第77話 闇の試練
ルディスが老人に連れてこられたのは、帝都の一角にある、うらぶれた通りであった。かつては賑わっていたのだろうが、100年経ってもここは整備されていない。傍にルドラ教会があるのだが、神罰を恐れて取り壊すことをしなかったため、縁起が悪いということで住人が徐々に去っていった結果、このようなゴーストタウンのような通りになったのである。
ルディスと老人が暫く歩いていくと、廃屋に挟まれるように、教会がポツンと佇んでいるのが見えた。
黒い木材と漆喰作りの、どこか薄暗い雰囲気の建物は、至るところに蜘蛛の巣が張り、併設している墓地の一部が掘り返され、折れた三日月墓標のシンボルが力なくぶら下がっている。あまりな荒廃ぶりに、管理者は居ないのだろう、ということが察せられる。
老人が扉に近づいて指を振れば、ガチャリと音がして軋んだ音と共にそこが開く。
不気味な音のそれを歯牙にも掛けず中へ入る老人に、おっかなびっくりとルディスは着いていく。…尚、女性は謝罪してきたい相手がいるということで、一緒には来なかった。なので、今はルディスと老人、あと精霊たちだけである。
…教会内部は、ルディスの知る一般的な教会とは、少し違った。
内装は円筒形になっており、入り口からまっすぐ向かって絨毯が敷かれ、正面の壁際に祭壇が置かれている。祭壇に掛けられた赤い敷布の上には、三日月の形をした不思議な石像が鎮座し、絨毯の左右には祭壇へ向けて長椅子が陳列し、石像を敬うかのように置かれていた。
しかし意外なのは、外観からは長らく放置されていたはずなのに、内部は至って綺麗だという点か。
そうルディスが思っていれば、老人はコツン、と踵を鳴らして、左手側の壁際へと近づく。
そこには長机と、その上に何かがたくさん乗っていたのだ。
「さて、少年。ここに、ほとんどの絵の具が用意してある」
「…こ、これって…」
「おっと、原理を聞くのはタブーだぞ。すべて秘密だ」
たくさんの桶に、樽。樽の中には色とりどりの絵の具が並々と満ちていて、金箔や虹色のような輝かしい色が入っている物もある。絵筆も様々で、箒ほどの大きさから小指の先ほどの細さの毛筆。そして置かれたジャグから、無限に水が溢れているようだった。
唖然としている最中、老人は無造作に祭壇へ腰掛け、言った。
「さて、ルディス・ライマーよ。これから三日間、ここから出ることは許さぬ」
「………え?」
バタン、と、背後の扉が閉じられた。
思わず入り口へ振り向く少年へ、老人は朗々と言う。
「キャンバスは、この円筒形の壁すべてだ。この白い壁一面に、お前の技術の粋をぶつけてみろ。それの出来合い次第で、お前の道は決まる」
いきなりな不条理に、ルディスが抗議しようと老人を見れば、思わず息を呑んだ。
…そこには、白骨の面貌で、大鎌を持った存在が、影のように鎮座していたのだ。
「な、ぁ…!?」
言葉を無くすルディスへ、その存在はどこからか声を発して、続けた。
「ここは、私の教会だ。正確には、だった、だがな…100年前の邪神事変によって封鎖され、放逐されていた場所であるから、誰かがやってくることもない…おあつらえ向きだろう?」
「あ…あ、あなた…は…!?」
「ルディスよ。お前は、自らの描きたいものだけを描くつもりなのだろうが…それでは何の意味もない」
「え…」
「お前には技術が足りん。表現力が足りん。お前の書いた絵を認めてもらうには、まだまだ実力不足だ…そう、お前の絵に足りぬのは、先鋭化された訴えかけてくる感情。ただ万人受けする為に小手先の技工を凝らして誤魔化しているだけの平坦な絵に、誰が感動すると思う?」
