【完結】デスゲームの黒幕殺人鬼の妹に転生して失敗した
稲井田そう
デスゲーム漫画の黒幕殺人鬼の妹に転生して失敗した
今日は大好きなお兄ちゃんと公園に遊びに来た。すごく嬉しい。私はお兄ちゃんのことが好きだ。かっこよくて、頭がいい。将来はお兄ちゃんと結婚したいし、むしろお兄ちゃんとしか結婚したくない。それくらいお兄ちゃんのことが大好きだ。
「舞、あんまり早いと転ぶよ」
「わかったー!」
スキップしながら公園の池に向かう。魚が泳いでたり、鳥が羽を休めたりしているところを見るのが好きだ。あと美味しそうだなと思う。たまにお腹が空く。
「水飲む? 汗かいてる、熱中症になるよ」
「平気平気」
お兄ちゃんが心配そうに私を見る。夏はあんまり好きじゃない。暑いし、蝉うるさいし。出来れば外より家の中にいたいけど、でも公園に来るのは好きだから、外に出る。
「あんまり離れちゃ駄目だよ」
「はーい」
しっかり返事をして、この間カブトムシを捕まえた木の根元へ走っていく。すると私より少し高いところで蜘蛛の巣がはっていた。巣の中心には大きな蜘蛛がいて、じりじりと動いている。じっと見つめているとどこからか綺麗な蝶が飛んできた。
「あ」
蝶は巣に引き寄せられるように近付き、ぱたぱたと飛んでいく。羽が少し巣にあたると、その動きが速くなった。瞬きを繰り返して、蜘蛛から逃げようとする蝶。だけど巣がどんどん絡まって動けない。だんだんその動きが遅くなってきた頃、蜘蛛が蝶ににじり寄って来た。
蝶を助けなきゃ。でも私じゃ届かない。お兄ちゃんにお願いして蝶を助けてもらおう。振り返ってお兄ちゃんの方へ向かおうとすると、丁度すぐ近くにいた。
「おに……」
呼びかけようとして、声が出なくなる。お兄ちゃんはじっと巣を見上げていた。何の興味もなさそうに。ただそう見つめていればいいのだろうと言いたげに。全てを諦めたような、真っ暗な、夜みたいな目。一歩近付くと、一瞬、兄の顔が血染めに変わり、後ずさる。蝉の鳴き声が響き渡るように聞こえ、頭に映像が流れ込んできた。
血染めの廊下、月光を受けながらも、鈍く光る包丁。その中央で、静かに笑う、お兄ちゃん。
興奮しながら、生き物が死を迎える時の尊さを語り、そして襲い掛かってくるお兄ちゃん。
その胸から、血を噴出させ、静かに目を閉じる、お兄ちゃん。
ああ。私の大好きな兄は、あの、黒辺くん……いや、黒辺誠だ。
◇
「舞、起きた?」
「……ここは、家?」
「そうだよ。公園で倒れてさ、今母さん呼んでくるね」
そう言って、お兄ちゃんは立ち上がり、部屋から出て行く。どうやら私は今自分の部屋のベッドで寝ているらしい。見回してみると、やはり見慣れた自分の部屋だ。
そして、やっぱり、夢じゃない。私は、どうやら「さよ獄」という漫画の世界にいるらしい。
私は、私として……黒辺舞として生まれる前、女子高生だった。
幼少期から漫画が大好きで、きっかけは父の持つ漫画を読んだことがきっかけだ。今思えばオタクの英才教育だと思う。
そのせいなのか、漫画以外の記憶はほとんど思い出せない。どうやって死んだのかはぎりぎりだ。暴走した乗用車にはねられた、のだと思う。父や母の顔も、どんな人だったかも憶えてない。後は漫画の事ばかり。というより、「さよなら天国 おはよう地獄」こと「さよ獄」の記憶だ。
冒険漫画、少年漫画が好きで、家に帰れば漫画を読み、学校に向かう途中でも漫画を読み、いつでもどこでも漫画を読んでいた私。それは小、中。高と変わらなかった。将来は漫画家になるぞ! と夢を見るほどの画力が無かった私は、生粋の読み専門として、「毎日毎日視力を悪化させるのが趣味です!」とでも言うように読んでいた。そんな私の漫画人生、といっても読み専の漫画人生の中でも「さよなら天国 おはよう地獄」は私の心を鷲掴み、握りつぶすがごとく最高の漫画。それがさよ獄。
「さよなら天国 おはよう地獄」通称「さよ獄」は、「さよなら天国」部分何処いったんだ、というツッコミが矢の如く飛んでくるような愛称で親しまれ、大衆に、というよりもある種カルト的に、一部のファンに熱狂的な人気を誇る漫画だった。息もつかせぬ展開。美しい描写。魅力的な登場人物。「人気が出る土台」を全て兼ね備えたスペックで絶大な人気を誇っていた。
さよ獄の大まかな内容は「七月最後の日、夏休みの肝試し大会ということで集まった、一クラスの生徒たちが、学校に閉じ込められ、命を賭けたゲームに巻き込まれる」という、いわばデスゲームとサイコホラーを掛け合わせたもの。
クラス全員で、学校で肝試し大会をしようと計画された、ドキドキ夏休み高校生青春イベントの為集まった高校生たち。彼らは主催の学級委員を教室で待っていると、突然放送がはじまり、「おはようございます、地獄の時間です」と機械音声が流れる。そして、今からゲームに強制的に参加させられること、最後の一人になるか、夜が明けるまで生き残ればゲームクリアであること、それまで学校から出られない、殺人ゲームの説明されるのだ。
そんなゲームのルールはたった一つ。
一、見つけた武器の使用は自由。
これだけ。
「普通に窓を割って脱走すればいいじゃない」
「通報してしまえばいいじゃない」
などと突っ込みたくなってしまうが、それがこの漫画の恐ろしいところで、学校の窓は割れない強化ガラス、学校のドアロックは全て鍵では無くネット管理、通報できないように妨害電波が発され、外へのアクションを断絶されている。
ここで考えられるのは、「クラス全員仲良く一つの教室に集まり、一夜を過ごそう」という作戦だ。平和に、穏便に。しかしそんな優しい作戦を叩き潰すように、不在だった学級委員長、黒辺くんの惨殺死体がロッカーから出てくる。それはもうぬいぐるみをハサミで切り裂き、洗濯機に二十時間回し続けた様にボロボロのボロ雑巾になった黒辺くんらしきものが出てくるのだ。
そして、その光景を見ていたかのように、放送の機械音声は「学級委員長を殺したのは、このクラスの誰か。このクラスには人を殺したくてたまらない殺人鬼がいる」と告げる。
閉じ込められた空間、突如現れた死体。しかも知り合いの死体で、それも惨殺。さらにとどめを刺す如く、この中に犯人がいるという状況。普通の人間なら混乱するだろう。そう、混乱するのだ。大パニックである。疑心暗鬼に陥るクラスメイトは、校舎に散り散りになり、各々武器を持ち、殺し合いがはじまる。増える死体。増える加害者。さらに校舎には罠が仕掛けられ、丸腰で歩いているだけで燃やされたり、首を吊られたり、チェーンソーで身体が千切れたりする。まごうことなき地獄絵図。
そんな阿鼻叫喚の地獄絵図環境を、どこにでもよくいる平凡な主人公の典型である田中ひろしくんが、ひょんなことから地獄絵図環境の中出会ったクラスで一番の美少女、姫ヶ崎さんと無事に朝を迎えることを目標に生き抜こうとする漫画だ。
そんな悲惨な、惨たらしさを極めるストーリーの核となる、殺人ゲーム。それを引き起こした黒幕というのが勿論存在する。
その人物が明らかになるのは勿論終盤だ。主人公田中くんとクラスのマドンナ姫ヶ崎さん二人は紆余曲折ありながらも奇跡的に生き残り、このまま二人で夜が明けるまで過ごそうと理科室に籠城する。
既に理科室には序盤で死んだ不良三人組が二度と目覚めない眠りにつき、そこらを転がっているのだがマドンナと二人きり。このままいけば生還しハッピーエンド。しかし、散々殺戮が繰り返され、惨たらしい死体を量産してきたこの物語で「理科室に籠城して生き残れちゃいましたてへへ!」なんて許されるはずもない。
理科室に籠城する二人の前に、死んだはずの学級委員……。品行方正、文武両道、全知全能とも言われながら、序盤ロッカーからボロ雑巾状態で出て来た、黒辺くんが血に染まりながら現れるのだ。
「生きてたのか! 黒辺くん!」と駆け寄る田中くん。その田中くんに笑顔を向けつつ、田中の腕を包丁で切り裂く黒辺くん。まぎれもない、「黒幕はこいつだったのか」の瞬間である。
そしてお楽しみ、サスペンス、ミステリー、サイコホラーものでおなじみの、黒幕自白劇場が始まる。
黒辺くんは、幼少期から基本的に何でもできて、基本的に自分の思い通りに事が進んでいた。「そんなこと一度でいいから言ってみたいよ」と私は思うが、彼は、全ての物事が自分の予想通りということに、心の渇きや空虚感、退屈を覚えていたことを吐露する。
「いつか、自分が予想できない現象に巻き込まれてみたい。胸の高ぶりや興奮を感じたい」そう願う彼だが、ドキドキワクワクとは無縁の生活を送っていた。
けれど彼はそんな生活の中でもただ一つだけ、興味を持てることがあったと話す。生き物の生き死ににだけは、興味が持てたのだと。幼いころから、虫や小さな生き物を殺すことには何となくの興味があった。そして九歳の頃に猫が轢かれているのを目撃した時、その血の鮮やかさや、さっきまで生きていたものが絶命した瞬間に、今まで感じた事の無いほど心臓が鼓動したのだと、自分の生きている意味を再認識したのだとやや興奮気味で彼は語った。
それからは気まぐれに二歳年下の義妹を池に突き落としてみたり、幼い頃の興味のままに小動物を殺してみたりする日々を送った。しかし段々と、もっと何か、小さな生き物ではなく大きなことをしてみたいと思うようになったと、笑顔で話す。
死に惹かれながら生きていく中、自分が殺すだけじゃなく、人が人を殺し、殺されるところが見てみたい考えが浮かんだ。だから、人を極限状態に追いやり、自発的に殺し合いが始まるように殺人ゲームを仕掛けた。学校のセキュリティをハッキングしたり、放送の仕掛けをしたり、自分の死体を偽装して、丸腰の人間のせいでゲームが退屈にならないように、罠を仕掛けたり、適当に徘徊して色んな人間を殺して歩いたことを、大体十六ページ、約一話に渡って黒辺くんは説明するのだ。
そんな残酷な地獄めいた性格を、完璧な容姿、完璧な頭脳、完璧な身体能力で覆い隠し、優秀な皆の人気者に擬態していた、生粋のサイコパス。
そんな兄の元に、私は妹として産まれたらしい。でも、まだそうと決まった訳じゃない。私が頭をうち、妄想を現実と認識している可能性もあるし、ただの夢を現実として認識しはじめた可能性もある。倒れた時に頭を強く打って。
だからここは黒辺くんが自白劇場を繰り広げた際に言っていた、虫や動物の死骸の隠し場所……家の裏庭の植木鉢を確かめてみるべきだ。丁度兄はお母さんを呼びに行っている。その間に庭に出て、植木鉢を確認しよう。
母を連れ、私の部屋へ向かう兄を見送って、そっと二階から一階に降り、静かに裏口から庭に出て行く。丁度植木鉢は一つだけだ。周りをよく観察すると、手頃な菓子箱が置いてあった。
持ってみると、ずしりとした重みがある。でもまぁ、土が入ってるかもしれないし、水が入ってるのかもしれない。蚊が繁殖していたりしたら嫌だけど、それだったらそのほうがいい。
意を決して箱を開けてみる。するとそこには、この間まで生きていたであろう虫たちが、もう二度と動くことは出来ない状態で詰め込まれていた。
◇
「舞、舞はこの間までお布団で寝てたんだから、今日はいつもより早く帰るからね」
「はーい」
兄と共に、公園へ向かう。今までは手を繋いでとねだりにねだっていたけど、今日は繋がない。
いや、今日から繋がない。
前世を思い出し一度倒れた私は、兄のコレクションを見て再度倒れた。といっても見てすぐにではない。中を見たことがバレないように、気合でしっかり戻して、家に帰りリビングに置いてあった菓子箱を見て、盛大に吐いて倒れた。それから私は三日三晩熱にうかされ、死の淵に立たされた。
当然である。五歳の、まだ小学校にも上がっていない子供がスプラッタ同然の漫画の内容をがっつり詳細に思い出した挙句それを見たのだ。無理もない。脳が許容量を超えたのだと思う、医学的根拠は全くないけど。
ということで我が義兄が、「さよ獄」に登場する、黒幕である大量殺人鬼の黒辺誠であると確定した。そして私はそんな兄に、惨劇前日実験的に殺される妹、黒辺舞として二回目の人生を生きてしまっているらしい。現在進行形で。
さよ獄の黒辺舞は、一言で言えばまあまあなブラコンである。黒辺舞こと私が二歳の頃、両親の再婚によって出来た義理の兄、黒辺誠、それが私の兄だ。優しく、穏やかで、聡明で、何でもできる完璧なお兄ちゃん。そんな兄に甘やかされ、優しくされたら、誰だって慕うだろう。実際は、「だって、妹を適当に甘やかしていれば皆、俺が優しいお兄ちゃんだって簡単に思うんだよ? 邪魔だけど、便利な存在ではあったよね。あはは」なんていう思惑によるものだけれど。
当然のようにそんな裏があると分からない私は、すっかり、もはやどっぷり兄を慕っていた。将来お兄ちゃんと結婚する、なんて平気で考えていたし、何度か言ってしまっていた。幼稚園の短冊のお願いごとにも拙いひらがなで書いていた。
「さよ獄」でも、それは同じだ。黒辺舞は同じように兄を慕っていた。黒辺くんのダイジェスト回想で見たことがあるけど、完全に慕っている様子だった。そして、惨劇の日を起こすにあたり、事前準備の実験として殺したと黒辺くんは言っていた。
惨劇の日は、兄が高校二年生夏休み、兄が十七歳の時に起きる。そして今兄は七歳だ。十年経てば兄はクラスメイト全員を死に導く殺人鬼へと成長する。
一方、私はこのままだと実験的に、最早気まぐれで殺される。シェフの気まぐれサラダみたいに殺される。間違いなく兄の思惑通りになってしまう。消される。あの箱のような目に遭うだろう。
今まで、綺麗な表現なら親鳥を追う雛鳥のように、現実は金魚のフンが如く兄の後を付き纏い、何処に行くにでもついていこうとしていた。だけどもう駄目だ。これからは必要以上に接近しないように、話は最低限、挨拶のみ、話しかけられれば答えるだけに留めなければ。
しかしながらこのまま距離をあけていても、あの惨劇は起きてしまう。ただちょっと兄妹の仲がアレなだけで黒辺くんは己のポリシーを捻じ曲げたりはしない。ちょっと寄ってくる妹が兄離れしただけで四十人殺す人間が殺さなくなるなんてありえない。
でも兄を変える事が出来れば、兄をある程度四十人殺さないくらいの人間性に変えれば、あの惨劇を未然に防ぐことが出来るはず。いくら兄が将来的に超弩級の大量殺人鬼になるとはいえ、現在の兄は大量殺人鬼ではない。三年間培ってきた情もある。出来れば真っ当に生き、幸せになって欲しい。確か黒辺くんは、「何でも予想外なことが起きなくてつまらなかった」と言っていた。そんな理由で四十人も殺すなと言いたいけれど、黒辺くんもとい兄はサイコパス。常人でない発想をする。というか常人じゃなければ四十人殺そうと思わないし実行もしない。
ならば、どうするか。それはたった一つだ。「兄の予想から外れた行動を起こすこと」予想外を求める兄に、予想外を提供してあげればいい。私が普通ならあり得ない行動を起こすことで、「あなたの見てる世界、そんな単純じゃないよ」「予想外のことなんて、わりと沢山あるよ」ということを兄に見せつける。兄こと黒辺くんが地獄の一夜の事件を起こすのは、十七歳の夏だ。あと十年の猶予がある。それまでに兄を改心させて、惨劇の結末を幸せな結末に塗り替えればいいのだ。「あなたのすること全部分かってるんですよ」なんて言って兄の思考を揺さぶれば、予想外の行動にはなる。しかしきっと「邪魔なやつ」として排除される。だから、出来る範囲で、悟られない範囲で、予想外の行動を取ればいい。
兄に驚きを届け、四十人の命……そして、兄を救う。
「お兄ちゃん、いいもの見せてあげるよ」
隣を歩く兄を見上げると、兄はこちらに顔を向けた。目は合っているけど、私を認識しているとは思えない。兄にとって、この世界は退屈で仕方ない。私のことを、邪魔なそこら辺の設置物くらいに思っているのだろう。今はそれでもいい。でもこれからは違う。その設置物が生きるびっくり箱だったことを教えてやる。
「黒辺舞! いきまあああああああああああああああす!!」
私は池にめがけて駆け出すとそのままの勢いで飛び込んだ。
◇
「舞、何でこんなことするの?」
兄は呆れた様に私の頭をタオルで拭う。はじめて私が池に飛び込んでから今日で一月が経過した。通算十五回目の池ダイビングだ。
ダイビングの理由は、兄に驚きを届け、四十人の命……そして、兄自身の命を救いたいから以外にない。兄に惨劇を起こさせない、その為に私に出来ること、それが突飛で異常な行動だ。
私はこの一ヵ月、兄と公園へ行けば、全速力で関係なく池へ飛び込んでいた。いずれ私を興味本位で池に突き落とすようになるのなら、先取りしてやってやる。どうだこれが見たいんだろ、人が池に飛び込む瞬間を見せてやる。ただし落ちて助けを求めて苦しんだりしないからな! という思いで。
何故なら他に突き落とす人間がいないからだ。兄を突き落とす選択肢もあるかもしれないけど、普通に加害行為で終わるし、危ないし怪我をする。でも自分で落ちようと思えば、いくらでも受け身が取れる。そして危ないのは私。自分で責任を負える。落ちた後は真顔でいたり、定期的に沈み浮上を繰り返して陸に上がったりした。迷惑行為に他ならないし、周りの人に多大な迷惑をかけてしまうけど、兄含む四十人の命がかかってる。
かといって、ただ池に飛び込むだけじゃ足りない。ダイビングの好きな子供で終わってしまう。だから私は母から公園禁止令が出ている間、庭にそれはそれは大きな穴を掘った。落とし穴でも掘ろうかと思ったけど、いくら万全に作っても人の作るもの。危険は伴う。だから見た目のインパクトを重視した
、隕石でも落下したようなほら穴を掘って兄に見せた。兄と家で留守番をすれば防音処理をして近隣に迷惑がかからないように木魚を叩き鳴らした。叩く棒を三本束ね、通常よりも音が増えるよう細工をした。そしてある時は庭にいる兄めがけて二階のベランダからバンジージャンプをした。しっかりと、兄にぶつからないよう計算したうえで。そしてあり得ないかもしれないけど、万が一兄が助けに入ってもぶつからない位置をきちんと見極めた。
そうして、私の行動が兄の中でパターン化された頃、豚の貯金箱にためていたお金を使い、ドラッグストアの化粧品売り場で購入したカラフルなペンを顔中に塗りたくり、どこかの部族のお祝いの日のようなペイントを顔に施して、二階のベランダにいる兄の元へ外側から家の配管を伝って向かった。
兄が学校へ行けば、幼稚園を抜け出し、家全体を用いたドミノ倒しを作った。そしてまたある時は、家全体を段ボールで迷路にした。私は惨劇を起こさないために、思いつく限りの予想できない絶対に平凡じゃない日常を演出し続けている。
兄と兄以外に危害を加えなければいい。死ななければいいという目標のもと、死ぬこと以外は全部やる。
ということで今日も私は、池に飛び込んだ。万が一池の鯉を巻き込むことがないように、きちんと鯉がどこかへ行ったタイミングを狙った。そしてダイビングを終え、兄と共に家に帰宅。お風呂に入って、感染症を持ち運ばないようきちんと身体の隅々まで洗い終えお風呂を出ると、兄が頭を拭いてくれると言うので、お言葉に甘えた。
「待って舞」
ドライヤーまでしてもらい、兄にお礼を言って部屋に戻ろうとすると、廊下のところでお母さんに呼び止められる。いつの間にかお父さんも帰って来ていた。今はまだ夕方、お父さんが帰って来るには早すぎる気がする。
「なに?」
「うん、ちょっとお父さんと、お母さん、舞でお話したいなって」
お母さんは私の腕を掴み、リビングへと引っ張っていく。この雰囲気は家族会議でも開くような雰囲気だ。そのままお母さんに腕を引かれていくと、丁度自分の部屋へと戻ろうとする兄とすれ違う。兄は私をただじっと見た後、母に視線を移し特に関心もなさそうにしてそのまま部屋へと戻っていった。
◇
「舞、困ってることがあるなら言って?」
「うん、お父さんたちに何か伝えたいことはないかな?」
お母さんとお父さんが二人並んで私に問いかける。リビングの椅子に座らせられた私は、最初の直感のとおり家族会議にかけられていた。議題及び原因は、当然私の奇行について。
