第 5 話 昏がりの町
絵里さんからの許可も得て、堂々と調査する事が可能になった。
私は今、例の和室にいる。泊まる許可を貰ったのだ。
形容し難い者の姿を確認する為である。夜間だけ活動する場合もあるからだ。
現在の時刻は夜中の十二時近くだろうか。
暗くなる頃に彼女達は家に帰って行ったが、冬野君は変わらず側にいてくれる。寝ずの番の為、布団の提供を丁重にお断りし、冷えるからせめてこれだけでもと貸して貰ったブランケットを膝に掛けながら、なんだか落ち着かない様子である。先程も、我々二人しかいないのに、二階から足音が聞こえて来て大騒ぎだった。
一通り部屋を見て回ったが、勿論私達以外に人はおらず、形容し難い者の姿も見なかった。
私は和室の時計を見ていた。そして、その時計を見ている私を見る視線を追い掛けていた。その先に、この居心地の悪さの正体があるだろう。
今の所、捉えられていない。追い掛けようにも、霧散する様に追えなくなる。何処かに彼らの力の源の様な物がある筈なのだ。名もなき者は、何かを拠り所にしなければ、この規模程の騒ぎを起こせない。存在の強度が脆い故に、出力も弱まるのだ。そして、やはり話を聞く限り、それはこの時計である気がしてならない。
絵里さんが時折発言する、「家族以外は来てはいけない」という言、これはもしかしたら、この場所における何かしらの条件の一つの様な気がする。
美月さんが初めて此処に来た時には、冬野君と同じく、誰かに見られている心地がしたと言う。それは友好的ではなく、排他的で攻撃的な方向性を持っていたとも。
来るのは今日で四回目だったらしいのだが、今回も見られている事に変わりはないが、それは前の攻撃的な視線ではなく、優しく見守ってくる様な目であったと。
家族であるか否かが重要なのかも知れない。そして、美月さんが感じた視線の差は、美月さんが家族であるか否かの判定がされ、四度目の来訪により家族であると認定されたからこそ起きた差ではないかと思う。
「二階の足音、止みましたね」
「そうだね。次は何が来るだろう」
「そんな事言わないでください。もう、一杯一杯ですよ」
意外と怖いのが駄目なのだろうか。遅くなるし、危ないから帰っていいと言った時は、力一杯お供しますと言ってくれたのだが。
常に睨め付ける視線を浴びていたが、不意にそれが途絶えた。冬野君も空気が変わったのが感じ取れたのか、キョロキョロと周りを見渡す。
私はもう一度時計を見た。すると、振り子を仕舞っている硝子戸が一人でに開いた。そして、そこからドロドロとした黒い液体の様な、靄の様な物が溢れ出していた。
「冬野君!こちらへ」
彼の手を取って、無理矢理立たせて、それと距離を取らせた。リビングまで退いても足りない気もしたが、あれの正体を見る為には離れられない。
そのドロドロは、際限なく流れ落ち、時計の下に集まろうとしていた。
「無食さん、何が起きてますか?音が止まってから、空気がぴーんと張り詰めてる様で」
「今、時計から靄が出て来て、一箇所に纏まろうとしている。あれは……人型か?」
靄が集まって出来たのは、着物を着た女性の様なシルエットだった。
靄の女性は我々に見向きもしないで、時計の前に立っている。靄なので表情は分からないが、何処となく楽しそうにしている。
時計が鳴る。鐘の様な音だ。針が指す時間は丁度十二時。
女性は聴き惚れている様に見える。小さく呟きも聞こえてくる。
「家族一緒が一番よね」「家族が幸せになれますように」「ずっと離れずに家族と過ごせます様に」
その間にも靄は増していて、ドロドロと女性を包む様に膨れていく。
「家族は此処に居続けなくてはならない」「家から離れる事は許さない」「私から家族は離れてはいけない。例え、魂となっても」
覆い尽くされて、彼女は人の形を失っていた。そして、次の瞬間それは張力を失った様に崩れた。ただ、ドロドロとして靄の様な液体の様な物が、床を汚している。それはもう意思がないのか、動く様子はない。
冬野君をリビングに置いて、私は和室に入った。それに反応したのか、開いた戸から出た謎の靄は、またゆっくりと戸の内へと戻って行く。
「形容し難い者よ、貴方は何がしたいんだ?」
「あ、あ、ああ。魂を捕らえよう。家族だから」
