25嫁 メイド長 ヒンメル=ユニヴェール(1) 一日の始まり

 ヒンメルの朝は早い。




 そもそもメイドという職業は、主人が起き出すより前に活動を始めなければいけないのだから当然だが、ヒンメルの場合は、そのメイドたちを束ねる立場であるからさらに早くなるのが必然なのだ。




 まだ月も明るい未明に起き出し、手早く身支度を整える。




 顔を洗う。




 鏡に映る自分の顔には見飽きていて興味もわかないが、他人からどう見られるかには殊更注意を払う。




 ダークエルフとヒューマンの、典型的なハーフエルフ顔。ハーフというのは、往々にして個性的な顔立ちになりやすく、美醜が極端に際立つことが多いが、幸いにして、ヒンメルは『美』の方だった。




 唯一の欠点はといえば、目つきが鋭い上に女性にしては背が高いため、人から『冷たい』性格だと見られがちなことだが、メイド長という職を全まっとうするにあたっては、好都合だった。




 勝手に部下や後宮の妃たちが自分を恐れてくれるので、侮られることが少ないからだ。




 ブラウスを着て、ロングスカートをはき、こげ茶のボブカットの髪を櫛で溶かして、『メイド長 ヒンメル』はお手軽に完成する。




 昔はもっとゴテゴテと細かいしきたりがあったのだが、ジャンの鶴の一声で、『清潔感を失わない格好なら基本的になんでもいい』といったルールに変更されたのだ。






(さて。では、一日を始めるとしましょうか)




 ヒンメルは瞳を閉じて、神経を研ぎ澄ます。




 無数の『気配』を強化された五感で感じ取る。




 ヒンメルは、エルフ系統の血を引きながら、魔法が苦手だった。




 先天的に魔力が身体の内に籠る障害があるらしく、魔法を発現できない体質なのである。




 その代わり、魔力を身体の中で消費して肉体を強化する術を極めているため、そこらの魔法使いには負けない自信はあるのだが。




(この爆発音――ソフィア様は徹夜で実験、ですか。厨房に忍び込んでるのはナミル様ですね……)




 いつものメンバーのお馴染みの挙動を把握する。




 明確な規則違反のものは公式に記録し、そうでないものは私的な日記兼覚え書きにメモを取る。




 それが終わると、まず手をつけるのが一日のスケジュールの確認である。




 といっても、これは念のために過ぎず、昨日の内に今日の予定は立ててあるから、突発的な異常事態がなければすぐに終わる。




「ヒンメル様。おはようございます」




「おはようございます。アン。あなたは今日は、後宮東地区の清掃をお願いします」




「はい。ヒンメル様」




 やがて、次々に起き出してきたメイドたちに指示を下す。




 メイドといっても、ヒンメルはハウスキーパーメイドのように直接家事に勤しむ訳ではない。それらの差配をするのが仕事だ。




 ただ唯一、ジャンと、その嫁たちが一同に集う食堂での朝食の折には、毎日顔を出すようにしている。




「おはよう。みんな」




「「「おはようございます。陛下」」」




 ジャンと嫁たちが和気あいあいと食事をする中、ヒンメルはジャンに無言で給仕しつつ、それとなく本人たちにも気づかれないようにそれぞれの嫁を観察する。




 食事の量、スピード、顔色などから、嫁たちの体調をチェックするためだ。




(……オリヴィエ様はやはり食欲不振のご様子。フランメ様は便秘ですかね)




