Crackers:How to go

吉田一味

1話「Ghost In The Rain」

Ghost In The Rain 01/13

 イツキが彼女───奥入瀬おいらせまきを思い描くとき、彼女はいつも雨の中にいる。


 イツキは雨男ではないし、聞けば彼女も雨女ではないという。


 けれどもどういうわけか、二人に何かあるときには、決まって雨が降っていた。


 思い返せば、初めてイツキが彼女と出会った日からしてそうだった。




◇◇◇




 九月十八日の木曜日、十三時を回ったにしては空は重苦しい。


 頬にふと感じるものがある。


 イツキはつい右手をかざして雨を確かめようとして、


「……しまった。またやった」


 右前腕のギプスとサポーターが濡れるのを面倒がって、億劫おっくうそうに左手を学生服のポケットから出す。


 掌に、あるかないかという小粒の水滴が、一つ、二つ。


 小雨なのと、目的地が近いのと、折れた右手で取り出すのは手間なのとで、イツキは傘を差すことはしなかった。


 ───そもそも傘は持っていただろうか? ここしばらく雨は降っていなかった。ずいぶん前に使ったときに玄関に干して、それきり鞄にしまっていないような気もする。帰ったら忘れずに確認しておかないと───


 ……余計なことを考えるな。今はそれどころじゃないって分かっているのか? 周囲に気を配れ。ここで見つかったらオシマイなんだぞ。


 イツキの心の中で、彼の弱気の虫が騒ぎ立てる。小市民的思考に我がことながらうんざりしつつ、挙動不審にならない程度にコソコソと、足早に移動を再開した。


 平日の日中に、学生服で、しかも右手にはギプスである。どれか一要素ならば通行人も気にとめることはあるまいが、すべて揃えばイヤが応にも目をひくのは避けられない。学生は本来学校にいてしかるべき時間なのだ。声かけされても彼なら言い逃れられなくもないが、相手に『平日にフラフラ歩いているギプスの学生がいた』という印象イメージは残してしまう。何かあったとき、身元特定はあっという間だ。不安要素はできるだけ潰しておきたい。


 なにせ、目的が目的である。


 イツキは今、生まれて初めての喫煙をすべく、誰にも見つからない場所を目指していた。


 イツキは未成年だ。今年で十七じゅうしちになる。


 未成年の喫煙は法律で禁止されている。


 おおっぴらに吸えば、当然補導される。


 その先は補導歴のないイツキには想像もできないが、好ましい展開にはならないことだけは分かる。


 悪いことなのだ。隠れてするのが筋というもの。


 そこでイツキが向かっているのは、彼の家から歩いて五分のところにあるタワーマンションだ。彼が小学生に上がるか上がらないかの頃に建てられたそこには、エントランスと表現するには開放的に過ぎるが、庭と表現するには屋内然とした空間スペースがある。幼少期にはボール遊びで無断使用していたが、貼紙で禁止され昨今ではすっかりがらんとしてしまっている。屋根があり・人目がほとんどなく・出入りに制限がないと、こういう目的にはうってつけなので、イツキは喫煙を考えはじめた頃から目をつけていた。


 幸か不幸か、昼休みも終わったこの時間帯の街に人はほとんどいない。見とがめられることもなくくだんのタワーマンションにたどりつけてしまった。


 屋根の下、表の通りからもマンションの奥からも見えにくそうな位置に決める。完全な死角かは分からないが、いちいち確認のためにウロツく方が不審だ、と判断する。


「これからここで、俺は、煙草を吸う」


 口に出して自分に言い聞かせると、ポケットの中の左手と、吊された右手と、スニーカーの中の両足裏にじっとりと汗が浮いているのに気づく。自覚すると緊張が押し寄せてきた。


 右肩に力を入れる。


 その力を抜く。


 左肩に力を入れる。


 その力を抜く。


 幼少のみぎりに教わったルーティーンを三セット繰り返す。


 ───大丈夫、落ち着いた。何ということはない。ちょっと一本火を点けて、吸って、吐いて、それでオシマイだ。手早く後始末すれば五分だってかかるまい。何も心配することはない。


 念のために三分だけ待ってみることにする。その間に誰か一人でもここを通っていったら、その時は諦めることと決めた。カバーもなにもない剥き身のスマートフォンを取り出して時間を見る。


 十三時二十五分。


 イツキはいかにも通話中ですよ、済んだらすぐ出ていきますよ、といったフウを装ってスマートフォンに耳を当てて、内心で秒数のカウントを始めた。即興アドリブで会話をそれっぽく紡げば素人では演技とは見抜けない。


 一から始めて二百まで数えても通りがかる人はおらず、耳からスマートフォンを離す。


 十三時三十一分。


 心のどこかで『誰か通れば吸わずに済むのに』と思っていた自分がいた。これ以上待っても決意が萎えるだけだと理解して、やることにする。


 学ランの内ポケットからハードボックスを取り出す。けさ家を出る前に父親の書斎からくすねてきた新品の封を破り、見様見真似で一本抜き出して咥えた。これも父親のものである百円ライターを擦る。擦って、そこで止まる。


 点いた火を前にもう一度だけ逡巡してしまう。


 事前に調べたところによると、未成年喫煙防止法はことを違法行為としている。つまりこれを点けて吸えば犯罪であり、もう後戻りはできない。ここが不帰投点ポイント・オブ・ノー・リターンだ。ルビコン川を渡っていいのか。イツキの中の弱気の虫が、さっきまで煙草を吸う側で考えていたのに、社会的道義をたてに責めたててくる。


 ───いい子チャンでいても人生なにも変わらないから、こうしようと決めたんじゃないか。これくらいの劇物で退屈な日常が、動けない変われない何にもなれそうにない俺がどうなるか試すんだ。そもそも今更やーめたなんてできるか。あのヘビースモーカーの親父はとっくに煙草の箱とライターがなくなってるのに気づいてるに決まってる。吸おうが吸うまいが怒られるんだから、ヘタレよりはバカの方が百倍マシだ。


 ええい、ままよ。


 煙草の先に火を当てる。


 知らず息をつめて、寄り目ぎみで咥え煙草を睨みつける。湿度が高いからかうまく点かない。こんなことすら上手にできないのか、やっぱり今日を選んだのが間違いだったのか。いいや焦るな、焦ったらダメだ。すぐに点く。


 体感時間で五分にもなろうか───実際には五秒も経たない頃、ようやくジリジリと音を立てて煙草に火が、




「こんなものを吸ったらいけませんよ」




 点くまさにその瞬間に、横合いからするりと伸びてきた手に煙草が抜き去られる。


 イツキの心臓が止まった。


 少なくとも彼は止まったと確信した。断言できるほど硬直フリーズして微動だにできず、うんともすんとも言葉を発せず、見た目上では全くの無反応無表情を貫いて、彼はゆっくりと手の伸びてきた方を向く。




 女性がいた。

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