きみの声が聞こえる

十兵衛

第1話 最後のオランウータン

 序章  

 わたしは何とも不思議な体験をしています。

 わたしの名は三石正三(みついししょうぞう)。商社マンとして東南アジアを中心に飛び回っていたのですが、ある手術がきっかけで奇妙な能力を持つこととなりました。それから思いもかけない経験をすることになったのですが、その始まりは偶然でしかありませんでした。

 わたしが手に入れた能力とは、動物たちが何をしたいと思っているのかを理解できる力です。そして私の意思を動物たちに伝えられる力をも得ました。その能力のおかげで、今まで考えてもいなかった地球の今が見えるようになりました。着々と進行する地球の進化を知ることが出来るようになったのです。


 人間は時に心とは裏腹のことを言ってみたり、相手をだまそうとわざと思ってもいないことを伝えることがあります。しかし動物たちはそんな面倒な事はしません。彼らは言葉を持たないからこそ、真っ直ぐ素直に自分の心に従います。それは何とも素朴な思いです。そんな純粋な心を、わたしは受け止める事が出来るようになったのです。


 今この能力を買われ、絶滅動物研究所の研究員となり、世界中を飛び回っています。そして様々な動物たちと関係を持つことが出来ています。

動物の心を感じることのできた、わたしの不思議な体験をどうぞ一緒に感じてください。



 第一章


 どこからか聞こえてくるこの声。

 いったい誰が叫んでいるのか。頭の中から聞こえてくるこの声は、人間のものではない気がする。自分に言い聞かせようとでもするような語り方である。

(ニゲロ、ニゲロ!ツカマッテタマルカ、コワイヨ。ニゲロ)

 何から逃げているのか、何に捕まるというのか。


 インドネシア領カリマンタン。コタ・ケインの町を出発してからすでに二時間が経っている。道路はアスファルトの舗装も途切れ、時折水たまりの残るでこぼこ道である。

 周りには種類は様々だが熱帯の緑の葉を茂らせた木々が、道に覆い被さるように生い茂っている。

 コタ・ケインの町で雇ったスズキのジムニーを改装したタクシーは、器用に水たまりを避けながら弾むように揺れて走り続けている。助手席に乗り込んでいる三石正三は、頭の中で聞こえてくる誰かの叫び声を何とか聞き取ろうと注意を集中させていた。


(オッテクル。ニゲナキャ、イソイデニゲナキャ)


 森の中の木々が目の前に迫る。とにかく手に取れる枝をつかんで、ツルをひっぱり隣の木へ跳び移り、ものすごい速さで森の中を飛ぶように駆け抜けていく。しかし、目の前にあった緑の木々の連なりが突然途切れる。今さっきまであった森がいきなりなくなったのだ。すこしの平地の向こうに次の森が見えた。しかしそこはこれまでの森よりかなり木の高さが低い。何かが違う。それでも腕を伸ばせば何本かの枝を掴めそうだ。

「シラナイトコロダ。デモ、ツカマルヨリイイ。マエニススムンダ」

 オランウータンのオラは枝から地上へと降りると、ほんの数歩だけ四つ足で平地を走る。そして何本も丸太が立てられ仕切りのある場所を乗り越え、その森の中へと飛び込んだ。

 オラは気づく、この森はなんだか様子がおかしいと。普通の森なら丈夫な樹の枝を伝って登れば簡単に天空に続く道が見えてくる。でもこの森の木々は何かが変だ。どれも同じような形の樹木ばかりなのだ。上を見上げると、手がかりとなる太い枝がほとんどない。これじゃあ簡単には上には登れない。しかたなく地上を進むのだが、四本脚で前へ進むこの姿勢はなんとも心許ない。前脚が後脚より幾分長いオランウータンにとって、地上を四足歩行し続ける事はかなりつらい姿勢の動作だ。

「ニゲロ、ニゲロ!」

とにかく危険を感じ続けているオラは、とにかく先へと進む。


 正三を乗せ走っていたジムニーは突然森の切れ目に出会う。

 片側に迫っている自然林とは明らかに違う植生の森である。木の高さや葉の形がどれも一様な森が目の前に開けてきた。どこまでも続いている。

同じ樹木が整然と並ぶこの森は、アブラヤシのプランテーションである。等間隔に植えられたアブラヤシの木が整然と並んでいる。木々の間には椰子の実を収穫しやすいようにトラックが通過出来る道が付けられている。

 ここに来るまでも同じようなプランテーションをいくつか通過してきた。この景色が現在のボルネオ島の顔であり身体となっている。わずか数十年前までは自然の宝庫である熱帯雨林に包まれたジャングルの島だった。

 今ではその熱帯林は七割方がプランテーションとして開発され、見渡す限り緑の広がりが続いているが、これは明らかに自然の森とは別ものだ。


 その時、またあの声が聞こえてきた。それもかなり近くに聞こえている。

(ニゲロ、ニゲロ)

 確かにこの声の主は、今この近くにいると正三には確信出来た。

 プランテーションの中に屋根が見えてきた。竹の骨組みを持った二階建ての高床式の小屋のようだ。運転手に道をそれてプランテーションの敷地に入るよう指示する。

細く続く道沿いに奥へと入って行く。人の姿は見えないが、なにか不穏な気配がする。

 小屋の前までたどり着き車を降りる。近づいて小屋の上を見上げ声をかけようとしたその時、パンという乾いた音と共に足下に土煙が上がる。立ちすくむ正三。


 整然と並ぶ木々の間をオラは進む。

 とりあえず近くの一本の木に手をかけ登ってみる。感触が余り良くない。この木はなぜか枝の数が少ない。森の中の木々には、天にまで届くものには途中の枝がほとんどないものもある。そんな木には大抵上方の枝からツタが絡まり降りていて、それに掴まって登ればかなり上まで登ることが出来る。そして天空まで上がればそこには葉で覆われたてっぺん部分があり、ベッドを作る事もできる。

 そんな大きな樹木の下には背の高くない木々も幹を上へと伸ばしている。今入り込んだここの木と同じくらいの高さである。しかし森の木々は生え出ている地面からてっぺんまで、多くの枝が手を伸ばしているものだ。そうした枝をうまい具合に握ると、それがバネになってつぎの木へと持ち上げてくれる。それが森の普通の姿だ。

 しかしここの森は変だ。妙に枝が少ないのだ。とにかく進み難い。少しだけ飛び出ている枝をつかんで空中へと飛び上がってみる。

 このあたりの木々は同じ高さで順番に並んでいるようだ。これならコツさえつかめば移動はしやすいと分かってきた。これならなんとかなる。オラは思った、とにかく逃げるのだと。ただ前へと伝って進む。

 その時近くで音がした。パン!

