第4話 Love Me Tender
自分の席に座っていた私は身動きが取れず、机に突っ伏して立ち去るのを待つしかなかった。
大方忘れ物でも取りに戻ってきたのだろう。
こうしてればすぐに出ていくはず。
心なしか足音が近づいてくるのは絶対に気のせいだ。
私がもし心の奥底で彼女に慰めて欲しいなんて思っていても、心の声が聞こえるはずもない。
何も見なかったことにしてここから立ち去ってくれるのが私にとって2番目に望ましいこと。
1番を望むのは傲慢すぎる。そして怖い。
自分の境界がねじ曲がって、ありもしない妄想を現実に願ってしまいそうで。
そんな妄想には家に持ち帰ってから浸ればいい。
それが私にとってのちょうどいい幸せのライン。
近づいてくる足音が大きくなってくるたびに心臓がうるさくなっていく。
もう、一旦止まってしまえよこんなもの。
そして、私の前で足音が止まる。
時間としては一瞬。
しかし、私にとっては今までの人生を濃縮したような密度だった。
次の瞬間頭に手が乗って、優しく左右に動かされる。
言いようもない幸福感が脳内を駆け巡って、脳がとろけてしまいそうな感覚を味わう。
彼女の手から何か、人をだめにする物質でも出されているかのようだ。
もっとして、もっとして、もっとして。
足りないの。まだまだ全然足りないの。
そんな心の声が届くはずもなく、私が求める時間よりもほんの一瞬で彼女の手は頭から離れた。
まだ感触が残っている頭に意識を向け、できる限りの幸せを噛みしめていたから耳元は完全に無防備になっていた。
「立ってもらってもいい?」
耳元でささやかれる。
驚いて、机がガタッと音を立てる。
ここで耳元はずるい。
私はおもむろに席を立つ。
足は、生まれたての小鹿のように震えていた。
ひどい顔を見られたくなくてうつむいていると不意に肩に手が回る。
そのまま包み込むようにぎゅっと抱き寄せられた。
まるで元からそうであったように、ぴったりと私の頭は彼女の胸元に収まって離れようとしない。
うずめた頭が優しくなでられる。
それだけで私の全てが肯定されて、幸せという言葉が安いくらいの圧倒的なものが脳内を、全身を、包み込む。
もう私ことなんて全て知られてしまっているような気がする。
それでもかまわない。
私の全てを包み込んでいる彼女になら。
「そろそろいい?」
という言葉に首を横に振って、それを2回繰り返してからようやく私は顔を上げた。
それから、私たちは一緒に学校を出てあの日と同じ道を歩く。
運動部の声や沈みがちな夕日。
今日はそのどれにも何の感嘆も感じなかった。
すべての意識が隣にいる彼女にしか向かない。
風が少し冷たい。
今は春だからそうでもないはずなのだが、先の温もりのせいかもしれない。
だから、そう、これは仕方がないこと。
自分に言い訳しながら恐る恐る手を伸ばして彼女の手を握る。
今度は私から。
彼女は少し驚いた顔を私に見せ、ほほ笑んだ後握り返してきた。
やれやれ、といったような顔だったけど。
あの本屋と、カフェを通って駅に着く。
交わす言葉はなく、しかし、しっかり手を握ったまま電車を待つ。
もちろん電車に乗っても手はつないだまま。
悲しいことは私の方が手前の駅なので先に降りることになってしまうことだ。
定期だしいっそ彼女の駅まで乗って行って家まで付いて行ってしまおうか。
でも、さすがにそれはちょっと重い。
「次の駅だよね」
という言葉が悲しくて、自分のことを少しでも覚えていてくれたことが嬉しくて、でもやっぱり別れるのが悲しくて、返事の代わりに手を強く握った。
それをどう受け取ったか正確には分からないが、
「私も定期だから、送ろうか」
と言ってくれているのを聞くと、本当に私の心が読まれてるのではないかと疑いたくなる。
私がここまでただの一言も発していないことが嘘のようだ。
家の前まで送ってもらって、繋いでいた手を離す。
また少し寒い。
「ありがとう」
と消え入るような声で言った後、家の敷地に足を踏み入れる。
「また悲しくなったら私のところに来ていいよ」
後ろから声がかかり、私はなんて返事をしていいかわからずに前を向いたままうなずいた。
夜、ベッドで今日のことを振り返ると恥ずかしさがこみあげてくる。
その恥ずかしい行動の全てが伝わっていたのが余計に私を悶絶させる点だ。
それと、一つ気が付いたことがある。
私は同情や「大丈夫?」といった言葉を一度として耳にしていない。
泣いていた理由すら聞かれていない。
それは、きっと彼女なりの優しさなのだろう。
それにしても、
「悲しくないとはるのところに行けないのかぁ」
言ってて恥ずかしくなる独り言だ。
そうやって呼ぶことはないとは思うが、なんとなく。
独り言はともかくとして、そういう意味で言った訳ではないことは分かる。
しかし、今日のように泣きつくわけにもいかない。
どうやって声をかけようか悩んでいるうちに意識が薄らいでいって、私が覚えているのはそこまでだ。
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