Ghost In The Rain 09/13

 感じたのは浮遊感だ。


 地に足がついていない感覚。どことも接さず、穏やかに重力のみがやってくる。


 いわゆる“たかいたかい”というのはこういう感覚なのだろうかと夢想する間もなく、奥入瀬牧は背中から叩きつけられる衝撃に肺の中の空気が全部出た。


「───っ!?」


 ごろごろと転がる。


 状況が全く把握できない。敵の仕業か? ここはどこだ?


 右腕を切り落とされてほうほうの体で逃げ、誰かに見つかって声をかけられたところまでは覚えている。そこから先の記憶は、頭痛と激痛と貧血と低体温で意識が朦朧もうろうとしていて、よく覚えていない。


 少なくとも右腕は切断されたままだ。手元にはない。


 そして、右腕と引き替えに守り通した“それ”は無事だ。手放さずに持っている。


 事態は変わらず、最悪一歩手前といったところか。牧はそう結論づけた。


 どことも知れぬ床から身を起こす。屋内で、一瞬前に背中から落ちたのはハンモックらしい。


「───アンタ、今ッ何を……。いやそれより、なんてことしてんだ!」


「うるせーなあ、あんなやつえっちらおっちら運べるかよ」


「だからって放り投げていいわけないだろ! ……つーか普通できねえよ、どうやったよ今の!」


 階下で言い争う声がする。


 ここは二階で、視界の端に見える階段で下と繋がっているらしい。ダレが上がってきても対応できるように身構える彼女のもとへ、小走りに階段を駆け上がる足音がして、


 先ほど声をかけてきた少年、いつか見たあの少年イツキだ。


 石膏せっこう像のように固まる牧。彼女が意識を取り戻し起きあがっているのを見てイツキはへの非難を呑んで駆け寄った。


「無理に起きあがらない方がいい。いつまた傷口から出血するとも限らない」


 現状、牧の右腕はほぼ完全な止血状態にあると言っていい。もちろん尋常の手段ではなく、彼にその理由が分からない以上、不用意な行動で出血するかもしれないと考えるのは自然な流れだった。


 止血手段を知っている牧は構わず身を起こし周囲をうかがう。


 どことも知れぬ建物の二階、吹き抜けのようになっていて階下は廃棄された自動車が並んでいる。正面は全面ガラス張りで、外の雨に濡れて風景はよく見えない。ロフトは趣味の空間のように見えたが、下は店舗のようだった。


 総じて、彼女には見覚えのない場所なのは間違いない。


 この少年に所縁ゆかりのある場所だろうか。そう考えるが、彼女はそれも否定する。彼は階段を上がってきたときにちらと視線を走らせて周囲を観察していた。彼も彼女同様、ここに上がるのは初めてなのだろう。


 では一体、ここは誰の場所?


 めぐらせていた疑問の答えそのものが、イツキに次いで階段を上がってきた。青年のしたり面を見て、牧は一瞬で臨戦態勢に切り替える。


「───貴方! 伏人傳!」


「おいおい、初対面なんだから『はじめまして』だろ? まったくどんなしつけをされて育ったんだ?」


 真っ向から敵意を向けられているというのに、傳は揺るがない。むしろ蚊帳の外のはずのイツキの方が、牧の苛烈なさまに困惑を隠せなかった。


 そしてそれ───イツキが驚き、ともすれば怯えているさま───に気づいて、牧もまた怯む。


「……知り合い、か?」


「俺は話に聞いてる程度。たぶんそっちもそうだろ?」


「……ええ、まあ。はい」


 良い話ではなさそうだな、とイツキにも推察できた。傳はやたらと馴れ馴れしいが、彼女はどう見ても傳を警戒している。イツキがこの場にいなければ、隻腕であることをかえりみずに殴りかかりそうですらある。


「言いたいことはあるだろうが、まずはようこそ。俺のセーフハウスオーバードーンへ」


「……連れてこない方が良かったか。他に貴女あなたが落ち着けそうなところが思い浮かばなくて」


「ああ、それは───いえ、大丈夫ですよ。構いません、助かりましたから」


 居たたまれなくなった牧は、少年に少しでも休めているところを見せようとハンモックに腰かける。


 お互いばつの悪そうな顔になって会話が途切れた二人を見かねてか、傳が一つ咳払いをしてみせる。似たり寄ったりのじっとりとした目四つににらまれて、


「名乗ったら? 俺は伏人傳」


 そんなことは知っているとばかりに視線を切られた。


 とはいえ業腹ごうはらなことに道理だった。イツキも牧も、互いの名前も知らないのでは会話するにも手間なのだ。いつまでも貴方とか貴女で済ませるわけにもいかない。


 どちらから口火を切るか、どちらともなく譲り合って。先んじたのは牧だった。


「私は奥入瀬牧と言います。どうぞ、牧と呼んでください」


「俺はイツキ。皆入みないりいつき。知り合いはイツキって呼ぶから、そうしてほしい」


「おいおいおーい俺が聞いたときは無視したよなぁイツキ少年。どういうことだよ。どぉーいうことだよぉー」


 無視だ無視。


 内心彼女の名前を聞けたことを喜びつつ、その点でだけ酔っぱらい親父のように絡んでくる傳に感謝しつつ、至って真剣な表情でイツキは牧に語りかける。


「牧、今は少し落ち着いているみたいだけど、無理はしない方がいい」


 腕が切断されているんだからとは言わなくても分かる。ノイズと違って、今も失血と激痛は無視できないはずだ。


「できれば救急車に乗って病院に行ってほしいんだが……それはダメなんだろう?」


「ええ。面倒事は避けたいですから」


 今より面倒な状況がイツキには思いつかなかったが、言葉にはしないことにした。


「事情は……」


「聞かない方が貴方の身のためです」


 にべもない言葉に会話が再び途切れる。


 二人の間に沈黙が広がる。

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