第 6 話 甘言楼の人魚

「古き花々の楽園にて。豊潤を齎す甘美の芳香は、既に広く散布され、昏く凍てつく白き彼の手は我らが崇め奉りし楽園を離れました。されど、彼の眼差しは此処に。瀬瀬は滔々と流るる儘に、韜晦の山路に棲み着く蹉跌を引き摺る鵺も、時が一回りもすれば次第に消え失せましょう。其れにしても、未だ昇らざる朧月の萌黄は見事で、地面を窒息させるかの様です。嗚呼、此の病葉は薬にしましょうか。ええ、ええ。ご覧の通りです。楽園は斯くの如く満ち満ちて御座います。ようこそお越しくださいました」


 矢継ぎ早に、こちらも見ずに語る彼女の白目は黒く、虹彩は文字通り虹色だ。隙間から覗く口の中には、青く先が裂けた舌がチロチロと動いていた。右手に持つ臙脂色の布には幾つかの摘まれた野草が巻かれており、左手に持っている手持ちの提灯は仄かに青色に灯っていた。


 彼女の名前は、水花。


 名前を与えられる前の彼女がどの様だったかは知らない。名前から察するに、水と花に関連していよう、というぐらいしか知らないのだ。


 現在は人に似て非なる姿をしているが、これも名付けによって齎された結果だろう。形容し難い者達は、普段我々が目にする生き物達とシルエットが大きく異なる事が多く、このような人型であったり、四つ足であったりは、名付けられた後によく現れる姿だ。


 甘言楼は、彼女の様に誰かに名付けられた、形容し難い者達の住まう建物の一つだ。此処へ辿り着く為には、少しばかり特殊な道を進まなくてはならないから、何も知らない一般の方が来る事はない。時折迷い込む事はあるらしいけれど、それは滅多にない事故だろう。


 楼の全容は、周辺の伸び放題の草や、建物と半ば一体化した大樹で覆い隠され、上を見上げても枝葉しか見えないが、奥行きを見た具合では建物面積はそこまで広そうには見えない。しかしながら、この楼にとっての表面とは、楼の在り方と繋がってはいても本質ではない。簡単に言うと、中の広さは外観では測れないと言う事だ。実際、凡ゆる場所で保護捕獲されてきた此処の住人の人数は、軽く聞いただけでも、このサイズの建物内に収まらないだろう。だから、楼の内側が実寸を無視して拡張されている事は確実だ。如何なる技術によるものかまでは突き詰められないが、彼等に於いては我々の理解の外側にいるのだから、その様な不可思議な術を用いる者がいてもおかしくなかろう。


 現に、私は目の前にいる梅花藻の如き人が、如何なる人かを知らないのだから。


「こんばんは、水花。浪々に訊きたい事があって来ました。案内してくれますか」

「其れは其れは。お客様がいらっしゃるのなら、我らが守護せし花の香の出づる楽園より離れし、赫々たる冷たく昏き御子が落としたる贄を奉りて、其の血をば主たる貴々し花々に捧げ、息衝く生花と奄々の残花共々飾り立てて貴方様にお渡し致しましたものを、今は甲斐もなく暗澹たる隘路が続き、粛々と首を落とす心算で御座います」


 彼女が何を話しているか、私には理解が難しいが、こちらから話す分には話は通じている。と思うが、自信がない。


「首を落とす必要は無いです。その、血とか花とかも要らないです。何も無くて大丈夫ですから」

「其れならば、ご案内致しましょう。嗚呼、鵺の声にお気を付けくださいまし。喋喋喃喃と口より出でし其は、唯、徒に人の子を誑かし、拐かさんとしております。幾星霜、渺茫を照らせど、人の子の胸裡は暗く、影の内は寥々と色濃く成るばかり。嗚呼、口とは其れを引き摺り出し、尖たる爪と牙とは其れを裂く為に。どうか、お気を付けくださいまし」

「鵺?」

「ええ。鵺に御座います」


 彼女は微笑みながら答えるとぬるりと歩き始め、開け放たれた暗い屋敷へと入って行く。


 水花は摺足で歩きながら、時折私がついて来ているか振り返って確認する。そういう所作を見ると、親近感が湧く。見た目は突拍子もないし、会話も成立してるか分からないが、分かり合える部分がない訳ではないと思わせてくれる。しかし、私が歩く度に軋む床を、音も無く滑る様に進む様はやはり人間離れしている。