グサリとくる言葉に、ルディスは思わず口を噤ぐんだ。そんな少年を睥睨しながら、老人だった存在は言う。
「私の教会を貸してやろう。神の領地に描く絵なのだ…生半可な代物を作るのならば、死ぬだけでは飽きたらぬと思え」
「貴方は…神、なのですか…?」
クツクツと老人は笑う。嬲るように、からかうように。
それから祭壇の上に、一つのパンを置いた。
「ここでは、外よりゆっくりと針が進むようにした…3日間、命を削って絵を描いてみせろ。お前のすべてをここにぶつけてみせろ。それが標準以下ならば…わかっておろうな?」
そう言ってから、老人は影のようにすぅっと消えつつ、最後に述べた。
「せいぜい足掻いてみよ…お前が自らを信じる限り、それは裏切らないだろう」
そして、声は黙して消えていく…。
「………」
残されたルディスは呆然としてから、思わず笑い声を上げていた。
「は、はは…ははは…!ま、まさか…こんなことになるなんて…」
それから、祭壇の上に残されたパンを見る。
三日間、口にできるのは水とこれだけ。
その極限状態で絵を完成させねば…待つのは、死より恐ろしい何かだ。
「…」
ゾクリとした冷えに鳥肌を立てながら、しかし少年は生を掴むために、立ち上がる。
「あ、諦めるものか…僕はまだ、こんな場所で終わるなんて出来ない…!!」
全ては自らの腕にかかっている。
ならば、この唯一信頼できる腕を頼りに、あらゆる事を試してみよう。
そう呟きながら、ルディスは絵筆を手に取り、真っ白いキャンバスへと向き直ったのだ…。
※※※
『この馬鹿者!目を覚まさぬか!!そのまま虚無に呑まれて消える気か、この大うつけめ!』
「…!!」
レビの叫びに、ハディはかろうじて残った理性を総動員して、我武者羅に正気の淵へとしがみつく。
「が、はぁっ…!!」
口から血を吐かん勢いで息を吐き、崩れ落ちるように両膝をついて、荒々しい息を吐いた。
喘鳴のような呼吸をしつつ、ビキビキと変形している自身の体の痛みに、眉を歪めて耐えている。
蹲り、息を引きつらせながらも、徐々に落ち着きを取り戻している、合間。
「…なんだ、本能に沈まなかったのか。そうすれば、楽になるというのに」
その突然の声に驚いて顔を上げれば、霞んだ視界の向こうに、誰かが佇んでいた。
それは男だった。
金の髪、傷の刻まれた相貌に、好戦的に歪む顔。
どこかハディに似た面立ちの男は、剣を片手に口を開く。
「どうして、そこまで足掻く?お前では力不足だと知っているだろうに」
「あ、んたは…誰だ…!?」
「俺は、お前だ。わかっているだろう?ハディール」
男は肩を揺らして笑っている。それにどこか鏡で見る自分と似た雰囲気を感じて、ハディはより総毛立った。
これは、よくない存在だ、と本能が告げている。
そんなハディへ、レビが声を荒げた。
『気をつけろハディ!アレは貴様の前世、闇が貴様そのものを象った存在だ!』
「俺の…前世?!」
驚くハディへ、剣士は軽く肩を竦める。
「そのとおり。俺はお前だ。夜刻神の手によって消された、人間の成れの果てだよ」
「ど、どういう意味だ!?」
「どうでも良いことだ。所詮、今のお前には関係の無いこと。だが…」
男は半眼の目を向け、ハディを睨みつけた。
「お前の手腕には、呆れしか出ないがな」
「…どういう意味だ!?」