この一ヵ月、私は兄に対して驚きを提供し続けた。兄に迷惑をかけないよう安全に留意した形で。でも、ほぼ三日に一度のペースで池に落ちていたら、それが母の耳に入らないわけがない。今まで普通だった子供がある日突然池を見ると飛び出すようになる。その件を知って不安に思わないはずがない。ドミノ倒しの撤収は母が知らぬうちにしたし、庭に開けた大穴も兄がそれを認識したら、色々アクシデントはあったもののすぐに埋め直した。でも池に飛び込んだ目撃情報は消せない。近所の人に聞いたか、それか兄から事情を聞いたのだ。そして原因が分からなかった母は父に相談。今に至るのだろうと思う。
「舞が理由もなしにこんなことする子じゃないって、お母さんとお父さん、信じてるから、何かあったのなら教えて?」
「誠が言うには、色々叫びながら池に向かって行くって聞いたけど、何を言ったかお父さんに教えてくれるか?」
二人が、私を心配する気持ちは分かる。でも議題は私ではなく、兄の方だと声を大に出して言いたい。でも言って消される。今私が庭にある蟲毒じみた箱の中身を伝えれば、きっと議題の矛先は変わるだろう。でもそう言って、お父さんやお母さんが兄の趣向を否定して、兄は「分かった!」と気持ちや趣向を変えるとは到底思えない。そんなすぐ変わるなら四十人も殺さない。
「池落ちるの楽しいから、飛んでる」
そう言うと、お母さんとお父さんは顔を見合わせ困ったような顔をする。困らせている。確実に。
でも、私はここで立ち止まるわけにはいかない。私がはじめて池に飛び込んだ時、確かに兄は驚いたのだ。驚愕の目を向けていた。若干軽蔑に近かったけれど「予想外の行動」にはなっている。それからも何かしら行動を起こすと、わずかにそんなような顔をしている。今はまだ感情を昂らせたり、笑いも怒りも引きだせていない。「どうしてこんなことするの?」と作り笑うだけだ。
だからこれからどんどん兄の心を揺さぶるような、予想外な、奇天烈な事する。お母さんとお父さんには申し訳ないけど、私は自分の行いを反省することはあっても、やめない。後十年のうちに、何としてでも兄を「退屈な世界」から引きずり出して、「現実」を見せてやる。それがきっと、私の責務であり、前世を思い出した意味だから。
◇
私は小学校に入学した。兄は小学三年生。以前まで私は幼稚園に、兄は小学校へと平日の昼間は別々に行動することを余儀なくされていたが、今は目的地が同じ。一緒に居る時間が格段に増えた。私は入学早々、登下校は勿論の事、学校の中でも奇怪な行動を兄のみに取り続け、見事に要注意人物として、兄の担任にマークされ続けている。つらい。
家族会議にかけられて以降、兄は度々母に「ちょっと舞の事、よく見ててくれない」と頼まれている。しかし、兄は私を監視する気配が一向にない。一時は「予想外の提供」は著しく困難になると危惧し、逆にその目を掻い潜って兄を驚かせることでさらなる予想外を提供することが出来るチャンスだと考えたものの、兄が私を監視しないことで実行できずにいる。
けれど、兄は全く私を監視しない、というわけでもないのだ。お父さんやお母さんがいる時は渋々とでも言うように監視している。だから両親の目がある時に監視し、両親の目がない時に監視をしない。きっとお父さんやお母さんからすれば逆にしろと言いたくなるだろうけど、兄的には「両親がうるさいからやってる」程度のことなのだろうと思う。
ということで私は、いつも行う池飛び込み、ドミノ倒し、穴掘りに加え、ゾンビに変貌してみたり、トランプカードを使って部屋いっぱいにピラミッドを建築してみたり、段ボールで巨大な動物を作り上げた。兄の監視が手薄だから、とても楽に準備が出来ている。そうして兄に驚きの日々を提供する日々を送っているものの、兄は軽蔑を交えた目で浅く驚くか、馬鹿にしたように笑い適当な言葉を投げかけてくるだけだ。手ごたえを得ることが中々に難しい。
そして今日の放課後、兄は友人に誘われて外で遊んでいる。何かしら驚きの提供について考えていたけど、特にいい案が思いつかない。だから物陰からそっと兄を観察しようと、兄の遊ぶ公園にやって来た。現在兄は男友達数名と秘密基地を作って遊んでいる。
兄の友達、確か名前は岩井くんと言ったはず。兄が家に帰るのを待っていると、よく家の前で別れているのを見る。皆で遊んでいるところを見るに、仕切っているのは岩井くんだ。でも言葉の節々から岩井くんではなく兄がその場を支配しているようにも感じる。
「なぁ、裏山のほう行かねえ?」
「この間行ったばかりだし、今から行っても帰る時間が遅くなるだけだよ、それに、行ったところですることもないし」
「ええ〜いいじゃん黒辺え〜、行こうぜ? 黒辺最近全然裏山行きたがらねーじゃん! もしかして怖えの?」
岩井くんは兄の肩を組む。その瞬間、兄が岩井くんを見る目が一気に冷えた気がした。よく見ようと身を乗り出すと、足元で枝が折れる音がする。急いで顔をあげると兄と目が合った。
「……丁度いいところにいた、ねえ、舞も遊びに混ぜていい?」
兄は私の方へ向かってくると、腕を掴み遊んでいた中心へ引いていく。されるがままでいると、兄はとん、と私を輪の中心へと押した。兄の友達たちは私を見て顔を合わせた後、頷いていく。それを見計らってか、兄は口を開いた。
「遊びは、そうだなあ……、かくれんぼにしよう。鬼は岩井がしてよ」
「いいぜ!」
「舞は小さいし、隠れ場所も多い。一人だけだと有利になるから俺とペア。それでいい?」
兄の提案に周囲は頷く。すると兄は満足げに目を細めた。すると岩井くんが勢いよく手をあげる。
「よしもうカウント始めるぞ!」
岩井くんの言葉に周囲は我先にと散っていく。兄は特に急ぐでもなく、私の腕を引き歩き始めた。
「お兄ちゃん、どこに隠れるの?」
尋ねてみても、兄は答えようとしない。赤い夕焼けがただ兄の黒髪を照らすばかりだ。そのままついて歩いていくと、兄はとうとう公園を出てしまった。後ろの方では、岩井くんのカウントが聞こえる。
「お兄ちゃん、公園出ちゃってるよ」
「うん。そうだね」
「かくれんぼはいいの?」
「いいんだよ。別に公園出ちゃいけないなんてルールはないし」
昔の私だったら、兄の言葉に素直に頷いていると思う。でも、兄が将来どんな人間になるかの可能性を見た私は違う。間違いない。兄はかくれんぼを使って帰ろうとしている。そして丁度良かったと言う言葉は、「丁度いい理由が見つかって」ということなのだろうと思う。兄はあの場にいることに飽きて、抜けることを考えていた。そんな時私を見つけて、遊びから抜ける口実を得たのだ。後に問い詰められたら私が我儘を言ったなんて適当な理由を言う気なのだろう。
「ねえ、お兄ちゃん、やっぱり戻った方が……」
「舞、お兄ちゃんの言うこと聞きなさいって、お母さんと約束したよね?」
兄が私を見下ろす。まるで害虫を見るような目つきだ。口煩い、調子に乗るな、煩わせるな。そんな言葉を暗に言うような、そんな目をしている。
「あんまり我儘言ってると、もう二度と、お外出れなくされちゃうかもしれないよ」
優しくあやすような言葉だけど、温度は一切ない。脅迫をされている。外に出れないというのは、母に何かしらを言いつけて私に外出禁止令を出すことか、それとも物理的なことなのか。
「いい子だね。舞。それじゃあおうち帰ろうね」
そう言って兄は私の腕を引く。本当に家に帰ろうと思っているのだろうか。ゴミ捨て場に行って私のこと突き落とそうとしたり、川へ行って始末しようと考えているような気がしてならない。もしそうしようとしているなら、私は兄の先手を打ちゴミ捨て場に自ら突っ込むし、川に飛び込む。驚きの提供だ。とりあえず前振りのつもりで私は私の腕を引く兄の手をかじった。
◇
今日も今日とて、私は驚きを提供する。人間の生活に休みは必須だけど、こと驚きの提供においては休みはあってはならないのである。
朝、私の靴ひもを奇怪な結び方にしたり、歩くとピヨピヨ鳴るクッションを私の靴に仕組んだりして通学時の驚き提供は勿論のこと、学校に到着してからはあらゆるタイミングで兄の前に姿を現す。そして私の授業のときに移動があると、必ず兄の教室の前を通り、兄だけがこちらを見ているタイミングを見計らって頭に矢が突き刺さった帽子を被ったり、突然ブリッジを披露したりした。兄の国語の教科書に書かれた物語の続きを、盛大な冒険談にした話を教科書に差し込んだり、一見手酷い落書きをされているように見えて実は透明なフィルムが挟まっているだけ。教科書は無傷など、兄の授業を妨害しないことを鉄則に、やれることはやっている。
そして今日は、休み時間、兄が校庭でドッジボールをしに行くのを見計らい、私は兄の教室に忍び込んだ。教室には誰もいない。いたとしても兄以外なら別にいい。兄のクラスメイトはもう私の存在に皆慣れている。私が変なことをするのは兄だけと分かっているからか、景色扱いだ。同級生に変なことをする景色。
私以外誰もいない教室の中を歩き、目的地の兄の席に座る。そして懐から取り出したカードを兄の机に入れた。このカードはいわゆる折り畳み式のびっくりカードで、開くとそれはそれは精巧に作られた、今兄が国語の授業でやっている物語に出てくる木と山が現れる。それだけだけど、教科書をめくり、物語を読み込んでいる時にその物語と同じ景色が教科書から飛び出てきたらきっと驚くに違いない。
嬉々として兄の教科書を取り出し、カードを仕込んでいるとぽん、と誰かに肩を叩かれた。顔を上げると、兄の担任の先生が困ったような顔で笑っていた。
「黒辺くんの妹だよね」
「はい!」
私は大きく頷く。私が将来殺人鬼になる黒辺くんの妹です。厳密に言えば、将来殺人鬼になる兄をそうならないようにする妹だ。
「今日はどうしたのかな」
「遊びに……」
さすがに兄の凶行を止めに驚かせに来たとは言い難い。すると先生は机の上に置いてあった兄の教科書から、私が仕込んだカードを抜き取りこちらに見せた。
「どうしてお兄ちゃんに悪戯するのかな? 先生、舞ちゃんのお兄ちゃんはとっても悲しんでると思うなあ」
傍から見れば、そうなってしまうだろうと思う。でも私にはやらなきゃいけない。どう説明してここを切り抜ければいいんだろう。カード、没収になるのかな。せめて兄を驚かせてから没収してほしい。その後ならいくらでもあげる。
「舞?」
俯いていると、丁度扉の方から兄の声が聞こえる。振り返るとやはり兄だ。
「どうしたんですか、先生。舞が何か?」
「うん、今お兄ちゃんに、色々変なことするの、良くないよねって話をしていたところなの」
「そうですか」
こちらに向かってきながら、一瞬だけ、白けたような目をして、すぐに笑顔を浮かべる。
「先生。実は舞は、小さい頃風邪を引いたりすることが多くて、熱を出して三日間寝込む、なんてこともあったんです。だからきっと、僕と居られることが嬉しいんでしょう。……もしかして先生にご迷惑をおかけしたりしましたか?」
「ううん、そんなことないけど」
「そうですか、それは良かったです。そのカード、僕のなので、返してもらってもいいですか」
水が流れるように淡々と話し、先生に向かって手を差し出す。先生はどこか戸惑うようにしながらもカードを差し出した。兄はカードを受け取り、開く。驚きの顔は一切見えない。ただじっと目の前にあるものを見つめている。
「ああ、そうだ先生言い忘れてましたけど、ドッジボールの最中、岩井が無理にボール取ろうとして、転んで……保健室に行きましたよ」
「分かった、すぐに行ってくるわね」
兄の言葉に、先生は血相を変えて教室を去って行く。兄はそれで教室に来ていたのか。納得していると兄はなんてこともないように席に座り出す。
「え、お兄ちゃんは保健室に行かないの?」
「どうして?」
「どうしてって、岩井って人、お兄ちゃんの友達じゃ……」
岩井くんは、町内が一緒の男の子だ。元気が良くてスポーツが得意な男の子。兄と帰る時たまに一緒になるし、家が近いからと兄とよく一緒に帰っている。
「大丈夫だよ。それに今行っても、病院に運ぶとかで邪魔になるから」
「ドッジボールで、転んで、怪我したんだよね……? そんな病院行くくらいの怪我なの?」
「ボール取ろうとして、鉄棒に頭打ってたから、結構酷いんじゃない」
「心配だね」と付け足す兄は、どう見ても心配そうに見えない。表情は不安げなのに、どこか愉快そうにも見える。私はどこか不安を感じながら、兄を見つめていた。
◇
私は小学二年生、兄は四年生になった。
が、兄は今だ笑い……人を小馬鹿にした笑い以外の感情が出ておらず、兄の心は揺さぶれていない。
しかしまだ私には勝算があるのだ。それは兄が、「生き死にに興味を持ち始める」きっかけとなる、猫が轢かれたところを目撃するのを阻止すること。そうすれば、兄が生き死にに興味を持たなくなるはず。いわば猫救出作戦だ。猫を救い、結果的に兄を救って、兄のクラスメイトの命も救う。平和賞を貰っても良いほどの救命だ。でもそこだけ頑張ればいいわけでもない。驚きの提供を頑張りつつ猫を助ける。四十人の命がかかっているのだし、隣町にネズミを解き放ち、この街の猫を全て隣町に移動させることも考えたけど、現実的じゃないし隣町に迷惑がかかる。生態系が崩れてしまう。だから、きちんと毎日驚きを提供して、猫を救う。
時期的に言えば、その猫が轢かれるタイミングはもうすぐ訪れる。そのシーンは回想として事細かに記されていたけど、猫が轢かれている姿を見ていた黒辺くんは半袖を着ていたし、目撃していた場所の背景で記された建設現場の建物は、三階建て。そして見当をつけていた猫が轢かれる場所では建物の建設が行われており、今は一階、二階と完成し、三階に取り掛かっていた。このまま行けば、あの建物は三階建てになり、猫は轢かれる。
そんなこと、させはしないけど。
だから今日もこつこつと兄に驚きを仕込む。今までは教科書の景色を模したカードだったけど、今年は教科書に出てくる架空の動物の立体造形物だ。教科書を開き、その生き物を見て何となく自分の机の中を探ったら、教科書に出て来た動物と同じものが目の前にいる。とんでもないファンタジー世界だ。きっと兄の度肝を抜くだろう。
でも、サイズを間違えたのか、机の中に入ってくれない。トリケラトプスとゾウ、そしてクリオネを掛け合わせた架空動物はただ顔が不気味に潰れるばかりで全然兄の机の中に入っていってくれない。
……仕方ない。顔は変形するけど、出せば元通りになる。
首をねじるように折り畳んで、もう一度兄の机の中に入れようとする。すると今度はすんなり入った。机の中を覗くと教科書に出てくる架空の可愛らしい生き物ではなく、完全に魑魅魍魎の様相だ。机の中は日を遮り暗いから余計にそう見える。
「おや、君はまた悪戯に来たのかな」
顔をあげると、教卓のところに兄の担任の先生が立っていた。今年、兄の担任の先生はあの女の先生からおじいさんの先生に変わった。
この学校では、基本的に六年間は担任の先生は変わらないらしい。前の先生が転勤をしたから、担任の先生がおじいさん先生になったのは特例だそうだ。私は兄の教室によく行くから、必然的におじいさん先生とも話す機会が増え、最近では廊下を歩いていると声をかけてくれるようになった。
前の先生はどこか、何となく好きになれない感じがあったけど今の先生は好きだ。とてもいい先生だと思う。何の根拠もないけど、パンを焼くのが上手そうなところが好きだ。パンを焼くか知らないけど。
「兄には内緒でお願いします」
「ははは。よく頑張っているねえ。継続は力なり、いいことだ」
先生の好きなところは、もうひとつある。それは私の驚きの提供に理解があるところだ。先生は私が兄の教科書にいたずら書きがしてあるように見えるフィルムを挟みこんでいるところを見つけ、「随分良く出来てるねえ」と感心していた。それから幾度となく驚きの提供をするところを見つけられているけど、怒られたこともなければ咎められたこともない。
「きみはお兄ちゃんのことが大好きなんだねえ」
「……はい」
私は、兄の事が好き。兄が黒辺くんであることを思い出すまでは、一切の偽りなくそう思っていたし、今も兄のことが好きなのは変わらない。だけど驚きの提供をそんな風に捉えられるとは思ってもみなかった。
「兄想いの妹がいて、黒辺くんは幸せものだ」
「そうですか、ね……?」
「ああ、彼は頭がいい。一人でも生きていくことが出来る強さも持っている。だけど、きちんと自分を見て受け入れてくれる存在は誰にだって必要だ」
一人で、生きる強さ。確かに生きていくことが出来そうだと思う。両親が出掛けて二人で留守番をしているとき、兄はなんでもそつなくこなす。何かを苦手としているところは見たことがない。何に対しても完璧な兄。そんな兄を、受け入れてくれる存在……。いっぱいいると思う。もしかして、恋人とかそういうことだろうか。兄は雰囲気的にお父さんやお母さんにすら冷めた目を見せる。私に対してはわりと邪魔みたいな目をする。友達もたくさんいるし、好かれているけど兄から好意を発していると明確に感じたことは一度もない。
「はは、きみには難しい話をしてしまったかな? ……くれぐれも自分の授業には遅れないようにしなさい」
「はい」
兄に、恋人……。粘土や布で生き物は作れても、恋人は作れない。私は兄の席に座りながら、机の中にあるぬいぐるみの頬を少しつねった。
◇
兄は気まぐれに私の監視をするようになった。前の監視レベルが小数点レベルだとしたら、今はきちんと一桁レベルの警戒はあると思う。そのことに関しては都合がいい。猫が轢かれたのは、学校帰りではなく、休みの日に事故現場を目撃したと黒辺くんは恍惚顔で言っていた。ならば休みの日は絶対兄から離れないようにすればいい。死を目撃させないように、猫を救う。そう決めて私は休日は必ず予定を入れないようにして、兄を見張っている。
幸い、兄はインドア派だ。休日付き合いでアウトドアに身を投じたりすることもあるけれど、自宅にいる時は自室にこもって勉強をするか、読書をしている。
そして今日は日曜日。兄は自室で勉強だ。私は兄が出掛けることをいち早く察知できるよう、あらかじめ外出着に着替えた状態でリビングに待機している。兄が外出する為にはリビングの通過は必須だ。ここに居ればうっかり見逃して兄を外へ解き放つことも無い。万全の監視体制である。
「あ、お醤油が無いわ」
お母さんが台所でしまった、というような顔をした。このままなら兄はお醤油を買いにお使いに行く。スーパーまでついていくか、と立ち上がると、母は兄の元へ向かうのではなくこちらに顔を向けた。
「ねえ舞、今暇?、お醤油買ってきてくれる?」
「え、お兄ちゃんに頼むんじゃないの?」
「うん、舞にお使い頼みたいのよ」
両親は私を家族会議にかけてから一人で外出させることを避けていた。徹底的に避けていた。確かに、池ばかり飛び込むのも芸が無いと公園の砂に埋まってみたり、風船を何十個も用意して屋根から飛び降りようとしたり、炭酸ガスを用いて庭に虹色の噴水を作ったり、ペットボトルロケットを背中に装着し川向うへ飛ぼうとする子供を一人で外出させるなんて、親として正気ではないと思う。当然の判断である。
しかし、「妹さんの突飛な行動はお兄ちゃんに対してだけで、後は静かに過ごしていますよ」という兄の担任の鶴
の一声により、私は最近、「何をするか分からない子」から「兄限定のいたずらっ子」と両親の認識が変わっていた。が、まさか一人での外出を許可されるまでになるとは。
「いいよ、じゃあ、お兄ちゃん絶対家から出さないでね、一人で行って来たよって褒めてもらいたいから」
そうお母さんにお願いすると、お母さんは私にお金を渡しながら笑う。お兄ちゃん大好きだと思われているのだろう。否定はしないけど、今回の理由は違う。
「本当に、一歩も、外に出さないでね。……色々爆発しちゃうから」
お金を受け取りながら念押しすると、お母さんの顔が青くなった。ごめんねお母さん。これも将来の為だから。どんどん顔色が悪くなるお母さんを置いて、玄関に向かうと後ろから兄に呼び止められた。振り返ると、兄は外出着に着替えている。
「おつかいなら俺も行くよ、買いたいものもあるしね」
「わ、私だけで行けるよお兄ちゃん……」
「どうだろう……。母さーん、俺も舞についていくから」
兄はリビングに向かって声をかけると、お母さんがほっとしたような声色で返事をした。それを聞いて兄はこちらを向く。
「舞のお母さんとお父さんは、舞が一人で買い物出来ないとは思っていないんだ。でも、舞のこと心配してるんだよ。舞が池を見たら飛び込むから。誰だって、自分の家族が死んじゃったら嫌でしょ?」
兄の言葉に、素直にうなずけない。それは兄も同じように思ってるのだろうか……?