「ナンダ?ナンダ?」

 恐ろしい事が起きそうな音だった。音のする方を見ながら、それでも前へ前へと進む。

 そして次の枝をつかもうとした時、そこにすでに枝はなくいきなり空中に躍り出てしまった。体は放り出されたようになりこれ以上進めず、体は落ち始めた。下を見ると目の前に迫ってくるのは流れる川の水面。

 オラは崖下へと落ちていった。サルも木から落ちる?!か。


 その頃プランテーションの小屋の前では、正三と運転手が小屋の下から出てきた何人かに囲まれていた。先ほど足下に銃弾を撃ち込んできた男が、旧式の銃を構えて正三を警戒しながら近づいてきた。現地のマレー語で怒鳴りかけてきた。

「ヤクザは帰れ!」と。

 正三にとっては何のことか良くわからない。

「オランウータンを探しているだけだ」と、伝えてみる。

「お前はやくざの仲間じゃないのか?」と質問をしてくる。

 正三はどう答えて良いのかが分からない。銃口を向けられ恐怖を感じた。その時、小屋の窓から声が聞こえた。

「正三なの?」

 見上げると窓から顔を出したのは正三の同僚である、同じ絶滅生物研究所ESIの調査員カノンだった。

 そしてその横から顔を出した現地の男が周りのものに声をかけると、正三を囲んでいた人々はまた見えない場所へと引っ込んで行った。

「先に来てたのか?」

「さっきここに着いて、農場の責任者に話を聞いてたの。とにかく上がってきなさいよ」


  第二章


 休憩所となっているらしい小屋の中で、正三はカノンと一緒に話を聞いた。

「うちのものたちが脅かしてしまってすまなかった。なにせやくざたちはしつこくやってくるもんだから、こんな方法で対抗するより仕方ないんだ」

 ユヌスと名乗った責任者は話し始めた。

 ユヌスはこの農場の雇われ責任者だという。こうした農場プランテーションは都会の金持ちが土地を買い占め、ユヌスたちのような地元の青年を責任者に雇って運営している形態が多いという。アブラヤシから取れるオイルは今世界的なブームになっている。ダイエット効果があるとして、植物性食用油は健康志向の人々に人気の商品となっている。また原油から作られていた洗剤は結局環境を汚す一方なのだが、アブラヤシの植物油でつくられる洗剤は、使用後は大地に戻しても安全な製品として世界的に使用されている。その代表的な原産地がこのボルネオのプランテーションなのだ。

 ユヌスたちこの村の元々の住人は、ヤシの実を収穫する仕事をもらうことで生活が以前より格段に潤ってきたという。すでにこのプランテーションも十年が経とうとしている。大規模な開発が始まった当初は、自分たちの村がどうなってしまうのかと思ったこともあった。

 このあたりの自然の森はすべて開墾され丸裸にされた。しかし数年でアブラヤシは成長し、開墾されていた茶色の地面は見えなくなり、見た目には緑に包まれた森のように見える。心配していた村人たちも、見た目の緑が回復し、何よりも働き口があり経済的な恩恵を受けられたことで、最近はとても落ち着いた生活ができていた。

 ところがである、

「以前は都会の金持ちたちが投資をしてきた。それが最近はどうも変なんだ。なぜか日本のやくざが土地を買い占めようとしてる」というのだ。ユヌスには今一つその訳が分からないという。

「それなら見当がつくわ」カノンが説明した。

 ジャングルと一年中暖かな気候以外何のとりえもないと思われていたボルネオ島なのだが、最近大きなお宝が発見されているのだ。それが希少金属である。携帯電話やスマートフォンに使われている希少金属。そして最近では光の革命といわれるLED電球の発光体に使われているケイ素がボルネオの地層に含まれていると発表されたのだ。純度が高く商品価値が高いという。

 この採掘の権利を日本の企業や投資家が狙い始めた。その先棒を担ぎ日本のやくざたちが土地の買い占めのために入り込んでいるというのだ。

 実は八十年代にも日本のやくざがこの島に入り込んで来た過去があった。その時の彼らの狙いは、紙の原料と建築ブームで必要となったラワン材の買い占めだった。ジャングルの中で自然に育った樹木を大量伐採し、安価な建築資材として日本に送ろうという目論見だった。しかし乱伐採が世界的な自然破壊の問題として取り上げられるようになり、ついに政府により規制がかかり伐採はあきらめる事となった。

 それ以来入り込んでいたやくざは影を潜めていた。それが今また強制的に土地を手に入れようと活動を開始したようだ。

 ユヌスもその説明に納得した。

「大変な問題だね。それと私たちのミッションであるオランウータンの失踪と何か関係はあるのかい」

「何か関係している気はする」

正三はあの頭の中で聞こえた声のことを思い出した。

「ここでオランウータンを見ていないか。確かにこの近くで声が聞こえたんだ」

とユヌスに尋ねた。

 ユヌス自身は最近ではオランウータンをまるで見なくなったというのだが、村の誰かが見ていないか農場のものに聞いてみようと窓外に声をかけた。すると小屋の下ではすでに何人かが集まって話していた。

 先ほど鉄砲の音がした時、農場の端に流れている川の中に何かが飛び込んだのを何人かの村人が見たというのだ。オランウータンかもしれないと皆は話している。

「それだ!それはどこなんだ。そこへ連れて行ってくれ」

正三は小屋を飛び出していった。その勢いに呑まれていたユヌスはカノンにどうなっているんだと聞いた。

「正三には他の動物の声がきこえるの」とユヌスに事情を説明した。

 

 正三は5年前までは日本の商社に勤めていた。東南アジアを中心に各国をまわり日本の商品を売り歩き、その土地にしかない珍しい特産物を買い漁っていた。

 その忙しさのさなか突然病に倒れた。脳梗塞からクモ膜下出血を発症し倒れたのだ。それはタイ・バンコクに滞在している時だった。市内の病院に緊急入院した。幸いなことにそこでは脳外科の手術の設備が整っていて、即時手術が行われた。担当医の腕はかなりなもので、手際よく開頭手術が行われた。

 この手術では頭蓋骨の一部を切開して、お皿のように一旦頭頂から頭蓋骨の一部を剥がす術法がなされる。これは脳内の圧力を低下させる処置で、正三はこの一連の処置もうまくいき梗塞の障害箇所も取り去ることが出来た。

 そして数日経過を見た後、剥がしてあった頭蓋骨の部分を元に戻す手術が行われた。だがこの時に、何かの間違いが起こった。たまたま剝がしておいた頭蓋骨の内側に小さなステンレスのコイルが入り込みそのまま縫合されてしまったのだ。その影響で脳に変化が起こったようなのだ。そのコイルがアンテナのようになり微少な電磁波を感じ取れるようになったらしい。他の動物の脳波を感じ取れるようになったというのだ。

「そのおかげでほかの動物の声が聞こえるようになったみたいなの。詳しいことは誰にも分かっていないんだけどね」

 最初は手術のすぐ後だった。全身麻酔だったため正三は数日目覚めなかった。これはこの手術を受けた患者によくあることだ。そしてふと何かの声が聞こえて麻酔から覚めた。見渡す病室にはほかには誰もいない。頭の中で聞こえるような小さな声で

「オッアイツ、キガツイタゾ」

「ズットネテタノニ、ヨカッタネ」と話している。

 ゆっくりと目線を室内に送って壁沿いに動かす。窓があった。そのガラスの向こうにこちらをのぞき込んでいるネコが二匹いた。正三にははっきりとネコの言葉が聞こえたのだ。この話を医師や付き添いに来てくれた会社の同僚に話してみたのだが、皆一笑に付してそれ以上真剣には聞いてくれなかった。

 正三は回復するとその商社を辞めた。それと時を同じくしてある研究所の所長が一緒に働かないかと誘いをかけてきた。それがカノンも所属している絶滅生物研究所ESIだった。所長は何故か動物の声が聞こえるという正三の話を信じてくれた。現場でのリサーチの仕事だということで正三はESIのメンバーになった。その後仕事上の相棒となったカノンにもこの話は伝えられていた。


 第三章


 オランウータンのオラは、川に落ちた後その下流に流され岸に打ち上げられていた。

まるで毛布の塊のようにまるまって動かない。まだ目は覚めていない。しかしその夢の中では誰かを呼んでいる。

「ママ ドコへイッタノ」

 今夢の中では倒された木の横で母親を呼んでいる自分が見える。

 オラは3歳まではこの近くの森に母親と一緒に暮らしていた。ある日森の周りから煙が上がった。母親はオラを背中に乗せて煙がくる反対側の木へ素早く登って逃げ道を探した。そしてツルを使って数本の木々を伝い、空中の道を逃げた。