 嫁たちが隠しておきたいであろう体調不良も、ヒンメルには筒抜けだった。




 必要があれば、メイドたちを使って詳細を調べさせることもあるが、今日はそれほど差し迫った危険を持った嫁はいなさそうである。




 ともあれ、こうしてアクシデントを未然に防ぐことが大切だ。




 こうして一日が過ぎていく。




 女たちの園の一日は、何事もなく過ぎ去る。




 それが、ヒンメルの誇りであった。








「やほー。ヒンメルちゃんー。元気―?」




 仕事を終え、ヒンメルが自室で今日のことを日記につけていると、ノックもなく扉が開いた。




 美しいダークエルフである。




 全体的にグラマラスな体型で、母性を感じさせる垂れ目に加え、泣きぼくろが妖艶さを付加している。




 ヒンメルとしては許せないレベルでだらしなくメイド服を着崩しており、その豊かな胸元からは谷間が覗いていた。




「テーラ。言葉遣いに気をつけなさい」




「いいじゃないー。ここには私とヒンメルちゃんしかいないんだしー」




「壁にデビルイアーあり、天井にビックアイありと言うでしょう。どこに人目があるか分かりません」




 テ―ラは、ジャンの身の回りの世話をする専属メイドである。




 偉大なる皇帝の傍近くに仕えることは多くのメイドたちにとっての羨望の的であり、また嫁たちの嫉妬も買いやすい立場にある。




 余計なもめごとを増やしたくないヒンメルとしては、彼女にも身を慎んで欲しいところだ。




「やだー。ことわざとかおばさんくさーい」




 しかし、テ―ラはそんなヒンメルの心配をよそに、からかうような口調で言う。




「あなたの方が私よりずっと年上でしょう」




 ヒンメルは呆れ顔で答えた。




 建前上の立場としてはヒンメルの方が上であるが、テ―ラはメイドでありながら秘書のような仕事もこなすので、実質的に独立している。




 そのため、ヒンメルの指揮下にはなく、指導も及ばない。




 いや、仮にヒンメルの指揮下にあったとしても、テ―ラを教育することは不可能だっただろう。




 彼女の世界は、唯一神であるジャンとそれ以外で構成されており、ジャン以外の人間に、テ―ラは等しく敬意を払わない。




「年齢は関係ないのー。心の持ちようの問題なんですー」




「……もういいです。それで、私に何の用ですか?」




「あっ、そうそう。ご主人様がヒンメルちゃんに用があるから執務室まで来てくるようにっておっしゃってたのよー。私はそれを伝言しにきたって訳ー」




「陛下が?」




 ヒンメルは眉をひそめた。




 ヒンメルの方からジャンに報告しにいくことはあっても、ジャンの方からヒンメルを呼びつけるのはめったにないことだった。




 それ故、少し不安になる。




「そうよー。あれー。もしかして、ヒンメルちゃん、何かやらかしちゃった系―?」




 テ―ラはにやにやしながらヒンメルを小突いてくる。




「心当たりはありませんが……早速参りましょう」




 ヒンメルは立ち上がり、テ―ラと連れだってジャンのいる執務室へと向かった。




「陛下。ヒンメルにございます。お呼びに預かり、まかり越した次第です」




 ノックを三回してから、ヒンメルはそう声をかける。




「ああ。入ってくれ」




「失礼致します。陛下」




「ただいま戻りましたーご主人様―」




「おう。わざわざ呼びつけて悪いな」




 書き物をしていたジャンが、顔をあげてヒンメルとテ―ラを見る。




「いえ。それより、何か後宮で問題でもございましたでしょうか」




「いや、特にそんなこともないんだけど」




「ではどのようなご用件で?」




「会食する予定だった相手が、急病でキャンセルになってな。二~三時間予定が空いたから、たまにはヒンメルと地球で買い物がてら飯でも食おうと思って」




「えー! ご主人様―、ヒンメルちゃんを呼んだのってデートに誘うためだったんですかー! ずるーい! 私もいきたいー」




 テ―ラはそう言って、ジャンの後ろ頭に抱き着いて胸を押し付ける。




 不敬な行いであるが、こういったフランクな振る舞いがジャンの心労を軽くしていることも知っているのでヒンメルも強くは出れない。




「ははは、テ―ラとはこの前行ったばっかりだろ。ヒンメルとはここしばらくそういう機会もなかったな、とふと思ってさ」




「……大変ありがたいお申し出ですが、陛下。そのような気遣いをなさるなら、陛下のご妻女を優先なさるべきかと愚考致します」




 ヒンメルは一歩下がって、一礼する。




「え? え? え? ヒンメルちゃん、正気!? ご主人様のデートの誘いを断る女なんてこの世界に存在する訳ないでしょー? もしかして病気? それとも性転換でもしちゃった?」




 テ―ラが本気で心配そうに煽ってくる。




「……私は恐れ多くも後宮の管理者を仰せつかった立場です。陛下のご来訪を待ちわびていらっしゃるご妻女がたくさんおられる中、私のような端女はしためが陛下との逢瀬を楽しんだとあっては面目が立ちません」




「まあそんな固く考えるなよ。そりゃ一晩あれば俺も嫁を優先するけど、こういう微妙な空き時間だとかえって嫁に失礼な感じもするからさ。それに、嫁たちのことを考えるならその全ての管理者であるヒンメルと緊密な意思疎通を図ることも大切な仕事の一つなんじゃないかな」




「……かしこまりました。陛下がそこまでおっしゃるのであれば、お付き合い致します」




 ヒンメルは深々と一礼して承諾する。




 これ以上断るのは不敬にあたる。




 それに本音をいえば、ヒンメルとてジャンと一緒に出掛けることが嫌な訳ではもちろんなかった。




「そうか! じゃあ、どこにする? 何か欲しいものとか、行きたい場所とかあるか?」




「では、茶葉の買い出しをしとうございます。特に最近は珍しい緑茶を好まれるご妻女も多いご様子ですので、見聞を深めたいのです」




「じゃあ京都にするか――テーラ。俺たちがいない間、何かあったら差配は任せる」




「かしこまりましたー。せめておみやげ買ってきてくださいね。ご主人様―」




 テ―ラはジャンに頬を擦り付けてねだる。




「わかったわかった。じゃ、ヒンメル。行こうか」




「かしこまりました」




 ジャンの超常じみた魔法が発動し、異界へのドアが開く。




 半歩下りつつ、ヒンメルはジャンの後に従った。


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