「家族……?」
「嗚呼、お前は違う」
「待ってくれ。貴方は家族を捕らえて、どうするんだ?」
「守る……幸福に……」
耳の中に水が入った様な声だ。靄はそれ以上は何も言わずに、すっかり時計の中へと入って行った。
「靄はまだありますか?」
「いや、もうない」
その後の夜はとても静かだった。誰とも分からない足音も視線も再び現れたが、我々に直接接触する事はなかった。それでも、冬野君はあまり眠れなかった様子だった。
朝になる頃には、ヘトヘトだった。
一応もう一度家の中を調べるが、特に変化はなかった。視線も常にある。
帰り支度をしていた時に、丁度美月さんが訪ねてきた。昨日と違い、私服であった。それを見て、そういえば今日は土曜日だったと気付いた。
「大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫でしたよ。色々見ました。それは一度持ち帰って整理してからご報告しますね」
「楽しみです。ところで冬野さんは?」
「あれ?冬野君、何処に行ったんだい」
家に戻ると、冬野君がリビングでうとうととしていた。昨日眠れなかった分の眠気に襲われている最中の様だ。だが、あまり長居しては迷惑だ。
「冬野君、帰るよ」
「透明の……」
「冬野君?」
「はっ、すみません。船漕いでました」
「お疲れ様。事務所着いたら寝ていいから、それまで我慢しておくれ」
「はい、頑張ります」
軽めに両頬をパチンと叩くと、彼の目が先程より大きく開いた。
「それでは、一晩お世話になりました」
「いいえ、こちらこそ」
「今回の件については、文章に纏めてからお送りしますが、対処についてはこれから行うという段階です。なので、出来ればそれが済むまでは、あの家に近付かないで頂きたいです」
「それは出来ると思います。母も自分が変だった事に自覚的になって来たので、止められると思います」
「なら良かった。では、またご連絡します」
「待ってます!」
歩いて五分、バスで十分、電車でそれなりに乗る。土曜の朝だからか、すんなりと座れた座席で冬野君はすっかり寝ている。無理をさせてしまったかも知れない。
幾つか電車を乗り継ぎ、到頭事務所に戻って来た。階段を登り、寂れた事務所の扉を開くと、漸く帰って来たと実感出来る。此処は最早家同然なのだ。
「無食さん。ちょっと僕寝ますけど、何か御用があったら起こしてください」
「分かった。私も少し寝るよ」
私は応接間のソファで。冬野君は椅子を横に並べて寝る様だ。仮眠用の寝袋でも常備した方が良いだろうか。
疲れていた。一晩中警戒をし続けていたのだから当然だ。私は起きた出来事の纏めと、対処方法については、目が覚めてからやる事に決めて、眠りに落ちた。
午後四時だった。
少々寝過ぎた自覚はあった。とっくに起きている冬野君は、私用の軽食の準備もしてくれていた。と言ってもコンロはないので、お湯を注いで作るカップうどんである。久々に食べると、とても美味しい。
冬野君は既に食べ終えてたのか、簡素な事務机でキーボードを叩いている。
「僕は昨日の事を忘れない内に纏めておきます。無食さんも報告書書いてくださいね」
「書くとも。しかし、その前に出掛けるよ」
私がうどんを啜る音が社内に響き渡る。麺は程良く硬さが残っている。
「おや、どちらに?」
「冠水の町に」
「じゃあ、上ですね」
「うん」
冠水の町とは、形容し難い者達の住む町である。外界とは隔絶しており、一部の者のみが行き来出来た。其処は常に薄暗く、至る所に水路があった。だから、冠水の町と呼ばれる。
ある一人の大きな力を持った形容し難い者が、人間と対立せずに安らかに暮らしていける様にと、この町を作ったと言う。彼は、人との争いを起こしたくなかったのだろう。
その彼は、形容し難い者達の間で、冷たく昏い御子と呼ばれている。
時折その名前を聞くが、当の本人にはまだ一度も会った事がない。もう町にはいないと言う者もいれば、力を使い果たして町の何処かで眠っているのだと言う者もいる。何にしろ、半ば伝説と化していて、真相は不明だ。冠水の町には、人間との共存における諸問題を解決しようとするその志に賛同し、彼に敬意を持つ者が多い。
