41. 傷
アユムといろいろなことを話した。俺が東京に来てどんな生活をしたか、彼女が結婚してからどんな生活をしていたか。
「夫? うーん、普通の人だよ。プロポーズしてきたときはびっくりしたけれど、悪い人じゃなかった。私にはもったいないくらい優しい人」
「そっか。結構年上なんだよな」
「ショック、だよね」
「正直。変な噂もひどかったし」
「誰が流したんだろうね。売春なんて、そんなことするはずないのに」
アユムは目を伏せて、ため息をついた。
「お金の問題がなかったら、結婚していなかったのはそうだけど。向こうもそれは承知してくれた。家を守りたい私に協力してくれるって。そういう話。お母さんは無理やり私が説得した」
「それで良いって言ってくれたなら、良かったな」
「変な人だよ。ミイが行きたかった高校の学費も払うって言うし」
「学費?」
「調理学校。結局行かなかったけど」
ミイがお父さんのこと一番好きだったから、とアユムは懐かしそうに言った。
「でも結局、あの家を守っても昔の生活が帰ってくるわけじゃなかった。私が失ったものはそれ以上に大きかったって、気がついたのは最近」
「店閉めるんだってな」
「古くなったし。もう誰も未練はないから。いずれはこうするべきだったんだよ」
少しずつだけど変わってきている、と彼女は穏やかな口調で言った。
「ミイには辛い思いをさせた。一番辛かったと思う。地元の学校なんか通わせるんじゃなかったな」
「もう辞めさせるのか」
「それが良いと思う。もう、あの子はちゃんと一人で自分で生きる場所を決められる」
「そうかな。ちょっと危なっかしい気がするけれど」
「ううん。ミイは強いよ。私なんかより、ずっと。家族の中でお父さんの死と一番向き合っていたのはあの子だから。私が逃げている間、あの子は一人で戦ってた。だからあんなにも傷ついている」
アユムはミイがどんな風に過ごしていたかを話し始めた。
「聞いたでしょ。中学の時にミイがいじめにあってたの。でもあの娘、それでも学校休まなかったの」
「どうして」
「何でだろうね。もう行かなくて良いよって言ったんだけど。「嫌だ。行く」って。最初は困ったなあって思ってたけど、あれはミイなりの覚悟があったんだと思う。あの子はすごく負けず嫌いだから」
「偉いな」
「ね。本当に偉いよ。意地っ張りすぎるところはあるけれど」
「ミイ、こっちでも頑張ってたよ」
「そうだ。何してたの、ずっと」
ミイがコスプレ喫茶でバイトをしていることを知ると、アユムは納得したように俺が持っているメイド服を見下ろした。
「あ、その大事そうに持っている服、ミイのだったんだ」
「何でここにあるのか分かんないけど」
「マーキング的なあれかな。ミイはサキくんのことが好きだから」
「愛情が強すぎるところはある」
「もしや、なんだけど。ミイと何かあった?」
「あー」
「あ、ごめん。何も言わないよ」
気まずそうに彼女は、頬をかいた。
「ミイ、ちゃんと働けてる?」
「うん。元気にやってくる」
「昨日、話したことだけれど。どうかな。ミイを預かってくれる話。生活費とかはこっちで持つから」
「ミイさえ良かったらかな。あいつも意地になってるし、何か知らないけれど逃げちゃったし」
「それはさ」
アユムは視線を宙に向けると、言いにくそうに口を閉じた。
「やっぱ何でもない」
「良いよ。言えよ。ここまで来て遠慮することないだろ」
「そうかな。確かにそうかもね」
彼女は首に巻いていたマフラーの位置を直した。緊張した時に彼女が良くやる仕草だった。
ふ、と息を吐いた。
「サキくんは恋人として、ミイのことが好きなの?」
視線を
考えるだけ考えて、口を開く。
「分からない、かな」
「そっか。ミイはさ、サキくんのことがずっと」
「俺はさ」
彼女の言葉を
胸の奥に溜まっていた黒い
「アユムのことが好きだった」
彼女の身体がピクリと震えたのが分かった。
「今でも」
「本当?」
「どうしようもなく大好きだった。どうにもならないのは知っていた。だから忘れようとした。5年たった。忘れられなかった」
口に出すと止まらなかった。
「忘れるどころか、どんどん存在が大きくなった」
夢にまで見たことがある。
彼女と幸せに東京で暮らしている夢。二人で小さなアパートで幸せに暮らしている夢。それが夢だと気がついて、涙が止まらなかったことがある。
「今日だって。何を言おうかとずっと考えていた。もう一度逃げようって。俺と一緒に来てくれないかって。そう言おうかって考えた」
アユムは目を細めた。
「嬉しいな」
口の中で黒い塊がうごめいている。
足元の影を見る。形を失って揺れている。
「でもさ」
傷を確かめて、とミイは言った。
アユムのことを嫌いになって、と何度も繰り返した。
彼女は突然押しかけてきて、何もかもを滅茶苦茶にした。トラウマをひっくり返して、
正直、辛かった。
「サキくん?」
言葉が出てこない。
それを認めることが怖かった。言葉にするともう終わってしまう。
けれど今吐き出さないと、一生離れられない。
そんな気がした。
カラカラに乾いた口が開く。
「俺たち、もうとっくに終わってたんだよな」
アユムは静かに呼吸をしていた。
「ミイは分かっていたんだよ。俺だけがずっと同じ場所に取り残されているってこと。あいつが東京に来たのも、自分が辛かったからじゃない。あいつ、俺のこと気にしてたんだ」
心配していたつもりが、ずっと心配されていた。そんなことにも気がつけなかった。
「だからさ。俺、さ」
「うん」
「ひとりしか幸せにできないとしたら、俺はミイを選びたいと思う」
少なくとも、それが今の気持ちだった。
「勝手に変なこと言って、ごめん。今更気がついたんだよ。ぐちゃぐちゃ未練抱えて、情けないことばかりしていた。それだけの話だった」
傷はやっぱり傷のままで、醜く
「そっか」
彼女はコクンとうなずいた。
「わたし、妹に負けたのか」
「ごめん」
「良いよ。悔いはない。悔しいけれど」
「どっちだ」
「どっちも」
木枯らしが吹いた。
足元で落ち葉がカサカサと音を立てた。車の音が聞こえてきた。身体は冷え切っていて、もう風の冷たさすら感じなかった。
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