 しかしとうとう煙に囲まれ逃げ場がなくなった時、突然パンという乾いた音がして、母親は胸にひどい痛みを感じた。そして気持ちが薄れていくのを感じ、背負っていたオラを枝にしがみつかせるとそのまま下に落ちていった。オラは母親を追おうとしたのだが、下からヒトの声が聞こえてきて慌てて枝にしがみついた。下を見ると何人ものヒトがこちらを指さし何か叫んでいる。

 これはオランウータンの子供を密猟するため、計画的に行われた追い込み猟だった。母親は抵抗するので殺されてしまうことが多い。

 こうしてヒトに捕まってしまったオラは、何人ものヒトの手に渡された後、ある研究所に連れてこられた。その研究所では脳波の解析が行われ、多くの動物が実験の対象になっていた。シマウマやチーター、ダチョウや中にはオオトカゲであるコモドドラゴンなど様々な動物がいた。どの動物も脳にセンサーが埋め込まれ、微細な脳波を電磁波に変換し測定されていた。脳波から言葉を取り出す、そんな研究が行われていたのだ。

 この研究所で「オラ」という名前を与えられた。

 オラはそこでしばらくは何もされずただ観察されていたが、しばらくして体調が良くなって来た時、ついに実験の対象にされた。麻酔をかけられセンサーを頭に埋め込む手術が施された。

 その後そのセンサーを通して脳波の変化を測定される毎日が続いた。オランウータンは他の種の動物とは違ってより多くのバリエーションの脳波が測定された。データの量が多く解析が複雑になりなかなか研究が進まなかった。

 そこで新たな研究方法が提案された。人間に近い霊長類ならば、仲間と交流する環境で測定することでデータの意味がより理解しやすくなるはずでは、と言う案であった。そこで生息地に近い場所でほかのオランウータンを捕らえ、オラと共同生活させながら脳波の解析を行うという研究方法に変えられた。

 オラはジャングルの中に建てられたこの研究所へ連れてこられた。この施設は公式には、密猟で捕らえられた子供のオランウータンを保護し、再度自然に戻すためリハビリテーションを行っている慈善団体の所有であると届けられている。

 しかし実態は脳波の研究を専門にする機関の特殊研究所である。周りの住人にはこのことは知らされていなかった。オラはこの時五歳になっていた。


 第四章


 オランウータンのリハビリテーション施設は森の中にあった。

 三棟ほどの建物が建てられている。そのうちの一番大きな建物の中には三部屋ほどが区切られていて、一室は全体が鉄の檻で組まれている。オラはそこへ入れられた。檻の中にはすでに三頭のオランウータンがいた。三歳くらいのメスと五歳くらいのオス、そして八歳くらいになっていそうな大人に近いオス。どれも新入りのオラを警戒してじっと観察している。

 オラの頭の中に声が聞こえた。「オマエ、ドコカラキタ」

振り向くと八歳くらいのオスがこちらに指さしている。オラにはこのオランウータンの声は言葉として聞こえてくる。

「ナントカイエヨ、ブー」

「ボクハ、オラ。キミノナマエハ」

「ソンナノシルカヨ、ブー」

「ジャアコレカラハ、ブーッテヨブネ」

 オラとブーはすぐに相手を認め合えた。

 その様子を脳波研究所から一緒にやって来た研究員は、興味深げに観察している。

 しばらくの間はこの檻の中での生活が続いた。食べ物は定期的に与えられ、夜は毛布を台の上に敷いて眠る。一日中研究員が檻の外から見ているが、オラはブーとはなんとなく近づいてみるが、他の子供たちにはあまり興味も持てないでいた。

 変化のない毎日が続きどのオランウータンも退屈になってきた。オラが同じように過ぎていく毎日に飽きてくると、測定される脳波が弱くなってきた。成果が出ないと研究員は本部へ連絡を取った。すると本部からは別の刺激を与える方法を試すよう指令が届いた。

 ある日オラはブーと共に建物の側にある森の中へ連れ出された。ただふたりとも首に輪がはめられた状態だ。何とも自由がきかない。

 オラにとっては数年ぶりの自然の森である。以前こんな森にいた時はいつも側に母親がいた。しかし今一人で外に出されると、どうしていいのか何とも心許ない。ブーと一緒に出されて良かったと思った。

 ブーはそんなことは気にせず、外に出られたことを楽しんだ。ブーは首輪に付けられた鉄の鎖の長さいっぱいまで木に登ってみる。なんとも楽しい。そして近くの木の上部にイチジクの果実をみつけた。早速そこまで登ると実を取って口に放り込む。うまい。

「オラ!。コレウマイ。クッテミロ」とオラに教える。

 オラも同じように実をとって口に入れてみる。この味を少し覚えている。うまい。

慌てて次の実をよく選ばないで口に入れると、何とも渋い実にあたってしまう。

慌ててはき出す。それを見ていたブーがバカだねえと仕草で笑う。ブーは熟している実だけをいっぱい口に放り込んだ。おいしい木の実はとても幸せな気分になれる。

 ブーが次に教えてくれたのがシロアリの食べ方。太めの木の幹の途中にある土で出来たコブを見つけそこを少し壊す。すると中からシロアリがたくさん飛び出してくる。そのアリの群の中に手の甲を押しつける。そしてたくさんのアリが毛に絡まった頃、そのまま口に運んで唇をすぼめて吸い込むのだ。これは果実にはない不思議な味がする。

 ほんの短い時間にオラの知らないことをブーは色々教えてくれる。


 それからも檻の中での生活は続いた。

「オレハココヲデタイ」

 ある日オラはブーから相談された。やっぱり森の中が自分の生きる場所だ。こんな狭い檻の中はもういやだ。この前みたいに自然の中でおいしいものを探して、きままな暮らしをしたい、というのだ。オラはそんなことは何も考えていなかった。でもブーに誘われて考えるようになり、森が懐かしいもののようにも思えてきた。


 その頃、正三は初めてESIのスタッフとして、オラがいる同じ地域に入っていた。

 このあたりは国立公園になっている地区と、開発が許され村人に使用されている地区とが近接している。最近そんな国立公園の区域内である事件が起きている。

 周りのプランテーション開発の始まった頃から、棲む森を奪われたオランウータンやビントロングやオオリスなどがこの森に逃げ込んで居着くようになった。国立公園には管理官のレンジャーが常駐している。レンジャーはこうした動物たちを見つけると、一旦捕獲して身体の一部にペンキで色を付け、森の中に解放して巡回監視していた。それがこの数ヶ月目印を付けていたオランウータンが何頭も姿を消している。また密猟が始まってしまったらしいのだ。

 その報告を受けた国立公園管理事務所は、以前から付き合いのある絶滅生物研究所ESIへ事件の解明を依頼したのだ。カノンと正三がESIの専任調査官として派遣されてきた。行方不明になったオランウータンの捜索が今回のミッションだ。

 この二か月で三頭のオランウータンの姿が見えなくなったと公園長は言う。八歳くらいから四~五歳の若いオランウータンで、隣のプランテーション開発から逃れて来ていたものばかりだという。

 管理事務所を訪れた後、二人は事務所周辺を見て回った。ちょうど裏の作業小屋では職員の数人が、公園内の巡視を兼ね移住してきたオランウータンに食料を持って行く準備をしていた。粉ミルクを水に溶かす者、バナナの数を調べながら袋に入れる者、抗生剤をミルクに混ぜている者もいる。正三とカノンはそんな職員たちに同行する許可をもらい一緒に出発した。

