46. 嫉妬
何日か経った後、手土産(東京ばなな)を持って、アポリネールをたずねることにした。バニラの風邪も無事に治ったと言うことなので、ランチタイムが終わった後に事務所のドアをノックした。
反応がなかった。中から誰かが騒いでいるような声が聞こえてきた。しばらく待っていると、扉の
「げ。サキくん」
「こんにちは。ひょっとして邪魔でした?」
「邪魔というか。そうじゃなくて、ううん」
「サキ兄? サキ兄なの?」
部屋の奥の方から聞こえてきたのはミイの声だった。今日はバイトが休みの日で、家にいるはずなのに。
「ミイ。いるんですか」
「うん。ちょ、ちょっとね。あはは。ね。サキくん入れて良いかな」
「絶対ダメ。追い返してください」
「そうは言ってもさ。もう手遅れだよ。どうせ遅いか早いかの違いだから」
「うわーん。どうしよう」
「何かあったんですか」
奥の方から聞こえてくるミイの声は、今にも泣き出しそうだった。バニラは「ちょっと待ってて」と苦笑いをして再び扉をしめた。
また何分か経った。
再び、扉の隙間からバニラの顔がのぞいた。
「良いよ。入って。でも表情を変えちゃダメだからね」
「表情?」
「それが条件」
分かりました、とうなずいて部屋に入っていく。
ゆっくりと事務所の中に入っていく。相変わらず書類が雑然と置かれている部屋の奥に、彼女は座っていた。
俺から背を向けて、ぷるぷると震えながらミイが座っていた。
「ミイ?」
理解するまでに少し時間がかかる。
腰まで伸びていた長い黒髪。それがバッサリとなくなっていた。肩のあたりで毛先が少しだけカールしている。
彼女がふりむく。真っ赤な顔をしていた。
前髪が額の上のあたりで、パッツンと切られていた。
「サキ兄」
俺の顔を見て、怒ったように彼女は頬を膨らませた。
「笑ってる」
「笑ってない。かわいいよ」
「バカにしてる」
「バカにしてないって。良く似合っている」
眉をひそめた彼女は、だいぶ短くなった前髪を手で隠した。
「こんなに切るつもりはなかったのに。美容院で切った時はちゃんとしてたの」
怒ったような早口で彼女は言った。
「やっぱり前髪だけもうちょっと切ろうかなって直そうとしたら、こんな感じになってしまった」
「サキくんに見せるわけにはいかないからって、事務所に飛び込んできたの」
バニラがミイの隣にドカンと腰を下ろした。
「自分でやるからだよ」
「イメージ変えたかったんです」
「せっかく長い髪似合ってたのに」
「あれはもう卒業するんです。お姉ちゃんの真似をするのはもうやめたんです」
「
そういうと、ミイは再び黙りこくってしまった。不思議そうにバニラはその顔をのぞきこんだ。
ミイはその視線から逃げるように、サッとそらした。
「もしかして」
2人が並んだ姿を見て、何か似通っている箇所が多いような気がした。後ろ髪のはね具合とかがそっくりだった。
「バニラさん?」
そう思うと、そうとしか見えなかった。
「ミイ、バニラさんの真似したかったのか」
「え? 私?」
ミイは口をモゴモゴとさせていたが、コクンとうなずいた。
「へー。なんか嬉しいな。でもどうして、急に?」
「バニラさん、サキ兄に連絡先渡しましたよね」
「ん?」
むすっとした様子のミイの返答に、バニラは途端に顔を凍らせた。
「ちょ、ちょっと待って」
「おでこにチューしましたよね」
「サキくん、喋ったの?」
「喋ってないですけど、なんか分かっちゃったみたいです」
「もう。あれは違うって、サキくんを慰めようとしただけで」
「慰めて。何をしようとしたんですか」
眉をひそめてバニラを見ていた。
「何をしようとしたんですか」
「宣戦布告だったんだ、これ」
バニラは肩をすくめると、ふっと吹き出すように笑ってミイの頭を撫でた。
「ごめんごめん」
「わたし、本気なんです」
「もしかしてサキくんに近づく人を敵だと思ってる?」
「男女間の友情とか存在しないと思ってるので」
「そっち派かあ」
「ミイ、本当にバニラさんとは何でもないよ」
「今日だってバイト終わった後、すぐに会いにきたじゃん」
「お土産持ってきただけ」
東京ばななの紙袋をバニラさんに差し出す。
「この前のお礼だよ。ミイ探すのに色々と手伝ってもらったし。バニラさん、これ、東京ばななです」
「わ。やった。これ結構好きなんだよ。東京住みだとなかなか食べる機会ないからさ」
「たくさん買ってきたんで、他の人にも渡してあげてください。チョコ味もあります」
「ありがとー。気が効くねえ」
