思い出を噛む

神崎 ひなた

 その日は少し、特別でした。

 普段はいくら飲んでも酒にまれないのが数少ない私の自慢でありましたが、その日ばかりは特別だったのです。

 とはいえ、何が特別だったのか――それすらも曖昧あいまいになるほど、酒を飲んでしまいました。足元がふらふらするのと一緒に、前後の記憶もふらふらと、どこかへ旅立ってしまったようでした。ふっと街灯を見上げますと、ふらふらと古ぼけた明滅めいめつを繰り返しておりました。それで、なんだかおかしくなってきましたので、私は笑おうと思ったのですが、胃の底からほとばし灼熱しゃくねつがこみ上げてきたので急いで中断します。

 これはいかん、と思って目をつむりましたが、時すでに遅し、勝手にぐるぐると暗闇がまわりだす始末ですからもう手に負えません。私はゆっくりと視線を彷徨さまよわせて――幸い、すぐそばにコンビニがありました――かつてないほど慎重な足取りで、ゆっくりと歩きだしました。

 やがて私が、かび臭い洋式トイレに顔をうずめるまでには、時間というものは途方もなく引き伸ばされているようでした。しかし、本当に長いのはここからでした。私はこみ上げる灼熱が絶えるまで、迸るがままに勢いを任せ続けなければいけませんでした。

 前後不覚。

 己の吐しゃ物と、そして便器と向き合う哀れな老人こそが、私でした。

 もしかするとこのまま死ぬんじゃないかという想いが、暗闇の中で廻り出します。馬鹿げているとは思いながらも、ひたすら不快感が襲ってきて止まないものですから、ちょっとは現実味がありました。

 あぁ、人はこういう風に死ぬのかもしれない、なんて馬鹿なことを思いました。


 ――普段なら、ここまで酒におぼれることは無いはずなのに

 ――今日に限って、どうしてこんなに飲みすぎてしまったのか。

 ――もう、それすらもよく思い出せません。


 私はなんでもいいからなぐさめが欲しくて、ポケットの中をまさぐりました。しかしそこには、人からもらった十四粒のガムが収まっているだけでした。


 ――忌々しい。

 こういうことだけは、よく覚えている。


 恐ろしいですね、お酒の力は。

 そんな言葉を呑み込む代わりに、また胃の残留物ざんりゅうぶつを迸らせます。


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