ACT2 遭遇【佐伯 裕也】
不覚だった。
あの場所でハンターに出くわすとは。
すっかり日の落ちた新宿御苑。ライトアップを逃れた灌木の暗がりで、俺は2人相手の食事を愉しんでいた。
ともに小柄の若い女だ。黒髪のショートは……まずまず。化粧を落とせば人並みと言った、よく見かけるタイプ。茶髪のセミロングは群を抜いた
夜の商売かと疑う井出達だがしかし、彼女達からは紙や塗料、インク、黒鉛の匂いがする。香水をつけてはいるが、控えめ過ぎて隠しきれていない。事務系、いや図面屋か、作画系か。男の匂いはしない。身持ちの硬い独身女、悪くない。
随分と早い。ウェイトを気にし過ぎて、食事を十分に取らないからだ。無論、この量で俺は満たされない。では……いよいよ君か。
行儀よく自分の番を待つダークブラウンの瞳。だがうっとりと俺を見上げる、その眼はひどく虚ろだ。眼力による
もし
こと切れた片方を抱いたまま、その首筋に唇を寄せる。ピクリと撥ねる体。小刻みに震える小振りの胸。吐息と共に漏れる喘ぎ声。
身体というものは正直だ。これから起こる事態を期待し、求めているのだ。抱いてやるのも情けかも知れないが、生憎その気にはなれない。血の欲求は性の欲求に勝る。
牙を突き立て、その血の甘味を喉に感じたその瞬間だった。何かが光った。少し離れた茂みの一角が2か所。
――狙撃!?
しかし女どもを突き放したその時には撃たれていた。
断わっておくが、ヴァンパイアの動体視力、移動速度、ともに弾丸の速度を凌駕する。その俺が……弾丸を喰らう? しかも3発?
跳躍し、高い樹木の枝を掴みつつ大車輪の要領で身を返す。垣間、見えたは茂みから姿を現した男の姿。目深に被るキャップ。両手に構える旧式の
眼光。井出達。迎え撃つべき相手じゃないと長年の勘が告げている。
幹を蹴り跳躍。木から、木へと。ひたすらに走る。御園を出、雑踏に紛れ、
……追っ手はない。撒いたか、それとも女の保護を優先したか。
なんてザマだ。これほどの窮地はあの時以来だ。400年前、初めて鉄砲という存在を知ったあの時の。
一体どこぞのどいつが思いつき、試し、実証したのか。種子島と名付けられたあの武骨な器具に、銀の弾丸を仕込み心の臓を撃ち抜けばヴァンパイアを滅ぼせる、など。
数多くの
しかし俺達も進化した。時代と共に性能を増す、あの武器に対抗するため、視覚聴覚その他の身体能力を鍛えて来たのだ。まともに立ち合えば、銃などヴァンパイアの敵ではないはずなのだ。それを、あのハンターは――
建築物同士の狭い間隙に滑り込み、路地に背を向け息を付く。血が止まらない。傷が一向に癒えない。弾丸が残っているからか。このままでは通行人に勘づかれ、通報されるかも知れない。
そう危惧した俺の鼻に、ふと匂った血の匂い。それと微かなアルコール臭? 匂いを辿れば、なるほど。ビルの脇に取り付けられた押戸が開き、地下へと続くうす昏い階段が見えている。
無我夢中で駆け降りた。次第に濃くなる血の匂い。
もう少しだ。
早く……早くこの
「気づかなくて御免なさい。そこに横になって?」
我に返れば
白衣を羽織る女が1人、俺に眼を向け立っている。音を立てている洗濯機。テレビから流れる騒がしい人間どもの笑い声。金属製の器具器材、洗剤と、湯と、アルコールの匂い。濃厚で新鮮な
病院の処置室? この女は看護師か? 医者か?
「どうしたの? 撃たれたんでしょ? 右肩の付け根に1発、右胸に2発」
女の声が焦れている。艶っぽい、しかし理知的な
いや待て。彼女はいま……何と?
「見ただけで解るのか?」
そう問い返さずには居られなかった。触りもせず、遠目にこれを見ただけでこれが
彼女は凄腕の医師だ。少なくともその見立ては神がかっている。
「とーぜん! ていうか、噂を聞いて来たんじゃないの?」
「いや。たまたま血と薬品の匂いを辿ったらここに」
「あは……嘘でしょ?」
小首を傾げる女。俺は眼が離せないで居た。女が美しすぎたからだ。素晴らしい……
V字に開いた白衣の胸元にはくっきりと刻まれた谷間。白衣越しにも解るしなやかな腰つき。ピタリとしたブラックデニムの足の完璧なライン。サラリと流れる艶やかなロングストレートの黒髪。
完璧だ。涼し気な目元も、気の強そうなすっきりとした眉も、
それがこの穴倉でただ一人? 男の患者は黙っていられるのか?
「とにかく座ってくれる? 名前を聞いても?」
一歩、歩み寄ろうとし硬直する。切り替わったモニター画面に、映り込んだ白スーツの男。その視線を感じたからだ。
「……」
「どうしたの?」
稲妻のチラつきと共に画面がアウトする。女が気を利かせて消したらしい。
「悪いわね、気がつかなくて」
「佐伯だ」
「え?」
「佐伯……
勝手にこの舌が動いた。犠牲者に教えたことなどないというのに。
一歩前に出る。さらに一歩。
女が眉を顰める。音を立てぬこの歩みを不審に思ったのか。思案気にその眼が動き、そして確実に何かを悟った
そうだろう。気付かぬものか。一目でこの傷を見抜いた彼女が、俺の正体に気付かない訳がない。
眼を合わせる。
それをしっかりと受け止める女の眼。
かかった。
かつてこの
強く抱き寄せその自由を奪う。抵抗せず、じっとこちらを見上げる眼。
だが……違う? そうだ、この眼は違う。強い意思の光を宿している。通常、女は虚ろな目をしたまま従うだけだと言うのに。
こんな女が居るのか? いや……この感じ……どこかで……
心臓が悲鳴を上げている。足りない、早く
「待って、まずは貴方の治療、よ?」
かわされた。まるで霞みか霧、するりとこの腕から逃れた女がニッと笑う。
まさか、そんな筈はない。ただの
身体が竦む。
絶対的な恐怖でだ。あの日の、あの夜のように。
「……まさか君も……
「何言ってるの? いいから早く座りなさい! じゃないと治らないわよ!?」
震える口と舌で、やっと絞り出した問いは、いともあっさりといなされた。ついでに怖い顔で怒られた。
だがそれ以上に驚かされたのは、彼女が自分の名を言った時だ。
朝香。
女医。
闇の……診療医?
「……朝香? まさか君……佐井朝香?」
ストンと腰が落ちる。硬い診療台がギシリと軋んだ。
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