 十分ほど森の中を歩くと、丸太を組み合わせて作った三㍍四方ほどの台が木々の間に設えてあった。

 一行はその場所に着くと持ってきた食糧を取り出し、職員の一人が森の奥まで聞こえるよう呼び声を上げた。

 すると間もなく、その声を待っていたようにあちこちから木を滑り降りて数頭のオランウータンがやって来た。二頭で一緒にやって来たのは年齢八歳くらいの一頭ともう少し若いオランウータン。二頭はぴったり寄り添うようにして木を降りて来る。もう一頭は別方向からやって来た。十歳以上の大人のオスのようである。三頭とも職員に対する警戒はあまりないようだ。若い二頭は平台にたどり着くと、さっそく職員が皿に移し入れたミルクを飲み始める。大人の一頭はそれよりバナナを欲しがり、ガツガツとバナナの中身を口の中に押し込む。この間職員たちはオランウータンたちに対し一切言葉をかけたりしない。黙々と食料を与え、職員の一人がノートにメモを書き付けている。個体ごとに何をどれくらい食べたかを記録している。

 そして職員の一人が正三たちに

「大きいほうは、一年ほど前に隣のプランテーションから追い出されてきた個体です。最近やっと我々に慣れてきました。ほかの二頭は、二年ほど前に密猟されていたものを助け出して、事務所で保護していたものです。」

と教えてくれた。

 そしてある程度食べさせると、ミルクを入れていた皿を取り上げ、オランウータンたちを追い払うような仕草をする。はじめはもっと食べ物を欲しがっていたオランウータンたちもあきらめて、また木をつたって森の中へ帰って行く。これが森へ返すためのリハビリテーションの最終段階だという。

 この活動は八十年代から続けられている。森林伐採中に倒された木から落ちケガをしたオランウータンや、密猟で親を亡くし捕まったオランウータンの子供などを保護し、森の中の施設で再教育してから最終的には自然に返すというプログラムである。

 オランウータンは霊長類の中でも特異な生態をしている。基本は集団生活をしない。生まれた赤ん坊は母親だけが面倒を見る。生後五年くらいの間を母親と共に過ごし、森の中で何が食べられるか、触ればトゲが刺さったり食べれば中毒を起こすものはどれか、どの季節にどこへ行けば食べるものが得られるのか、こうした生きるための知恵を母親から受け継いでいく。しかし幼くして母親と別れ孤児となってしまった赤ん坊や子供には、そのままひとりで森へ帰っても生きるための知恵は足りていない。

 そこで子供たちを森へ返すためのリハビリテーション教育が始められた。赤ちゃんのオランウータンにとっては木登りさえも教育が必要だというのだ。

 先ほど食べ物を求めて集まった若い二頭も、最初は施設に保護されそこで教育を受け、一年ほど前にこの森へ帰された者たちだ。こうして自然に帰されたオランウータンは何頭もいる。そのため現在この森のオランウータンの密度はとても濃くなっている。以前は数年で周りの他の森へ自力で拡散していた。しかし最近は帰って行く森が人間の開発でなくなってしまっている。拡がって暮らせるだけの森が無くなっているのが現実なのだ。この森ではほかにも五頭くらいのオランウータンがいる。そのうちの数頭は数ヶ月前に近くの森から逃げ出してきたもののようで子供も若い者もオスの大人さえもいる。彼らは人と接したことがほとんどなく、人に施してもらうミルクやバナナは受け取らないという。さっきバナナを食べていった大人の個体は、よく慣れたほうだという。

 木に登っていた先ほどの二頭連れが「ゲ、ゲ」と声を上げ下の方を見ている。その目線の先、森の奥から続いている道を大きなオランウータンが四足歩行でやってくる。顔の周りには厚い肉垂れがマスクのように膨らんでいる。オスは二十年くらい経つとこうした迫力のある顔になるという。

 職員のいる平台の横まで来ると、人間には一切目を合わせず、置いてあったバナナの房を鷲掴みにすると肩の上に担ぎ上げ、残りの三本脚でそのまま道伝いに森の中へ歩き去ってしまった。

な るほど施しを受けるのではなく、そこにあるものは自分のものだという解釈なのであろう。オランウータンとはけっこう誇り高い動物かもしれない。


 第五章


 オラとブーは脱走の相談をしていた。

 ブーは時々食べ物を持って入ってくるヒトを狙っていた。入ってくるのは毎回一人だけだ。そいつを捕まえて力尽くで押し出したら檻から出られるんではないかと思う。そうオラに伝えると、それはちょっときついかもしれないとオラは答えた。入ってくるのはヒト一人だけだけど、檻の外ではいつも何人かが見ている。すぐ押し戻されちゃうよ。

 それよりこの前、五歳のオスが食べ過ぎて食べたものを戻した時、慌ててヒトは何人かがいっぺんに檻の中へ入ってきたことがある。あんな食べ過ぎくらい我らオランウータンには良くあることで全然心配はいらないんだが、あんな時なら檻の入口は開けっ放しになってすぐ逃げられそうだと、オラはブーに教えた。

 実はこんな話をしている時は檻の外の研究員の目がじっと注がれているのにオラは気づいていた。だからこんな長い会話の後には、わざと大声を出しておりの中を走り回ってみる。すると外の研究員たちががっかりするのが分かる。オラはこんな駆け引きをする時、なぜかヒトに勝てているような気がして嬉しくなる。


 正三とカノンは近くの村を回り、消えたオランウータンの手がかりを探していた。

 国立公園のエリアを出るとすぐ、コタ・ケインという川沿いの村があった。アスファルトが敷かれた道があり、村人が暮らしているようだ。食べ物を扱っている小さな店で聞いてみると、この村の人々は皆周りにあるアブラヤシのプランテーションに雇われているという。昔ながらの猟で暮らしている村人はほとんどいなくなったという。だから人の手の入っていない森の中へ入るのはとても嫌がる。どの村人もオランウータンなどほとんど見たことがないと答える。

 かつてボルネオ・カリマンタンのこのあたりには、森の中の野生動物を狩って生活する者、川で魚を捕って暮らす者、そして焼き畑でわずかな食糧をつくっては移動するような暮らしをするものしか住んでいなかった。しかし今そんな暮らしをする者はこのあたりでは見られない。昔ながらの狩猟の暮らしをするヒトは、今ではもっと奥地にわずかばかりしか残っていない。

 六十年代から七十年代にかけてここカリマンタンでは大きな変化が起きた。第二次世界大戦後オランダから独立を勝ち取った政府は、都市部で爆発的に増える人口を分散するためある政策を立てた。それが移民政策イミグラシである。

 広大な土地はあるが開発が遅れていて人口も少なかった北部のボルネオ・西部のスマトラ北部・東部のイリアンジャヤへと大量に人を送り込んで現地の開発を担わせた。開墾開発で畑地を増やさせ、村をつくり商業を奨励した。現在その初代の入植者から二世代ほどが経過している。開発と商業を盛り上げてきたそれらの人々は、当然のように自然の中に入るのをとても嫌がり、いまでも森の中へは足を入れないという。

 そんな情報の中で気になるものがあった。数年前に建てられた何をやっているか分からない施設が、国立公園に隣接した半開発エリアにあるという。建設当時はまた新しい働き場所が増えるかと村人も期待した。しかし建物が出来上がってもいっこうに職員や雇い人の募集がなかった。最近になって関係者らしい人間が時折食糧を買い出しにこの村にもやってくるが、一切話にはのってこないという。町の人の匂いがするといっていた村人もいた。正三たちは何かオランウータンの失踪と関係があるのではと感じた。


 オラとブーは緊張していた。

 さっきのご飯の時、五歳のオスにいろいろ自分の食べ物を回してやったのだ。とりあえず口の中に入れてほほ袋に溜めておく。それを研究員が檻から出て行くとすぐに吐き出し渡してやったのだ。ブーもいくつか配給されたバナナを素知らぬ顔で自分の毛布の下に隠した。それをとりだして渡したのだ。