しかしながら、現状の冠水の町は、行き先のない形容し難い者達の為の保護施設という側面が大きい。そこで安らかに暮らしている者も多くいるが、形容し難い者達に対処する人間によって構成された特殊生体管理部に、無理矢理に連れて来られて、窮屈さを感じる者も少なからず居る。人と争いを起こさず、平和である為に町に留まる、と考える者が大半であろうが、人間社会で問題を起こされたくないという、半ば人間側の都合で閉じ込めている部分もあるのだ。
そう言った面もあるが、あくまでもあの場所は中立地点である。名を得た形容し難い者達の為の、居住区なのだ。
私は食べ終わったカップを捨てて、鞄を取った。
「暫く出ます。お留守番お願いします」
「かしこまりました。お気を付けて、いってらっしゃい」
事務所を出た私は、階段の前で一度鞄の中身を確認する。資料に、筆箱に、ちょっとした小魚のおやつ、水筒。いつもの内容物だ。問題ない。
私は階段を登った。上の階には、空き部屋が幾つかあるばかりで、普段は全く使われない。誰も使わないので、電球も切れていて、踊り場に設けられた窓から差し込む明かりだけが頼りだ。半ば感覚だけで登り切る。五階。右手側にある扉の前に立つ。以前は企業か店が入っていたのか、誰かが捨てて行ったのか、ドア前には雑多に空箱などが積まれていた。
私はそこで水筒に入れたお酒を口に含んだ。そして、ゆっくり飲み込んだ。
それをしてから、扉に手を掛けた。
扉の向こうから、さわさわと水の流れる音が聞こえて来る。扉を開けて、足を踏み入れると、其処はビルの一室ではなく、物理的に部屋に収まる筈もないサイズの町が広がっていた。天井もなく、その代わりに夕方の昏く、藍と紫とが交わる空が天を覆っている。後ろを見るとビルの備え付けの古い扉だけが立っている。
空間転移という物ではない。
冠水の町は性質上、その位置は何処にでもあり、何処にもないという矛盾を抱えている。あの町を人間は、形容し難い者達を閉じ込めておく為の施設と認識しているが、町からすれば、此処は彼等を守る為の要塞なのだ。だから、形容し難い者達が、いつ訪れようとしてもすぐに辿り着ける様に、この町は物理的な位置を持たない。求める者の前に聳える。
つまり、道筋の作り方さえ覚えてしまえば、簡単に町に入る事が出来るのだ。
今回の場合は、縁とお酒に依って道が作られた。何度も行き来しているという縁。水に溺れる町と重なる、酒に溺れる体。水ではなくお酒なのは、お酒の方が非日常的だからだ。所謂、異界にカテゴライズされる冠水の町と繋がるには、この非日常的という要素が大事だ。大凡この条件で、この道は作られた。これは一番手軽だからやっている物で、やろうと思えば他にも色々なやり方がある。
実は賀田さんが事務所にいらした時も、丁度冠水の町に行こうとしていた。水筒に分けるのが面倒で、事務所で飲んでから、上に行こうとしていたのだ。その時は、特に大した用事ではなかったので、賀田さんの案件を優先したのだった。
因みに、私が通って来たビルの扉は、冠水の町に通じる扉だが、何も知らずに五階の扉を開けても空き部屋があるだけである。条件を満たさない内はごく普通の扉である。
冠水の町は、名前にある通り水溢れる町である。しかしながら、沈んではいない。私は至る所に張り巡らされた水路を横目に、決まった通りの道を歩き始めた。
西陽を受けて、水がきらきらと輝いている。此処はいつもそうだ。黄昏時のままで止まっている。
入り組んだ造りをしているので、目的地をしっかり定めておかないと、いつまでも彷徨い続けてしまう。親切に案内してしてくれる者が側にいるとは限らないのだ。今回は何度も足を運んだ事のある場所だから、迷わずに目的地に辿り着ける筈だ。
昏い町には、至る所に明かりが灯っている。様々な色のそれは、酷く幻想的な光景だった。空には翼の生えた形容し難い者が飛んでいる。美しい音で鳴く者もいる。
暫く歩いていると、目的地が見えて来た。鬱蒼とした巨木が頭上を覆い、その全容は見えない。
ひしめき合う建物と水路の狭間に忽然と現れる古色蒼然の楼。
その名は、甘言楼。
私の友達が暮らす幻想に閉ざされた楼閣である。
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