見知らぬ子供
真弓創
第1話 奇妙な電話
「とにかくうちには、そんな名前の子はいませんから」
やっとのことで相手を納得させ、受話器を置いた。小学生用の教材のセールスマンからだった。「ぜひお宅のタケミチくんに」としつこく勧められた。
「なんでだと思う?」
仕事から帰ってきた夫の
「さあ……この家の前の持ち主の人の、子供のことかもしれないな」
「そうねえ」
桜木夫妻はこの一戸建てに越してきて、まだ二カ月ほどだ。元の持ち主である同じ会社の人間が地方に数年間転勤することになり、その間、桜木夫妻が社宅としてこの家に住まわせてもらっているのである。
「でもセールスマンは桜木さんのお宅ですねって言ってたのよ」
「なにか勘違いしてたんだろう」
夫のつれない返事に、康子もまあそうなんでしょうねえと相槌を打ち、その話題はここでいったん打ち切られた。ところが数日後、また同じような電話がかかってきたのだ。
「小学校のうちに慣れ親しむ音楽は、お子様の情操教育にとって非常に重要なものです。何事も始めるのは早ければ早いほどいいですよ。特に音感は、感性豊かな子供のうちから習わないと絶対に身につかないものですから……」
ピアノの学習塾からだった。
「うちには子供はいませんから」
「そうですか? おかしいなあ、桜木様のお宅ですよね? そちらに小学一年生の、タケミチくんという男の子いらっしゃいませんか?」
受話器を置いて夕刊を取ろうとポストを開ける。その中には新聞といっしょに数枚のダイレクトメールが入っていた。
『サクラギタケミチサマ ゴリョウシンサマヘ』
どれもお稽古事や学習塾の案内状だ。康子はハガキを見つめたまま、小さくため息をついた。
「どうやらうちの家に、小学一年生の男の子がいるってことになってるみたい」
「またか」
啓之はふてくされた顔で焼き魚の最後の一切れを放り込んだ。
「ここまで来ると、ちょっと面倒臭いよなあ」
夫はあまりこの話題が好きではないようだ。理由は察しがつく。啓之も康子も結婚して十年近くになる。本当に子供がいてもいい年齢だが、いまだその兆しはない。いないならいないで気楽なもの、と二人は話し合ったが、同年配の家族の話を聞くたび、一抹の淋しさがよぎるのはどうしようもない。そんな気はもちろんないのだが、康子からこういう話題をしつこく繰り返されると、遠回しになじられている気分になるのだろう。それで、康子もその話題を打ち切ることにした。勘違いの電話やダイレクトメールも、考えてみれば別段なにかの被害に遭ったわけでもない。無視すれば済むことだ。
それからもタケミチくん宛ての電話やハガキなどが舞い込んできたのだが、以後数年間、桜木夫妻の間でその話が取り沙汰されることはなくなった。
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