「ほら行くよ、舞、お醤油ないと、あの人困っちゃうみたいだから」
そう言って兄は私の腕を引く。もしかしたら今日が猫の事故の日かもしれない。そう覚悟をし、私は兄と醤油を買いに行くことにした。
お醤油を買って、兄と手を繋いで帰る。
行きの空は確かに青く澄み渡るような色だったのに、いつの間にかあたりは血のように赤い夕焼けに染まっている。蝉の鳴き声もひぐらしの鳴き声に塗り替わるようになっていて、どことなく異様な雰囲気だ。
今日、本当に猫がひかれる日かもしれない。
行きの道中、私は「目潰ししまーす」と言って、兄の目を潰すふりをして自分の目を潰そうとしたり、「お兄ちゃん背負いまーす」と言って兄をおんぶしようとした結果、スーパーを出るなり腕を拘束されてしまっている。その為、全然予想外を提供出来ない。
が、これも作戦のうちだ。兄と手を握り、最悪猫を助けられなかった場合、兄になにかをして注意を逸らす。勿論目潰しも背負いをしようとした時も、周囲に猫や車がいないか確認しながらやった。
というか、兄は何なのだろう。買い物についてきておいて、兄は醤油を買っただけだ。買い物があると言っていたのに、他に何も買った気配がない。
「お兄ちゃん、何か買い物あるんじゃなかったの?」
「うん、売ってなかったんだよね」
兄はどこか上の空だ。そのまま兄に腕を引かれ歩いていると、私たちの目の前に白猫が通り過ぎる。
「ひえ」
「舞?」
突然猫を見て怯えた私の顔を、兄が心配そうに覗く。猫は植え込みに入り姿が見えなくなった。心臓がうるさい。怖い。兄とつないだ手をぎゅっと握っていると、冷たいながらに確かな温度を感じて、少しずつ落ち着きを取り戻していく。大丈夫、兄は生きてるし、猫も生きてる。
「だいじょぶ、行こうお兄ちゃん」
笑顔を作って、兄の腕を引く。ただ、猫が通り過ぎただけだ。過敏になりすぎている。駄目だ駄目だ。緊張しすぎていざ猫が轢かれる現場に遭遇したら動けませんでした、なんて最悪じゃないか。気を取り直して進むと、交差点に辿りつく。休みの日の昼間、車は絶え間なく行き交う。建設現場は三階が完成していた。
流石にここで轢かれることはないだろう。ここに突っ込んでいくことは自殺志願と同じ。車の通りも多いし、猫だって騒音で気付く。こんなところには飛び出さない。そう思った次の瞬間だった。
すっと、定められていたかのようにさっきの白猫が私たちの隣を駆け、吸い寄せられるように交差点の中央に向かっていく。横には、待ち構えていたようなトラックが走ってきていた。
轢かれる。
兄の手を振りほどく。ずっと固く握りしめられていた腕は簡単に解けた。そのまま地面を蹴って中央にいる猫に駆け寄り、猫に手を伸ばす。その手をかわすように向かいの歩道にかけ、猫はそのまま住宅街へと消えていく。
あ、大丈夫だった。これで猫は轢かれない。だからお兄ちゃんも、死なない。そう思った瞬間、トラックのランプが視界に入り、クラクションと共に轟音が鳴り響く。視界の隅に、兄が見えた。
「お兄ちゃ……」
私は感じた事のある衝撃と浮遊感を受けた。景色が回転して、真っ暗になる。そして私はどこかへと、ぐちゃぐちゃに溶けていった。
◇
「たっだいまー!」
お母さんと一緒に、昨日ぶりのわが家へと帰宅する。
猫に避けられ、トラックに轢かれた私は奇跡的に無傷であった。トラックにふっ飛ばされた私の身体は、奇跡的に歩道端、ふかふかのゴミ捨て場に着地したらしい。意識がなかったことで救急車にのせられ病院に運ばれたものの奇跡のかすり傷。念の為に身体に異常がないかの検査を一晩中したことで一泊し、やっぱり何もなかったことで帰宅が許可された。
兄は私が救急車で運ばれた際付き添っていて、検査の結果私が無傷でなんともないことを聞き、私の目が覚める前に帰宅したらしい。兄は怪我をしてないし、学校がある。両親が帰したのだろうと思うし自分で「もういいか」と思い帰ったのかもしれない。
まぁ、とにもかくにも、猫の死は阻止した。そしてその代わりにトラックにふっ飛ばされた私は奇跡の生還。血も出ていないし、これは驚きとしか言えないはず。だってもう、九死に一生の経験だ。むしろ人の刹那より生きる方に興味が出て、四十人殺すタイプの人間から四十人救うタイプの人間に変わっていてもおかしくないはず。
今の時間は昨日家を出て来た時と同じ時間だ。ぎりぎり兄は帰宅しているかもしれない。手を洗ってリビングに向かおうとすると、丁度二階から兄が降りて来ていた。
「お兄ちゃん! ただいま!」
声をかけると、兄はぞっとするほど表情の感じられない目でこちらを見ていた。いつもなら驚きつつの馬鹿にした半笑い。余裕があるけど、どうも今の兄からは何か一線を越えた危うさを感じる。
「えっと、黒辺舞、ただいま戻りましたー……」
兄からは、何の反応も感じられない。不思議に思って近づいていくと、兄は静かに俯いた。
「……どうして」
「?」
「どうして笑ってる……?」
静かな怒りを孕んだ兄の声。兄は、私を見ている。今まで本当に景色のような認識で見ていたことがはっきり分かるほど、兄は私を見ている。
「……お兄ちゃん?」
呼びかけると、兄ははっとしたような顔をした。眉間に皺を寄せ、視線を彷徨わせて後ずさる。
「……何でもない。もう寝な」
兄の顔は、いつも通りのお兄ちゃんに戻り、踵を返し去って行く。今のは完全に、何かしらの変化があったのではないだろうか。驚きの提供がもたらされたのではないだろうか。これで兄の将来的な惨劇は回避できたのだろうか。
これで、兄は死なない。私は兄に背を向けて、はやる気持ちを抑えながらリビングへと戻っていった。
◇
「……うそでしょ」
目の前の、光景に絶句する。私は深夜を待ち、兄のコレクションを見にきた。もしかしたら何か変化があると思って。というか最近は猫が轢かれる日が近いと言うこともあり、ほぼ毎日兄のコレクションの様子を見ていた。何度も箱の中身を開くとバレる可能性があるから、遠巻きに確認するだけだったけど。そして最後に確認したのは、昨日の朝。昨日の朝までは、いつも通り箱の中身は蠱毒状態が繰り広げられていた。
なのに、今は。
まるで全ての破壊衝動をぶつけたかのように、生き物たちは箱ごとぐちゃぐちゃに潰されていた。
◇
「ああ、悪いけど舞、今いないんだよね。うん。俺もこれから出かけるから伝言もできないや。ごめんね。また誘ってあげて?」
家にかかってきた電話の応対をする兄を、物陰から窺う。
私がトラックに吹っ飛ばされ、ゴミ捨て場のゴミ山に着地した事件以降、兄の監視体制は大幅に強化された。
まず、何をするにでも兄と同伴が必須。たとえ両親が一緒だとしても、兄が居なければ不可にされる。兄は自分の視界から私が消えることを良しとせず、私への誘いをこうして勝手に断っていく。私は今別に寝てないし、熱も出ていない。トイレに行っていただけだ。普通に人間の生理現象として。
兄が電話を切った後、しばらく待ってからリビングに戻ると、兄は平然とした顔で本を読んでいた。勝手に人の誘いを断った人間のする顔ではない。まぁ、兄が何をするか分からないから、遊びに行く気もなかったけど。
「……さっき電話あったけどどうしたの?」
「気のせいじゃない? 電話なんて鳴ってなかったけど?」
しれっとした顔で、大嘘を吐く兄。けれど嘘を吐く人間らしい弱々しさも逆に強気になる感じも一切無くあくまで自然体。ここで「いや電話あったよね?」と追及する方がおかしいと思われる雰囲気を兄は出している。嘘を吐きなれている。
「そういえば、明日早く迎えに行けそうだから、そのつもりでいてね」
「分かった」
兄は、私の送り迎えをするようにもなった。私は小学五年生、兄は中学に入学し、私の通う小学校は、兄の中学から多少の距離がある。
けれど兄はわざわざ私を小学校に届けてから中学に向かい、帰りは私を迎えに来て帰るのだ。その為私は学校が終わると即帰宅! はできず、基本的に図書室や校庭で、兄の「予想を超えるような何か」のヒントを探して、時間を潰し、兄を待って帰宅している。兄の監視体制は厳しく、「もはや囚人では?」と感じることもあるが、人は深淵を覗く時、深淵もまた覗くのだと哲学者が言っていたように、人は監視している時、また監視されているのだ。兄は私を監視している気だろうが、私だって兄を監視している。ずっと見てる。猫の死を目撃しなかったと言えど、兄の刹那的破壊衝動は目覚めているっぽいし、目覚めていなかったとしたら、何かしらをきっかけにして目覚める可能性は充分にある。
それが猫じゃなくて、犬かもしれないし、はたまた人かもしれない。いつ何がきっかけで生き死にに強い興味をもつか分からない。か弱い小動物たちが兄の餌食にならないように見張っておかねば。将来、兄や兄のクラスメイトを救うのは勿論のこと、兄が虐げてきた動物も救うのだ。虫は犠牲になってしまったけれど。
◇
兄は中学校に入学した。にも関わらず私は小学校に在籍し続けている。
兄は中学生、私は小学生。その事実は変えようがない。学校が離れてしまったことで、朝の八時からの通学から、学校が終わる十五時の間までの驚きの提供が出来ない。約七時間も、驚きの提供が出来ない。一日の三分の一の驚き提供の停止が固定化され、さらにそれが週五回、最悪としか言えない。さらに私は兄の睡眠は邪魔しないという鉄のおきてがある。人間充分な睡眠をとらなければ精神は不安定な状態へと陥る。ただでさえ蠱毒あそびをしていた兄だ。不安定にさせてもっとヤバい感じにしたら絶対危ないし、何より健康に悪い。だから兄の睡眠時間……自室にいる夜十時から朝の六時までの八時間、驚きの提供はしない。だから学校の七時間と睡眠の八時間を合わせると、十五時間も驚きが封印されるのだ。驚きの提供時間が半日以上封印される。それに兄が私の送り迎えをしていることで時間を確保できているのだ。送り迎えが無い日は今のところないけれど、兄は中学生、何かと忙しいはず。いずれ送り迎えが無くなったら、驚き提供タイムはさらに減ってしまう。
だから、今の驚き提供時間……九時間を何としてでも濃密な驚愕に変えなければならない。でも、ここは逆に、私の存在がない学校の七時間。兄にとってはセーフタイムである七時間に何かを引き起こせば、それは予想外になるのでは。私はそう考えた。
けれど、兄以外の人間に迷惑をかけるわけにはいかない。それに私の見ていない間責任が取れない場所で何かをすることは、兄の予期せぬ怪我にも繋がる。私は兄に驚きを提供したいだけで、危害を加えたいわけじゃない。
そこで編み出したのは、お弁当作戦だ。
兄の中学は給食ではなく、家からお弁当を持ってくるシステムが採用されている。そこで私は母に頼みこみ、兄の弁当を作ることにした。兄の予想を超える、驚愕させるような弁当を作るために。母は最初酷く渋った。何せ相手は池を見つけたら飛び込む娘だ。何をするか分からない。でも私は頼み込み、「お願い」を続けに続け、兄の弁当を作る権利を手にした。
そうして作ったお弁当は、勿論驚き提供弁当だ。といってもめちゃくちゃ不味いとか、変なものが入っているような食材を無駄にするようなものではない。しっかりと衛生に気を付け、間違っても食中毒にならないよう、菌をつけない、増やさない、殺すことを念頭に、なおかつ美味しく栄養バランスがしっかり整ったお弁当を作っている。
中身は。
中身、だけは。
問題というか、驚愕ポイントはその様相である。私は、兄を驚かせるべく、キャラクターものの弁当を作っている。それも、可愛いキャラクターではなく、天才版画家の作品を模したものや彫刻作品を模した弁当など、可愛くない、明らかに普通じゃない弁当を作った。可愛さからはかけ離れている。でも食べる気しないと思われて食べられなければ本末転倒だから、きちんと芸術的で、あっと驚かせ、でも気持ち悪くはない。その微妙なラインを狙い続けている。そして、「見た目が派手なだけか」と、油断している頃を狙って、実はハンバーグ弁当に見えて、ハンバーグを二つに割ってみれば生姜焼きが出てくる、なんてギミックをつけた偽装ハンバーグ弁当など、油断させつつ、驚かせることを繰り返した。まさに驚きの二段弁当。完璧である。弁当のメニューの考案の為にやや睡眠時間が削られているが、私の睡眠時間が少し減ることなんてどうでもいい。いざとなれば学校で、休み時間に寝る。
そして今日は肖像画をモチーフにした弁当だ。数々のギミックを仕込み、二重にも三重にも驚ける仕掛けがある。会心の出来にほくそ笑んでいると、突然目の前に包みを差し出された。
「舞」
「え、お兄ちゃん!?」
中を見られたらまずいと慌てて弁当に蓋をかぶせ、そのまま包んでいく。すると兄は小さな袋をキッチンのカウンターに置いた。手を出さずにいると、兄は焦れた様に私に向かってそれを滑らせる。
「……? なに?」
「いつもお弁当作ってくれるから、お礼」
簡素な言い方で、今さっき私が包んだ弁当を持ち二階の自室へと戻って行こうとする兄。私に、贈り物を……? 誕生日プレゼントを貰ったことはある。でもこんな改まったプレゼントは始めてもらう。……ああ、だめだ。呆然としていてお礼を言ってない。言わなきゃ。
「あ、ありがとうお兄ちゃん!」
「……別に」
急いでお礼を言うと兄はこちらを一瞥し、そのままリビングを後にする。その背中を見送って袋を開くと黒い蝶々のようなシュシュが入っていた。可愛い。嬉しい。私は嬉しさのあまりシュシュを抱きしめ、その後天井の光にかざすようにして、いつまでもそうしていた。
◇
「めっちゃ喉乾いた」
駄目だ。喉乾きすぎて眠れない。何度もまだいけると思って眠ろうとしたけど、喉がすごいパサパサする。ベッドから起き上がって、部屋を出る。兄の部屋の扉から光は漏れ出ていない。今は午前三時。それもそうかと納得して、階段を降りていく。そのまま台所に向かうと、薄暗いライトが点灯していた。お父さん、お母さん、兄、三人のうち誰か。っていうかその誰かじゃなきゃすごく困る。
一応用心しつつ、そっと扉を開くと、兄の横顔が見えた。無表情で、何かを捨てている。手元をよく見ると、ラッピングされた手作りのクッキーだ。何個も何個も何個も、事務作業のように捨てている。いつもの、兄の目じゃない。冷たい目をするけど、兄の、この目は。
本性を現した後の黒辺くんだ。
そうはっきりと感じた瞬間、足がぴたりと床に張り付き、身体が前へと進まない。声も、出てこない。なんとか身体を動かそうとすると、ようやく後ろに下がることは出来た。そのまま気づかれないように扉を閉じ、部屋に戻り、自分の部屋の扉を閉め、そのまま床にへたり込む。
確かに、驚いたのでは?と思ったことはあっても、その手ごたえを感じたことはなかった。でも、微々たる驚きが蓄積し、その変化で、惨劇を回避できるんじゃないかと期待をしていた。しかしさっきの兄の様子は、あれは間違いなく黒辺くんだった。
届いていないのかもしれない。どうすればいいんだろう。
どうすれば兄を、惨劇に向かわせずに、引き起こさせずに済むんだろう。
心臓がうるさく脈打つのを感じながら、ただただその場に座り込むことしかできなかった。
◇
あれから一夜明けた私は、ろくに眠ることも出来ず、さらに兄にどんな弁当を作っていいかわからず、本当に、なんの驚きもない普通のお弁当を作ってしまった。昨日は某有名な肖像画をモチーフにしたお弁当を作り上げ、さらに絶対食べにくい見てくれをしつつ超絶食べやすく工夫をこらし、味もとてもいい感じにしたから、今日普通の弁当を作ったことで、驚かせることが出来るかもしれない。でも、この驚き、果たして意味があるのかと思ってもしまう。
包んだお弁当を持ち、見つめていると、その手に自分のものではない手が重なった。顔を上げると兄がじっと私を見ている。
「何かあった?」
優しく、私の頭をなでる兄。兄が私の頭を撫でるのはいつぶりだろう。思えば驚きの提供を初めて、しばらくして……猫を庇ったあたりから、兄は私のことを撫でようとはしていなかった気がする。それどころか、手以外に触れてくるのは殆ど無かったような。何だか酷く不思議だ。
「別に何も、ないよ」
「言いなよ、言うまでここ動かないから」
深淵のような兄の瞳が、ほんの少しだけ揺れているようにも見える。言うべきか、言わないべきか。でも、言うまでここを動かないと言う兄の言葉はきっと本当だと思う。冗談の雰囲気でもないし。
「昨日、の、夜、何か捨ててた、ね」
恐る恐る、昨夜の兄の行動について触れる。手作りらしきクッキーについては、何となく言うのが憚られた。私の指摘に兄は動じている様子はない。それどころか少しだけ拍子抜けしたような素振りを見せる。
「ああ、勿体ないとは思うけど、俺、舞以外の手作りは無理だから。色々怖いし」
僅かに、馬鹿にしたように笑う兄。決してあの時の目つきは、手作りに怯えている目つきじゃなかった。怯えさせる目つきだった。手作りが無理、そんな風には思えない。兄にそんな悪意を持ったような行動をする人はいないと思うし、どちらかというと、むしろ……逆では……。
「そんな悪いことする人、いないと思うよ」
「舞にとってはそうじゃない? ……今日はどんなお弁当なんだろ」
「爆発する」
あえて神妙な面持ちで伝えると、兄は目を細めながら、私の頭に手を伸ばす。
「……いつもありがとうね、舞」
頭から、髪に触れて、まるで慈しむように笑うと兄はいつも通り去って行く。その背中は、いつも見慣れた兄そのもの。血に染まってもいないし、今持っているのはナイフじゃなくてお弁当だ。……今は。
ポケットにしまっていたシュシュを取り出し、結んでいた髪につける。鏡を見てずれていないか確認して、二階に上がる兄を追う。
「シュシュ!」
力いっぱい兄を呼びかける。兄はさしておどろく様子もなく振り向いた。相変わらず目に光がなく、深い闇を感じる目つきだ。でも、じっと見ていると心なしか前より光があるような気も、しなくはない。
「つけた! ありがと!」
兄にシュシュを見せるように首を曲げると、とん、とん、と階段を下りてくる音がした。顔をあげると兄の顔が迫って来ている。
「え」
「ちょっと曲がってる」
いつの間にか、視界いっぱいの兄の顔。真っ暗な瞳に、ほんの少しだけ私の間抜け顔が映り込んだ。
「出来上がり」
兄の手が、髪から離れる。その瞬間ふわりと兄の石鹸のような清潔な匂いを感じて心臓が跳ねた。
「早くしないと学校遅れるよ」
「う、うん。今行く」
急いで台所に戻って、自分の弁当を取り二階へと駆け上がる。
私が兄に怯え、予想外の提供をやめてしまったら、本当に恐ろしい惨劇を迎えることになってしまう。もとより、四十人の殺し合いを見たくて、そして実行してしまう人だ。簡単に考えを改めることはしない。まだ時間はある。足を止めてる暇はない。私は、兄の惨劇を回避する義務がある。そして、兄の命を救う。
私は、兄を追うように兄のいる中学校に進学した。当然だ。兄が一年一年年を重ねるように、私だって成長をしている。ということで兄は中学三年生、私は中学一年生だ。そこで私の奇行は知られることなく、何故か病弱ということに塗り替えられていた。兄の担任を受け持った先生や、兄を知る先生には必ず「今日は大丈夫か」「体調は悪くないか?」と尋ねられる。持久走の時、厳しそうな体育の先生が、私が走っている所を見て、「何をさせてるんだ!!」と担当の先生を怒鳴りつけて、途中から見学にさせられたこともあった。なんだかよくわからない。確かに池に飛び込み十回に一回は風邪を引いていたから、よく風邪を引くと言う意味では正しい。けど、何だかその度合いが酷い様な気もする。
一方の兄は小学校と同じように中学でも評判が良く、優等生と有名人であった。たまに二年生、三年生に声をかけられ、兄に渡してほしいと物を貰ったりすることや、連絡先を訪ねられ半ば配達の人として働いていたけど、それは一ヵ月でぴたりと止んだ。
◇
「いてて……」
麗らかな休日の早朝。私は先ほど転倒して強打した肘をさすりながらリビングに向かう。けれど私のニュースタイル衣装によって肘に手があまりとどかない。爪の先がぎりぎりだ。何とかリビングに到着し部屋に入ろうとすると、今度はボフッと音がして部屋に入れなくなる。身体を横に向け、押し付けるようにしてようやく部屋に入れた。リビングの中央に移動して近くに置かれた姿見を見ると、そこにはハンバーガーの着ぐるみを着た私が立っている。
そう、今の私はハンバーガーだ。
今週の水曜日、私は兄に「クレープ作ってあげるよ!」と言って見事なフランベを成功させた。何度も何度も練習して、それはそれは綺麗で安全な火柱を上げた。兄は「よく頑張ったね」と笑うばかりで驚きはなかった。念の為にと用意した消火器は無事使わずに済んだから、家に元々防災目的で置いてあるものがあるし、新しいほうを防災目的として入れ替え、古いほうは兄の驚き提供に使用する。
今週の木曜日、私は兄の部屋からリビングに至るまでにドミノを作り上げた。テーマは全国巡り。北海道の牧場の牛から東京の雷おこし、大阪のたこ焼き、沖縄のゴーヤなどを模したドミノを要所に設置し、きちんと飽きないように工夫をした。きちんと兄が初めにドミノを発見し、驚き、恐る恐るのゆったりした足取りでドミノを追っていくのも計算していたから、兄はきちんと要所のドミノ観光を完遂することが出来た。そして今回はドミノだけじゃなかった。ドミノは定期開催している私の驚き提供博覧会。繰り返していれば「飽き」は確実にやってくる。しかしそこで、その「飽き」を打ち消す「驚き」を提供することこそ、「予想外」に繋がるのだ。だから私はせっせとプログラムを組み上げ、映画を見る為に使っているプロジェクターを使用し、ドミノの終着点、リビングで盛大にプロジェクションマッピングを披露した。きらきらとした春夏秋冬の極彩色の最後、輝かしいまでのレインボーカラー太字ゴシック体で、『特に意味は無いです』と表示される驚き。最早アトラクションと言ってもいいだろう。それを、兄は! 「良く出来てるね」の一言で済ませたのだ。
だから私は、昨日、金曜日は全く何も起こさないで普通に過ごし油断させていた。そして休日土曜日、このハンバーガースタイル! さぞ驚くだろう。昨日まで普通の妹で、「あれ? 更生した? 頭おかしいの直った?」と思わせておいてこのハンバーガースタイル! いける!