 たくさんの食べ物を思いがけずもらえたオスは、他のオランウータンにとられないよう慌てて口の中に押し込んだ。意地汚い奴だとは思うが、これで腹をこわしてくれるのがこちらの狙いだ。なかなか吐き戻しをする気配がない。二頭がじっと見つめていたその時、外で人の気配がした。


 正三とカノンは慎重に森の中の施設に近づいた。

 三棟の建物の一つは窓が閉め切られている。裏から発電機の音が聞こえているところを見ると、この建物の中には誰かがいるようだ。静かに窓の下へと進む。そっとのぞき込むと、事務室のようになっていていくつかの机がありパソコンが開いておかれている。その奥に何かで仕切られた区画が見える。それは檻のようだ。手前に三人ほどの人が手元のタブレットに何かを書き込んでいる。その時、檻の中で大きな声がした。三人は中をのぞき込み慌てた様子で相談を始めた。檻の中では何かがうずくまっている。壁際にはオランウータンが三頭ほどいる。

「ハヤク!アバレロ!」

 突然正三の頭の中で声がした。誰の声なのだろう、何を言っているのだろう。

 檻の中のオランウータンがカノンと正三が探していたものと確信すると、カノンは正三に目線を送り正面のドアに向かった。

 檻の中でうずくまったオランウータンが口からなにやら戻しているようだ。同時にゲップのような大きな音を出している。口の前に置いた手のひらの上に、白く泡の立つものを大量にはき出す。それを見て檻の外にいた三人は慌ててしまったようだ。オランウータンは時々食い貯めや吐き戻しをする。吐き戻したものも時間をかけて再度食べることがある。しかしあれほど大量の吐き戻しは初めて見た。あんなにたくさんの食べ物を与えてはいないはず。何があったんだと言い合いながら急いで檻を開け入り込んだ。

 オラとブーはこの時を待っていた。壁伝いに静かに移動すると、檻の出口に走った。ブーは最初はとまどっていたが、

「ハヤク。ソトニデルゾ!」とオラの声にならない声が頭の中に聞こえ、オラに続いて檻の外へ急いだ。うずくまったオランウータンに気を奪われていた研究員の一人が、オラたちの脱走に気づいた。しかし檻を出たところでそこも部屋の中、外へのドアを開けられるほどの知能があるはずはないとゆっくりと追いかけた。

 その時急に表に続くドアが外側から開かれた。正三とカノンがドアを開けて乗り込んだのだ。

 オラとブーはすかさず外へと走り出す。入口に立った正三とカノンは突進してくる二頭のオランウータンにひるみドアの前を空けた。

 逃げ出すオラと正三は一瞬だけ目が合った。

「アリガトウ」

確かに正三はオラの言葉と感じた。オラとブーは一目散に森の中へ走った。

「正三!その子たちを追いかけて。ここは私がやる。」

とカノンが正三に指令を出す。それを聞き正三はオラたちの後を追った。

カノンはドアを閉めると、中の三人に落ち着くように言った。国立公園の管理事務所に頼まれて失踪したオランウータンを探索中だと告げた。

「その檻の中のオランウータンはどこから連れてきたの?」と聞かれると、三人は目を合わせ示し合わせて口をつぐんだ。


 オラとブーは力の限り四本脚で地面を走り、森の中へ飛び込んだ。オラにとっては久しぶりの自然の森である。前を走るブーに見習って、目の前の樹の枝をつかみ身体を引き上げ、より高いところへと移動していく。ブーは本当に上手に枝を渡っていく。時には折れてしまいそうな細い木に飛び移ると、そのしなりをうまく利用してより遠くへと移動していく。オラはブーの後を追う。ブーはどこへ行くか決めているようにまっすぐ森の奥へ進み続けている。

「オマエハダレダ」とオラの頭の中で声が聞こえてきた。直感でさっき部屋を飛び出す時にすれ違ったヒトの声だと思えた。

「オラ ダヨ。イマイソガシイカラマタネ」とりあえず返事を送っておいた。


 正三も森の中を追いかけていた。

 逃げた方向の樹上で葉が揺すられ、枝が折れるような音も聞こえている。しかし足下を確かめながら追っているうちに、樹上のオランウータンの姿を見失ってしまった。これ以上はとうてい追いつけるとは思えなかった。

 追跡を一旦あきらめる。しかしこの声は本当にあのオランウータンの声なのだろうか。確か名前は「オラ」と言っていたが、あのオランウータンは人に飼われていたものかもしれないと感じた。


 カノンは黙り込んだ研究員を前にこれ以上の追求をあきらめることにした。

「何も話してくれないようだね。この二頭のオランウータンの額に着いている印は国立公園で保護していた証拠ね。あなたたちではないとしても誘拐してきたもので間違いないね。だからこの子たちは連れて行くよ。」

 研究員は目で合図をしているが、それであきらめたようである。

 森から戻った正三と共に二頭の子供のオランウータンを自動車に乗せ、国立公園の現地施設へと運んでいくことにした。

 カノンたちが走り去ると、研究員はスマートフォンで連絡を取り始めた。


 第六章


 オラとブーは息が切れるまで木々の間を走り続けた。途中で少し広めの道が横切っていて森が少しだけ途切れるところがあったが、そこを過ぎて次の森に入った頃からブーはスピードを緩めた。そして高い木の上のほうに葉が茂っているところを見つけるとブーはそこへと向かった。オラは良くわからないが付いていくだけだ。

 そしてその葉の茂みに到着すると、ブーは周りの枝葉をむしり取りそれを丸めて枝が又のように分かれている根元に突っ込んだ。その丸めた葉を引き出すと口元に持って行く、そして葉を強く握ると水が絞り出されてしたたり口の中に入った。水がこんな高いところで手に入るんだとオラは感心した。ブーは手招きしてオラにその丸めた葉を手渡した。オラも見よう見まねで水を飲むことが出来た。ブーはどうだいと誇らしげな笑顔を向けてきた。

 その後もブーは色々なことをオラに教えてくれた。

 両の手のひらで包めるほどの太さの木を見つけると突然その皮に歯を立て始めた。その端を唇で摘んで引っ張ると、木の皮はするすると剥がすことが出来た。身長ほどの長さに渡って皮がなくなると、ブーはその木の肌を舐め始めた。下から舌で押し上げるように舐める。これもオラは真似してみた。とても甘い汁がたっぷりと出てくる。数回繰り返して舐めてもまだ甘い汁は出てくる。これは大好物になりそうだ。

 次は堅いトゲで被われた大きな実。自分の頭ほどもありそうな大きさである。少し割れ目がある実からは何ともきつい匂いがしている。それぞれの実はツルにつながっていて簡単には外れない。するとブーは実の下に座り込むと実をくるくる回し始めた。手のひらでぎゅっとは持たず、毛深い肘を使ってやんわりと押さえ込みながら回し続ける。するとポトンと簡単にツルから外すことができる。次は少しだけある割れ目に牙を入れもう少し広げる。そしてこの割れ目に指の先を突っ込むと左右に力を入れて押し広げる。ぱっくりと実が半分に割れた。何とも変わった匂いが広がる。白い綿のようなものが割った実の内側にくっついている。それを指でつまみ取る。少し柔らかいその白い塊を口に放り込むと、これは濃厚な味で腹に溜まる食べ物だ。

 オラとブーは食べ終えると木の上の枝葉を折り曲げベッドをつくった。のんびりと仰向けになって空を仰いで昼寝するブーは本当に幸せそうに見える。しかしオラはなんとなく不安がある、ここは本当に安全な場所なのだろうか。


