時効
モリナガ チヨコ
第1話 写真
英子おばさんの食器棚には何故かアルバムがたくさん立て掛けてある。
本来、コーヒーカップやグラス、陶器の人形なんかが入っているのが普通だろうと思われるような、サイドボードに、ぎっしりと詰め込まれているのは写真だった。
「英子さん、ご主人は、、いくつの時に亡くなられたんですか?」
「さあ、いくつだったかしら。あんまり昔の事で忘れちゃったわ」
英子おばさんは、私のおばあちゃんのお姉さんだ。
私が小さい頃は時々訪ねて来てくれて、お菓子やお小遣いをもらった記憶があるが、親しく付き合う関係ではなかった。
私のおばあちゃんはもう居ない。
5年前に病気で亡くなってしまった。
英子おばさんは、おばあちゃんと4つ離れていた。
だけど、おばあちゃんより若く見えた。
英子おばさんはもうすぐ90歳になる。
長いこと一人暮らしをしていたようで、独りで住む市営のアパートはだいぶ古く、部屋の中も時間が止まったようになっていた。
田舎の母から「悪いんだけど、ちょっと見てきてくれる?」と頼まれて、ちょうど東京に住んでいる私が住所をもとに会いに来る事になった。
5年前のおばあちゃんの葬儀の時以来である。
あの時は、85歳でもひとりで東京から新幹線に乗って来られるなんて、しっかりしてるなぁと、皆に感心されるぐらいだったし、85歳にしてはあまりシワもなく、腰もしゃんとしていて綺麗なご婦人という印象だった。
おばあちゃんの遺影に手を合わせて「カヨコちゃん、まさか、私より先に逝くなんて…。」「カヨコちゃん、まさか私より先に逝くなんて」「カヨコちゃんまさか私より先に逝くなんて」と何度も繰り返して、後ろに並ぶ親戚に、椅子に座るように促されていたけれど、その後のお
だけど「英子おばさん、お香典の中身が空だった…」なんて事があって、「よっぽどあわてて来られたのよね」「やっぱりショックだったんじゃないのか」「わざわざ新幹線やタクシー代払って来てくれたんだもの、黙っておきましょう」と家族で話したのを覚えている。
あの時から、もしかして、こういう状態だったのかなぁ、、と思うほど、英子おばさんの部屋は時間が止まっていた。
一見、ゴミ屋敷に見えるほど、ホコリのベールがかかっていた。
その部屋の中には何故か、あの写真がいっぱい詰まったサイドボードがあって、その横に、ベッドがあった。ベッドの奥にはもう何年も開けられてないような押入れ。
押入れに続く窓際に床の間があって、そこには小さな古い仏壇が置かれその横の棚には可愛らしい写真立てが飾られていた。
「英子さん、ご主人、とても優しそうな人でしたね」写真の笑顔につられそんな言葉が出てくる。
英子おばさんはこちらを見ずに「さあ、どうだったかしらね」と言ったきり、しきりに口の中を気にしている。私が手土産に持ってきたモナカが、どこかにくっついたらしい。
お茶ぐらいあるだろうと思って来たけど、おばさんの台所は茶色に覆われていてとてもここでお茶を沸かせる雰囲気では無かった。
おばさんがこちらを向いていない事を確かめてから冷凍庫を開けてみると、いがいと冷凍庫は機能していた。
比較的、新しいパンや牛乳やプリンが入っていた。玄関には配達のお弁当をとっているのだろうケースもあった。
私は財布を持って一度、近くの自動販売機に行ってペットボトルのお茶を買って戻った。
おばさんに渡すと、「あら、ありがとう。今、茶碗を出すわね」と立ち上がったけど、トイレの方に歩き、戻って来た頃には、お茶碗の事はすっかり忘れてしまったようで、私がペットボトルを開けて渡し、このまま飲んでと私もペットボトルを口に当てて傾けて見せると「ああ、これね、」と真似をするようにお茶を飲んだ。「ああ、冷たいわね」と何度か繰り返して飲んだ。
そして「すみませんね、あなたは、何階にお住まいだったかしら?」と、私の顔を見る。
昨日電話で話した時は「あら、はいはい、カヨコちゃんのね。わかるわよ。どうぞどうぞおいでください。明日?いるわよ。」なんてしっかりしていたのにな。
「おばさん、私は、カヨコさんの孫です」と伝えると「あら、カヨコちゃんの? 大きくなったわね」と返ってくる。
そして「カヨコちゃんは元気?」と聞かれた。亡くなりましたと何故か言えずに「…はい。」と答える。
ダメだ。
これはわからなくなっちゃっているな…。
どうしよう。
英子おばさんは、子供がいない。
私は英子おばさんの交友関係や、これまでの暮らしを全く知らない。
このまま、放っておくわけには行かなそう…。だけどどうしてあげたらいいんだろう。
私は英子おばさんの写真を見せてもらう事にした。誰かこのあたりで、英子おばさんをよく知る知り合いでも見つかるかもしれない。
「英子さん、この写真見せてもらってもいい?」
「いいわよ」
薄いポケットアルバムの束の中からとりあえず取り出しやすい手前のものを手に取る。
部屋全体が黄ばみくすんでいるのに対し、このガラス扉の向こうのアルバムはキレイに守られて、写真も案外鮮明だった。
綺麗な女の人が 花柄のワンピースを着て風に髪を揺らしている。つばの大きな柔らかい帽子を飛ばされないように白く細い手を頭の上に伸ばし、押えている。
30代ぐらいの英子さんだろうか。
後ろは海。
ページをめくると、その若い英子さんが砂浜を駆け出す。細いスラリとした足が色っぽくワンピースを跳ね上げる。
かけていたサングラスを外して、笑顔を向ける。帽子を脱いで髪をかきあげる。
このレンズをのぞいている相手は旦那さんなのだろうか。
次々とアルバムを手に取りページをめくると、海、山、桜、紅葉、温泉街、宿、二人で出かけては思い出を写真におさめたように、季節の風景や花の写真と一緒に若い頃の英子さんが写っていた。不思議な事に、英子さんの他に写る人はいなく、50代ぐらいを最後に、パタリと続きが無い。
ポケットアルバムには入っていない写真は草花のものばかりで、後ろにメモが書かれていた[箱根にて][秋の日光][伊香保温泉・夏]…。
それに混じって私の結婚式の時の写真が出てきた。「英子さん、これ。私の結婚式に来てくださった時の集合写真、覚えていますか?」英子さんに写真を渡すと「ああ、これね、覚えているわよ」と言う。
カヨコおばあちゃんの横に寄り添うように英子さんも写っている。
「英子さん、この時、おいくつぐらいでした?」「さぁね、今が60だから、、もっと若い時よね」
…、60歳で記憶が止まっている? 30年が消えている?
私は黙って写真をもとに戻した。
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