ハンバーガーの着ぐるみは、ネットで購入した。他にポテト、ドリンクなど様々な種類があったが、見た目のインパクトが強く、やたら大きそうという理由でハンバーガーにした。リビングに来るまでの間、かならず引っかかるのに、それを忘れて何回か転んで痛かった。正直、またベランダから落ちたり、庭に大穴を開けたり、池に飛び込んでしまいたい。その方が手っ取り早い。小さい頃より体は大きくなっているし、水しぶきもおおきくなってるはず。なのに兄は家から出ると私の手を絶対に離さない。離す時はトイレか食事中のみだ。だから今日は早朝から、兄の監視がリセットされる朝からこのスタイルに変化し、驚きを提供する。
そろそろ兄の起きてくる時間だ。朝起きてリビングの中央に巨大なハンバーガーがあって、それが動き出し、さらにそれが妹だったらさぞ驚くに違いない。勝利を確信する笑いを堪えながら待っていると、兄はのこのこリビングに現れた。
「舞、おはよ。早いね」
兄は突如リビングに降臨したハンバーガーを一瞥した後、隣に座り、ふわふわバンズ部分を少し潰して私の手を握る……というよりがっしりと掴むようにした。離す気配が一向にない。軽く引っ張ってみても離さない。驚きの提供も兼ねて軽くかじると兄は私を冷たく見下す。え、今日朝から繋いでる気? っていうか家だし、驚かないならもう脱ぎたい。今、普通に暑いし。
「今、家の中だよ?」
「だから? 嫌ならリードにしてもいいけど?」
兄は表情一つ変えない。本気だ。完全に本気。これは珍獣か何かだと思われている可能性が極めて高い。由々しき事態だ。惨劇の一夜を回避した後、普通の生活に戻った後も、兄から私への監視体制はしばらくは続きそうな気がする。一度失った信用、というよりレッテルを剥がすのは中々難しい。惨劇の一夜回避後は、誰がどう見ても真人間だと思われるよう真っ当な生活に努めなければ。
◇
「ううん、今日はいいや、辞めておくよ」
「えー? でもいっつもそう言って舞来ないじゃん」
「また今度誘って、本当にごめんね」
放課後、遊びに誘ってくれる友達に断りを入れる。申し訳ないけど、私には驚きの提供というライフワークがある。勉強より大事だ。何せ人の命がかかっている。昇降口で頭を下げていると、ふと目の前の友達が私の背後を見て顔を赤くした。
「舞」
振り返ると、兄が立っている。黒辺くんはさよ獄でも屈指の顔の良いキャラクターであった為か、兄も綺麗な顔をしていると思う。私と兄の血が繋がっていないことは別に聞かれてもないし言いふらすことでもないから言っていないけど、察されているだろうなと思う。
「今日、お祖父ちゃんの法事だから早く帰るって言ってたでしょ、忘れてた?」
「え」
「いつも舞と仲良くしてくれてありがとう。……ほら行くよ」
兄は私の腕を掴み、当然のように引っ張っていく。
お祖父ちゃんの法事……? それって一か月後のことでは?
「ま、待ってお兄ちゃん。今日法事なんてあった?」
「あれ、違ったっけ? 何か曖昧なんだよね。葬式とか法事とか」
私の腕を離すことなくすたすたと歩く兄の声に、反省の色もなければ驚きの声もない。まるで予定調和であったかのようだ。兄はそのまま校門を出て、少し歩き学生たちがひしめきあう通学路から逸れていくと、腕を掴んでいた手を徐々に下ろしていき、手を繋ぐ。兄の手はいつもひんやりとしていて気持ちがいい。でも私の手は暑い。気持ち悪くならないのかなと思う時もあるけど、もう慣れているとも思う。
「そういえば来週修学旅行だね」
来週、兄は北海道へ二泊三日の修学旅行を控えている。兄が両親にしていた説明曰く、あっちでイルミネーションを見たり、牧場の見学をするそうだ。だからその予習も兼ねて、昨日は幼児が押して遊ぶ押し車を改造し、牛がイルミネーション風にライトアップするように輝く押し車を押して追いまわした。まだまだ改造の余地があるから、次にする時は近隣への防音処理をしてから押すと大音量の曲が流れるようにしようと思う。
「……、お兄ちゃん?」
お兄ちゃんは屈みこみ、激しく咳き込み始めた。とりあえず背中をさすろうとするけど、兄は私の手をしっかり握っていてさすれず、向かい合うようにして空いてる手で背中をさする。
「お兄ちゃん大丈夫?」
「うん……、まぁ、風邪みたいな……? 寝てれば治るよ」
そう言いながらも兄は苦しそうに咳き込む。顔色も悪いように思えて来た。
「帰ろ、舞。帰って休みたい……」
「うん、帰ろお兄ちゃん」
支えたいけど、兄は私の手をきつく握って離さない。私はせめて兄がふらつかないようその手をしっかり握り、帰宅を急いだ。
「舞、お兄ちゃん修学旅行お休みするみたいだから」
朝、学校に向かおうとすると、お母さんは不安げに宣言した。兄はここ最近咳き込み、どことなく気怠そうにしていて、私は驚きの提供を停止していた。惨劇が起きる日はこうしている間にも近付いてきているけど、流石に熱がありそうな病人に対してドミノ倒しを決行することはしたくない。早く驚かせたいからというのもあるけど、普通に治して良くなってほしいと願っていた。でも修学旅行当日、完全に熱が出てしまうとは。
おかゆ、作った方がいいのだろうか。でも私が作ったら兄は警戒するかもしれない。というか私は顔を見せない方がいいのでは? 兄とずっと一緒にいたけれど、兄が風邪を引き弱っているところなんて初めてだからどうしたらいいか分からない。やっぱりいつも何か仕掛けてくる相手は外に出ていた方が落ち着けるような。
「お母さん、一旦会社行って、その後お兄ちゃんと病院行くから。舞が学校から帰るまでに戻ってくると思うけど、もし一人だったら誰か来ても開けちゃだめよ」
「うん、いってきます」
家を出て、振り返る。兄は今、家に一人。それも慣れない風邪を引いている。残していくのは何だかとても、忍びない気がする。通学鞄を肩にかけながら見慣れた通学路を歩いていくと、もやもやした感情がどんどん溢れ出てくる。
「やっぱやめだ」
学校は、遅刻でいい。踵を返して走っていくと、私と同じように肩に鞄をかけた子たちが逆走する私を不思議そうに見ている。今日はもういい。ずる休みだ! 開き直って家まで走って駆けて行き、鍵を開けて玄関を開いたところでまた止まる。
今私が帰って来たことを知れば、お兄ちゃんは身体が休まらなくなるのでは?
私は常日頃、兄に対して驚きの提供をしている。私の帰宅を知れば、兄は警戒態勢に入るだろう。となると、ここは兄に悟られず帰宅する方がいいのでは。でも帰宅を知られていなければ、看病をすることは出来ない。
やっぱり学校に行った方がいいのかと思いなおしていると、突然目の前の扉が開かれた。
「え」
扉が開かれ、現れた我が家の玄関には兄が平然とした顔で立ち、こちらを見下ろしている。なんで私が帰って来たことがバレた? もしかして出掛けようとしていた?
「お兄ちゃん、どうしたの……?」
「舞がずーっと家の前でうろうろしてるのが部屋から見えたから。どうしたの? 忘れ物? それとも鍵を置いて来たとか?」
どこか値踏みするような兄の目。完全に警戒されている。日頃の行いだから仕方ないことだ。
「お兄ちゃん。お兄ちゃんが治るまで、絶対何もしないから、お兄ちゃんの看病したら駄目かな」
「好きにしな。母さんは仕事行くみたいだし、俺から学校に連絡しておくよ」
兄に促されるまま、家に入る。何だか元気なような……? 顔色も大分いい。恐る恐る靴を脱ぐ。今家には私と兄だけだ。兄が倒れたら私が救急車を呼ばなきゃならない。
「朝ごはん食べれた?」
「ううん」
「食欲はありそう?」
「少しは」
兄の短い返答を聞きながら、鞄を置いて腕をまくりつつ台所に向かっていく。おかゆを作ろう。作っておけばお母さんも楽だろうし、今食べられなくても病院に行って帰って来た後すぐに食べられる。薬とかって、空腹時飲めないものも多いし。台所で手を洗っていると、カウンター越しにリビングで電話をかけている兄が見えた。
「はい、黒辺舞の兄です。はい……昨日から熱が下がらなくて、今日病院に行くのですが、念の為明日明後日とお休みします……」
え、今、兄、何を言った? 「黒辺舞の兄です」って言って欠席連絡してるよね……? 私、今日明日明後日と休み……? 何で? こんな元気なのに?
「すみません、大丈夫です……僕の風邪をうつしてしまって……う、はい……今母が手離せなくて……すいません、よろしくお願いします……」
兄は弱々しい声色で何回か言葉を交わすと、咳き込みながら電話を切った。そして溜息を吐くと、けろっとした顔でこちらを向く。
「え、お兄ちゃん私の欠席連絡入れてた……? お兄ちゃんじゃなくて?」
「そうだよ」
「なんで!?」
「だって、もしインフルエンザとか感染力の高い病気だったら、症状が出てないだけで舞に感染しているかもしれないし。そうなると舞、細菌ばら撒くことになるよ? いいの?」
そう言われると、確かにそんなような気もする。でも果たして兄はインフルエンザなのだろうか。季節的に今は六月だし。
「勉強は俺が教えてあげるから、心配しないで」
兄はキッチンカウンターに肘を置きながら、こちらを覗き込む。なんだかいいように言いくるめられているような気がしてならない。でも兄を一人にするのも問題だし、早く元気になってもらいたい。その為に通学を三日くらい犠牲にするのは別にいいかと、私は兄の監視を受けながらおかゆづくりを始めた。
◇
「……お母さん遅くない?」
兄が私の作ったおかゆを食べ終え、時計を確認すると時間はもう十一時になっていた。お母さんは、一旦会社に行き、そして家に戻り病院に連れて行くと言っていた。お母さんが家を出たのは、推定朝八時。もう三時間が経っている。それはあまりに遅すぎるような。
「あ、人身事故の影響で、お母さんの使ってる路線、遅延してるみたいだよ」
スマホを興味無さげに操作し、ポケットにしまいこむと兄は椅子の背もたれに腰かける。
「早いルートだと思って勧めたけど、失敗だったかな」
「え」
「お母さんがいつも使ってるルートより早く行けるよって、別のルート教えてあげたんだけど、飛び降りで結局一番遅くなったみたい」
一瞬、兄の仕業ではと勘ぐってしまう。だって、兄はとても今愉快そうだ。「自分の思い通りに進むと気分がいい」とでも言いたげな、全くもって心の痛んだ様子がない。でも、人身事故なんて操作しようがないし……。
「何か熱下がって来た気がするし、勉強教えてあげるよ、二階行こう」
「うん……」
何だか、また上手く言いくるめられている気がする。どこか違和感を抱えながら、私は兄の差し出して来た手を取った。
◇
私は十四歳、兄は十六歳。私は中学二年生、兄は高校に進学した。 一歳違いなら二年間中学校を場にした驚きの提供ができるのに、私と兄は二歳の年の差がある。私が中学に入学して一年経ち、兄はささっと、さよ獄の舞台である高校に入学した。遠回しに「もっと偏差値高いところ狙えるんじゃない?」と言ってみたものの、抗いがたい運命が作用しているのか「家が近いから」との一点張りで来年度惨劇を引き起こす高校に入学した。
それ以外は、何か今までの生活に劇的な変化は訪れていない。兄が高校にいる間驚きの提供が出来ないという大変な問題はあるものの、兄は私を中学に送り届けて高校に行き、中学に私を迎えに来て家に帰る。何だか私が小学生、兄が中学生であった時を彷彿とさせるような、懐かしい感じがする。だから通学途中に安全に留意した形で高度な手品を披露したり、パントマイムを披露しているけど兄は私の手を絶対離さない為に、片手で驚きを提供する縛りがあり、かなり大変だ。いっそリードつけてもらえば両手は空くけど、普通にリードつけて通学するのはきつすぎる。
よって、驚きの提供は家に比重を置かざるをえない。マネキンにポテトとジュースの着ぐるみを着せ、私がハンバーガーの着ぐるみを着ると見せかけそれもマネキン、実はそれらを載せているトレーが私であるような心理戦を繰り広げたり、私が分裂したように見せたり、自宅の移動式掃除機を改造してミラーボールが輝きながら延々と兄を追尾するようにしてみたり。それらに対し馬鹿にした笑いはするものの微笑み程度で、もういっそお風呂に入ってる兄めがけて鰤の着ぐるみを着て「海に帰してえええええええ」とか言いながら飛び込んでしまおうと思ったけど、兄は先日移動式掃除機に私の購入した生首を取りつけ私を追うように細工し復讐をしてきた。今まで兄は笑うばかりでやり返すことはしなかったから、かなり大きな進歩だと思う。
「ここ、違うよ」
兄がとん、とノートに書かれた数式を指差す。現在私は、兄に勉強を教わっていた。そのこと自体は珍しいものではないけど、私が中学二年生になり、受験を控えるようになったということで兄が受験勉強を教える家庭教師というか、家庭内教師を務めるらしい。兄は確かに優秀で、テストは全て高成績。塾へ行ったり家庭教師を雇うより、兄に教わった方が経済的だし、頭も良くなると思う。そして私は兄と同じ高校に行かなければいけないらしい。両親曰く、「舞が行きたい高校がなければ是非ともお兄ちゃんと一緒の高校に行ってもらいたい」そうだ。私は別になりたいこともまだ決まってないし、「この高校に行かないとなれない!」という職業を志しているわけでもない。だから二つ返事で了承し、私の志望校の先輩でもある兄に勉強を教わっている。
「ねえ、私の合格率どんな感じかな?」
「まだ分からないよ。当日の結果がすべてだしね」
「お兄ちゃん的には?」
「半分くらいじゃない?」
「うわぁ」
兄の力をもってしても、合格率半分。驚き提供時間を減らせば勉強時間にあてられるけど、出来ればそれはしたくない。これから頑張ればいけるだろうか。
とりあえず秘策として学んでいたあれを試してみよう。
『お兄ちゃん、ちょっとここ分からないんだけど』
ノートを示し、何事もなくスペイン語で話す。
これは、私が受験勉強と驚きの提供を両立させようとした結果だ。日本語以外の言語の習得である。他国の言語を習得し続ければ、受験でかなり有利になるし、兄を驚かせることが出来る。この間までただ日本語を話し、英訳に難を示していた私が、突然スペイン語で話すのだ。きっと兄には相当な驚きのはず。勝利を確信して兄の方を振り向くと、兄は特に目を見開いてもいなければ、驚いた様子も無い。
「どこが分からないの? 公式の当てはめ方?」
『公式の当てはめ方は分かるけど、その後の応用が分からなくて』
「ああ、それは……」
平然と兄は私の指摘した箇所を解説しようとする。嘘でしょ、通じてる……? 驚きのあまり言葉を紡げないでいると、兄はそのままノートを覗き込むように顔を近づけてくる。
「何驚いてるの? 何ならスペイン語で教えてあげようか?」
「結構です……」
「じゃあちゃんと勉強しようね」
「はい……」
私が驚いてどうするんだ。っていうかまさか通じているとは思わなかった。何なんだ兄は。どこまで優秀でいれば気が済むんだ。中国語やフランス語、イタリア語は学校の選択授業で学ぶところが多いからとスペイン語を選択したのに、まさか履修済みだとは。兄はよく勉強中音楽を聞いていると言っていたけど、そういうリスニングでもしているのだろうか。
「……そういえば、昨日、迎えに行く時横にいたのって、誰?」
昨日……昨日……の放課後……。手押し車を改造した前……。ひとつひとつ記憶を思い出して、一人の人物が浮かび上がる。昨日兄の迎えを待っている時、同じクラスの男子が話しかけてきた。兄と一緒に帰ることを珍しがっていて、志望校のことなど色々聞いて来て、そのまま去られた。
「同じクラスの男子だよ」
「ふぅん。仲良いの?」
「昨日話したのが初めてって感じかなあ……、志望校聞かれて、色々話して、終わった」
「へぇ……」
私の言葉に、兄は白けたような表情を見せる。何でそんな顔をしてくるのかよく分からない。何の地雷踏んだ……? 最近の兄は、本当に良く分からない。何なんだろう、一体。
私は中学三年になり、兄も高校二年生になった。そう、とうとう惨劇の年が来たのである。
そして、そんな兄がおかしくなってしまった。
今まで人を家に呼ぶなんてことは絶対にしなかった。まるで家が絶対的に他者を寄せ付けてはいけない領域と言わんばかりに誰も家に誘わなかった。だから私も人と遊ぶとき、家に人を呼んじゃいけないんだろうなあとは思っていた。まぁ驚き提供の為に誰とも遊ぶことはしなかったけど。
にも関わらず兄はここ一月の間に、持ち前の人心掌握術もといコミュ力で、友人を呼び、我が家で勉強会を定期的に開くようになったのだ。驚きである。勉強会の会場は、リビングで兄の部屋ではないけれど、我が家に人がいる。すごいことだと思う。
そして、さらに驚きなのは、その勉強会メンバーの中に、さよ獄ヒロイン、姫ヶ崎さんがいたことだ。兄が、姫ヶ崎さんを家に連れて来たのだ。
そんな姫ヶ崎さんだが、兄に気があるらしい。兄に対してのみ、甘い声で話し、目を潤ませ、肩に触れる。初めは気のせいという可能性も加味していたけど、勉強会が二回目、三回目と回数を重ねる度、それが確信に変わっていった。
姫ヶ崎さんは必ず兄の隣に座り、他の誰かが座っていると、「ええ、私黒辺くんに質問沢山あるんだけどなあ」と除けたり、さらには兄と二人きりの空間を作り出そうとするようになるなど、行動はどんどん大胆になっている。気のせいの可能性はどんどん消え去り、今では姫ヶ崎さんは兄のことが好きだと確信では無く認識している。
一方の兄はそんな姫ヶ崎さんに対し、特に嫌悪や警戒を示すこともなければ、冷たい目で見ることもなく、極めて自然に接している。今まで私の友達がかっこいいと兄をもてはやし、積極的にアピールをしていたときは、兄は本当に、友達の見えてないところで氷のような、背筋が凍るような目を向けていた。にも関わらず、姫ヶ崎さんに対しては、そういう鬼のような対応はしていない。
「さよ獄」で姫ヶ崎さんは、誰も好きじゃない、という感じだった。それは黒辺くんも同じだ。いや黒辺君の場合は「人間に興味が無い」という感じだったけど。とにかく「さよ獄」の開始時にはそういう描写が無かった。姫ヶ崎さんは誰とも付き合っていない、高嶺の花。黒辺くんも人の生き死ににしか興味が無い。だから二人は一時期付き合ってましたなんて裏設定もない。
ならば、二人がくっついていい感じになれば、恋の力というやつで、兄も凶行に走らなくなるかもしれない。そう考えた私は現在、恋のキューピットとして、姫ヶ崎さんと兄をくっつけるべく尽力することにしている。
兄は勉強会で、必ず私を呼ぶ。「お菓子ってどこにあったっけ?」だとか、「ジュースのコップの予備知らない?」など、使い走りをさせられる。
そして、私が顔を出すと、兄は私の紹介を始めるのだ。これが、いつも兄の勉強会の面々が同じであるならば、毎回毎回自分の妹を紹介することをルーティーンとする、とんだ狂気の兄だが、兄の勉強会に参加する人間は決まってない。大抵新しく来る人間が二、三人いて、お菓子、飲み物搬入の為部屋に入室、初対面、ご紹介、退出という流れが出来る。
だからリビングの音を聞き、ジュースが無くなりそうな頃合いを見計らい姫ヶ崎さんに手伝ってもらう体で、姫ヶ崎さんを呼び出しつつさり気なく兄を呼び二人でジュースを買いに行くよう仕向けたり、冷蔵庫付近で二人で言葉を交わせる状況にしたりと、さりげなく兄と姫ヶ崎さんの仲を接近させる手助けをしている。
「舞ちゃん、身体弱いんだって?」
「え?」
「黒辺に聞いたよ。昔は良く入院したって」
今日も今日とて兄と姫ヶ崎さんを台所に向かわせ、順調な関係性の進展にほくそ笑んでいると兄の友人が声をかけてきた。この人はさよ獄の登場人物にいなかったから、きっと二年になったらクラスが離れてしまう人なのだろうと思う。それにしても昔はよく入院してたってなんだろう。トラックに跳ね飛ばされて検査入院したことはあったけど、このニュアンスだと頻繁に入院している人みたいだ。
「ま、まぁそうですね、ははは」
「最近はどうなの、元気?」
「はい、最近は元気ですね、ははは」
兄は一体どういう説明をしてるんだろう。中学の時もそうだったけど、私を病弱にして兄に何の益があるというのか。「妹が病弱なので早く帰ります」みたいなことを言って、面倒なことを避けるにしても、完全に限度を超えていると思う。ここまでする必要は絶対にない。
「じゃあさ、今度一緒に出掛けない?」
「出かける? 私も入れてってことですか?」
「そうそう、俺、舞ちゃんと仲良くなりたいっていうか、何か面白いお弁当作ったりしてるところとかいいなと思っててさ」
兄、見せびらかしたりしてるのだろうか……? でもそんな感じはしないしな……。何か兄のクラスメイトの私のイメージが兄によってかなり作り上げられているような気がしてならない。不思議に思っていると兄と姫ヶ崎さんがお菓子を持ってやってきた。
「あんまり舞のことからかうのやめてよ、本気にして考え込んで、熱出すから」
「いや俺本気だし、舞ちゃん、俺本気だからね!」
兄の友人の言葉に、他の人たちが「ロリコンかよ」と囃し立てる。兄の方を見ると、私を温度のない瞳で見据えている。「何かやったろ」という目だ。私は兄と違って兄を病人扱いしないし、変なイメージを作り上げたりしない。同級生に「お兄ちゃんかっこいいね」と言われたら素直に頷くだけだ。やましいことは何一つないと見返すと、兄は溜息をついて私から目をそらした。
◇
兄の勉強会は、相変わらず続いている。テスト期間だけだと思っていたけど、どうやらテストが終わっても続いているようだ。前までは兄と帰って勉強してを繰り返していたから、たまにはクラスの子と勉強しようと思ったけど、何となく乗り気もせずに躊躇い、結局私は家に帰ってきている。勉強会のある日は、兄は皆と帰って来るし、皆がいるから驚きの提供が出来ない。だから私は兄と姫ヶ崎さんをくっつけることに尽力する。そして今日も、私は姫ヶ崎さんに「ちょっとジュース運ぶの、手伝ってもらえませんか?」と台所に呼び出した。
今、私は冷蔵庫を漁るふりをし、姫ヶ崎さんは私の後ろに立っている。ジュースが無いふりをし、姫ヶ崎さんに買ってきてもらうよう頼んで、兄と一緒に買いに行ってもらう作戦だ。
このまま台所に姫ヶ崎さんを残し、私はリビングで「ジュース無かったんだけど、お兄ちゃん買ってきてくれない? ついでに私のアイスも!」と兄におねだりする妹を演じるだけでいい。「私勉強あるから!」とゴリ押しで行こう。
「姫ヶ崎さん、すみません、ジュースないみたいで。ちょっと待っててください、お兄ちゃん呼んできますから!」
そう言って、兄の部屋に向かおうとしたときだった。ふいに、姫ヶ崎さんに腕を掴まれる。
「姫ヶ崎さん?」
「わたし、わたしね、舞ちゃんのお兄さん、ううん、誠くんに告白しようと思うの」
おお、とうとう告白だ。こういう時、なんて言えばいいんだろう、頑張ってください?