「そのままだ。ここは闇の神殿…ここの試練は、勇者に恐ろしい未来を垣間見せ、乗り越えさせること。そして先程の幻影、それらは全て、未来の光景。今のお前が迎える、あり得る未来の可能性そのもの。お前では皆を守れないという証明だ」
「な…」
男は剣を手に歩きながら、訥々と続ける。
「わかっているだろう?お前は皆と違って力不足だと。前回の戦いでお前は暴走することで現状を変えたが、しかしアレはただの偶然だ。お前自身の力じゃない」
「…そ、んなこと…」
「それだけじゃない。連中相手では、お前の力は無力だと気づいているだろう。物理攻撃が効かない相手では、お前は戦力外。暴走させねば抗えないとは、つまり今のお前は何の役にも立っていないということだ」
「そんなことは…」
ない、とは言い切れなかった。それはハディ自身が、嫌という程に理解していたからだ。
確かに吸血鬼のハディは強い潜在能力を持っているだろう。しかし、その力は所詮は借り物だ。扱えきれないのならば、むしろ害悪でしか無い。
「理解できただろう?…だから、俺が出てきた。俺は、お前よりずっと強いのだから」
「…随分と大きく出たな」
「当然」
刹那、男の姿がブレた。
思わずハディが目を剥いた瞬間、
「ぐぁっ!?」
ハディの横合いから男が迫り、袈裟斬りに切りつけていたのだ。
咄嗟に腕で防御することで致命傷を避けたが、しかし男の剣筋にまったく追いついていなかった。
速度も、動体視力も、全てハディとは違う、格上。
凄まじい技量を宿した剣士。
それが、眼前の男だったのだと、ハディはようやく悟る。
一方、男は離れたハディへ、失望の色を乗せた目を向ける。
「この程度すら躱せないならば、やはりお前ではなく、俺が表に出るべきだ」
「だから、それはどういう意味だ…!?さっきからアンタが出るとかなんとか…」
「言わなきゃわからないのか?ハディール。弱いお前じゃなくて、俺がお前の代わりに、戦ってやると言っているんだ」
男の言葉にハディは目を見開く。それは、自らの身体を明け渡すに等しい言葉だった。
眼前の男は本気でそう言っているのか、一切の光を見せぬ目で睨みつけてくる。それに、ハディは腕を振って否定する。
「そんなこと…認められるわけ無いだろう!?」
「じゃあ、お前が認めるまで続けるだけだ。…俺を倒さない限り、お前はここからは出られない」
刹那、男が再び地を蹴った。
先程を想起し、反射的に剣を上げたハディよりも早く、男は背後に現れ、
「無様だな」
「がっ!?」
ハディの背を蹴り飛ばす。
思わず地に押し倒され、受け身を取りながらもハディは呻く。
そんな子供へ、男は上から冷徹な顔を向けていた。
「弱いな。所詮、お前はその程度なんだ。借り物の力で満足し、誰も守ることの出来ない弱い存在。それがお前だ」
「なんだとっ…!」
「事実だろう?お前が弱さに負けるたびに、多くの存在が死ぬ。お前の母のように、ジャドのように、お前の弱さが人を死なせる。それが罪だと、何故わからない?」
「そんなの…無茶苦茶だ!!」
「だが、俺ならば救える。それ相応の力がある」
事実、男には剣の腕前があった。今見せている腕前は、確実にそれ相応の説得力があった。
今のハディよりずっと強い男は、睥睨しながら口を開く。
「ハディール、俺に体を明け渡せ。お前より俺のほうが、ずっと上手くやれる」
「…!!」
「お前も楽だろう?何も努力せずとも、人を救えるんだ。それに何の不満がある」
「そんなの…そんなの違う…!それは、俺じゃない!!」
「いいや、俺はお前だ。俺はお前の影、お前の前世。ならば、俺の意志はお前自身だ」
