Ghost In The Rain 08/13

 てっきり穴でも開いていたり、中棒がさびまみれだったり、骨の一本や二本折れていたりするかと思っていたのに、そんなことはなかった。傘は店で買ったばかりの新品めいていて、その下にいる限り雨に濡れるおそれはない。


 あの青年───伏人傳が言うところのオーバードーンを後にする。


 傘越しの街並みにははやり人影も車通りも一切ないが、イツキはやはりそこに意識を向けられない。


 ここはどこだろう。どっちに行けば駅に出られるかな。そんな風に思考を巡らせることはできても、そこからという方向には発展できないようになっている。異常現象は彼から非日常を取り去っていた。


 ありていに言って迷子だが、傘を手に入れた以上は雨を避けて走り回る必要はない。地図アプリなどに頼らずにのんびりと歩を進める。


 ……傳との遭遇コンタクトは、イツキの中で回っていた衝動を和らげてしまった。驚きで吃逆しゃっくりが止まるように、衝撃が前のそれを上書きしてしまったのだ。高校を突発的に自主早退してしまった事実は覚えていても、勢いのままに走り出すことはもうできない。


 なぜ走り出したのか。彼女のことを忘れていたからだ。思い出して、木曜日じゅう走り回ったあの衝動が爆発したからだ。爆発はエネルギー量は凄まじくとも、所詮は一過性いっかせいの熱狂でしかない。


 そもそも木曜日に彼女と出会った直後、日が暮れるまで走り回って探したのに見つからなかったことを思い出す。何日も間があいた今日になって見つけられると思えるか。


 ───到底、見つけられるハズもない。そう思ってしまう。


 隠れて煙草を吸うために早退したのと同じように、今日も昼過ぎに高校を抜けてきてしまった。時間を持て余してしまって行くアテもないのも同じだ。だからイツキは、今日はのんびり雨の中を歩くのも悪くないのかもしれないと思った。


 冷静になって考えてみると、とイツキは思った。


 冷静になって考えてみると、木曜日に煙草を吸おうとしたところまでは確かに起こった出来事だ。父親の書斎からは新品未開封の煙草一箱と百円ライター一個が持ち出され、封が切られた一箱だけを家に持ち帰ったという物的証拠も確実性を証明している。ではその後は?


 イツキが出会った彼女は、果たして実在の人物だったのだろうか。


 傘を忘れて下着まで濡れたイツキが、そういう出来事があったと錯誤さくごしているだけと仮定すれば乱暴ながら辻褄つじつまはあう。例えば百円ライターを排水溝に落っことして回収できないから、誰かそういう人に持ち去られたことにして自分を納得させたとか。


 発熱が発覚したのは翌朝だったが、木曜日の時点で体調を崩していたとしても不思議ではないし、その影響で幻覚やら記憶の捏造ねつぞうやらがあったのかもしれない。人間の脳は繊細で、高熱が出ていればそういうことがあったとしてもおかしくはないように思えた。


 寝込んでいる間に変な夢を見たような気もするし。イツキは思い返す。


 木曜日の夢のような出来事は、すべて夢と考えるのはあまりにも乱暴な解決だ。とはいえすべて現実と考えるのも同様に説明がつかないところが多々あるため、仮説は結構アリなものとして認識されつつあった。


 つらつらと益体やくたいもないことを考えているうちに、いつの間にか、イツキは路地に入り込んでいた。


 足下の水たまりに見慣れないものが映っていたように見えて見上げる。何か大きいものがように動いていたと思ったが、路地の細い空にそれらしきものはない。


 これもきっと錯覚だろう。


 そう自分を納得させて視線を正面に戻す。そこに、一瞬前まで居なかった人影があった。


 思わず飛び退くイツキ。傘が路地の壁にぶつかって雨音の中でもしっかりと音がする。人影はそれでイツキの存在に気づいたのか、はじかれたように顔を上げる。




 ───木曜日の彼女だ。




 雨に打たれ、憔悴しょうすいしているが間違いない。


 彼女のことを考えていたら、当の彼女が目前に現れた状況をイツキは疑った。都合が良すぎる。


 イツキは彼女が実在していたとして二度と逢えないものとばかり思っていた。むしろ二度と逢えないだろうと思っていたからこそ、彼女が実在していなければいいと思考したのだ。実在しない夢の女性ならば、逢えないことを納得できるから。


 だってそうだろう、連絡先も知らない、それどころか名前も知れない一目逢っただけの女性を、大したツテも残っていないただの高校生が見つけるなど不可能だ。砂浜にこぼした一粒の砂をもう一度捜し当てるようなものだ。


 だからイツキはこの状況に疑問を抱いた。オーバードーン周りの“人払い”とは違って、誰も『疑問を抱かない』ように認識を支配していなかったから。


 再会できた喜び、再会できると思っていなかった驚き、この状況はおかしいという疑問。ぐちゃぐちゃのイツキの心中しんちゅうは、───という事実で完全にトドメを刺された。


「なッ……あんた、その腕」


 傘を放り捨てて駆け寄る。近くで見ると、二の腕で切断されたその傷跡は、大きさに反して不自然なほど出血していなかった。脇の下の止血点をイツキは知らないなりに、どう見ても止血処置がなされたようには見えないにも関わらず、だ。


 この場で切断されたのなら一帯は動脈からの出血で血の海になっていなければおかしいし、そうでなければ流した血が彼女の来た道を示しているはずだ。だというのに、血が、ない。


 流し尽くしたのか、それとも───流れていないのか?


 切り落とされた腕は彼女が左手に持っている。物品であるかの如く持ち運ばれる人体の一部というのはどうしてこれほどまでに精神の均衡きんこうを乱すのかと思う。彼女の腕と一緒に、常識まで切り分けられて捨てられているような気分だ。


「あなたは……。私に構わないで」


 憔悴していると感じたのは当然だろう。彼女の顔色は蒼白を通り越して土気つちけ色。


 これほどの大怪我ならば、負った時点でショックを起こして死亡してもおかしくはない。だというのに彼女はショック死どころか、意識を保ち返事さえする。常識外れの体力で、壁にもたれていたその身を起こし、ふらふらとイツキが来たのとは反対の方向へと歩き去ろうとする。


 しかしそれも最早限界らしかった。


 膝から力が抜けたのか、壁に体当たりするように倒れるとずるずるとうずくまってしまう。


「無理しちゃダメだ、いま救急車を呼ぶから───」


「待って、止めてください。人は……呼ばないで」


 スマートフォンを取りだそうとしていた手を掴まれる。女性は持っていた右腕を放り捨ててまでイツキを止めていた。


「人を呼ぶなって…、じゃあ」


「言ったでしょう。私なんかに構わないでいいですから」


 そんなワケにいくか。イツキは内心で叫んだ。


 救急車は呼ばないでほしいというからには訳アリなのは理解できる。パッと思い浮かぶのは裏社会ヤクザの抗争だ。イツキには事情が推し量れない以上、むやみに通報すれば彼女の助けになるどころか窮地に追いやってしまう可能性は高い。が、だからといって捨て置けば、彼女は間違いなく死んでしまう。この傷でこの雨だ、まだ生きていてくれているのが奇跡だろう。


 雨のしのげるところ、人のいないところ、近いところ。


 したがって必要となるのは、───ああクソ、とイツキは独り言ちた。


 それはつまり、先刻イツキが飛び出してきた場所に他ならず───

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