 正三たちは国立公園の施設に、奪い返した二頭のオランウータンを連れて行った。

レンジャーたちはこの二頭を覚えていた。他にもう数頭が消えているという。檻のあった建物から逃げ出したものはそのうちの二頭だったのか良くわからない。レンジャーたちはカノンと正三にお礼を言った。

 正三はオラのことがとても気がかりだった。頭の中でオラの声を聞いたこともカノンに話し、もうしばらくあの二頭を捜索したいと伝えた。レンジャーが言うにはあの建物からこちらの国立公園は道路を隔てて接しているという。きっとこの近くまで戻っていると思う、ここへくれば食べ物をもらえることを知っているから、と教えてくれた。そこでしばらく正三はこの公園内でオラたちを探してみることにし、カノンはその他の消えたオランウータンの姿を追い、この先の地区まで捜索エリアを広げることにした。

 次の日、正三は公園のレンジャーであるランビンと共に森の中へオラを探しに入った。

 熱帯雨林の森の中は不思議な構造になっている。外から見ると木々がぎっしりと詰まっていて見通しがきかない、息苦しさを覚える森だと思っていたが、一旦入り込んでみるとそうでもなさそうだ。森の中では樹高が二十メートルから三十メートルの高木が基本となって森をつくっている。その高木も同じ種類の木どうしは密着しておらずそれぞれ相当の距離を持って植えている。ここに大きな空間が生まれている。

 高い木の上方では競い合うように葉を大きく拡げあい天を向き太陽光を奪い合っている。しかし中間から林床までは光の届き具合が悪いため、ほとんど枝や葉はない。倒木がある場所ではわずかに日光が差し込んでいる。そこには人の背丈ほどの中間樹が葉を茂らせているが見通しを遮るほどでもない。この前オラたちを見失った時は二十メートル以上の木の高みまで一気に登られてしまい、その後を見失ってしまった。森の形を理解していればもう少し行方を追えたかもしれないと反省する。

 森の中を歩きながらレンジャーのランビンが話してくれた。

 ランビンは若い頃この森のリサーチャーをやっていたという。二十年ほど前アメリカの学者がオランウータンの生態を調べるためにこの森に滞在していた。

 彼らの調査は一日中オランウータンについて歩き、彼らの行動全てを記録するというものだった。

 追跡は朝オランウータンが寝床から目覚めた時から始まり、日中の食事や遊び、昼寝そしてまた食事とずっと一日追いかける。そして夜のベッド作りが始まり眠りにつくまでがその日の調査という毎日を送った。ランビンの仕事は研究者に指定された特定のオランウータンを丸一日追い続け、行動とその時刻をメモにとり研究者に渡す。そして翌朝、前日に眠りについた場所へもどりまた一日追い続ける、この繰り返しだったという。

 こんな毎日の中でランビンが感じていたのは、オランウータンは決して孤独な単独生活者ではないという実感だったという。一緒に仕事をした研究者は群で行動するテングザルやカニクイザルなど他のサル類と違い、こんな深い森の中で単独行動するオランウータンでは仲間との出会いがほとんどなく、わずかな木を隔ててすれ違っても分からないだろう、と研究発表していた。しかしランビンの感覚では、オランウータンたちは森の葉越しに相手を感じていたし、声を出し合い時に接近を知っていて実を食べ残して次のオランウータンに置き土産を残していたこともあった。彼らは確かに家族として暮らしていると思う、そうランビンは語った。正三は、毎日見ていた者だけに分かることかと思った。

 こんな話をしながら二日ほどこの森の中で探してみたが、オラたちを見つけることが出来なかった。

 この森は村に接した公園事務所から東側に広がっておりその先はグヌン・カリムという二千メートル級の山につながっている。そちら側へ逃げたかもしれないとレンジャーのランビンは考えていた。そこで正三は一旦近くの町まで出てジムニーのタクシーを雇い、公園の外縁に沿って移動しながら探す事にした。


 第七章


 オラとブーはいつも一緒に行動していた。今もブーが探し当てたイチジクの木の実を二頭で口いっぱいにほおばっている。ブーはオラに遠くに見える山を指さした。

「アノヤマヘイコウ。ヤマノモリハアンシンダ」

「ドンナトコ?」

「マエニイチドイッタ。イイトコダ」

 ブーは以前そこへ行った時の記憶を持っているようだ。オラも行ってみたいと思った。

 その時急に木の下が騒がしくなった。見下ろすと、森の中に数人のヒトが広がってこちらへやって来る。ブーに「キオツケロ」と知らせると、すぐに逃げられる体勢になった。ヒトはまだオラたちを見つけてはいないようだが、周りの高い木を一本ずつ見上げながらこちらに迫っているようだ。声を出さないでじっと見つめるオラとブー。このまま通り過ぎるかと思った時、地面を指さして他のヒトを集める者がいた。「食べかすがまだ新しいぞ」と見上げた一人の目とオラの目が合った。下に散らばっていたヒトたちが一斉に集まって来た。十人ほどいる中には、銃を持つものもいる。中にはバズーカ砲のような太い筒状のモノを持つものもいる。オラを確認しながら指示を出している者がいる。あの森の中の研究所でオラを観察していたヒトだ。その研究者の指示でオラとブーがいる木の周りを囲むようにヒトたちが配置された。

 そして銃を持った者が狙いをブーの側に構えた。そしてパン!と打ち込んだ。ブーの顔の横の枝が飛ばされた。慌てたブーは隣の木に飛び移ろうと手を伸ばした。その瞬間を待っていたように筒状の砲が発射され、何かの塊が飛び出した。それはまるでクモの網のように拡がってブーに向かっていく。隣の枝にぶら下がったばかりのブーに網が迫り、下半身が包み込まれてしまった。そして網の端が折れた枝に絡みつき、ブーは一瞬宙づりの恰好になってしまった。

「オラ、ニゲロ。オレハダイジョウブ。コンナノヘイキ」

 そう言うと、ブーは網を絡みつかせたまま枝を登っていく。

オラは突然のことで動けなくなっていたが、ブーに言われて慌てて別の枝へ飛びついて逃げる。この前みたいに上へ上へと天空の階段を探して、手に取れる枝を操って必死に逃げた。

 ブーは両の腕は使えるものの後ろ足は網が絡んでいて、なかなか進めない。下の者が木に登ってこようとしている。ブーは必死で足に絡みつく網をほどこうとした。目の端にオラが上手に上に登っていくのが見えた。

 オラはとにかく枝伝いに、そしてツルを掴んでは大きく飛んでいった。

「マタオイカケラレタ。ニゲロ、ニゲロ」と頭の中で叫びながら逃げ続ける。


 その頃正三はその森のすぐ横に続いている道を、ジムニーで移動中だった。

頭の中にまたあの声が聞こえてきた。誰なんだろう、何が起きているんだろう。これだけ声が聞こえるのだからきっとこの近くにいるに違いない、と確信するようになった。


 第八章


 こうしてこの物語の最初の光景がここから続く。

 オラは道を越え反対側に広がるアブラヤシの森に入り込んだ。

「ニゲロ。ニゲロ!」

この森の天の道は本当に走りにくい。木の高さが低いからまるで地上すれすれを走っている感じである。森の中の木より枝が少ないけど、一本一本はだいぶ丈夫だ。それに規則的に木が並んでいるから慣れれば移動はし易い。と少し慣れ始めた頃だった。

「オマエハドコニイル?」と頭の中に声が聞こえてきた。

 とっさに回りを見てみる。しかし誰も見えない。どこかに隠れているのか、と何度も振り向いて見た。その時だった。また聞こえた。あのパン!と言う音。あれは危ない音だ。怖い、と思った瞬間だった。オラの身体は突然宙に浮いたようになってしまった。それまで左右に規則正しく並んでいた木々が突然なくなり、飛び出した先には空しか見えなくなった。そして足の下から音が聞こえた。見下ろすと下は川である。今度は身体がその川めがけて落ち始めた。オラはきつく目を閉じて水の中に飛び込んでいった。