「くそっ…!違う!俺はアンタの力を借りはしない…俺は俺だ!アンタじゃない!!」
「…吠えるな、子犬が」
「っ!!」
再び踏み込み蹴り飛ばされ、咳き込みながらもハディは立ち上がる。
そんなハディへ、男は剣を構えて述べた。
「なら、証明してみせろ。お前が俺より強いというのならば、それを受けてみろ。弱いお前を打倒してみせろ!!」
「…うああぁあぁっ!!!」
それを合図に、両者は激突する。
ハディは黒い巨腕を盾に、左手で剣を握って男へ向かう。されど、男の一足は音を置き去りに剣刃のみが閃き、次の瞬間にはハディの体を切り刻んでいた。しかし、ハディもそれは承知済み。敵が切りつけた刹那、そのまま牙を晒して相手の喉首を狙う。
「かっ…!!」
だがそれは、剣士の膝蹴りによって宙に打ち上げられることで不発に終わる。
天高く浮いたハディ、咄嗟に翼を広げて離脱を図るも、
「遅いな」
「っ!?」
相手は既に宙へ舞い、目の前で剣を振りかぶっていて、
鋭い風切り音と共に、ハディの体中から血が吹き出た。
翼も切り裂かれ、飛ぶことも出来ずに地面に着地しながらも、ハディは天を仰いで反撃の一撃を相手へ放つ。が、剣士はそれを見もせず、魔法の風を纏って一瞬だけ浮いて躱し、悠然と着地する。
「ぅ…くそぉっ!」
眼前に着地した剣士へ、ハディは我武者羅に突っ込んで、連撃を放つ、放つ、放ち続ける。
だがしかし、その全ては尽く読まれ、避けられ、時には相手の攻撃に利用され、地に転がされる羽目になる。
いつもの訓練とは違い、それは死の匂いが濃い剣戟だった。
「がはっ…!」
幾度目かの一撃に、ハディはゴロゴロと転がった。
だが剣を落とし、地に伏せながらも、ハディは未だに闘志を失ってはいなかった。
明らかに相手の方が格上で、こちらの一撃は欠片も届かないと身に沁みて理解させられても、彼は諦めない。
何度転がされても。
何度痛めつけられても。
それでも尚、少年は意志を挫けること無く、震える膝をついて立ち上がろうとする。
しかし、気力と違って体力は追いつけていないらしく、そのままガクリと力を失って崩れ落ちた。
地面に流れる血は多く、ハディは全身から煙を発しつつも、そのまま再生を待たねばならなくなったのだ。
「………」
男はそれをじっと見つめ、追撃をするでもなく、手持ち無沙汰に近場の瓦礫に腰を下ろす。
そして、黒い空を見上げながら、ポツリと呟いた。
「燃える村、殺される人々、死んでいく家族…それは俺も知っている光景だ」
「…?」
何事か、と顔だけ上げるハディを気にもせず、男は剣先を地面に着けながら、ポツポツと続けた。その表情はどこか遠くを見ていて、酷く…虚無的であった。
「守りたい存在を守れなかった時、俺は心の底から絶望した。そして思った。この世界は強い存在こそが好き勝手できる世界だ、と」
かつてのハディと似た台詞だった。
顔を下ろした男がニヤリと相好を歪めれば、同じように顔の傷も引きつった。
どこか、修羅のように歪んだ表情だった。
「だから、力を求めた。そのためならば、なんだってやった……寝食すら忘れて鍛錬に明け暮れ、強い者に教えを請い、勝負を挑み、数多居る無頼の輩共を殺して回った………ああ、本当に大勢の人間を殺して回ったさ。この手で、俺の手で…その中には、さして重い罪じゃない者も居ただろうな。もちろん、子供も」
「………」
「だが、殺したことに、後悔は一片もなかった。連中は獣だ。放っておけば、また誰かが割を食う。だから先に芽を潰せば、割を食う人間は居なくなる…道理だろう?」
