15嫁 獣娘ナミル(1) 無邪気のルール

 王城の屋根に、一つの影がある。




「んー」




 風にセミロングの銀髪を揺らす少女――ナミル。




 遮るもののないのどかな春の陽光を全身に浴びながら、目をつむり丸まるその姿はまるで猫のようにあどけない。




 いや、それどころか、彼女の頭から生えた長い耳と、縞模様の尻尾だけを見れば、本当に大きめな猫と見間違えてもおかしくなかった。




 辛うじてナミルを文明人たらしめているのは、身に着けた上下の下着のみ。




 屋内で着ていた窮屈なドレスは、今は彼女の枕へと化けていた。




 バタ、バタ、バタ。




 そんなナミルの隣に小鳥が降り立つ。




 ――ヒュン。




 ナミルはノールックで隣に手を伸ばした。




 確かな感触とぬくもり。




「お前なー。そんなんじゃ外の世界じゃ生きていけないゾ」




 ナミルは目を開き、手の内にいる小鳥にそう話しかける。




 しかし、小鳥はピヨ、ピヨ、ピヨ、と次の瞬間には自分が殺されているかもしれないという危機感などは微塵も感じていない表情で、目をくりくりさせながら小首を傾げている。




 こんな人に慣れた鳥では、狩りの練習にはならない。




「まったく都会は鳥まで呑気なのだ」




 ナミルは小鳥を大空に解き放つ。




 今は腹は減っていない。




 食べる分しか殺さないのが、少女の――多くの獣人にとっての流儀である。




 だから、ナミルはここ最近殺生はしてなかった。




 ナミルのツガイとなった男は、世界で一番エライので、たくさんの女に好きなだけメシを食わせるだけの力がある。




 ナミル自身が狩りをする必要はないのだ。




「はっ! ほっ! やっ!」




 だけどそれでは身体がなまるので、こうして時々外に出る。




 逆立ちしたり、片足立ちで跳ねてみたり、思うがままに手足を動かす。




 ナミルのツガイに言わせれば、バランス感覚と筋力を保つための最低限の訓練、ということになるのだろうが、ナミル自身はそこまで深く考えて動いている訳ではない。




 とにかく身体を動かしていないと気持ちが悪い。




 獣人仲間では『気がこもる』と言うのだが、常に険しい山岳地帯を駆け回る生活を送っていたナミルのような種族にとっては、長い間一カ所でじっとしていること自体が苦痛なのである。




「よっ。はかどってるか?」




「うわっ! なんだ、ジャンか。びっくりしたゾ! 気配を消すのはやめて欲しいのだ」




 三本指だけ逆立ちしていたナミルは、突如眼前に現れた人影に宙返りして屋根に腰を落ち着ける。




 感覚の鋭い獣人に気配を悟らせないのは普通の人には難しいはずなどだが、ナミルのツガイにかかればその程度は野兎をしとめるくらい簡単なことだった。




「すまんすまん。つい癖でな」




 ジャンはそう言って、ナミルの隣に座った。




「ううー。お願いだから、ヒンメルには秘密にしておいて欲しいのだ! ナミルがこんな格好で外に出ていると知ったら、また『はしたない行動はお控えください』って怒られるのだ! むちゃくちゃ怖いのだ」




 ナミルは手を合わせて懇願した。別にナミルとて監禁されている訳ではなく、後宮を管理しているメイドたちに話を通せば普通に外出はできる。




 だけど、頼んでから実際外出するまでに時間がかかるので、ナミルにはその面倒な手続きが終わるまで待つのが我慢できなかった。




 動きたいと思った時はすぐに動きたいのである。




「ああ、メイド長のヒンメルか。大丈夫だよ。あいつもナミルが外に出てることは気が付いているから。本気で怒ってる訳じゃない」




「そうなのか?」




「ああ。立場的には、ヒンメルは後宮の管理者として、嫁が勝手に外に出ることを大っぴらに認める訳にはいかないからな。一応注意しているだけさ。俺もヒンメルも、ナミルの健康にとっては適度な運動が必要だと理解しているよ」




 ジャンはそう言うと、優しい笑顔を浮かべ、ナミルの頭をポンポンと撫でる。




 ナミルは、その陽だまりのような笑顔が大好きだった。




 でも、やっぱり後宮での暮らしは苦手だ。




 ここには良いことと悪いことの間にある『アンモク』というやつが多すぎて、ナミルはそれを察するのが正直得意ではない。




「そうなのかー。よかったのだ! でも、本気じゃなくてもあまり叱らないで欲しいのだ。あのツララみたいな鋭い声で怒られると毛がゾワってするのだ」




「んー。そうだな。じゃあ、ヒンメルに怒られなくてもいいような、外で運動する大義名分を考えればいいんじゃないかな」




「『タイギメイブン』ってなんなのだ?」




「そうだな。例えば仕事かな。ナミルが動き回ることが、国のために役に立つことに繋がるなら、ヒンメルもとやかくは言わないさ」




 ジャンは、彼の治める街並みを、ナミルに向けるのと同じくらい愛おし気に見遣る。




 ナミルにだって分かっていた。




 鳥すらも死の恐怖に怯えずに暮らせるような優しい世界を造ることが、彼の仕事だと。




「うー、でも、仕事といっても何をすればいいのだ? ナミルは、賢者様やエルフみたいに魔法は使えないし、ドワーフみたいに器用に物を作ることもできないゾ。ネズミ取りくらいならできるけど、このお城はお掃除がすごいから全然ネズミが出ないのだ」




 ツガイはお互い助け合うものだ。




 だから、当然、ナミルもジャンの役に立ちたいという気持ちはある。




 だけど、やり方がわからない。




「……ナミル。これからちょっと俺に付き合わないか?」




 しばらくの沈黙の後、ジャンが静かに口を開く。




「おお! どこか連れて行ってくれるのか!? 焼肉か!? 焼肉なのか!?」




 ジャンはすごい魔法を使って、時々ナミルを外の世界に連れ出してくれる。




 そんな時は決まってとてもおいしいご飯が出てくるのだ。




「いや。焼肉もいいけど、今日は山に登ろうと思うんだよ」




「おお、それはなんかおもしろそうなのだ!」




 獣人の性さがか。山と聞くと自然にわくわくがこみあげてくる。




 先ほどまでの悩みはころっと忘れていた。




 獣人の一生は短い。




 あれこれ悩んでいる時間はないのだ。




「じゃあ行こう。そのままの格好だとまずいから、まずは着替えてきた方がいいな」




「もちろん! 山に行くなら故郷から持ってきたトロールの毛皮が一番だぞ! でも、それだけじゅあダメなのだ。新しい山に登る時は、ちゃんと最初にそこの山に縄張りをもっている族長に挨拶をするのだ。それから、その山の危ない場所やモンスターが出てくる所や、水場の在り処を教えてもらうのだ」




「ああ。事前の情報収集は大切だな。でも、俺たちがこれからいく山にはそういう族長はいないんだ」




「そうなのか。じゃあ、とりあえずは水とご飯だけでいいのだ」




「それは向こうの店で買おう」




「わかったのだ。じゃあ、早速着替えてくるのだ!」




「ああ俺も登山用の準備をしてくる。ニ十分後ここでまた待ち合わせよう」




「わかったのだ!」




 ナミルは枕にしていたドレスをくわえ、屋上から身を躍らせる。




 そのままいくつかの城壁のでっぱりに手をかけて、自室に飛び込むと、手早く準備を整えた。

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