お腹空いてたから早速、と包装紙から東京ばななを出すと、バニラはムシャムシャと食べ始めた。
「糖分うめえ。ミイちゃんも食べなよ」
こっちを振り向いて、バニラは東京ばななをミイに差し出した。
ミイは自分の前髪をギュッと引っ張りながら、バニラのことを見つめていた。何かに言いたそうにしている。
「あの」
今度は困ったように俺の方を向いた。
子供みたいだった。何を考えているか、その仕草で十分に分かった。
「大丈夫。ミイが一番可愛いよ」
そう言うと、ミイはパアッと顔を輝かせた。
「うん」
嬉しそうに頬を緩ませると、ミイはぺこりと頭を下げた。
「バニラさん、ごめんなさい。ムキになって変なこと言ってしまって」
「良いの。サキくんに告ったのは本当だからね」
「え?」
「私の彼氏にならない、ってサキくんに言ったよ」
口にバナナを放り込みながら、バニラは言った。
「返事はなかったけど」
「サキ兄、それ本当?」
「そんなこともあった」
「いつの間に?」
「色々あったの。それを踏まえて、サキくんはミイちゃんを選んだんだから。ね」
ミイは悩んだように視線をいったりきたりさせた後で、座ったまま俺の背中に手を回して抱きついてきた。
「サキ兄、ありがとう」
「お礼言われることかな、これ」
「ありがとうって言っておきたかった。それと、大好きだよ」
本当に分かりやすいくらいに嫉妬深い。それはそれとして向けられる愛情は、くすぐったいくらいに心地良い。
俺たちを見ながら、バニラは「なんだかなあ」と肩を落とした。
「何見せられてるんだろ、私。まあ良いや。東京ばなな食べよ」
「すいません」
「仕方ない。分けてあげる。ミイちゃんも食べな」
渡されたお菓子をぱくりと口に入れると、ミイは「美味しい」ときゅっと目を細めた。
「初めて食べたかも」
「これからちゃんとご飯も食べなきゃね。ミイちゃん痩せすぎ」
「そうですかね」
「そうそう。後、ちょっと毛先の方染めてみよっか。そっちの方が可愛いよ」
「あ、実はちょっとやりたくて」
「この際だから派手な色にしよっか。私髪いじるの得意だから、今度やってあげる」
「嬉しい。お願いします」
「前髪の切り方も教えてあげる」
サッと自分の前髪を手で隠しながら、ミイはコクンとうなずいた。
東京ばななを3人で食べながら話していると、バニラのスマホがぴこんと音を立てた。画面を見て、彼女は嬉しそうな顔をした。
「あ。リンスーからだ」
「リンスーさん、連絡きたんですか」
「うん。たった今。サキくんにもよろしくって」
「誰ですか、リンスーさんって?」
ミイが不思議そうな顔で首をひねった。
「私とサキくんの友達。ついこの間まで、東京にいたんだけど、色々あって離れてたの。新しい引っ越し先が決まったら連絡してねって言ってたのが、今来た」
「もしかして風俗の人ですか?」
「げ。何でそんなことまで知ってるの」
「おっぱいが大きいって、サキ兄が」
「もう、何言ってるんだか」
「バラすつもりはなかったんですけど」
「嘘が下手なのは、どうしようもないよね」
バニラが「ほら見て」と俺たちにスマホを渡した。
「どこですか、ここ」
ラクダと一緒に、リンスーが自撮りでツーショット写真を撮っている。元気そうに笑顔でピースをしていた。
「さぁ。砂漠みたいだけれど」
「エジプトかな」
「どうしてこんなところにいるんだろう」
「さあ。あ、返信来た」
リンスーからメッセージが返ってくる。バニラは眉をひそめた。
「鳥取だって」
「意外と近いですね」
「知り合いのツテでマッサージ店やってるんだって」
「どんな人ですか」
リンスーの胸の方をジッと見ながら、ミイが言った。
「確かに可愛いです、この人」
「可愛いでしょ。中国の田舎から出てきて、ひとりで生活してるの。あ、返信きた。普通のマッサージ店だって」
「それなら良かった。ビザの問題どうなったんだろう」
「どうなんだろうね。偽装結婚でもしようかな、とか前に言ってたけど。あんまり大きい声で言わない方が良いね」
「鳥取なら今度行ってみようかな」
「いやらしい目的じゃないよね」
ミイが釘を刺すように言った。
「ダメだよ、そんなこと」
「違うよ。ただの友達だ」
「本当かなあ。サキ兄、女たらしだから浮気しないか。心配」
「そんなことないって」
ミイが心配そうに俺の顔を見上げた。その不安そうな顔に言葉を返す。
「俺ほど一途な人間もいないよ」
うーんと腕を組んだミイは「それは確かに」と深々とうなずいた。
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