「…それで、お前は復讐を…果たしたのか?」
「………さあな、仇の顔なんて、もう覚えてもいない」
男は、いつしか強さを得ることに夢中になった。
敵討ちよりも、弱者を嬲る者たちをその手で殺すことに、快感を覚えていった。
そう独白する男は、いっそ清々しいほどに安らかな微笑みを浮かべていた。
「俺は思ったんだ。力ある存在が人々を守れば、それは正義となる。どれほど殺して回っても、どれほど人から嫌われたとしても、俺の行いは正義だと。そのためならば、どれほどの悪事を行っても問題はない、と。だから、悪に手を染めた者ならば、どんな相手でも殺した。借金を苦に金貸しを殺める男を殺した、我が子を井戸に捨てた女を殺した、違法な薬を売買していた子供を殺した、村の口減らしをしていた老人を殺した。そう、これらの行為は全部、最終的には正義となった」
「そんなの…屁理屈だろ!?なんでお前はそこまで…自分の行いに自信が持てるんだ!?」
ハディの叫びに、男は不意に笑った。
天を仰いで引きつりながら、肩を揺らして大笑いしていた。
そして、ハディを見下ろしながら、言うのだ。
「俺は、この道しか選ばなかった。だから、それが俺にとっての正義だ。他の道などに興味はないのだから、行いが本当に正義かどうかすらも、どうでもいい」
「なにを…何を言ってるんだ?アンタは…」
「他人に認めてもらいたいわけじゃなかった。俺は…自分の為に、人を殺める口実が欲しかった」
己が胸、心臓を掴むように男は握り込む。その目は暗く、一切を写してはいない。
「俺は弱者だった。搾取され、奪われ、両親を串刺しにされて吊るされ、妹を目の前で嬲り殺されるのをただ、見ることしか出来ずに、死ぬことも出来ずに生き残った塵芥。…あの灰燼と化した故郷の灰の合間で、俺の魂は死んだ。そう、代わりに芽生えたのは、この世の理不尽という正しき摂理への憎悪。それを砕くべく、悪人を殺して殺して殺し尽くした。そのためなら、なんだってやった」
底冷えするそれは、もはや狂気と言っても過言ではないだろう。男は終生に至るまで、悪人を殺し回ったのだ。幾度殺されかけ、体がボロボロになろうとも、恐ろしい執念で獲物を屠り続けた。
「あの頃の俺は弱者だった。だが今の俺は、強者だ。…だが、お前は再び同じ過ちを犯そうとしている。だから、お前の代わりに俺が全てを背負ってやろう。終わらせてやろう、ハディール。戦いは全て俺に任せて、この世の悪の体現者共を打ち倒そうじゃないか。お前は全て終わった後で、余生を楽しめばいい…そうだろう?」
男の提唱するそれはどこか、甘美な響きとしてハディの耳に滑り込んだ。
「お前は力ある連中に、好き勝手されたくなくて、強さを求めた」
だが、目の前の男がそれを変わってくれるというのならば…?
そしてその男は、限りなく自分自身であるというのならば。
それは自分が行うことと、どう違うのだろうか。
「なら、その強さは俺が担おう。だから、」
ハディの心の奥底で、一時的に生きることを放棄しても構わないのではないか、と、そう囁く何かが居た。
「その体を、寄越せ」
男が、手を伸ばしてくる。
その掌を見つめながら、答えに窮して、息荒く震えるハディ。
冷や汗が止まらず、震える手が黒い地面の上で握られる。
本当は、痛い思いなんて嫌だ。
誰かを殺すのも、殺されるのも嫌だ。
この道を歩むことになったのは、ただの不可抗力。
そう、カロンの指し示すがままにここへやってきた、それだけの事。
じゃあ、別に俺が頑張らなくてもいいじゃないか?