「頑張っってくださ……」
「応援してくれる?」
言い終える前に、すがる様に姫ヶ崎さんに問いかけられ、私は笑顔を作って、「勿論!」と大きく頷く。このまま上手くいってくれればいい。うまくいってくれれば。惨劇は起きないはずだし、兄は死なずに済む。だけど不思議と苦しい。
「お兄ちゃん、呼んできますね。ジュース、買ってきてもらわなきゃ」
今、私はちゃんと言葉を話せているだろうか。良く分からない。足元がぐにゃぐにゃと歪んでいく気がしながら、私は兄の元へと向かった。
◇
姫ヶ崎さんの告白宣言から数時間後、ベッドに転がり、私は苦しんでいる。勉強会がお開きになり、兄の友人たちが帰った後、「実は今日、姫ヶ崎さんに告白されてたんだよね」と兄は私に話をした。「どう思う?」と意見を求められたから、「存分に青春を謳歌して!」と答えると、「舞が言うなら、そうしようかな」と笑っていた。それからだ、何だか胸がずきずき痛くて苦しい。
これは、罪悪感かもしれない。クラスの花である姫ヶ崎さんが我が兄黒辺くんとくっつけてしまう、罪悪感。
ごめん、姫ヶ崎さんを想うクラスメイトの人たち、そして主人公田中くん。でも、これも惨劇の一夜を繰り返さないためだから。姫ヶ崎さんをどうか、黒辺くんにください。姫ヶ崎さんのクラスメイトに心の中でお願いすると、また心臓が痛くなる。本当に痛い、病気かもしれない。何か泣けてきたし、本当に嫌だ。なんかお腹も痛いし。いい加減にしてほしい。ベッドでごろごろ転がっていると、不意にノックの音が響く。この規則正しい音は、兄のものだ。もういいや返事とかしなくて、放っておこうとそのままベッドに潜っていると、扉が開く音がした。
勝手に、入って来てる。もういいや寝てるふりだ。私は寝てる。ふて寝だ。……いや何でふて寝なんてしなきゃいけないんだ。これは何寝だろう……? いいや、とにかく私は寝てる。起こさないでほしい。じっとしていると、兄の足音はやがて私の前で止まる。そしてそのまま兄はブランケットの上から私の肩を掴んだ。
「舞、寝たふりしてても分かってるよ。呼吸の感じが違うから」
ブランケットごしだから、くぐもって聞こえる兄の声。だからなのか、いつもと違うように聞こえる。
「……断ったから」
何が、というのを兄は言わない。主語がない。反応に困っていると兄はブランケットごしに私の頭を撫でる。
「告白、断った」
姫ヶ崎さんの告白を断ったと言いたいのか。
はっきりと理解をすると、何となく、本当になんとなく心の固くなったものが柔らかくなっていくような、ほっとするような感じがした。何でだろう。とても安心するし、落ち着かなかった気持ちがすっと消えていく。
「……綺麗な人だったのに、後悔しない?」
自分でも、どうして出て来たのかわからない。私はそう言って、兄にどう返してほしいのだろう。分からない。でも兄が断ったと聞いて、安心して、甘えるように口から出てしまった。言ってしまった以上、言葉は戻って来てくれない。フォローの言葉を出した方がいいことは分かっているけど、どうにも何も言えない。どうしようか考えていると、兄は私の頭に軽く手をのせた。
「綺麗って言ったって、燃やして骨になれば皆一緒だよ。皮を剥けば、肉の塊だし」
頭にのせられた兄の手が離れていき、兄の気配が薄れ、扉が開閉する音がした。足音が兄の部屋の方へ消えていくのを見計らい、ブランケットから抜け出す。ずっと被っていたからか、顔が熱い。
「燃やして、骨になればって」
あんなに綺麗な人相手に、そんなこと言うの、きっとどこ探しても兄だけだろうと思う。そんな兄の言葉に少し笑いかけて、ふとその言葉に関して思い出す。
……同じようなこと、「黒辺くん」もさよ獄で、言ってなかっただろうか。
◇
「燃やして骨になれば皆一緒だけどさ、それに至るまでは、皆違うでしょ?」
いつになく、力のこもった声で、ひろしくんと、姫ヶ崎さんの前でそう訴える、黒辺くん。そう言って彼は、二人に襲い掛かったのだ。兄が、その時と同じ言葉を発した。あの蠱毒箱で兄の心の狂気の進捗状況を知ることは出来ないけれど、まだ、たったひとつ兄の狂気を知るところはある。兄の部屋の本棚の二段目だ。
黒辺くんはそこに、扉と鍵を取りつけ、動物を殺した時の感想の日記や、包丁、ナイフ、殺傷性能を高めたエアガンなどをしまった箱を隠している。温和で完璧で人気者の優等生を擬態するべく、パンドラの箱を封じ込めているのだ。
そこに細工さえされていなければ。
私のこの心のもやもやは、杞憂と言うことになる。
私は、去年の秋を境に、「兄は高校受験があるから」と兄の部屋に出入りすることをやめていた。だからその時と同じようにただ参考書が並んでいたら、兄は大丈夫だ。
慎重に兄の部屋の扉を開く。兄は今入浴中、絶対にこっちに来ることはない。そしてそっと部屋に入り、本棚に目を向け絶句する。
本棚の、二段目。並んでいたはずの参考書はなく、ダークカラーの本棚と揃えたような黒い板が取りつけられ、その下には小さな南京錠が付けられていた。
去年までは、なかったのに。
惨劇の一夜が差し迫った、今。それが、現れたのだ。
私はこの数か月、惨劇に至る夏が近づくことに怯えながらも、兄を何としてでも改心させようと尽力したが、この十年、突飛な行動を取り続けて来たこともあり、兄はちょっとやそっとの事じゃ驚かない。
志望校合格への勉強の為、朝は兄が起こしに来て勉強、登下校は兄の送り迎えがつきそこでも勉強、家に帰ると兄と勉強、休日は必ず兄と勉強という、勉強漬けの日々を送っている。勉強死というものがあるなら、間違いなく死んでる。「もう、ここまで来ると監視というより軟禁では」教科書を開き勉強漬けにされる日々を送る中で、ふと閃いた。
そう、軟禁。もとい監禁である。もう悠長なことは言ってられない。このままだと、間違いなく兄はあの地獄の、惨劇の一夜を引き起こしてしまうのだ。
惨劇の一夜当日、よりによって両親は町内会の温泉二泊三日旅行に発つことになった。監禁しなくても、旅行に兄がついていけばいい! と思い両親に頼んだが駄目だった。多分、さよ獄の黒辺くんは、両親がいないから、その日を惨劇の日に選んだのだと思う。
だから私は、その惨劇の一夜の日、兄を監禁することにした。
手錠や、予備含め三日は立て籠もれる食料と水、そして水を使わなくてもふき取りで汚れが落ちる、シャンプーとボティーソープセット。さらにトイレまで移動できる鎖をネットで内密に買った。
ただでさえ常軌を逸している兄の精神を悪化させないために、快適な監禁生活を送って頂くべく、レンタルショップで映画を十本借り、さらにプレイヤーを買ったし、兄の好きな推理小説、ホラー小説を二十冊買った。快適な監禁の用意は完璧である。
今まで貯めていたお小遣いとお年玉が全て消え、ほぼ無一文ではあるが、兄が犯罪者にならず、あの惨劇を未然に防ぐことがお金で解決出来るなら無問題である。というかもう、最初からこうしておけば良かった気がしてならない。四十人殺す状況は、両親が旅行に行ったり、学校のセキュリティがザルだったり、クラスメイトが全員肝試しに集まるという協調性の良さという偶然が重なった結果だ。兄は私から離れようとしないし、兄が意識的に何かを感じ取った段階でその都度監禁していけばいい。もうそれしかない。
そしてとうとう明日は惨劇が行われる。今日はいわゆる黒辺舞が実験感覚で殺される、「惨劇前日」だ。殺されると分かっていないなら防ぎようはないけれど、殺されると分かっているのだ。今日私は兄と二人きりにならなければいいし、「お母さんといっしょ」「お父さんといっしょ」とすり寄っていればいい。兄の出したものを飲まず、兄と二人きりにならない。寝ている間に何かされる可能性も考えて今日はお母さんと寝る。
今は午前八時。このままリビングに常駐だ。幸い庭には延々と植物についた小さな虫を取り除いているお父さんがいるし、ソファには延々と細かな刺繍をしている母がいる。ここにいれば安全だ。いわばセーフハウス。ソファに座る私の隣には私の手を握りスマホをいじる兄がいるけど、ここでスマホを私の頭にぶつけ殺すなんてことはしないだろう。
「そろそろ舞、着替える時間じゃない?」
「……は?」
唐突に発された兄の言葉に目を丸くすると、まるで援護射撃をするかのようにお母さんが口を開いた。
「ああ、そうよね、塾の体験学習十一時からでしょう? 支度してからゆっくりしなさい」
「え」
「学校じゃないと言えど、遅れたら駄目だぞ」
お父さんに諭され、訳も分からずお母さん、お父さん、兄を見ていくと、兄は立ち上がり私の腕を引いていく。
「え、お兄ちゃんどこ行くの?」
「舞ももう受験だから、塾に行くんだよ。もう二週間くらい前に話したよね? もう忘れた?」
言い聞かせるような言い方だけど、そんな話をされた記憶は一切ない。二週間前は兄にスロバキア語とポーランド語で話しかけ大敗し、その後ハンバーガー着ぐるみを改造し、チーズが溶け出して見えるような布を装着、兄と話をしている間に徐々に溶けだしていたら「あはは面白い引っこ抜きたくなるね」と全然面白くなさそうな声色で引っこ抜かれただけだ。塾なんて話はしてない。
にも関わらず兄は私の腕を引き、当然のようにリビングを出て階段を上がっていく。危ないって。階段から突き落とされたら死ぬ。ハンバーガーの着ぐるみを着ていたら確実に助かるけど、今はただの軽装備。死ぬ。でも兄は私を階段から突き落とす気配もなく、そのまま私の部屋に私を押す。
「え、な、なに? 塾とか聞いてないよ」
「言ってないからね」
さらっと大嘘を肯定する兄。反省の色は相変わらず皆無だ。
「えっと、何が目的なの……? 何をしようとしてるの?」
「うん。舞と一緒に、遊園地に行こうと思って」
そう言って、兄は柔らかく笑った。
◇
「
午後、活気あふれる園内で、スタッフの人が嬉しそうにこちらに手を振るのを横目に見る。
兄に手を引かれやってきたのは、断頭台でも断崖でも山の奥でもなく、本当に遊園地だった。正直意味が分からない。遊園地で殺すなんてリスクが高いことを兄がするようには思えないし、本当に一体何が目的なんだろう。今まで、家族で遊園地に行くことは確かにあった。だけど同じように動物園にも、水族館にも行った。ここがとても馴染み深い場所かといえばそうでもない。何か特別なことがあったとか、記念日に行くような場所でもない。
そうして訪れた遊園地の中でも、兄はアトラクションに乗じて私を殺そうとする素振りは見せない。
それどころか兄妹をふっ飛ばしてまるで恋人同士かのような繋ぎ方で手を繋ぎ、遊園地を楽しむようにも見えた。お化け屋敷は、驚きの提供によって研究を続けに続けたため私は慣れている。しかし兄は気まぐれに私の肩に触れてみたり、髪を撫でるなどの蛮行を繰り返すせいで死ぬ思いをしたし、ジェットコースターではわざわざジェットコースターの点検がきっちりと行われなかった為に起こされた事故について事細かに説明し、「まぁ、ここはしてるだろうけどね、海外の話だし、ははは」なんて背筋が凍るような話を平然とした。絶対に許す気はないと思っていたけれど、お昼にハンバーガーを食べ、「舞の作った方が美味しい」と言ったことから少し許したいと思う。
それにしても、今日は惨劇前日。兄はどうして私をこの場所に連れてきたいと思い、そして実際に連れてきたのだろう。私の驚きの提供によって、何か心境の変化が訪れて、この妹と最後の思い出を作ろうと、そう考えているのだろうか。
一通りアトラクションに乗った私たちは、特にあてもなく歩いている。兄の気持ちは分からないけど、多分目の入ったアトラクションが空いていたら乗ろうとか、そういうことを考えているのだろうと思う。
「あ、あれ乗ろうよ」
私が差し示すのはメリーゴーランドだ。馬や馬車が煌びやかな装飾をされ、ぐるぐると回っている。前にあんな感じの押し車で、私は兄を追いまわしたことがある。懐かしい。その後復讐されたけど。
「いいよ、乗ろう」
兄の足がメリーゴーランドへと向かっていく。観覧車やジェットコースターは長蛇の列をなしているにも関わらず、メリーゴーランドは十人ほどしか並んでいない。馬車は四人ほど乗れて、馬は二人乗りも可能。それがたくさんあるのだ。一度に乗れる数がジェットコースターや観覧車より多いから、回転率が高いのだろう。
メリーゴーランドに到着すると、並ぶ暇もなく係員の人に乗るよう誘導される。馬車、馬、どれにしようか悩ましい。でもあまり長く悩んではいられない。回転が始まってしまう。考えた末に外側に近い黒い馬に乗ることを決めて跨り、兄はどこに乗るのか振り返ると、すぐそば、それどころか真横に立っていた。
「ちょっと詰めて、舞」
「え」
肩のあたりを少し叩かれ、言われるがまま詰めるとしれっとした顔で兄は私と同じ馬に跨って来た。背中に兄の体温を感じる。意味が分からない。
「な、何で同じ馬に乗ってるの……?」
「一緒に乗れる人は乗った方が、皆沢山乗れるでしょ」
兄の言葉に周りを見ても、誰にも乗られていない馬の方が多いし、馬車にも人が乗り込んでいるようには見えない。
「え、え、え」
「ほら、動き出したよ。前見なよ、落ちるよ」
メリーゴーランドが、軽快なメロディーと共にゆっくりと動き出す。すると景色を見せろと言わんばかりに兄はゆっくりとこちらに顔を近づけてきた。急いで前を向くと、お腹のところに兄の手が巻き付いて来た。もう片方の手は、ポールを握りしめる私の手に重なる。
「おおおおお兄ちゃん? ち、近くない?」
「ここから落ちて、打ち所が悪かったら死ぬからね」
「ひ、人に見られるよ」
「もっとすごいことしてるよ、そっち」
兄の視線の先を辿ると、確かに恋人同士と思われる二人が自撮りをしながらキスをしている。驚きのあまり見入っていると兄が抑揚のない声で呟いた。
「言わなきゃ分からないし、結局血なんて繋がってないんだから、別にいいでしょ」
「いやそれは……」
「あんまりうるさいこと言うと、もっと酷いことするよ」
凍てつくように囁かれ、身体が固まる。固まるのに、不快感は感じない。
……私は、そういうことをしてもいいと、思ってる……?
