さようなら、オキシドール
七夕ねむり
さようなら、オキシドール
白いカーテン、中庭の喧騒、それが途絶えるのと同時にチャイムの音。
「先生、もう少し寝てていいですか?」
静かな少年の声が白い空間に響く。白衣の襟をきちっと合わせて、この部屋の主はよいしょと使い込まれた椅子に腰掛けた。消毒液の独特な香りと柔軟剤の甘さが混ざる。
少年がわざと気怠そうな声を出していることには気付いていた。
「いいよ、もう少しだけね。五時間目までだけ」
そう短く彼女が返事をすると、カーテンの向こうでそっと息が落ちる。熱などないことは、はじめからわかっていた。
ごそごそとシーツの擦れる音がする。寝ててもいいかと尋ねたくせに彼がここでは一睡もしないのはいつものことだった。確か初めてここを訪れた日からそうだった。調子はどうだと尋ねた彼女に、爛々とした目を布団の上から覗かせて大丈夫ですとだけ言ったのだったっけ。
懐かしい記憶にくすりと笑いながら、彼女はノートを広げる。
〝三年五組、藍澤棗。睡眠不足により仮眠療養〟
「そういやもうすぐ中間テストだけど藍澤君はどうだい?」
簡単な事務処理にシャープペンシルを滑らせながら彼女が問うた。
「先生。僕は寝ててもいいですかと聞いたんですが」
「それは悪いことをした。で、どうなんだい?」
ちっとも悪いと思っていない素振りで彼女はけけと笑う。はあ、といかにも煩わしそうな声が真っ白のカーテン越しに触れた。
「僕はいつも通りです。いつも通り」
「じゃあ少なくとも赤点は免れる自信はおありなようで」
楽しげに丸眼鏡を押し上げる彼女の言葉に不満気な音が返ってくる。
「広野先生は、僕が赤点なんて取るとお思いですか」
投げられた言葉こそ疑問系であったが、その言葉には隠そうともしていない自信が滲み出ていた。
「大体、先生はテスト教科を持っていないでしょう」
ふっと揶揄いにも似た息が落ちる。少年の溜息の種類は実に多かった。この生徒は歯に衣着せぬ物言いをたまにする。加えてユーモラスな皮肉。広野はとうに慣れていたので言葉自体には気にも留めず、まあそうだけどと返事をした。
「君がいくら成績が良いと知っていても、私も教師の端くれだからな。生徒のことは気になるのさ」
広野はすたすたと小さな銀色のシンクに向かって、蛇口を捻る。今日は特別寒いな。紅茶……いやコーヒーか。いつもより多めの水をとぷとぷと注ぎ込んで、すでにスタンバイ済みである湯沸かし器にセットした。いつも迷ってコーヒーになることに、彼女は気づいていない。
「雪……体育は室内に変更だな」
ぼそりと呟く声をBGMに、広野はこの少年が同級生と仲良く授業を受けている様子を思い出す。きらきらと額に浮く汗、珍しく上気した頬、仲間に呼びかける声は凛としていて、ああ運動が苦手なタイプじゃなかったかという感想が一番に思い浮かんだ。
この歳の少年らしく太陽の下で走り回る姿は、いつも目にする彼とかけ離れ過ぎていて彼女には少々眩しすぎるところがあったが。
「さて、不良少年。コーヒーと紅茶、どちらをご所望かな?」
二択しかない質問を差し出して、広野は肩につく程度に伸びてしまった髪を、きゅっと縛る。
「先生は、生徒に睡眠を摂らせるおつもりはないんですか」
「何を言ってるんだい、私は真面目な養護教諭だよ。ただし狸寝入りすら決め込まない生徒には、せめてもてなしでもと思ったまでさ」
つらつらと彼女が適当に並べた言葉に棗ははくすくすと軽やかな音を落として、じゃあと薄い唇を開く。切長の生意気そうな瞳がそっと広野を見つめた。
「紅茶、がいいです」
いつものことながら意外に遠慮がちな返事。広野は彼にばれぬよう、口元に笑みを溶かす。まあ、聞かなくても答えは分かっていたのだけれど。
「寒くなりましたね」
そっとプラスチックのミルクをつかんで彼は自分のカップへ注ぎ込む。ミルクは二つ、砂糖は三個。涼しげな顔に似合わず惜しげもなく入れられるそれら。広野は自分のブラックコーヒーをこくこくと喉に流し入れる。
小さな湯気が、彼の真っ黒な前髪のあたりに上って消えてゆく。換気のために開けた窓を閉めながら、広野はそうねと頷いた。季節は一月の去り際だった。雪こそ降らないが、ストーブをしっかり焚いたこの部屋にも隙間風があちこちから吹き込んできている。