 甘言楼は木造で、いつ建てられたのかは不明だがとても鄙びていて古びている。その廊下に明かりはなく、彼女の持つ提灯だけが光源だ。照らされた床には豪奢な絨毯が敷かれており、その模様は複雑怪奇で言葉に出来ない。幾何学ともランダムとも言えない規則性の無い模様で、無理矢理当てはめるなら子供の描いた絵とでも言おうか。使っている色も角度を変えると紫にも緑にも見え、定まらない。毛足が長い所と短い所もあり、法則性を見つけるのは難しそうだった。


「先程言っていた鵺って、猿の顔、狸の胴、手足は虎で、尾は蛇の、ってやつですか?」


 宙ぶらりんになっていた疑問をぶつけると、水花はにこりとこちらに微笑みながら答えた。


「ええ、ええ、鵺に御座います。此の豊潤たる蕾の内が如き楽園には至りませぬが、暗澹たる濡れた夜に、喞々とした鳴き声が私の耳にまで聞こえて来る事が御座います。物悲しく、灰を引き摺る様な嫋々としたあれは、冷たく昏き御子の座す韜晦の山路に在りましょう。どうか、耳をお塞ぎくださいまし。過去は人の子の影に大層響きますれば。口を以って捉えられば、自ずと爪と牙とに裂かれる事に相成りましょう。しかしながら、円満なる夜露に濡れた楽園の内に在れば、暗闇に於いても尚、花の香は貴方を包みましょう」


 鵺に気を付けなければならない様だが、冠水の町に居れば大丈夫という事だろうか。口で捉えられると言うなら、詐欺師みたいな感じだろうか。鵺のイメージにはそぐわないが、彼女の言う鵺がどの様な生き物かを擦り合わせたくとも、今回は時間が無い。


 幾らか進んだ所で、彼女はある扉の前で足を止めた。部屋番号は225。前に訪ねた時と同じ番号だ。途中に階段や坂は無かったが、此処では部屋番号にすら規則性が無いのかも知れない。


 木製の戸を、彼女はガンガンと遠慮なく力一杯叩いた。


「浪々。悍ましくも清らなる同胞よ。お客様がいらっしゃいました。遥か際なる楽園の稜々たる外園より、在りし日の無垢なる君がお越しになられました」


 声よりも大きな音で叩くので、呼びかけは不要に思えた。十秒程叩き続けると、微かにカチャリと解錠された音がした。


 彼女はそれを聞くと、戸を叩くのを止めて、扉を開けた。そして、すぐにドアノブから手を離し、後退りしながらこちらにお辞儀をした。


 私は釣られて頭を下げた。


「其れでは。鵺にお気を付けくださいまし」


 その声に反応して頭を上げると、水花の姿は跡形も無く消えていた。室内から漏れる明かりで、彼女が先程まで立っていた床が濡れて光っていた。


 私はドアノブを掴んで中へと入った。途端に、澱んだ黴臭さが鼻についた。


 部屋の中は取り立てておかしな構造ではない。一般的な部屋の形をしている。


 扉から入ってすぐに廊下があり、左右にそれぞれ収納とトイレ、洗面所、風呂場がある。奥にリビングがあり、そこを通らないとキッチンとベッドルームへ行けない。甘言楼の部屋は大体同じ様な構造になっている。雰囲気に反して、洋風な、少し立派で広いホテルの部屋と言った感じだ。


 蛍光灯と言った光がない代わりに、床には尽きないキャンドルが幾つも灯っていて、蝋の匂いが黴臭さを緩和してくれていた。


「浪々、リビングか?」


 私の呼び掛けに、パシャリと水音が応えた。


 音がしたリビングまで行くと、部屋の中心に大きなバスタブが置かれていた。湿気っぽく、その周辺は黴だらけで、床が抜け落ちないのが不思議なくらいだった。


 覗き込むと、水の張られたバスタブの底に、膝を抱いた少女の様にも少年の様にも見える人物が沈んでいた。水花は妙齢の女性と言った出立ちだが、此方は縦の長さこそ大人だが、顔付きは幼く、未熟さが目立つ。手足は細く肉付きがなく、肩幅は狭い。青白い肌は死体の様で、明るい所にいる猫の様に細長い瞳孔の、曇った刃の様な鈍色の目が私を捉えている。息をしていないのか、水泡もない。


