47. マルボロ
ミイと本格的に一緒に暮らすことになって、忙しく日々は過ぎていった。学校を辞める手続きもしなければいけなくて、やることは多かった。
ようやく落ち着いたのは3月も終わりに近づいた頃だった。休憩前に裏口でゴミを捨てようとすると、例のごとくタバコを吸うバニラがいた。
「おはよ。サキくん、もうすぐ引っ越すんだって」
短いタバコをふかしながら、彼女は微笑んだ。
「ミイちゃんから聞いたよ」
「まだ検討段階です。今の家だと少し手狭なので」
「いよいよ本格的に
「できるなら、この辺が良いんですが。新宿近いし」
ゴミ袋をまとめて、バケツに突っ込む。
「実はもう一個バイトを始めようと思っていて」
「あ、そうなんだ」
「色々お金が
「学校のこと?」
「それもあります。高校辞めたけど、高卒の資格くらいはあっても損はないだろって。頭は悪くないんだし。勉強しろって
「やるねえ」
バニラは携帯灰皿を取り出すと、タバコをしまった。
「他の理由もあるの」
ポンポンと隣の室外機を叩くと、バニラは俺に座るようにうながした。
隣に座ると、興味深げに聞いてきた。
「あ。もしかして結婚するの?」
「いや、まだですが。ただ、今までは自分のことだけで良かったんですけど。実は将来どうしようかなと、悩んでいるところです」
「将来のこと」
「いずれは結婚しますよ」
「そっかあ。展開早いなあ」
うんうんと彼女はうなずくと、ちらりと俺の方を見た。
「ね。サキくん」
首を傾げると、彼女はいつもより控えめに言った。
「相談なんだけどさ」
身体を俺に近づけると、バニラは俺の服に触れた。
「私と一緒にお店やらない?」
「お店?」
「そうなの。実はそろそろ独立しようかと思っていてさ。カレー一本で勝負しようかなと」
「あー、前に言っていたやつですね」
「うん。今のお店続けながらにはなると思うけど。サキくんには、そっちのお店の手伝いをして欲しいの。ひとりじゃ手が回らなくて、男手があればめちゃくちゃ助かる」
「俺なんかで良いんですか」
「接客できるし。知らない仲じゃないし。カレーの仕込みは懇切丁寧に教えるからさ」
膝に手を置きながら、背筋をピンと正して彼女は言った。
「いずれは副店長ってことで。どう?」
期待するような視線が俺の返答を待っていた。
悩む理由はなかった。
「ぜひ。むしろやらさせてください」
「やった」
「頑張ります、本当に」
「うん。よろしくね」
「ところで。ずっと気になっていたことがあったんです」
「ん? なになに?」
「バニラさんの本名、教えてもらいたいんですが」
「あれ、教えてなかったっけ?」
「聞いてないです。下の名前も上の名前も。バニラって言う名前しか」
「あー、そうだったかな。いや、別に秘密にしてたわけじゃないんだけど」
頬のあたりをかきながら、彼女ははにかむように笑った。
「今さら言うのも、なんじゃない?」
「すごい気になってきた」
「そんなに気になるかなあ。分かったよ。えーと……」
しばらく間を置いた後、彼女はぼそっと小さな声で言った。表通りを走っていたトラックのせいで、うまく聞き取れなかった。
「え?」
「だから」
もう一度彼女は口を開いた。今度はちゃんと聞こえた。
「良い名前ですね」
「お世辞とか良いよ」
「素直な感想です」
「もう」
照れ臭そうに、ポカンと彼女は俺の肩を叩いた。ちょっと痛かった。
「呼ぶときはバニラで良いよ」
「良いんですか」
「うん。そっちの方が慣れてるし。いまさら本名で呼ばれるのはちょっと照れ臭い」
「俺なんか電源の切れたペッパーくんですからね」
「あ。まだ根に持ってる」
「あと、ずぶ濡れの野良猫」
「そんなことも言った」
「今は何ですか」
「今はねえ」
彼女はほっぺたに指を当てた。
「ほっぺたにエサを詰め込んだエゾリス」
「変な例えですね」
「いっぱい食べるんだよ」
クスクスと笑った彼女は、ポケットに手を突っ込んだ。マルボロの箱を取り出すと「あら」と残念そうに言った。
「そうだ。もう切らしてたんだった」
「買ってきましょうか。コンビニすぐそこですし」
「うーん。そっか。どうしよう」
バニラは悩んだようにタバコの箱を見ていた。箱を握る手に力を入れているのが分かる。ビニールがクシャと何度か音をたてた。
エアコンの室外機が低い声でうなり始めると、彼女はポツリとこぼした。
「もう良いかな」
さっきよりも大きな声で彼女は言った。
「禁煙しようかな。それか電子タバコとかにする」
タバコの箱を握り潰して、バニラはゴミ袋のほうへ放り投げた。ポンとビニールに弾んで、マルボロの赤い箱はダストボックスに落ちていった。
「舌がにぶるし。もう良いでしょ」
「じゃあ、もう吸わないんですか?」
「もともとタバコ好きじゃなかったし。義理みたいなもんだからさ」
「そうですか」
「何かね。君たち見ていると。それもどうだかなって」
小さくうなずいて彼女は膝を抱えて、体育座りをした。その横顔に明るい午後の日差しがさしていた。
「これ吸ってても、あいつが戻るわけでもないし。結局、私がやっていたことって自己満足じゃなかったのかなー、って思い始めてて」
「自己満足も大事じゃないですか。そうじゃないと、ダメになっちゃう時ってありますし」
「そうね。君が言うと、説得力がある」
「今もそうです。ギリギリで何とか自分でいる気は、ずっとしています」
バニラは「そっか」と言って手に持ったライターをいじっていた。何度か火花を点灯させると、それをポケットに突っ込んだ。
それからふうとため息をついた。
「私はこんなものが無くても、思い出せるって分かったし。その一歩としてタバコは卒業」
「健康第一」
「心配してくれるんだ」
「もちろん」
そう言うと、バニラは「嬉しいこと言ってくれるな」と室外機から立ち上がって、大きく伸びをした。
「さて、そろそろ行きますかね。タバコを吸わないと言うことは、この路地裏に来ることもなくなったわけだからね」
「禁煙、頑張ってくださいね」
「うん。また連絡するよ」
黒いローファーを履くと、調子を確かめるように何度か足踏みをした。髪型を整えると彼女は自分の店に戻っていった。
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