少女よサイを振れ

羽鳥狩

実験

 九月二十九日の午後。加戸川中学校の教室では、数学の授業だというのに、のどかな雰囲気が漂っていた。今日はサイコロを使った確率の実験だったからである。

 サイコロを十回振るだけなので、すぐに実験は終わった。教師の杉本は記録用紙を回収して、ノートパソコンで手早く結果を集計した。

 黒板に一から六までの出目を書いて、生徒に説明する。

「サイコロの目が出る確率は六分の一。二十人が十回づつ振ると、合計二百回。だから一から六までの目は二百を六で割った三十三回平均になる。結果を見ると、一番多い六が四十二回、一番少ないのは一で二十四回だな」

 一呼吸置いて、杉本は生徒の顔を見回した。

「なんだ確率通りじゃないのか、と思っているかもしれないが、これはあたりまえだ。実験回数が少ないからな。回数を増やせば増やすほど、本来の確率に近づいていく。サンプルが少ないとどうしても偏りが出来るわけだ。だから、次の実験はサイコロを百回振ることにする。さっきと同じコンビではじめるぞ」

 生徒たちは実験を再開した。

 サイコロを転がす音と、さいの目を読み上げる生徒たちの声。

 十分ほど経ったころ「いやぁー」という悲鳴にも似た声が上がった。

 杉本はあわてて悲鳴が上がったほうに視線を向けた。そこには一人の女生徒が怯えたような表情でサイコロを見つめている。

「どうしたんだ」

 杉本の質問に記録係の女生徒が言った。

「おかしいんですよ。吉沢さんのサイコロ、一度も『一』の目が出ないんです」

「で、今は何回目なんだ?」

「それが九十回目で、さっきの十回と合わせて、百回振ったのに、『一』だけが出ないから、気持ち悪くなって」

 首をひねって考え込んだ杉本は、サイコロを手に取って、しげしげと眺め回した。

「特におかしなところはないな。いびつなところがあって、特定の目だけ出にくいというわけでもなさそうだ」

 杉本はサイコロを転がしてみた。

 机の上で転がったサイコロは、赤く塗られた一の目を上にして止まった。

「えっ、私が振ったときには出なかったのに」

 サイコロ係の吉沢瞳はおびえたように言うと、唇を固く結んだ。

「この実験は同じ人間が同じサイコロを振らないと意味がないから。吉沢、あと十回やってみろ、いいな」

 杉本の言葉にしぶしぶというふうに瞳はサイコロを手に取り深呼吸をした。

 いつの間にか、実験が終わった生徒たちが集まってきて、人垣を作り始めている。

 瞳は祈るような仕草をしてから、サイコロを転がした。

 サイコロの目は五だった。教室の中にどよめきが起きる。

「あと、九回」

 どこからともなくかけ声がかかる。

 次の目は六、そして、三、四、五、二、四、三、五……。

「あと、一回」

 緊張のあまりか吉沢の右手は小刻みに震える。それを押さえ込むように左手をそえてサイコロを放り投げた。

 机の上で弾んだサイコロが赤い目を上に止まろうとしたそのとき、何かに引っ張られるようにして横に動いた。

「うわあ、二だ」

 誰ともなく叫んだ。

 瞳はサイコロを見ると、唸るような声を出して机に突っ伏した。

「おい、誰か。吉沢を保健室に運べ」

 杉本は吉沢の肩をつかみ抱き起こしてから、叫んだ。


 瞳は友人に連れられて保健室に入った。

 女性保険医が「どうしたの」と尋ねるので、瞳は「数学の実験をしていて急に気分が悪くなって」と答えた。

「サイコロの実験をしていて、百回以上振ったのに一度も『一』の目が出なかったんですよ」

 友人は瞳の代わりに実験の状況を解説した。

「一度もね。珍しいことだけど、世の中にはそうした偶然はままあることよ」

 保険医は瞳をなぐさめるように言うと、瞳の体温や脈拍を測りはじめる。

「体温は普通ね。脈が少し速いけど、少し休めばよくなると思うわ」

 ベッドで一時間ほど休養するよう保険医は瞳に指示を出した。

 瞳は診察してもらったことで気が楽になったのか、ベッドに横たわるとうとうとし始めた。


「吉沢はちょっと気を失っただけで、問題はないようだ。それにしても百十回やって、一だけが出ないのは、どれだけの確率だと思う。六分の五の百十乗だぞ。これはもう奇蹟としか言えないんだぞ」

 顔を上気させて、杉本は語った。

 興奮した教師とは違って、教室の中は重苦しい空気で満たされている。

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