「浪々、元気だった?」


 話し掛けると、浪々は渋々と言った感じに、緩慢な動きで頭を水面から出した。


「まあ。うん、そう」

「なら、良かった」

「お土産はないの」

「持って来たよ」


 私は持って来た鞄の中から、乾燥させた小魚とピーナッツが入った袋を取り出した。表面にはカルシウムと大きく書かれている。


 ガサガサとビニール袋を動かす音に浪々は興味津々で、バスタブの縁に手を掛けて、それが開くのを待っていた。


「おさかな、木の実、お魚、このみ。ちょうだい」

「はい、どうぞ」


 大袋の中で更に小袋に分かれていたので、それを一つ浪々に渡した。


 浪々は、袋の開け方を覚えないので、端っこを鮫の様な尖った歯で齧ってみたり、引っ張ってみたりしていたが、次第に水に沈んでいった。私は、次は自力で開けられるだろうかと、封を開けずに渡してみているのだが、今の所は毎回失敗に終わる。会話していても、舌足らずな所はあるが、知能が低いとは感じないので、いつも不思議に思う。不器用なのだろうか。


「あかない。たべたいのに」

「こう、開けるんだよ」


 受け取った袋のギザギザとした辺を縦に裂くと、中身が見えた。


 浪々は水面ギリギリの高さで口を開けている。試しに小魚を何匹か落としてみると、モグモグと美味しそうに食べたと思えばまたすぐに口が開いた。鯉の餌付けをしているみたいだと思ったが、敢えて黙って、口の中に小魚とピーナッツをいれ続けた。


 私は浪々を人魚か何かではないかと推測してるが、実際の所、彼が何かはさっぱり分からない。


 一袋食べ終わると、浪々は立ち上がって、バスタブから出て来た。服を着ているとは言え、びしょびしょに濡れた姿は、風邪でも引かないかと心配になるが、乾かす事が浪々にとって良い事なのかも分からないし、そもそも一日中水の中にいるのだから無用な心配だ。とは思っているのだが、つい人間の感覚で見てしまう。


 浪々と出会ったのは三年程前だが、未だにどう接するのが正解なのか、定まっていない。探り探りのままここまで来たが、逆にそうし続ける方が良いのかも知れないとも思っている。


「まんぞくした」

「まだ、五袋残ってるよ」


 浪々は水滴を周囲に撒き散らかしながらキッチンへと向かっていた。その足には鱗と鰭がついている。私は鞄からタオルを取り出し、床を拭く。


「五袋……たくさんある。だから、今じゃない」


 キッチンで浪々は引き出しから鍋を取り出した。直径十センチ程の銀色の手鍋だ。それをリビングに持って来て、浪々は私に「はい」と渡した。


「浪々、このお鍋は?」

「君の欲しいものでしょ。それを取りに此処にきたんでしょ」

「そうなのかな。まだ、何にも説明してないと思うんだけど」

「まあ。うん、そう。面倒だから、君がここを去るときに持っていくものを渡した。ここで何をはなしてもはなさなくても、君はそれを持って帰る」


 浪々は時折、未来を見て来たかの様に話す。だが、面倒臭いのか、詳細までは分からないのか、その内容については話さない。こちらからすると、問題文も途中式もなく答えだけをぽんと渡される気分だ。


 私は渡された鍋を観察してみるが、取手は真新しいが本体は古い鍋にしか見えない。使ってないのか、焦げなどは付いていなかった。底を覗くと、汚れと歪みで誰とも分からない顔が映っていた。


「ありがとう。借りてくよ」

「ん」


 返事をすると浪々はまたバスタブの中へと戻り、今度はこちらに背を向けて沈んでしまった。もう話す気はないのだろう。


 私は手鍋を持って、部屋を出た。暗い廊下が出迎える。右手側の先に灯された明かりがある。玄関から差し込む西陽もあり、それ自体が光っているかの様に眩しく感じた。あちらが出口だ。


 永遠と続いている様に見える甘言楼の廊下は、帰る時は来た時よりも短い距離で玄関へと辿り着く。物理的な距離ではないのかも知れない。ふと振り返ると、左右に数え切れない程の扉が並んでいて、先は暗く判別がつかない。見ていると途方に暮れる様な心地がした。


 水花は此処の案内人だ。彼女の案内なく、目的の部屋を訪れる事は不可能だ。


 以前、一度部屋を出た後、その扉の前で忘れ物をした事に気付き、後ろを振り返ると、もう部屋の番号が変わっていたのだ。私は何が出て来るか分からない扉をノックする度胸が湧かず、諦めて次回取りに行く事にしたのを覚えている。


 彼女の名前の水には、水先案内人の要素があるのかも知れない。


 もし、此処で迷子になったらどうなるだろう、と考えたが、客人が館内に居る内は玄関の扉の上に明かりが点けられるので、帰れなくなる事態にはならないだろう。更に、玄関扉は常に開け放たれている。招かざる客人であった場合はどうなるだろう。扉の奥で休む彼等は何を思っているのだろう。


 甘言楼の玄関を抜けると、ふわりと風に乗って花の香が漂った。


 気付くと、私はビル五階の扉の前に立っていた。





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