 正三は農場で聞いた情報を元に川沿いにオラを探した。探しながらもこの川がかなり特殊なのに気づいた。国立公園地区の森から道を隔てた農場まではそれほど土地の高低差を感じていなかったのだが、この川から突然と言うほど深く谷がえぐれているようだ。急な崖の下の水面までは十メートル以上ある。今は水量も豊富そうで崖の下には激しく流れる水面が続いている。そして向こう岸を望むとそこに大きな山が迫っていた。これが国立公園のレンジャー・ランビンが教えてくれたグヌン・カリムという二千メートル級の山のようだ。こうしてみるとこのプランテーションは地形的に限界まで開発されているのが分かる。これ以上の開墾はあきらめざるを得なかったのだろう。深く刻まれた谷と激しい水流が人の開発を頑と拒んでいるようだ。

 こんな急流に落ちたのならオラは助からないかもしれない、と不安な気分になる。それでも手がかりを掴むまではあきらめきれず正三は岸沿いに探して歩いた。

「どこにいる?オラ」「生きているのか」「何か言ってくれ」

正三は心の中で語りかけながら下流へと進んだ。

 すると対岸にわずかばかりの砂浜があり、何か赤い毛布のようなモノが落ちているのに気づいた。双眼鏡で覗いてみるとそれは確かにオランウータンのようだ。しかしまだ生きているのかここからでは分からない。大急ぎで農場にもどり対岸に渡る方法を聞いてみた。すると少し先の岸に船着き場があるという。村人に舟で対岸に渡れるよう頼み込んだ。なんとか村人の協力が得られ、対岸に舟で送ってもらう事が出来た。

 恐る恐る倒れているオラに近づいた。のぞき込んでみると息をしているのが分かった。まだ目は覚めていないようだ。

 怪我をしているようでもなく、気を失っているだけのように見える。水に濡れて体温がかなり下がっているようだったので、正三はオラを抱えあげモコモコした毛の上から身体を擦ってみた。

 するとまもなくオラの目が開いた。

「ナニ」「ドコ」「ダレ」と正三の頭には聞こえている。

正三も

「大丈夫」「怖くないよ」と語りかけた。

 最初はびくりとして身を縮めたオラだったが、この声が目の前のヒトから聞こえてくるのが分かったようで、じっと目を見つめてきた。

 正三は舟を操ってくれた村人にも聞こえているのか確認しようと思ったが、彼にはなにも届いていないようだ。目をオラの顔に戻し、

「君がオラだね」

と伝えると

「そう、オラ。あんたと話をしてるんだよね?」

とオラも確認してきた。

 正三はここで初めて相手の声が聞こえ相手も理解していることを確信した。これまで聞こえていた頭の中の声はこのオランウータンの声だったのだ。

「おってくる。にげなきゃ」

とオラ。

「何が?どこへ?」

「わるいヒトがおってくる。ブーがおしえてくれたやまのもりへいかなきゃ」

 正三はオラを信じてみようと思った。舟を出してくれた村人に農場に戻り仲間のカノンに連絡し、待っていてくれるよう伝えてもらうことにした。

 オラは元気を回復したようだ。川から背後の山に目線を送ると、近くの崖を登り始めた。正三も後に続いた。農場側ほど急ではないがそれでも険しい崖だ。オラはツルや枝をうまくつかみながら登っていく。正三も足を滑らせながらもなんとかオラの後をついて必死に登った。

 登る途中で振り返って見るとあたりの地形が一望出来た。

目の前にあった川はこのグヌン・カリム山を包み込むように北側から西をかすめ南へと続いている。そしてこの山を反対から包み込むように東から南へと流れているもう一つの川が少し先で合流して、ジャングルの中を蛇行しながら海へと向かっている。グヌン・カリムの南側は広い湿地帯となっている。湿地帯は人が入り難い場所だ。この山はその湿地に守られている自然の聖地かもしれないと正三は感じた。

 この崖を登り切ったところまで行けば、一旦平らなところに出られそうだ。その先は山頂へ向かって徐々に高度を上げている。あと数百メートルも登れば熱帯林から低い木ばかりの林になる、高地への移行帯になっていそうだ。

 先を登っていたオラの後ろ姿が急に見えなくなった。

正三はかなり体力を消耗していたが、もう一度気を入れ直し登り始めた。そして不意にその森は現れた。崖を登り切ったところから、熱帯林が奥まで続いている。見通しは余り良くないが、植生はこの前の国立公園の森とよく似ている。

「こっち、こっち」

とオラの声が聞こえた。

 少し前方を透かして見ると、樹上でオラが座り込んでいる。両手にイチジクを抱え込んで次々に口に放り込んでいる。

「うまいよ、おなかすいたからね」

 正三も木によじ登り、手の届く場所のイチジクをもぎ取りおそるおそる口に運んでみた。

 しっかり実が熟れていて疲れた身体に良さそうな甘さだ。すでにこの木は何者かに実を取られているようで、食べられる実はすぐになくなってしまった。

 オラは正三に語りかけた。

「おまえはナニをしにきた?」

「追いかけてきただけさ。どんな奴か知りたかったからね」

「オラはヒトを知ってる。でもおまえとはちがうヘンなやつばっかりだった。」

「ヒトは色々いるからね。ところでここが来たかったところなのか?」

「よくわからないけど、たべものはある。ともだちのブーが言ってたとこだと思う。」

 正三はブーとはあのとき一緒に逃げ出した相手かと思ったが、それ以上は聞かなかった。それよりなぜこうして意思が通じるのか聞きたかったが、多分オラにも答えは分からないかと思えた。

「さあ、もっとなかへいかなくちゃ」

とオラは動き始めた。

 正三はもう少し一緒について行こうと思った。オラはそのまま樹上へとするする登っていった。正三には木の上の移動は出来ない。

「オラ、ちょっと待ってよ」

と言って、地面に降りてからオラの後を追う。


 しばらく進むと平坦だった森の地面に少しずつ起伏が出てきた。そして時々丘のような高みがありそこを登る。だんだん高度が上がっているのか、心持ちひんやりとした風が時々吹き抜ける。登り切った丘を少し下るとまた次の丘の登りとなる。うねうねと高度を上げながら山頂へと向かっている感じだ。周りの空気にふと薄い煙を感じた。オラも鼻の穴を大きく膨らませ、この匂いをかいでいる。

「このにおい まえにもかいだ」

「こんなけむりのために かあさんとはなれた」

オラは森が燃え母と共に逃げた日を思い出した。

 次に出てきた丘の向こうから薄い煙がたなびいてくる。正三が恐る恐る近づいてみる。オラは、怖いからそっちへは行かないと留まる。丘の裏手の地面からその煙は出ているようだ。まわりの空気は温度が上がっているように思える。その煙の元へと近づいてみると、炎は上がっていないが地面の割れ目の中で赤いものが見える。これはカリマンタンで昔から問題になっていた泥炭の引火であろうか。カリマンタンでは長い間土の中に埋もれていた泥炭層が、雨による表土の流出で地表に露出した場所がある。その炭層の上で焼き畑をしたため、地中の炭に火が入りそれが長い間くすぶったまま消えずにいるという。これほど人間の痕跡が少ない場所でもそれが原因か分からないが、その火がまるで消し炭のように小さな火を繋いでいるのだろう。回りにはすでに引火しそうな枯れ木は燃え尽きてしまっているらしく、まるで消し炭の湖のようになっている。