そう考えると、背中に感じる兄の温度も、重ねられた手も、お腹に回る腕も、全てが熱く感じる。兄が姫ヶ崎さんと仲良くしていた頃に感じていたものとは決定的に違う心臓の痛みで、胸が苦しい。それらがぐちゃぐちゃに混ざりあい、私はアトラクションの回転が終わるまで、景色も、楽しそうな曲も、何一つ頭に入ってこなかった。
◇
徐々に遊園地から人が去って行く中、兄と手を繋ぎベンチに座る。メリーゴーランドを下りてから、コーヒーカップにのって、小さなジェットコースターに乗って、気まぐれに売店を見て、フードコートで売っているジュースを飲んで、チュロスを半分こしたりしていたら、もうあっという間に日が沈もうとしている。本当に、残酷なくらい時間が過ぎるのが早い。
今夜、夜が明けたら、惨劇の当日になる。厳密に言えば明日の夜だけど、きっとすぐに明日の夜になる。結局兄は私を殺そうとはしなかったけど、やっぱり、兄は今日……。
「舞、そろそろ帰る時間だけど、最後に乗るものは俺が決めてもいい?」
兄が、自分から何かに乗りたがるのは初めてだ。一体何に乗りたいんだろうと不思議に思うと同時に、心のどこかで、一つだけ思い当たるものが確かにある。
「いいよ」
頷くと、思った通りの場所を、兄は指差した。
「なら、観覧車に乗ろう」
◇
本音を少しずつ隠し合う様な言葉を交わしながら、観覧車の列に並び、順番を待つ。すると想像していた待ち時間よりもずっと早く私たちの番がやってきた。
係員さんに促されながら乗り込むと、ゆっくりと動くゴンドラは私たちをのせ宙をめがけて上っていく。遥かに高くそびえ立っていた建物たちが、揃えたように低く地に落ちていくのを見送っていると、ぽつりと零すように兄が呟いた。
「舞と乗りたいと思ってたんだよね、観覧車」
「え」
驚きが口から漏れ出ていくと、兄は不快そうに眉をひそめる。
「なに?」
「いや、なんか意外だなと思って」
「否定は出来ないかな」
兄が、視線を下ろす。ゴンドラはいつの間にか中腹のほうまで上っていた。
「……ただ上って、後は落ちるだけのものに、並んで乗るなんて理解できなかったけどね」
以前遊園地に来た時、兄はいつだってどこか上の空だった。アトラクションではなくこちらを気にしているのではと思う時も多々あったし、パレードや水族館のショーの時も、披露されるそれらに関心を向けることはなく、それらに反応する人間を冷めた目で観察しているのが兄だった。でも、今日はほんの少し違うように感じた。思い出をひとつひとつすくいあげて、大切にしまいこむような、そんな風に見えた。そしてそんな姿が、まるで死にに行く準備を、別れの準備をしているようにも見える。
「こんな風な景色だったんだね……」
兄はただ、遠い景色を見つめている。何だかそれが酷く寂しくて、切なくて、兄の隣に座った。
「どうしたの、舞」
「何でもない。こっちのが景色良さそうだったから」
「なら場所変わろうか?」
「ううん、このままでいいよ」
このまま、ずっと観覧車が上がって、ゴンドラが下りていかなければ。そうすれば、兄は死ななくて済むのだろうか。殺さずに済むのだろうか。それなら、明日なんて来なくていい。夜なんていらない。無くなっちゃえばいい。じくじくと痛む胸を見ないように、徐々に沈んでいく夕日に目を向ける。兄の顔は、見ない。今日兄の顔を見なかったことで後悔する日なんて、永遠に来なくていい。右手で手すりを握りしめていると、片方の手をぎゅっと掴まれた。兄が、私の手を握っている。こうやって手を繋ぐのも最後になってしまうんじゃないかという不安がよぎる。違う、そんな日は来ない。私が来させないようにする。
「舞、何で泣きそうになってるの?」
「なってないよ、怖くないし」
「本当に?」
「本当!」
観覧車も高いところも何一つ怖くない。でも明日、お兄ちゃんが人を殺して、自分すら殺してしまう未来は酷く怖い。私が阻止するのだとずっと決めて頑張って来た。それなのに明日が来ることが怖くて仕方ない。今日、お兄ちゃんと遊園地に行ったことを、最後の思い出にしたくないし、する気もないのに、お兄ちゃんと明後日も明々後日も、一か月後も半年後も一年後も迎えたいのに、もしかしたら明日が来たらお兄ちゃんがいなくなってしまうかもしれないことが、怖くて仕方がない。
「……舞」
優しい声色に、涙が滲みそうになる。夕焼けの景色が水を含んだように歪んでいって、お兄ちゃんに見つからないよう窓に顔を近づける。どうすれば、お兄ちゃんは人殺しにならずに済むんだろう。どうすれば助けることが出来るんだろう。そういうふうに話が決まっているとしても、私は明日も明後日も、これからもずっと、お兄ちゃんと一緒にいたいよ。
「来年も来ようよ! また、一緒に!」
そう言うと、窓に反射する兄は曖昧に笑うばかりで、まるで未来のことなんて存在していないかのように最後まで否定も肯定もしなかった。
とうとう惨劇の日だ。朝、旅行に出発した両親を見送り、今兄と私の二人きりだ。今の時間は午後三時。昼食は、ここで下手に驚きの提供を止めてしまうと警戒される恐れがあるため、ハンバーグに見せかけ、ハンバーグを割るとナポリタンが出てくる偽装ハンバーグを作りだめ押しをした。しかし兄は「相変わらず舞の料理はおいしいね」と言うばかりで驚く様子はなかった。
そして私と兄は、兄の部屋で勉強をしている。兄はいつも通りの様子であるもののどこか心ここにあらずで、やはり心の中は惨劇に惹かれているのだろうと思う。昨日、私を殺さなかった理由は良く分からない。もしかしたら今までの驚きの提供の成果かもしれない。もしかしたら、今兄は惨劇を起こすか、起こさないかで心を揺らしているのかもしれない。そう思うと、素直に口に出してやめてと言ってしまいたい。でもそこで、激情にかられた兄に私が殺されてしまったら、兄は明日の未明に命を絶ってしまう。それだけはさせたくない。
私がここで兄を監禁しないと、兄は、明日の未明に、命を絶つ。
「さよなら天国 おはよう地獄」そんなタイトルを歪んだ形で表現するかのような最期を、兄……黒辺くんは迎えるのだ。最後残った田中くんと、姫ヶ崎さんの二人に、自分を殺すしか、二人で生き残る方法はないと告げる。
黒辺くんはどこまでも絶対的強者で、同級生たちを次々に殺した。誰も黒辺くんに対して歯が立たなかった。突然殺し合いを命じられたほうと、ずっと計画を立てていた人間、圧倒的に有利なのは後者だから、殺傷性を高め本物と同等の銃器や、チェーンソー、出刃包丁をクラスメイト達に用意する中、自分はナイフのみ。なるべくフェアであるように、自分が不利であるようにと努めたにも関わらず、誰も自分を追い詰めてくれない。決められていたかのように、予想通りに皆死んでいく。自分がどんなに心惹かれるゲームを作っても、その結果は予想通り。田中くんと姫ヶ崎さんが生き残ったことも、黒辺くんにとっては予想通りだった。だからせめて、田中くんと姫ヶ崎さん、二人がかりで自分と戦ってくれれば少しは面白くなると考え、二人を挑発する。田中くんと姫ヶ崎さんは極限状態に追い込まれていたこともあり、黒辺くんを二人で殺しにかかるが、黒辺くんは結局二人に勝ってしまうのだ。
横たわった二人の亡骸を、雑に蹴り飛ばし、絶望の瞳で前髪をかきあげる黒辺くん。「さよなら天国 おはよう地獄」というタイトルは、黒辺くんの退屈な人生そのものであり、黒辺くんは毎日地獄のように退屈な日々を送っていて、彼の望む退屈とは無縁の世界はそもそも存在していなかった。そしてクラスメイト三十九人を殺し、自分の首をナイフで切った黒辺くんは、確実に天国に行けることはなく、地獄行きが確定している。最終回最後のシーンは、廊下に横たわった黒辺くんが薄れゆく意識の中で、ただただ虚ろにどこかを見ているシーンで幕を閉じるのだ。
今、兄がどんなことを考えているかは、分からない。でも、どんなに我儘でも私は兄に生きていてほしい。だから私は、今ポケットにしのばせている手錠と、そして兄の紅茶に盛った睡眠薬を使って、兄を監禁する。監禁は許されないことだ。だけどもう私はこれしかない。兄に嫌われてもいい。私は兄の命を救う。
私がきちんと自分で淹れた紅茶を一口飲む。睡眠薬を淹れた兄のコップは私のものと形状も色も違う。間違えることは絶対にない。兄は私につられるように睡眠薬入りの紅茶を口に含んだ。そのまま喉が上下するのをしっかりと見届ける。
「舞はさ」
「ん?」
「俺が兄で良かったって、思ったことはある?」
「どうしたの、いきなり」
「いや、舞は可哀想だなと思って」
兄は紅茶のカップを机に置いて、じっと私を見る。昏くて、堕ちてしまえば二度と戻れないほど深い瞳が、揺らめくようにしてそこに在る。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、その真意は全く汲み取ることが出来ない。苦しんでいるのだろうという想像は出来る。でも理解をしてあげることが出来ない。致命的なほどの隔たりを感じる。今、兄は何を考えているんだろう。
「世界で一番可哀想だよ。舞は」
念を押すような兄の言葉。まるで自分に言い聞かせるようで手を伸ばすことも許されていないのかと実感する。それでも私は、兄に手を伸ばしていたい。死んでほしくない。私は、兄と離れたくない。
「ねえ、お兄ちゃん、私ね……」
言葉を紡ごうとして、喉が空振るような錯覚に襲われる。吐きだそうとする呼吸はただ悪戯に口を開閉するばかりで声になってくれない。兄に手を伸ばそうとして、腕が動かないことを知った。なにこれ、何が、起きてるの。
「お兄ちゃ……」
「舞。俺やっぱり変われないや。俺のこと、一生許さなくていいよ」
座っている事すら辛くなって、そのまま机に伏す様に倒れ込む。瞼も重くて開いていられない。閉じていく瞳に、最後に映ったのは兄がこちらを冷たく見下ろす姿で、お兄ちゃんと呼びかける私の声は、ただただ暗闇に吸い込まれていった。
「ん……」
仄かな光の違和感に目を開く。
そこには床に物は一つもない、机にも必要最低限の物しか置かれていない、整頓された一室。無機質とも言えるその部屋は、生活感が微塵も感じられない。モデルルームや、雑誌で見る綺麗な部屋の見本のようだ。
しかし、カーテンは開かないよう、端にガムテープが張られ、本棚の一部分は扉が取り付けられそれを隠すように上から布がかけられている。
本当に、異常としか言えない、空間。
腕を振り上げると、金属の掠れる音がした。ああ、この音は、知っている音だ。
視線を下ろすと、自分の手首に装着された手錠。そして部屋とその手錠を繋ぐ鎖が視界に入り、確かに夢ではなかったのだと認識する。時計を確認すると、惨劇の真っただ中だ。
結局、駄目だった。私には何も出来なかった。今頃、部屋の主である兄は、自分の通う高校のクラスメイト全員を混沌に陥れ、死に向かわせている。心の底から殺戮を楽しみ、刹那に生き、死に向かっている。
十年前から分かっていた。だから、助けたかった。兄を、ただ助けたかった。なのに、そんな死の淵に立とうとする兄を止めに行くことも出来ず、私は兄の部屋に繋がれている。
私は失敗した。私は、救えなかった。兄のクラスメイト、四十人の命だけじゃない。兄を救えなかった。救うことが出来なかった。
おそらく兄は、私が計画の邪魔になるであろうと判断し、こうして閉じ込められているのだろう。「私が兄の計画を悟った」ということ自体悟られないようにしていたのに、いつ兄は私が計画を知っていることを知ったのだろう。兄は、肝試しを計画している様子は無かった。もしかしたら、改心してくれたかもと淡い期待を抱いた面もあったけれど、それは私が計画を知っていると悟られていたからだ。多分計画を変更して、別の理由をつけて、クラスメイトを集めた。
何とか手錠が外れないか、鎖が切れたりしないか試みるが、びくともしない。私の抵抗なんて無駄だと言う様に、ただ金属の音が虚しく響くばかりでびくともしない。
「嫌だ、やだ、やだ……!」
……結局、この十年、私は兄を変えることは出来なかったということか。今、まさに兄の学校では、あの惨劇が繰り広げられているのだろう。私は何も出来なかった、止めに行くことも出来ない。今頃、兄はクラスメイトを殺して、殺して、殺して、血に濡れているのだ。
優しかった兄は、何処にもいない。元々いなかったのかもしれないけど、それでも私の兄ではあったのだ。「黒辺くん」ではなく、兄として、人として、黒辺誠お兄ちゃんを慕っていた。好きだった。好きだった。
「外れて……っ!」
もう私の手なんてどうなってもいい、この鎖を外して、兄の元へ向かうことが出来たなら、何かが変わるかもしれない。兄は死ななくて済むかもしれない。なのにどうして上手くいかない。今までずっと上手くいかなかったんだから、せめて今回だけは何とかなってよ。じゃなきゃ兄が、お兄ちゃんが死んじゃう。何で、何で私はいつも失敗するの。どうしてお兄ちゃんを助けることが出来ないの。何で、どうして。
「なんでよ……!」
「やめなよ、血が出てるよ」
絶対ここにはいないはずの人物の声で話しかけられ、どきりとする。嘘だ、そんな訳ない。そんなはずない。だって、兄は。今、学校に……。そう思って振り返ると、扉には、今まさに学校で血を浴び、嬉々としてクラスメイトを殺しているはずの兄が、柔らかな笑みを浮かべながら立っていた。血に濡れてなんていない。
「何でお兄ちゃんがここにいるの」
「何でって、俺の部屋だから?」
兄は変なものを見るような顔で私を見た後、棚から救急箱を取り出して近付いて来た。
「まさかここまで抵抗するなんてね……。消毒して手当てしないと」
そう言って、淡々と私の手首に、消毒液を染み込ませたガーゼを当てていく。脳が今の状況を全く処理できていないせいか、感じるはずの痛みが鈍い。
「肝試しは? 今日学校に行くんじゃないの?」
「ん? ちょっとよく分からないけど、学校になんて行かないよ」
「何で? 今日はお楽しみの日じゃない?」
「お楽しみ? それより、舞は自分の置かれてる状況が見えてない?これから自分がどうなるか、分からない?」
兄が私の手首に包帯を巻き終え、その上に重ねるように手錠をずらした。そのまま、私を部屋につないでいる鎖を手に取って私に見せつける。これ、あれだ、間違いなく殺されるやつだ。始末されるやつ。
「ころさ、れるとか?」
「っははは! 舞、俺に殺されると思ってるの?」
恐る恐る尋ねると、兄は笑い始めた。高らかに、本当に、心から今の状況を楽しむように。
「殺す訳ないでしょ、舞にはしてもらわなきゃいけないことがあるんだから」
「なにを?」
私が聞くのが先か、それと同時か、兄は私の頬をなぞり、見たこともない顔で笑う。
「これから舞は、俺のことを好きになれるように、愛せるように、一緒に生きていけるように、この部屋でたくさん頑張るんだよ」
◆■◆■◆
妹が高熱を出し寝込んでから、妹は俺にあまり近づかなくなった。
前までは「お兄ちゃん何処へ行くの」と俺の後をついて回っていたのに、ぴたりと止んだ。ついて回る妹を適当に世話をしていれば、周りは勝手に「優しい普通のお兄ちゃん」として俺を見るから、便利だったのに。
兄妹は、仲が良すぎても目立つし、悪すぎても目立つ。悪く見えない為にどうするか考えていると、しばらくして妹は異常な行動を取るようになった。
具体的には、公園の池を見ると必ず飛び込む。死にたいのかと思ったけれど、自分が死なないように配慮はしているみたいだから、子供特有の構ってもらいたさなのか、それとも別の理由で飛び込んでいるか。よく分からないし、別に知りたくも無い。興味が無い。前は、妹を公園に連れている時、池を覗く妹を見て、突き落としたらどうなるんだろうと考えていた。けれど実際妹が落ちるのを見ても、なんとも思わなかった。もう少し面白いものだろうと期待していたけど、残念だ。
どうせすぐに終わるだろうと、適当に構った。
でも、妹の奇行は収まることは無く、日々悪化し続けた。庭に大きな落とし穴を掘って、自分で登れることが出来ず俺に助けを求めてきたり、家での留守番中、何かがさごそ工作をしていると思えば、一生懸命木魚を叩き鳴らし、叩きならし過ぎて腕が筋肉痛になり、泣く。そして、ある時妹は、俺が親に頼まれた庭掃除をしていると、二階のベランダから飛んできた。命綱をつけていたから、やはり妹は死のうとしてはいないらしい。落ちて来た妹は、半泣きになりながらも俺にどことなく期待した眼差しで俺を見た。妹の奇怪な行動は、親への構ってほしさ、甘えだと思っていたけど違うのかもしれない。
それから、妹の行動は俺に向くようになった。普通に中から入ってくればいいものを、二階の俺の部屋に、配管を伝って登って来ようとしたり、家全体をドミノにしたり、迷路にする、大抵そのスタートかゴールは俺の部屋。妹の標的は親たちではなく俺だった。
妹は奇妙な行動を取るけれど、俺に害はない。だからどうでもいい。でも親たちは心配して、家族会議を開いた。俺も普通ではないと思うけど、妹と俺に血の繋がりは無い、血筋では無いと思う。
家族会議によって、俺は妹から目を離すなと親に言われた。それから妹を見るようにしていたけど、妹は俺以外の人間に迷惑がかからないようにということにも気を付けているらしい。基本的に俺の近くにいるし、何かを起こす時いなくなるけれどしっかり戻ってくる。手はかからなかった。池に落ちるのも、決して誰かを突き落とすわけじゃない。勝手に自分で落ちているだけだ。だから楽なのだと思う。もし舞が俺を突き落とそうとしたら、俺はどう思うんだろう。煩わしい? 不快? やってこないから分からない。想像ができない。もし他の人間が人に突き落とされたなら、その人間は泣くか怒るかのどちらかの反応をするのだろうとは知っている。けど、いざそうなった時俺はどうするのかさっぱり分からない。
舞を放置していたら、親が煩わしくなってきた。舞はただ空から降って来るか地面に埋まってるかしかない。けれど親二人は俺に舞を構え、見ていろ、気にしろと口やかましく言ってくる。そこまで気にするならどこかに閉じ込めておけばいいと思うけど、それを言うとまた親二人が別のこと、今度は俺のことで目障りになることは分かる。だから舞を適当に構ったけど、標的は俺のはずなのに効果は薄く奇行が止む気配はない。
でも、奇行に走った後、俺に期待の眼差しを舞は向ける。何がしたいのかさっぱり分からないし、実害が無いし、不便に陥ることも無いから、親ごと放置した。
それから一年が経ち、妹が小学校に入学すると、妹は、学校でも俺に向け、嬉々として突飛な行動を取っていた。俺の担任に理由を聞かれたけど、俺は分からないと答えた。妹の気持ちどころか、俺には他人に対しての気持ちなんて分からない。誰が死のうがどうなろうがどうでもいい。そういう人間だから。でも、生きていくうえでそれは「普通じゃない」らしい。普通じゃないものは淘汰されるのはこの世界の理のようなもの。だから普通に擬態して生活する。俺は、「妹が迷惑かけてすみません」と困ったような笑顔を作った。実際は、妹が迷惑をかけているのは俺に対してだけで、他の人間はかけられていないのだから、謝る必要なんてどこにも無いけど。「酷いことするわね」なんて同情をする目を向けられた。正直、俺は妹のふるまいに対して何一つ興味が無い。むしろ目障りなのは妹よりも、俺を「友人」「親友」と言って寄ってくる人間だ。何度も何度も同じ遊びで笑い、何もない裏山へ何度も何度も行きたがられると、ずっと裏山にいられるようにしてやりたくなる。丁度そんなくだらない遊びをしている時に妹を見つけ、一度抜け出したことがあった。かくれんぼと言って、そのまま立ち去ろうとすると妹は不安を抱いた目で俺を見た。騒がれたら面倒だと軽く脅してみるとすぐに大人しくなって、すぐ潰れそうな頭でもしっかり理解は出来るのかと感心した。
■
人間は、一人では生きていけないらしい。心と心で支え合わないと辛くなって倒れてしまうのだと、道徳の時間にそう先生が言っていた。でも、果たして本当にそうだろうかと思う。人は恋愛をして、子供を作り、育てていく。そうしないと人間が増えていかない。そうなると国が成り立たなくなるからそう教えているだけで、実際は違うんじゃないかと思う。少なくとも、俺は一人でいることに対して、「寂しい」とも「辛い」とも思ったことがない。そもそも悲しみを覚えた感覚もあまりない。本や人間を見ていて、どういうときに「悲しい」「辛い」と思うのか、それは分かる。けれど、それは知識として仕入れることが出来ただけで、身についてはいない。思えば舞は良く泣きよく怒りよく笑う。前もそうだったけど、熱を出して奇行に走るようになってからそれが顕著になったと思う。食べ物を食べて、美味しいと笑い、テレビを見て悲しいと泣く。たまにテレビを見て怒ってる時もある。あそこまでころころ感情を変えて疲れないのかなと思う。
「私黒辺くんのこと好き!」
ぼんやりと考え事をしながら掃除をしていると、唐突に目の前にスカートを履いた人間が立った。思えばこの人間は最近俺によく話をしていた気がする。
「黒辺くんは私のこと好き?」
じっと見ていると、人間はそう言って小首を傾げた。好きじゃない。そう言ってしまっていいのだろうか。泣かれたら面倒だ。幼稚園の時も人間に囲まれ、結婚してとせがまれたことがあった。ごっこ遊びの延長だろうと思う。正直、一切興味が持てない。テレビを見ていれば、人というものは恋愛をどんな風にするかはある程度知識として入ってくる。でもそれが自分がすると考えても、誰かを好きになる自分が全く想像できない。誰かに恋をして、欲する。そんなことが出来るだろうか。そもそも、今目の前でもじもじとスカートのすそをいじる人間も、自分の親も、妹も、同じ種族で同列の存在である認識すら上手く出来ていない。何かしら、自分とは違う世界の動物という気持ちで、俺は周りを見ている。そんな存在と恋愛なんて出来るだろうか。それに「普通」顔を見て、好ましいか好ましくないかを人は判断するらしいけど、俺には全部同じに見える。同じ、動物の顔。識別するために番号を割り当てられているくらいの感想しか抱かない。「可愛い」「かっこいい」「綺麗」「汚い」一般的にカテゴライズされる系統は、生きていて大体理解したけど、心の中の感想は「誰も同じ」だ。容姿の美しさ、醜さは、それだけで人生が有利になるか不利になるか決まる。その点では重要だと言えるし、俺自身この顔で有益なものを得ている。けれど俺自身の価値観として、人の顔に対して美しいから好ましいと思ったことは全くない。どうせ、一枚皮を剥いでしまえば皆同じなのに、どうしてそこまで執着を持つのか、まるで理解できない。
