38. 未練


「やっぱりお姉ちゃんがいる限り、私じゃ勝てないか」


「そんなこと言うなって」


「良いよ。無理しなくて。本当はまた一緒に逃げたいんでしょ」


「まさか」


「できるよ。サキ兄がその気になれば」


 元気付けるように、彼女は俺の背中をポンポンと叩いていた。もう泣いていなかった。いつものミイに戻っていた。


 カップに口をつける。コーヒーは空になっていた。


「飲み終わっちゃった?」


「うん。寒くてさ」


「私のあまっているよ。あげる」


 はい、と言って彼女は自分の手元にあったカップを俺に渡した。 


「良いのか」


「良いの。遠慮しないで」


「優しいな、ミイは」


「サキ兄こそ」


 少しぬるくなった飲み物を口に含む。


「あま。どんだけ砂糖入れたんだ、これ」


「変かな」


「甘すぎる。やっぱりまだ子どもだな」


 砂糖の味しかしないコーヒーを飲み込む。その間、ミイは黙って俺のことを見ていた。表通りの車の音が、不規則なリズムで耳に届く。


 カップを持った手が冷たい。ミイが口を開いた。


「お姉ちゃんと会ったら何話したい?」


「何だろうな。考えたことなかった」


「考えてみて」


「最近どう、とかかな。あいつが今どんな生活しているのか、ちゃんと聞いてみたい」


「それから?」


「結婚おめでとう。ってまだ言ってないから。妊娠も。ちゃんとおめでとうって言う」


「他には」


「昔のこととか話すんじゃないか」


「それだけ?」


 試すような視線だった。


「まだ俺のこと好きか、とか言わないの」


「言わないよ。そんな女々しいこと」


「男なのに、サキ兄は女々しいよ」


「そうだな。お前たちの方がよっぽど強いよ。ちゃんと知っている」


 俺がずっと後ろしか見てこれなかったのに、あいつは前を向いて生きている。辛いことだってたくさんあったはずだ。


「素直にすごいと思うよ。俺はそう言うところも、含めて、あいつのことが好きだ」


「へぇ」


「だから良いんだ。片思いで」


「報われないね」


「報いなんて求めてないよ、最初から」


「もし、お姉ちゃんがサキ兄のこと、まだ好きだったらどうする?」


「どうもしないよ」


「例えばさ」


 彼女は姿勢をずらすと、俺の背中に腕を回した。「ちょっと待て」と言ってもミイはさらに身体を寄せてきた。


「良いじゃん。誰もいないんだし。例えばさ」


 自分のあごを俺の肩にのせた。頬をすりすりと寄せてきた。


「お姉ちゃんがこうやって抱きついてきたらどうする?」


 長い髪で視界が隠れる。ミイの匂いがする。暗い夜の匂いがじんわりと彼女に染みついている。


「サキくん、好きだよ。私のこと抱きしめて。ギュッとして」


 耳元で彼女がささやく。

 その手に力が入る。コートがれる。スルスルと音がする。


「また私と一緒に逃げてくれる?」


 唾を飲み込む。なまりのような液体。ドスンと胃の奥で音を立てる。


「あいつはそんなこと言わない」


「例えば、だよ」


「逃げない」


「嘘だ」


「嘘じゃないって」


「嘘だ。チンコが大きくなっている」


「それとこれとは、話が別だ」


 抱きついてきたミイの身体を押し返そうとする。けれど、なぜか手に力が入らなかった。ひじから下がガクンと地面に向かって落ちていく。


「あれ」


 変な浮遊感を感じる。視界のピントが外れていく。街灯の明かりが広がっていく。


「効いてきたね」


 ミイが笑った気がした。


「何だこれ」


「睡眠導入剤」


 頭が真っ白になっていく。


「さっきのコーヒー。たくさん入れたから、明日のお昼まで起きられないよ」


 頭の内側を大きな手ででられているみたいだった。何もかもがしびれていく。


「どうして」


 必死に声を絞り出す。もう彼女に身をゆだねることでしか、自分を保っていられない。


「ごめんね。お姉ちゃんには会わせない」


 ぐらりと視界が傾いていく。

 身体の平衡へいこうを保つことができず、ミイに抱き寄せられるようにして、彼女の膝を枕にしていた。


 のぞき込むようにして、彼女が俺を見ている。


「どうして」


 かすれた声が出る。


「さっきまで、あんなに、楽しそうに話していたのに」


 理解ができない。

 予兆なんて何も分からなかった。


 ミイは俺の顔を撫で回して、もてあそんでいた。


「それとこれとは、話が別」


 何度も頬を引っ張りながら、彼女は表情を変えずに、小さな声で言った。


「だって未練たらたらなんだもん。そしたら恋敵としては邪魔するしかないよね」


 声が遠くなっていく。

 寒いはずなのに、身体の内側が温かいのが変だ。


 意識が落ちる間際に「大丈夫、カイロたくさん置いておくから」とミイが言ったのが聞こえた。

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