「次のテストが終わったら自由登校になるんです」
ふうふうと熱めのミルクティーへ風を送りながら、少年はぽつりと言った。
「ああそうか、君ももうそんな頃合いか。ふてぶてしい態度のちびっこも、そりゃこんなに大きくなるわけだ」
「からかわないでくださいよ。僕はきちんと相手を見て言葉は選んでいます」
はは、と豪快に手を打って広野はいいねと込み上げてくる笑いをもう隠さなかった。
「確かに君はひどく不真面目ではあるけれど、賢い人間だと私は思っているよ。そして何よりユーモアがある」
まだ足りないと言うようにくつくつと喉を鳴らした彼女は、目を伏せながらゆっくりと噛み締めるようにそう言った。その表情があまりにも穏やかで優しいものだったので、少年は彼女の仕草をまじまじと眺める。広野の眼鏡は湯気で白く曇っていて、感情を覗き見ることは出来なかった。
この人が何を考えているかなんてわからない。けれど彼女のいるこの場所はとても暖かくて。
多分それが広野先生の〝本当〟なのだろう。
今更のように棗はそう思った。
彼がここへ来た時、広野はずる休みだとか、さぼりだとかは一度も口にしなかった。体調が悪い時なんてほとんどなかったけれど、ここに来るのはなんとなくだったけれど。
この学校という不自由で自由な箱庭で、息の出来る場所が欲しかった。一人になれる場所が欲しかった。けれど独りぼっちは嫌だったのだ。
僕は子供だった。我儘で好奇心だけがあって、何にも不満なんてないくせにひどく臆病だった。いつからだったのだろう。ここで口にする熱いミルクティーが、自分を取り巻く白の空間が、たわいもない広野先生との会話が、心地よくなってしまったのは。
「逃避行は終われそうかい、少年」
いつの間にか逸らしていた視線を戻すと、丸眼鏡の奥が悪戯っぽく光っていた。
棗はミルクティーの最後の一滴を白い喉に流し込む。大切に、大切に、ゆっくりと。
「先生はどこまで行くんですか」
この白い箱の中で、お気に入りのマグカップとポットを連れて、どこまで行くんですか。
「さあね。まあ君のような生徒に会えるのは悪くはないと思っているよ」
最後まで答えにならないようなふざけた言葉を紡いで、きししと楽しそうに広野は笑った。
「先生」
手に持っていたティーカップがことりと低いローテブルに置かれる。
「僕はこの部屋のオキシドールの香り、結構好きでしたよ」
棗はハンガーに掛けたブレザーをするりと羽織って、古びた丸椅子から立ち上がる。
「風邪には気をつけてな」
「熱なんか出さないことは、先生がよく知ってるくせに」
「そうか、そうだった」
目を丸くして、きゅうと細めた彼女はうんと伸びをする。
「さあ少年、約束の時間だ」
間も無くして、次の授業開始を告げるチャイムが鳴った。少年は冷たい空気を肺へ送る。
「先生、ありがとう」
少年の声が腹の底に響くようなそれに重なって、掻き消される。決まり悪そうにポケットに冷たい手を突っ込んで、彼はくるりと背を向けた。
多分この背中が振り返ることはもうないだろう。カラカラと滑らかに開く扉の音に、彼女はそっとそっと微かな音を呟いた。
「君の世界は、もっと、うんと広いんだ」
少年に届くことなく彼女の数センチ先に落ちた言葉と共に、広野は彼の後ろ姿を最後まで見送る。しゃんと伸びた背筋。本当は聞こえていたさっきの言葉。
多分彼はもう大丈夫だ。きっと。
カラカラと音がする。再び目の前で閉まる白い扉の隙間はみるみる細くなっていく。棗が振り返ることは、なかった。ポットにお湯を足して、ボタンをぽちりと押す。少しずつ遠のいていく革靴の音に耳を傾けながら、彼女はキャスター付きの椅子を引き寄せる。マグカップにインスタントコーヒーを継ぎ足すと、香ばしさとオキシドールの香りが混ざって溶けた。
「さあ、今日もいい午後だ」
ゆっくりと吐き出した音が、白い部屋に大きく響いてそれからすぐに静まり返る。窓からは気の早いオレンジ色が差し込んでいた。そろそろ五時間目の始まる時間なのだった。
さようなら、オキシドール 七夕ねむり @yuki_kotatu1
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