答えを考えていると、人間は焦れた様に俺の腕を引く。
「黒辺くん、ねえってば!」
答えは、ただひとつ。「好きじゃない」だ。でもそう答えたら、きっと目の前の人間は泣くだろう。ぼたぼた、ぼたぼたと涙をこぼして、すすり泣くか、喚くか。どちらにしてもうるさくて目障りなことこの上ない。いっそ持っている箒で頭を叩き割ったら、少しはこの苛立ちも収まるだろうか。掴まれた腕の温度の気持ち悪さに辟易していると、丁度やかましい人間がやってきた。
「お、黒辺何やってんの!」
第三者の登場で、スカートを履いた人間は取り繕ったようにして、蜘蛛の子を散らす様に去って行く。その様子にやかましい人間は不思議そうにしながら俺の肩を組む。
「掃除終わったら野球しねえ?」
「いいよ」
地区が一緒なだけで、馴れ馴れしく親友と呼ぶこの人間、煩わしいと考えていたけれど、たまには役に立つ。
それにしても、家族、そして自分を友達と呼ぶ人間すら、煩わしいかそうじゃないかくらいにしか思わないのに、俺が何かを、誰かを愛おしいと思う日が来るのか、甚だ疑問が残る。誰かを見て、触れたいと思う。好きだと思う。全く想像がつかない。今だって、組まれた肩の温度が気持ち悪い。
「じゃあ校庭でな!」
「うん」
仕方ない、行くか。行かなかったら行かなかったで、面倒だし。
俺はやかましい人間が去って行くのを待って、邪魔なものはみんなこんな風に掃除が出来たらいいのにと、箒で集めたゴミたちを見ながら思った。
■
「黒辺! ドッジしようぜ!」
授業を終え、瞬く間に俺の目の前に立つやかましい人間は、歯をむき出しにした笑顔で俺を誘う。俺が疎ましく思っていることや、今日遊びに乗じて少し静かにしてもらえるようにすることなんて一切疑っていないような顔だ。少し滑稽に思うけれど、笑えるほどでもない。そのまま誘いに乗り、校庭に出る。この人間を少し静かにさせようと思いついたのは昨日のことだ。きっかけはない。ふと静かにさせるにはどうすればいいか考え、単純にしばらく学校からいなくなってもらうほうがやりやすいと感じた。
昨日想定した通りの手順で、ボールを投げていく。やがて想定していた通りの位置に人間たちが立ち、考えていた通りにやかましい人間は鉄棒に頭を強く打ち付けた。あれだけ楽しそうにしていた他の人間たちが、揃えた様に顔を青くして鉄棒の周りを囲う。特に見ていても面白いものではない。虫を集めて箱に詰めて、互いを喰い尽くすさまを見ている方がまだ愉快だと思う。ぼんやりと皆にならって固く目を閉じ頭から血を流すやかましい人間を見つめていると、異変に気付いた教師が走って来た。やかましい人間に呼びかけ返事がないことを確認していく。人間は血を大量に流すと死ぬらしい。だとしたら、やかましい人間も死ぬのだろうか。そんなことを考えていると、やかましい人間を見ていた教師が俺に振り向いた。
「黒辺くん、担任の先生呼んできてもらえる?」
「分かりました、すぐに行きます」
走って校舎へ戻る。職員室を覗くと担任はいなかった。周囲に人がいないのを確認して、早めていた足を徐々に遅くする。担任が治療をするわけじゃないのだから、遅く行こうが早く行こうが変わらない。ひとつひとつ居そうな場所を考え、教室に足を向ければ俺の席に舞が座っていた。そしてその傍には担任がいる。様子を見ていると、どうやら担任は舞に注意をしているようだった。
「先生、舞ちゃんのお兄ちゃんはとっても悲しんでると思うなあ」
人を馬鹿にしたような、演技がかった猫撫で声。俺は不快に感じたけど、舞はショックを受けている顔をしている。不思議だ。舞とは二歳離れている。育った環境は二年しか違わないのに、舞は人に共感したり、しっかりと感情を持っている。どこでこういった違いが生まれるのだろう。やはり血筋なのだろうか。でも、別に血筋だろうが結局はどうでもいい。俺は人に共感しないことで不便なことは特にない。何があれば人は悲しみ笑うのか、どういうことが嫌なのかは知識として分かっている。舞に近付き、担任に声をかける。担任はきっと他者へ共感する能力がないわけではない。でも俺の意思を致命的に汲み取れていないのは何故だろう。俺が異常だからだろうか。でも、そんなこともどうでもいい。ただ、この担任教師の猫撫で声は、心底不愉快だ。大人に対してそう思うのは、初めてだなと感じながら、俺はこれからどうやって担任に静かにしてもらうか考えていた。
■
担任は、結局静かにしてもらうより、いなくなってもらう方が楽だろうと考え、いなくなってもらうことにした。保健の教科書を読み、おおよそ大人と子供ではあってならないような内容をあの教師にされたように紙に書いて、最も口うるさく、保護者たちから厳しいと評判の教師の靴箱の中に仕込んだら、あの担任は教師自体を辞めたらしい。そこまでするつもりはなかったけど、まぁいなくなることに変わりはないし、別に何も思わなかった。
その次の担任は、死にかけだった。坂で突き飛ばしたら死ぬような教師だったけど、俺を見る目はどこか観察をするような目で、今までの教師と違って俺に期待を向けることもしなければ、信じ切るような態度も取らない。ただ舞の奇行について俺に話しかけてくることもないし、対処をしようともしていない。様子を見ていたら家庭訪問の時、舞の奇行が俺限定であることを伝えたらしく、親が舞について俺に色々とうるさいことを言って来なくなった。
担任は、舞を見ているらしい。今までの大人たちは、親ですらも舞を厄介な子供であると認識していた。何度注意をしても悪戯をやめない手のつけられない子供。それなのにこの担任は、舞に対してそういう感情を抱かず、本当にただの生徒として扱っていた。よく見ているんだなと思うと同時に、手が抜けないとも思った。
■
「黒辺くんは妹の舞ちゃんのことをどう思っているのかい?」
教卓に座る死にかけの担任と、大して意味もない話を繰り返していると、鋭くこちらを切りつけるようにそう言われる。俺が妹のことをどう思っているか。答えは単純だ。なんとも思っていない。明日死のうがどうでもいい。でも、そう正直に答えることは適当ではないことを俺は知っている。どんなに仲の悪い兄妹であったとしても、俺の答えは正しくない。俺の答えよりも「嫌い」「目障り」という嫌悪を表明した方が正しく、一般的で、最適だ。不思議だけど。
「いい妹ですよ」
「おや、では黒辺くんにとっていい妹とは、どんな妹かな?」
手のかからなくて、俺に害がない妹。世間一般で言えば、舞はいい妹ではないと思う。悪戯を繰り返し、池を見れば飛び込む人間を好む人間なんてどこにもいない。厄介だし、手間がかかる。でも俺にとって舞は、実害がないしただ池に向かって飛ぶか穴に埋まるか、たまに何かをかき鳴らし大音量を出すだけの人間だ。池に入るのは舞。穴に埋まるのも舞。大音量を出す時きちんと舞は防音処理をする。だから俺がただ耳栓をつけていれば防げるし、思い返してみれば本当に舞は行動の派手さのわりに実害もなければ煩わしさもない。徹底している。それが舞の理解できない点だと思う。何かしらの行動には荒さがあるのに、人に害を与えることは絶対にしない。まるで自分さえ傷付き、俺にだけ迷惑をかけることだけに尽力しているような気がしてくる。気のせいではないことは、ここ数年舞を見続けてきたのだから確かだ。そこが舞の理解できない点で、どうでもいいけれど気持ちの悪い、気味の悪い点でもある。
それにたまに、本当に稀に、舞を見ていると腹の奥がざわつくような感覚に陥ることがある。苛立ちなのか、嫌悪なのか分からない。舞のポニーテールの揺れが視界にちらつくからなのか、その頭に触れようと思う時が確かにあって、その頭を潰したいのか、揺れる髪の束を引き千切りたいのか自分でも分からず、気まぐれに撫でていた箇所に触れることをやめた。
「……」
「兄妹、仲が良いことはいいことだよ。大事になさい」
そう言って担任は去って行く。舞は、俺にとっていい妹。そうかそうじゃないかは分からないけれど、悪い妹ではないと思う。
■
妹が一年、二年、三年と学年が上がり、背が伸びて、月日の流れと成長は感じるものの、奇行は止まない。
それどころか年々巧妙化しているようにも思う。ただ池に向けて飛び込む、ただベランダから落ちるだけだったものが、何かしら回転を帯びていたり、歌に合わせていたり。空気入れで風船を何十個も膨らまし、風船を背中にくくりつけ、腕を筋肉痛で腫らしながら落ちたりする。公園の砂遊びがしたいと言うのでついていけば、妹の背丈より高い城が出来ていて、「あっち向いてて」と頼まれ視線を外し、視線を戻せばその城に半ば突っ込む形で妹は埋まっていた。川遊びをしようとついていけば、ペットボトルでロケットを作り、それを背につけ川向うへ飛ぼうとする。失敗して地面に不時着し、頭にこぶを作る。
両親は不安がっていたが、俺はただ眺めていた。相変わらず意図は読めないが、退屈はあまりしない。毎回同じことを繰り返すわけじゃないし、同じことをしていてもやり方を変えたりしていて、飽きて煩わしく感じるものでもない。それに舞自身命に関わることまではしないから、見ていただけで監督責任を問われることはない。勝手に、好きにすればいい
だから少し、気を抜いてしまっていた。
ある日妹と俺は、親に頼まれ近所のスーパーに行った。厳密に言えば、買い物を頼まれた舞についていった。特に買うものもないのに用があると言って。それから何となく、落ち着かない感じがして、舞を見ていた。今思えば、虫の知らせか何かだったのだと思う。
買い物を終えた帰り道、その日も妹の奇行は変わらず、「目を潰す」と言って俺の目では無く自分の目を潰そうとしたり、俺を背負おうする。面倒でスーパーから出ると手を繋いで帰ることにした。
家まであと少しというところで、白猫が目の前を通り過ぎた。妹には不意打ちだったらしく、猫に驚いていた。潰れたらどうなるんだろう。きっとその体液が溢れ出て、その毛を一気に染め上げるだろう。鮮やかなはずだ。興味がある。そう考えると、腹の底がふつふつと湧き上がるような静かな興奮を覚える。きっと、あの箱の中身より俺を楽しませてくれるに違いない。ああ、早くみたい。早くみたい。
早く、潰れろ。
そんな風に考えながら交差点で信号を待っていると、白猫が俺と妹の隣を過ぎ車が行きかう中央へ向かっていく。轢かれる。轢かれたら、どんな風に潰れるんだろう。あの猫、轢かれないかな。漠然と眺めていると、白猫を追うように妹は飛び出した。
妹へ延ばした手が、空を切る。
猫は、追いかけた妹を避けるように向かい側の歩道に向かう。一歩踏み出した瞬間、妹はトラックに撥ねられ、妹の身体は弧を描くように宙を舞い落ちて行った。全てがゆっくりに見えた。
落ちた妹を、舞を呼びかける。額が擦れたのか、赤が滲んでいた。その赤を見ていると、頭が痛くなってきて、どうしようもなく苦しくなった。何度呼びかけても意識がない。呼びかけても意味なんてないのに、呼びかけるのがやめられない。呼びかけをやめたら死んでしまうような気がして、苦しくて苦しくて仕方がない。
そのまま舞は、近くに居た人間の呼んだ救急車に乗って、病院に運ばれた。
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舞は、たまたま落下地点が良かったらしく、ほぼ無傷。意識が無いのは、精神的なショックだということらしいと病院で説明を受けた。病室でベッドに横たわる舞は、特に顔色が悪いとか、傷だらけ、というわけでもなく、ただ眠っている。青白い顔をしているのは元々なのか、轢かれてそうなったかは分からない。両親が病室にやってきたのを確認してから、俺は家に帰った。
舞が理解できなかった。でも今は、俺自身すら理解できていない。それが酷く恐ろしいことのように思えて、帰宅を急いだ。
舞が、車に撥ねられた時、どうしようもなく不快だった。妹なんて、舞なんて、それどころか、家族だって、他人なんてどうでもいいと思っていたのに、舞が轢かれて嫌だと思った。舞が死ぬことなのか、舞が轢かれることなのかよく分からない。また、舞が轢かれたら、分かるかもしれないけど、絶対に嫌だと思う。初めて感じた、精神的な痛みだった。そして、自分がどうしようもなく変質して変わったような気がして、痛くて、痛くて、恐ろしかった。
その痛みを紛らわそうと、裏庭へ向かう。箱の中、生き物たちが互いを蝕んでいくさまを見れば少しは落ち着くと思ったからだ。いつから始めたか分からない習慣。特に何かあったわけでもなく、ただ自然に俺は箱に生きた虫を詰め、飢えきり共食いをしていくさまを眺めていた。その姿を見る度に、俺は心なしか愉快さを感じ、定期的にそれを続けていた。きっと、この落ち着かない気持ちも、それをしばらく見ていれば治まるだろうと、そう考えて箱を開ける。
箱の中では、予想通り、互いの命を貪りあう様子が見て取れた。
でも、落ち着かない。痛みが止まらない。瞼に舞がトラックに跳ね飛ばされる直前こちらを向いた、あどけない、何も分かっていない顔がこびりついて離れない。頭からは、顔は真っ青なのに、額に滲んだ鮮明な赤がいつまでも残っていて、痛んで仕方がない。耳からも、あの大きなクラクションと、舞を撥ねたときの、鈍くて、身体の肉や骨を壊してしまうようなあの音が、ただただ離れてくれない。繰り返されて、身体の中を侵食されていくようで、気持ちが悪い。
それらを散らしたくて、振り切りたくて、箱に向かって拳を叩きつけていく。手がどんどん濡れていき、生き物たちが潰れていく。いつもなら、少なからず興奮を覚えていたはずなのに、原型を失っていくたびに、身体が冷えて、舞が轢かれた時の記憶が鮮明になっていく錯覚すら覚えた。
「どうしてっ……!」
どうして、こんなにも心がかき乱される。今までこんなことはなかった。理解できない。気持ちが悪い。心臓が痛い。気が済むまで潰せばこの痛みは消えるのだろうか。分からない。気が済むのがいつなのかも、どうしてこうも胸が痛むのかも分からない。そのまま俺は何度も何度も拳を振り下ろしていた。
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次の日、舞はあっさりと帰ってきた。帰ってきた舞の顔、動いている舞、笑う舞を見て、なんだか胃から怒りがこみあげてくるようで抑えていると、舞は俺に近付き期待をするような目を向けて来た。それが不快で、俺は初めて舞を怒鳴った。
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舞がトラックに轢かれてからというもの、俺はどうやらおかしくなったらしい。
俺の通う中学と、舞の通う小学校とは距離があり、時間が無駄になるはずなのに、なぜか俺は誰に頼まれたわけでもない、舞の送り迎えをしている。妹の姿が見えていないと不安を感じるようになり、妹の外出の誘いを勝手に断るようになった。世間一般で言えば、その執着は「異常な好意」であるらしい。でも俺の感情が、果たしてそれに該当するかは疑問が残る。舞に男として惹かれているのか、兄として妹を死なせない為なのか、異常者として舞の命に執着しているのか、自分でもよく分からない。舞の誘いを断るのは、自分の支配下に置きたいからだと思うことにした。俺は舞を一度だって対等な相手だと思ったことはない。後から現れた、妹と呼ばれるものとしか見たことがなかった。今更あの人間に何を思い、求めるのか。そう思って、ただただ今までを取り戻そうと思った。俺は変わっていないと証明がしたかった。
そして事故以降も、妹の奇行は収まる様子はなかった。やがて、俺の弁当を作りはじめ、そこでおかしなことをするようになった。多分、キャラクター弁当に分類されるのだろうが、普通じゃない。劇画調だったり、版画や絵画をモチーフにしたものだったかと思えば、文房具を模していたり、偉人だったりする。そのどれもが凝っていて、時間がかかったものだということが一目見て分かる出来だった。見た目だけじゃなく、主食や主菜、副菜の配分も栄養も考えられている。どうやら舞は寝る前に弁当の内容について考えているらしかった。「これでいけるぞ!」と唐突に発したり、うんうん唸る。壁が薄いせいか、悩んでいる内容が完全に把握できてしまうほど、良く聞こえて来た。妹は、俺に「絶対食べるまで開かないでね!」と言っているのに、これでは本末転倒だろう。俺は、妹の話を聞いてしまわないように、音楽を聴きながら勉強することが増え、どうしてわざわざ舞の為に音楽を聴いているのかわからなくなり、イヤホンを外す。そうすると舞の声が聞こえて来て、またイヤホンをつける。それを繰り返していた。
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舞は、弁当作りのせいで朝も眠たそうだし、帰り道も眠たそうにしている。眠いなら作らなければいいのに、毎日欠かさず作る。俺は「眠いようなら作らなくていいよ」と一言声をかければいいのに、その一言を発さずにいた。以前なら絶対に言えた言葉が、今は一切言えない。何故だか自分でもよく分からない。兄としてならそう言ってやることが最適解のはずなのに。自分の事なのに、思い通りにいかない。それに、最近の俺は、本当におかしい。俺に弁当を作り続ける舞を見て、もどかしさを感じる。舞は自分の時間を犠牲にして俺に弁当を作る。それに対して俺は、礼を伝えることしか出来ない。そのことに焦燥を感じる。
前までは、人に感謝をするのも贈るのも面倒だと思いながらも、そうした方が、自分にメリットがあるからしていただけだった。人からされることには、何も感じないか、煩わしく感じるかの二つだけ。なのに、舞に対しては、もどかしさを感じるようにもなった。どうして、ただお礼をいうことしか出来ない。何か俺に出来ることはないか。そんなことを考える。理由は分からない。お弁当の出来がいいからと思った時もあった。そう思おうとしたこともあった。分かりやすく不意打ちを狙ったタイミングで作られる普通の弁当を見ても、同じことを思う。
その、静かにくすぶるもどかしさをどうにか埋めたくて、舞にシュシュを贈った。舞は真っすぐの黒髪を、よく一つに結んでいる。結ぶゴムはシンプルなもので、特に装飾が施されたものでもない。学校を午前中で早退して雑貨屋に行き、適当なものを選ぼうと店に入る。舞の着ている服の色、好む色を考えて、パステルカラーが最適だと決めていた。にも関わらず俺が手に取ったのは黒いシュシュだった。ひらひらと空気を含んだようなレースが、舞の肌によく合うと思った。舞が好むのは、パステルカラーだ。いかにも健康的な、はつらつとした色合い。このシュシュは、俺が舞に似合うと判断したもの。どうするかしばらく考え、結局黒いシュシュを買った。店を出ると、いつのまにか下校時刻が迫っていて、急いで舞の通う小学校へと向かった。
そこで、渡せば良かったのにと思う。でも俺はシュシュを渡すことはせず、弁当の感想を伝え、お礼を言って他愛もない話をして帰宅した。その次の日も、次の次の日も。今まで舞に物を贈ることはしてこなかったわけじゃない。誕生日プレゼントは、親がうるさいと思ったから渡していた。どうやって渡していたのか考えても、淡く浮かんでは消えるばかりで思い出せない。そうして、ああ今まで適当に渡していたのかと認識した。覚えている必要なんてなかったから覚えていなかった。
黒いシュシュは引き出しにしまいこんだ。存在ごと忘れてしまえば楽なのに、朝起きて目が覚めると渡さなければと考える。なのに最終的に、何を思ってか分からぬままにその日を終えていた。そんな、舞への不透明な感情を持て余していく日々の中、それは、起きた。
「黒辺の妹って、すっげえ可愛いよな」
ノートを回収していくと、俺にノートを差し出しながら、同じクラスの人間がそう言い放つ。はじめ、何を言われたのか理解が出来なかった。俺が聞き返すと、人間は再度「いやお前の妹だよ、この間一緒に歩いてるとこ見たんだけどさ、すっげえ可愛いじゃん一つ下?」と俺に疑問を投げかけてくる。「違うよ、二歳下」と答えると、「まじで?! そうなんだ、一つ下くらいだと思ったわ」そう、惚けた様に笑うその人間の顔を見て、一気に身体が凍り付く感覚がした。
顔の事なのか、挙動のことなのか分からない。年下が好きなのかもしれない。でも、人間が生まれて間もない赤子に言うような「可愛い」とは確実に系統が異なることは、よくわかった。でも、どんな理由であれ、どんな意図であれただ漠然と消そうと思った。
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「あの、先生、実はひとつ、不安なことがあって……」
不安げに、心配そうにそう言って、作り上げられた、舞を可愛いと言った人間の万引きの事実を教師に伝えていく。
舞を否定した訳じゃない。危害を加える宣言をした訳でもない。俺に害があるわけでもない。その人間が舞とどうにかなったところで俺には関係ない。そんなことは分かっているというのに、ただただ、速やかに消したかった。舞と俺の生きている世界から、その存在を速やかに消さなければ、もう永遠に薄汚い泥が増え続けるような気がして、気味が悪くて、俺はその人間を陥れるような噂を流した。噂は広まる。集団は正義を気取り、誰かを断罪することが大好きだ。当然のようにその人間は糾弾され、ありもしない罪を裁かれていく。自分には身に覚えがないという主張は油となり、その人間は燃え上がるように非難、正義の名のもとに加害され、転校した。
舞を「可愛い」と言った人間を、消した。
そして俺は、自分の舞への執着が、舞の死や命に対してではなく、舞そのものに向いているのだとはっきりと理解した。