…そう、普段は抑圧されている心の弱い部分の叫びが、ハディの思考をぐるぐるとかき回していた。
気分が悪い、吐いてしまいそうだった。
だが、男はゆっくりと近づいてくる。その手に剣を持って。
剣は鋭い輝きを帯びて、獲物を狙う蛇のごとく、闇の中で煌めいていた。
…そうだ、どうせ何も救えないと言うのならば、ならば…このまま、全て任せてしまえば、あいつの方がより多くの人を救えるかもしれない。
じゃあ、その方がきっと…皆、ケルトもダーナも、幸せになれるだろう。
その声を耳にしてしまったハディは、諦観に似た思いで目を伏せ…、
『…おぉいこら馬鹿者ぉ!?何を勝手に諦めておるんだぁ!?』
唐突に、身の奥から溢れんばかりの怒気が発され、
「あいたっ!?」
と同時に、ハディの右腕が勝手に動いて自分の顔をぶん殴っていた。
殴った右手を前に「?」マークが乱舞するハディへ、身の内のレビが怒気荒く叫ぶ。
『ふざけるなハディ!我は貴様だからこそ共存を許しているのだぞ!?それをなんだ、勝手に諦めようとしおって!貴様もケルティオに啖呵を切っただろう!?貴様の体は貴様一人のものではないのだぞ!?それを考えて行動しておるのか馬鹿!戯け!オッチョコチョイの大うつけ!!我をあの人でなしに売り渡す気か!!っていうか悪を憎むんだから確実に我も消されてしまうわ馬鹿者がぁ!!』
「…!」
自分一人の体ではない。
その言葉に、ハディの目まぐるしく歪んでいた思考が消え、まるで霧が晴れたかのように、はっきりとしたのだ。
「…そうか、そうだったな…俺一人じゃないって、もうわかってたのに…」
或いは、本当はまだ理解できていなかったのかもしれない。
ため息を吐きながら未熟な自分に苦笑し、痛む体を叱咤して立ち上がる。
ボロボロのハディに、眉を上げる男。
そんな相手へ、ハディは落ちていた剣を拾って、突きつける。
「やっぱり、アンタの提案には頷けない。…俺はもう、一人じゃないから、勝手に諦めるなんて出来ない…俺の人生を、他人任せになんか、出来ないんだ」
「俺はお前だと、わかっているだろう?」
「それでも!…アンタは俺じゃない!俺は、人を殺して笑ってなんかいられない!」
明確な違いを思い浮かべ、ハディは剣を構える。
「俺は悪を憎んでるさ…でもな!だからって誰でも彼でも、悪人を殺して廻りたいなんて思わない!そんな、自己満足だけで命を軽視なんて、したくない!俺は命を…俺と同じように必死に生きて、生きて、生き抜いている人を、軽々しく殺すなんてしたくない!メル姉やケルトやダーナ達と並んで歩けるような、そんな生き方をしたいんだ!!」
「………」
「俺は、アンタにはならない!アンタのような、目的と手段を間違えるような道は選ばない!」
「だったらどうする?力がなければ、敵討ちも達成できないぞ。甘い戯言を口にするだけじゃ、なんの解決にもならない」
「…だから、俺も…」
ハディは目を伏せて、身の内の心を探る。
…もう、覚悟は決まっていた。
だから、少年は心の奥深くに封じていたそれに、その扉に、手を掛けた。
『っ!?おいハディ…!?』
レビが焦ったような声を出すが、ハディは構わず魂の奥に存在する、凶暴なそれを封じる鎖を破壊しようとしていた。
「レビ…もしも俺が戻らなかったら…ううん、俺は絶対に戻るから、俺を呼んでくれ」
『この…馬鹿者!なんという賭けに我を巻き込むのだ!?』
「リスクもなしに結果は得られない…だから、俺も危険を承知で試してみなきゃいけないんだ!この力を制御できなきゃ、この先の戦いにはついていけないのなら…今ここで!!」
パキン、と、耳の奥で何かが壊れた音がした。
同時、ゴキゴキ、とハディの体が変化する。
黒い硬膜が体を覆い始める。
黒き双角は伸び、右腕の鋼のような巨腕は更に肥大し、瞳を真っ赤に染めながら、その背に異形の翼を広げた。
「俺は乗り越えてみせるっ!!」
ハディは、黒く塗りつぶしてくる本能と理性の間で、咆哮を上げた。
陽炎のようなベールを纏いながら、黒き異形となった少年は、全てを乗り越えるべく勝ちを掴もうとしている。
「………」
そんな少年を見下ろし、男は薄っすらと笑みを浮かべた。
「…そうだな、それがお前だ、ハディ。さあ、俺に見せてみろ…お前の内にある借り物の力を、自らのものとしてみせろ!!さもなければ…お前を殺してその体、俺が乗っ取ってやろう!!!」
獣と化したハディが地を蹴り、男は剣を構えて立ち向かう。
そして、両者は再び、激突した。
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