 オラは声だけで正三に知らせてくる。

「なんか あぶないきがする」「ちかづかないほうがいいよ」

自然の中で生きる直感のようなものだろうかと正三は思った。何となく身体も熱くなってきたような気がしてその場所を離れた。そしてオラと合流すると、森の奥へと進んだ。


 第九章


 すでに標高三百メートルは超えているようだ。しかし森の中は依然と熱帯林の樹種が多く見られる。空中の道がここではまだ続いているようだ。先ほど見た炭火の影響だろうか、森の中の温度が高めに保たれているのかもしれない。

 頭上を速いスピードで移動する者がいる。一瞬枝にぶら下がったまま静止しこちらを見た。長い腕が特徴的なテナガザルだ。少しこちらを観察すると、懸垂のように身体を枝の上にまで持ち上げ、少し太めの枝の上に登ると二足歩行で走り出した。そして次の木へと飛びつき、今度は両腕で交互に枝を伝いあっという間に見えなくなってしまった。テナガザルに続くように木と木の間の空間を同じ方向へ飛んでいく者がいる。サイチョウだ。大きなくちばしが頭の上までも繋がっているのが特徴的だ。飛び過ぎて行く。

「おっていこう」とオラが正三に伝えた。

「きっとたべものがあるんだ。ブーがおしえてくれた」

 イチジクやドリアンなどの実がなる木はあちこちに散らばって生えている。それも見通しのきかない森の中にあるため、どの木が今熟れた実を持っているかはなかなか目で見るだけでは分からない。活動的で移動が得意な動物なら活動範囲を広げやすく、熟した食べ頃の果実を見つける可能性が高い。サイチョウやテナガザルは動き回って最初に旬の食べ物を見つけてくれる。他のものは彼らの後を追えば食べ物にありつける確率が高くなる。それを経験から学んでいたブーがオラに教えてくれていた。

 オラは地上を移動する正三の速さにあわせて、いつもよりゆっくり樹上を移動していく。やがて熟した果物の匂いが漂い始めた。地面には食べかすが落ちている。見上げると高い木の上の枝から垂れ下がっているイチジクのツタに、テナガザルが張り付いている。イチジクの実を手にとっては口に運んでいる。その上の枝では、先ほどのサイチョウが大きなくちばしを器用に使い、木の実を一つずつ放り上げては口で受け取り喉に流し込んでいる。熟し始めたばかりらしい。上の方では赤く色づいた実が見えるが、下に行くほどまだまだ実は堅いようで青い色のままのものが多い。テナガザルとサイチョウがいち早く見つけたばかりのようだ。オラも早速赤く色づいた実のあるところまで飛んでいく。テナガザルはちらりとオラを見るが大して気にもせず食べ続ける。

「しばらくはここでたべられる」

とオラ。ここにしばらく居座るつもりになったらしい。

 正三は周りを探ろうと歩いてみた。

 山の肌に沿って傾斜になっているところを少し登ってみた。木々の隙間から山の上方が見える。もう少し登ると森の姿が変わっていそうだ。植生が変化しているらしく、森を構成する木々がだんだん低くなっているのが分かる。いつのまにかかなりの標高まで登ってきたのかもしれない。この山が中心となり、標高の低い場所は熱帯林がぐるりと取り巻き、そこから上にはまた温帯系の林がぐるりと取り巻くようなそんな環境になっているのが分かる。いろいろな特性を持った森が繋がって不思議な生態系をつくっているようだ。より多くの種類の動物や植物がこの生態系では生かされているのかもしれない。

 正三が戻ると、オラはイチジクの木に登ったままじっと反対側を見ている。正三がその方向に目をやってみると、少し離れた木のあたりに何かがいる。よく見ると樹上に二頭ほどのオランウータンがいるのが分かった。そして木の下の地上にも、赤ちゃんを胸に抱き付かせている一頭がオラの方を見ている。突然見知らぬものがいたことで少し驚いているようだ。少し膠着した時間が流れた頃、森の奥の地上をもう一頭のオランウータンが四本足でナックルウォークしながらこちらへ近づいた。そこにいた三頭は、少し安心した様子で口をとがらせた。

 やって来た一頭は四足歩行ながら頭の位置は正三の頭の位置と変わらない。体重はゆうに三百㎏はありそうだ。顔の周りには老齢のオスに見られる襞肉がたっぷりと垂れている。正三の横まで来ると立ち止まった。首は動かさずにオラと正三を目で捕らえた。かなりの迫力である。そしてまた動き出すと、オラの座っている木に手をかけゆるゆると身体を持ち上げ登っていく。

 そしてオラの横まで来るとそこに腰を落ち着けた。オラは緊張で動けなくなっている。オスは近くの熟れたイチジクの実をつまみ取った。そしてそれをなんと正三へ投げてよこした。決してぶつけたのではなく、放ってよこしたのだ。慌てて手のひらに受け取った正三は、驚いてオスを見上げた。オスは何事もなかったようにもう一つ実を取るとそれを自分の口へ入れた。正三の頭の中には、

「はらへってるんだろ?」

とオスの声が聞こえていた。オラも正三に

「いただいたものをたべろ」

と仕草で示した。正三はゆっくりと実を口に入れて食べた。

 それを見たオスが「ブッ」と声を出すと、少し離れて待っていた他の三頭がするするとイチジクの木に登り実をつまんで食べ始めた。オラの近くに子供を連れたメスが座り込んだ。胸の中の子供は見知らぬオラに手を出して触り始めた。オラはそれで緊張が解けたようだ。抱え込んでいた実を一つ子供に渡した。子供はうまそうにそれを食べる。皆何となく打ち解けたように思える。

 正三にとって何とも説明のしがたい光景である。オランウータンは「孤独な森の人」などと呼ばれ、群をつくらず家族関係さえも希薄だと生物学者などが報告していた。どうもそれは怪しい報告と言わざるを得ないようだ。目の前ではまるで家族のように、六頭が仲良く一つの木の実を分け合って食事をしているのだ。国立公園のレンジャー・ランビンが教えてくれたオランウータンの真の生態を実感することが出来た。


 皆が食べ終わった頃、大きなオスがまた「ブッ」と声を上げた。

正三には「いくぞ」と声が聞こえた気がする。他の三頭と子供は食べることをやめ、オスが動き出すと一緒に移動を始めた。

「オラ いっしょにいく」

とオラは正三に告げた。

「そうか。それじゃさよなら 元気でね」

と正三もオラに答えた。

 オラはオスの後を追って森の中へ消えていった。


 見送った正三は山を下りることにした。

 今回はなんとも不思議な体験だった。これまでは自分の能力に半信半疑であったのだが、はっきりとオランウータンとの会話が出来ることを実感することが出来た。あの一団から離れてしまったことに少し後悔はある。だが森で生きるのがオラの本当の姿だと思える。いつか機会があればまた会えるに違いない。そう思うことにした。しかしこの森はいつまで彼らの楽園であってくれるだろうか。今は人間にとっての利用価値のない土地だから、放っておいてくれるだろうが、少しでも利益があると分かれば今の人間はとことん使い尽くしてしまうだろう。そうならないことを祈るしかない。

 その時目の前の斜面の下から何かがやって来るのが見えた。それはまた別のオランウータンだった。見つめる正三に気づくと、するすると木に登り正三を避けるように、素早く空中の道を移動して行った。

「この先にオラはいるよ」

と正三は頭の中で知らせてやった。

 するとびっくりしたように足を止め、そのオランウータンは樹上から正三を見た。

「ブーは君だろ オラに聞いたよ」

と正三は話しかけてみた。

「ブー」としか言わないが、そのオランウータンは理解したように見えた。

 そして急いで森の中へ空中の道を駆けて行った。


                                           

             第1話 終わり





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