのか吟味している様子だった。

「あなたはご自分の人生を自分にとって最適なものにしたいとは考えませんか? あなたにとって決して悪いことではないと思いますが」

 私がそう言うと、彼はまた沈黙した。そうして彼のズボンにシワがよる。ふともものあたりに乗せられた手に引き込まれるように凹凸が生まれ、それが作る影が放射線状に引かれる。

「嫌なんすよ。そういうの」

「そうですか?」

「全部用意されてる。幸せも苦痛も全部他人に定義されてる」

「定義されていなければ私たちは何を目指しているのかさえ分からないでしょう」

「なら、分からないままでいい」

 彼はぶっきらぼうに声を荒げた。今までだったら、私はただ彼をなだめたのかもしれない。今回私はそうしなかった。いや、出来なかった。凄みを感じたから? 彼の言うことが理解できたから? 多分、違う。私はただ、彼を理解することは、業務とは関係なく必要な気がした。

「それが人を殺したいと言った理由ですか?」

 気づけば私はそう彼に聞いた。それは、非難の意図を込めた形式だけの質問文ではなかった。私は純粋に、といっても純粋というのが、この場合どういう意味合いなのか私にさえ分からないが、知りたいと思った。それを聞かれて彼は再び口を閉じた。

「そうです」

 彼は一瞬言葉に詰まった自分を恥じるように、あるいは逡巡に自分自身で嫌気がさしたかのように強弁した。

 私は彼の応答に頭を抱えた。なるほど、彼の言っていることの筋が見えてきたように感じる。いや、もしかしたら筋は通っていないのかもしれない。私はその言葉を自分の中で反芻した。誰に自分の感情を定義されているような感覚、全ての現象は科学によって解明出来る、感情さえも、本当にそうなのか、何を言っているのだ、私は。人から与えられていない、いまだ定義されていない善や幸福がそこにあるとしたら、いや、なかったとして、それがかのうならば、あえて、最適でもない欲望を自分の意志であると思い込むことこそが自由の条件なのだろうか。いや、そんなことをして一体何になるというのだ。つまらない反骨精神が彼を幸福から遠ざけているのだとすればそれは忌々しき事態ではないのか。

「もし人生が何も分からない、暗闇の道を一人で歩く試みなのだとすれば、それは恐ろしいとは思いませんか」

「ほんとはそういうもんでしょう」

 私が少し考え込んでからそう言うと、彼は間を置かずそっけなく返した。

「どんな人間だって死ぬのは怖い。多くの人は苦痛を避ける。私たちはより効率的に苦痛に対処できる術を持っている」

 何かに言い訳をするように、文章を羅列した。だがそんな言い訳がなんだというのだろうか、言い訳なんていらないのではなかったか。何を動揺することがあるのか。それでもこれは必要なことなのだ。

「苦痛は嫌ですよ。でも、あらかじめ決まってるものに何も感じないだけです」

 私は彼の言うことの意味が分からなかったが、この世界に対して否定的だということだけは理解したため、とりあえず説得できそうな文章を組み立てて提示した。

「私たちに必要なのはハーモニーです。幸福のために自由が必要なのです。そのために各人のこだわりは捨てなければならない」

「なぜ、人を殺してはいけないと思いますか」

 彼は私の言葉に反応することなく頓珍漢な返答を返した。

「そう決まっているでしょう。そんなことをすれば捕まります」

「捕まらなかったらどうするんですか」

「でも、得にならないでしょう」

「じゃあ得ならいいんですか」

「決まっていることに異議を申し立てるのは無意味ですよ。虚しいことです」

 私は再び頭を悩ませた。彼が子供の駄々のような答えを返してきたからではなかった。その回答にいつもなら動揺しないはずの自分が僅かながら動揺しているのを感じたからだった。私は時折、自分のいつものペースを保てなくなっていくのを感じていた。

 彼は再び沈黙していた。しかし、未来の殺人犯として私が彼を恐怖することはなかった。なぜなら検査上どの数値においても彼にはそのようなことができるとは考えられなかったからだ。私には彼が馬鹿げた思想を恥ずかしげもなく公言したいだけとしか思えなかったのだ。

 何をいら立っているのだ、私は。

 家に帰ると、朝に殴り書いたメモの塊から夢の内容を思い出して、それを文章にする作業を始めた。またパソコンを開き文字を打ち込んだ。そうして一通り文字を打ち終えると、自分が吐いたため息の音が聞こえるようになる。自分で吐いたため息の音を聞き取って、自分が長らく呼吸をすることを忘れていて、今思い出したかのように呼吸をしたかのように感じた。

 彼と出会ってからか、それともものを書くようになってからかは知らない。私は人の発する言葉に動揺を感じるようになってきた。いや、私自身の言葉に対してもそうだった。それは私の頭の中で、別の言葉と交じり合い、響き合うような感覚さえあった。

 床に就き、目を閉じる。昼間の出来事が走馬灯のように頭を駆け巡るとそれらが幻想的な風景と交じり合い、いつしか現実感のない出来事へと再構成されていった。そうして、昼間の景色がまるで現実感のないストーリーとともに変形していく様を感じながら、自分の精神もどこかに引き抜かれて連れていかれるような感覚に陥る。それが夢の始まりだった。

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