すると次の日の朝、まるで付き物が落ちたかのように、あれだけ渡すことが出来ていなかった黒いシュシュを渡すことが出来た。シュシュを渡した時の舞の瞳はまん丸と見開かれていて、そこに映った俺はどうしていいか分からないような間抜けな顔をしていた。舞にお礼を言われ、頷く。ほんの少し満たされる気持ちがやっぱりして、すぐに舞の前から立ち去った。そしてその日の午後、家庭科の授業で俺は女子生徒からクッキーを押し付けられた。見た目は、シンプルなクッキー、衛生面でも問題はない。だけど口に入れたいとは全く思わなかったし、素手で触ることにもひりついたような嫌悪を感じた。人から物を受け取るのが、こんなに気持ち悪いことだっただろうかと思い返しながらだか学校では笑みを浮かべ受け取る作業をした。貰わない選択肢もあるけど、その下地を作っていない。何かしらの身体的理由をあげることは後々にその整合性をとった行動を取らなければいけないから面倒だ。どうして「気持ちのもの」だというのに、受け取らない選択肢があたえられていないのだろうか。家に持ち帰ってから捨てていると、舞はどうやらそれを見ていたらしい。次の日明らかに様子がおかしく、尋ねれば案の定それを見ていた。
捨てていた時、忌々しさと嫌悪を感じていたから、きっと舞に向けたことがない顔をしていたのだろう。舞に対しては意識的に優しい顔を作っていたから、余計にショックだったのかもしれない。事情を説明すると、舞は考え込んだ様子で俯いた。少しだけ見える頭の後ろからは、あのシュシュは見えない。それを見て、俺のあげたシュシュが舞の髪を束ねていないことに残念さを感じる自分に戸惑った。
人にあげたものを受け取られないことは「悲しい」に該当することを理解しながら、クッキーを捨てたことや受け取る時に気持ち悪さを感じたことについて罪悪感も後悔も抱かなかった。また貰えば捨てると思う。その場を去ろうとすると、舞はシュシュをつけて俺を追った。その姿を見て俺は、そこはかとなく自分が満足をしていることに気付いた。
他人でも、舞の手作りは平気。
自分が選んだものを舞がつけると、満たされる。
それは舞が家族というカテゴリーの中に存在しているからなのかと考えたが、俺は、親の人間二人に対して何かを思ったことがない。血が繋がっているほうと、繋がっていないほう。どちらに対してもだ。ある意味俺は二人をきちんと平等に見ていると言ってもいい。その点で見れば、義理家族の理想形であるとは思う。
一方で、舞は死ぬかもしれなかったから、執着が芽生えただけなのだろうか。親たちも、死ぬような目に遭えば、どうでもよくないと思うのか。段々と、そのことについて俺は考えるようになった。舞の命や死ではなく舞に執着していることは分かったが、その執着が家族としてなのか、人間としてなのか分からない。
そうして、舞のことを考え続けていたからなのか、夢に舞が出て来た。いつかの時に読んだ保健の教科書の手順で、舞に触れる夢。夢の中の舞は、現実の舞と寸分変わらぬ声と容姿で、違いはなにもない。ただ、俺が触れると少し照れたような顔をして、甘い声を出す。そこにしか違いが無かった。目が覚めると俺の身体は確かな反応を示していて、ああ、俺は舞を家族としてではなく、女として見ていたのかと気付く。そう考えると、かつて舞自身へ執着を向けていることを理解したときと同じように、元からそうであったことを確かめるように、俺の心にすとんと落ちていった。
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俺が舞への執着を自覚してもなお、当然のように舞の奇行は続いた。
突然家のフライパンで火柱をあげたり、自分でも無意味だと理解しているようなことをしたり、食べ物の着ぐるみを着たりする。一瞬俺が舞に抱くこの執着は、舞の奇行故かと思ったが、舞がただ普通に過ごしていても、気になる。その執着は悪化し、無意識に手を繋ぎ、繋いでいないと落ち着かなくなった。そして、舞を心配だと思う感情と共に、舞の身の周りについてのことが気になるようになった。前までは舞の奇行に関しても、その周りの対応に関しても、自分にさえ害がなければいいと考えていた。でも、今更ながらに舞が自分の学校でどう思われているのか気になった。調べてみると、舞の奇行は有名で、学校で知らない人間はいないものの、それでいじめられたりというのはなかった。歪んだブラザーコンプレックスを持つ妹として周知されているだけで、クラスにはしっかり馴染んでいた。確かに、奇行は俺の前でしかしない。俺のいない場所では、舞は普通だ。俺の前でだけ、おかしくなるだけで。そう考えると、少しだけ愉快だった。
俺は舞と徹底的に一緒にいるようにした。自分が抱く欲望の核、そして将来的に何を望むのか知りたかったからだ。その為に、修学旅行を休む計画を立てた。別に、どこかへ旅行に行きたい気持ちもないし、わざわざ飛行機に乗り、旅館で集団行動を説かれ睡眠を妨害され、いたずらに騒音を聞きに行くのも馬鹿らしい。そんなことをしている暇があるなら、本当に俺が舞を女として見ているのか確認をした方が有意義に過ごせる。そう思った。俺が異常だから、妹と呼ばれる存在に対して欲を持ったのか。この執着と欲は、舞を女として見ているから。でも、舞の何がそこまで惹きつけるのか。顔は、特に何も思わない。一般的に見れば可愛らしい顔立ちをしているとは思う。声も、一般的に見れば可愛らしい声をしている。どれも一般的に見ればだ。そこに惹かれているようには思えない。自分の気持ちのはずだ。自分の考えのはずだ。それなのに、舞への執着と欲に至る何かを探そうとすると、途端に迷い分からなくなる。
だから一日目は、あえて親の一方に人身事故が多発する路線を教え、舞と二人でいる空間を作った。一方が帰って来たとき、舞がいることに驚いていたけど、もしかしたら感染症かもしれないから休みの連絡を入れておいたことを俺が伝えると、簡単に信用した。俺が騙す分には手間がかからなくて楽でいいけど、将来的に面倒になりそうで不安を感じる。
二日目、ある程度顔色がよくなり回復した演技、というより元から体調に異常をきたしている点はない。それとなくいつも通りの調子に戻ったように見せると、親二人は安堵したような顔をした。そして今度は舞の体調が悪いことを匂わせる。そして舞と病院へ行った。親二人は仕事でいない。俺は適当に風邪に該当する症状を言って、薬を処方された。帰りに舞と一緒に病院に併設されたカフェで昼を取ることになり、俺はリゾットを食べ、舞はそんな俺を見て心配しながら落ち着かない様子でホットドッグを食べていた。コーヒーを注文していた俺に「風邪なんだからコーヒーなんて飲んではいけない」と自分の頼んでいた林檎のジュースを渡し、風邪薬の飲み合わせは大丈夫かと薬の注意事項を読み、薬の受け渡しカウンターへと走って、「大丈夫だって!」と戻ってくる。そして俺の頼んだコーヒーを飲み、この世の終わりのような表情をしていた。舞から貰った林檎ジュースは、甘ったるい味のわりに、そこまで不快でもなかった。
昼を取った後、帰りは少し遠回りをした。「熱がある時、アイス食べたくなるんじゃない?」なんて舞が言って、コンビニに寄ってアイスを買う。家に帰って、舞は俺を寝かしつけようとした。今寝ても夜眠れなくなると言って、二人でリビングのソファに座って、適当にテレビを付け、洋画の再放送をぼんやりと眺めていた。大して面白くもない内容で、退屈ではあるのに、舞と手を繋いでいると途方もなく有意義な時間を過ごしているように思えて、混乱した。舞の手に何かがあるのかと思って、意識的に触れていると舞は「くすぐったい」と離そうとして、慌てて強く握ると、「なに腕相撲する?」と目を輝かせる。「映画見なよ」とテレビに注目させれば言う通りにまたテレビに意識を向けていった。
丁度いいと思って、舞の手に触れることを再開する。自分の皮膚より少し柔らかく白い程度で、特に変わりはない。この腕を引っこ抜いて、自分の手にできれば満足するというほど求めてもいない。あらかた触れて確認し、俺はまたつまらないテレビを舞と一緒に見た。
三日目、親二人は俺の顔色が良くなったことで比較的安心しながら仕事へ向かっていった。修学旅行で旅行に行けない分どこか近場に出かけようと舞を誘うと、舞はこちらを疑うような目で見る。仮病を疑われているのかと思ったけれど、俺が無理をしていないかの心配だった。絶対に無理をしないと約束をし、舞を隣街の美術館へと連れて行った。隣町まで出れば、人に見られない。それに近くには総合病院があるから、いざとなった時に安心だと、そう言いくるめて。舞は「美術館って中で歩くよ?」と首を傾げる。どこまでも俺のことを心配する舞に、罪悪感は抱かないけど、ただただ愉快だった。それは、騙されて滑稽だという意味合いより、舞の頭の中に俺がいることに対する充足感が強かった。
美術館の展示の内容は、医療的な観点から見た絵画で、治療を受ける患者たちや、後学のために描かれた作品が並ぶ。昔であったら切り取られた身体の部位に興奮していたし、そこから溢れる鮮やかさに興奮を覚えていたはずなのに、昔感じていたはずの彩りは感じられず、ただただ人間の身体の一部を描いただけ、まるでそこらを歩いている人間や動物と変わらない景色と同じようにしか見えなかった。
それなのに、舞の唇の血色や、服のすそから伸びる皮膚の色、揺れる黒い髪には、途方もなく鮮やかさを感じる。美術館の中でも手を繋いだままで、舞の温度が手や肩から伝わってくる。やはり、俺はもう変質しきっているのかもしれない。きっと昔であったなら満足したであろう展示からは何一つ有意義なものを得られず、美術館近くの喫茶店でクリームがたっぷりとかかった、見るだけで胸やけをしてくるケーキに目を輝かせる舞に俺の虚ろは一瞬で満たされていった。
そして堂々巡りを続けたある夏の日。珍しく、俺は紙で指を切った。切った痛みよりも、怪我をしたことに違和感を強く感じた。そのせいか、救急箱の場所を思い出せず探していると、傷は思ったより深手で床に血がしたたっていく。後で拭かなければと考えていると、舞がやってきて、俺の指を手当てした。悲しそうに、切なそうに俺の傷口を見て、手当てをする舞。自分が痛いわけじゃないのに、まるで自分が痛いような顔をする舞を、俺は一切理解できない。前までは軽蔑に似た感情すら抱いていたけど、今はただ漠然と疑念を感じていた。舞は手当てをし終えると、「早く良く治りますように」と念じて、笑う。笑うという行為に、意味なんてない。笑ったところで傷の治りが早くなる訳がない。無駄な行為。意味の無い行為。ただの自己満足。理解が出来ない。
それなのに、ただ好きだと。そう思った。ずっと腹の中で巣食っていた感情に、綺麗に名前がついていく。そして鮮やかに、色を付けていく。俺は舞のことを好きであることに、俺が舞に向けている執着と欲の核に恋情があることに、完全に気付いてしまった。
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舞への恋心を自覚した俺は、それを伝えないままでいた。
確実に俺は普通ではないし、能力値は人より高いけれど、人が普通に備えている他者への共感能力が決定的に欠落している。その事実について、俺は何とも思わなかった。他者へ共感できなくても、疑似的に繕うことは出来る。俺はその点の能力はあったらしく、他の人間は簡単に騙されていたから不便は感じなかったし、わざわざ本来の自分を理解してもらいたいという欲求は無かった。でもそれが舞への想いを自覚してから、その欠落に煩わしさを感じるようになった。舞は、奇行はあれど他者への共感能力や、人間として最低限必要な倫理観や道徳観を持っている。一方俺は一見大人しくしているだけで、他人を有益か無益かのみで判断し、邪魔なら消せばいいと考えている。そんな人間に、正攻法で舞が恋をするはずがない。舞を手に入れるということは、舞を地獄の道へ引きずり込むことと同じ。化け物との恋物語が成立するのは、物語の中でだけだ。現実では悲劇でしかない。
でも、舞のことを諦めようと思うことは一切なかった。そもそもそんな選択肢は、存在していなかった。舞を地獄の道に引きずり込むことになっても、舞が地獄だと認識しなければいいだけだ。だから俺は、舞をあくまで妹として愛するよう努めた。前まで当たり前にしていたこと。妹想いの優しいお兄ちゃんを演じた。演じながら、少しずつ舞の普通を変えていくようにした。少しずつ少しずつ、侵食するように。
家族という関係性では説明できないほど異常な時間を共にする。そもそも、家の中で手を繋ぐなんて、兄妹の関係性としては破綻している。けれどそれを、俺が親二人に以前舞が刃物で危うい目に遭ったことや、熱湯を浴びそうになったと説明して、不自然ではないように操作した。今度はそれを舞に仕向けるだけだ。俺が傍にいることを当然として、俺のいない時間に不安を覚えるようにさせる。元々一緒に居る時間は長かったのだから、あまり手間はかからなかった。
「中学は徒歩圏内だったけど、高校になると電車やバスでの通学が増える。そうなると危険も多いし、前に池に飛び込んでいたのが、駅のホームになるかもしれないよ」
「え……」
「それに、落ち着いてると言っても、舞は病気じゃない。治ることなんてないんだよ。通学路が大丈夫だったとしても、突然校舎から飛び降りるかもしれない。俺も校舎の中でずっと一緒に居ることは出来ないけど、少なくとも朝と放課後、授業の合間、お昼ご飯のときに舞を見てることが出来る。ねえ、今時高校卒業はしておかないと、将来の選択肢を確実に狭めることになるし、舞は俺と同じ高校に進学させた方がいいよ。俺も、出来る限り勉強教えるし」
妹を心配する兄を装い、舞が俺の高校に進学するように仕向けた。ついでに受験勉強と称して舞の学校の送り迎えをして、休日も勉強名目で舞を俺に縛り付ける。計画通り、事は進む。舞の学力は、奇行はあれど著しく悪くない。そもそも悪ければペットボトルのロケットを作成する発想にも至らないし、馬鹿であったなら、今まで起こして来た奇行によって死んでいるだろう。考えたくも無いけれど。舞の偏差値は既に、合格ラインを飛び越え、余裕の位置にいる。朝昼晩、過密に組んだ勉強などしなくてもいい。けれど、舞にそれを伝えていない。むしろ危うさを感じるような言動で、意図的に不安にさせている。
だから舞は、全て俺の身勝手な束縛により勉強を強いられているのに、「これで落ちたら死ぬしかない」と日々勉強に励んでいた。少し可哀想に思うけど、止める気は無い。それに、もし舞が死ぬなら、その命を俺にくれないかなとすら思う。舞がいらないなら、俺が欲しい。大切にするから頂戴と、正解をした舞の頭を撫でる度に、念じるように、呪う様にそう思った。
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ある時、舞がそれはそれは快活そうな同級生と会話をしているところを見た。いかにも爽やかで、屈託なく笑い、舞の名前を呼ぶ男に、ふつふつと殺意が芽生えてくる。この男は、舞をどこまで知っているのだろう。幼い頃から、奇行を繰り返していたこと、それら全てを俺に向けていること、どれを知っていて、知らないのだろう。そう思うと同時に、素直に舞に似合うとも思った。舞の好みは分からない。そう言う話をしたことがなかった。舞が意識的にそういった話題を避けているのか、俺が排除してるのかも判断が出来ない。ただ、その歪みもねじれもなさそうな人好きのする笑みは、舞の隣に立っていても自然に見えた。以前、舞に似合うからと、舞の好みを無視してシュシュを贈った。それを今も舞は大切そうにつけている。単に物持ちがいいと思っていたけれど、舞はしっかりと手入れをして、長く使っていたいのだと言って使っていた。その時と同じように、舞の好みを無視するならば、舞に似合うのは間違いなくその男だ。でも、かつて舞の好みを無視して、似合うかどうかで決めたと言うのに、今は全くそうじゃない。自分でも身勝手で、都合のいい人間だと思う。けれど反省の気持ちは一切芽生えてこない。どんな男が似合おうが、好きになろうが、俺には一切関係がないことだから。そう思うのは、俺が普通ではないからか、それとも他の一般的な人間はこの感情を上手く隠しているのだろうか。
俺は、舞を俺に依存させたいのか、それとも独り占めをしたいのか。それとも舞の周りに人間がいることが不愉快なのか。ひとつひとつ自分の抱いていた感情を思い出して、考えていく。それでも明確な答えは出てくれない。きっとどれもそうなのだろう。舞を俺に依存させて、舞が俺だけを求めるようになれば気分がいい。舞を独り占めして、舞を知っているのが俺だけであればいい。舞の周りの人間は全員不愉快で消えればいい。どれも俺の持っている気持ちだ。
そして、徐々に舞の周囲の人間を排除した。周囲の人間が勝手に自滅して、消え去る様に、舞の周りにいる人間を、間引いていく。元々舞は他者を必要としていない節があった。拒絶はしていなくても、自分から他者と能動的に関わろうとはしない。結果的に、俺だけが舞に頼られる存在になった。後は、舞を俺に依存させるようにして、頃合いを見計らって俺が男であること、舞が俺に想いを向けなければ離れていくかもしれない不安感を煽り、それを恋と錯覚させるだけだった。
問題は、俺が男であることを舞に自覚させ、なおかつ舞の出方次第で離れていくかもしれない不安感をあおる方法だ。何か効率のいい、デメリットの少ない方法を模索していると、丁度いい餌、姫ヶ崎を見つけた。姫ヶ崎は、俺に好意を示してくる女子生徒の一人だ。俺の容姿が人に好印象を与えることは、俺を見る人間の目で充分わかっていた。そのことに関して、くだらなく鬱陶しいと感じていた。でも、今ならそれをうまく利用できる。そして、姫ヶ崎を活用できることに気付いた。
舞の依存心を、恋心だと錯覚させる、餌として。
姫ヶ崎は、同級生の中でも際立って整った容姿をもつ人間だとカテゴライズされていた。女子生徒は姫ヶ崎を羨み、妬む。そしてそんな様子を見て、姫ヶ崎は穏やかな笑みを浮かべ、柔和な雰囲気を醸し出しながらも心の底では愉悦に浸っている。
俺は姫ヶ崎自身に対して興味も抱くことはなかった。クラスメイトがこぞって注目する身体のパーツも、ただの血肉の塊としか思えない。好む性格も、ただ漠然とした絵空事のように思う。
でも、嫉妬を煽るうえで都合のいい性格、容姿、立ち位置、能力。それら全てを姫ヶ崎は持っていた。
だから俺はさりげなく姫ヶ崎に対してだけ特別であるようなそぶりを見せた。他者への優越感を与えつつ、そっと身を引いて手が届きそうで届かないよう、ギリギリのラインを保つ。時には思わせぶりな言葉を言って、その次には突き放す。姫ヶ崎はあっと言う間に俺への好意を包み隠さなくなった。頃合いを見計らって、勉強会と称して他のクラスメイトを交え接触させる。その間、俺と姫ヶ崎が一緒に居るところを舞に見せ、兄が他の人間、そして自分ではない異性と親しくしているところを認識させる。兄は紛れもない男であると、見せて教え込む。
でも、クラスメイトに俺が姫ヶ崎に好意があるという認識には絶対にならないよう注意した。いざ姫ヶ崎が邪魔になった時に消すには、その印象は不要になるからだ。
一方姫ヶ崎には、舞と俺が血が繋がっていないことを強調し、舞への嫉妬を煽り、競争意識を高めた。結果、姫ヶ崎は餌としてよく機能した。勉強会で、他のクラスメイトの前だろうが関係なく、俺に対して、態度、発言、あらゆる手で好意を示す。勿論、舞の前でも。本当に、吐き気がするほどの強い独占主張。まるで、俺と姫ヶ崎が運命であるかのような振る舞いに対して、何度消したくなったことか。
しかし舞がそれを認識しなくては意味が無い。菓子や食器を舞に頼み、接触の機会を設けたが、むしろ舞は俺と姫ヶ崎の応援をするようだった。俺が姫ヶ崎と共に飲み物を買うよう仕向けてきたり、二人で話す機会を作ってきたり、本人はさりげなくやっているらしいが、俺には丸わかりだった。計画は失敗した。
それに、家に来たクラスメイトたちは、舞を可愛い可愛いと言いもてはやす。連絡先を俺に尋ねてくる人間もいたし、中には内密に舞に連絡を取ろうとする人間もいた。舞を外出に誘う人間も出て来た。以前なら、こんな失敗はしなかったはずだ。考えてもみれば、舞の発想は独特なもの、一方の俺は一般的な思考パターンを当てはめて計画を練った。失敗するのも無理はない。そのことに、失敗をしてから気付いた。どこまで俺は愚かになったのだろうと思う。昔であったなら、舞を好きになる前であったなら、自分の滑稽さを嗤っていたかもしれない。
舞は舞で、徐々に俺によそよそしい態度を取り始めた。それが面白くなくて鬱屈としていると、夕方、着替える為にワイシャツのボタンを外している時に舞が扉をノックした。親二人とは違う、不規則で微妙にリズムをつけたノック。ほんの気まぐれと、面倒臭さ。普段はしっかりと着替えて扉を開くのに、前を開いたまま扉を開く。すると舞は貸していた参考書を返しに来ていた様子で、俺に目を向けるなり、顔を真っ赤にして後ずさる。その顔を見て、また腹の底がふつふつと煮えるのを感じた。
顔をもっと見ていたくて、舞の腕を掴み部屋の中に引きずり込むと、舞はパニックになり外に出ようとした。
「なななな何で、き、着替えてる最中なら言ってよお兄ちゃんっていうか出るから、出るから」
耳まで赤く染めていく舞の顔を覗き込む。目は水分をたっぷりと含みうるんでいて、掴んだ腕は熱い。男として意識しているのだとはっきりと分かり、初めから勉強会なんて必要なかったのだと思うと同時に、ただただ気味がいい。その瞳を舐めあげて、滴を取り込んでみたいとすら思った。
「何で顔真っ赤にしてるの?」
「だって服着てないからっ」
「服は着てるよ? ほら」
そう言って低く囁き、後ろから抱きしめる。舞の心臓の音が確かに速く脈打つのを感じた。煩わしかったら止まってもいいと考えたこの音が、今は聞いているだけで心地いい。しばらく無言のままそうしていると、舞は力いっぱい俺を押して、部屋から飛び出す。最後に「絶対復讐するから!」と宣言して、脱兎のごとく去って行った。
■
舞が俺を男として認識していることがはっきりと分かり、俺は勉強会と言う名の茶番をそろそろ終わらせようと考えていた。でも、出来れば終わらせる前に一度、クラスメイトたちの舞への好意を消し去ってしまいたいとも思っていた。
舞は、奇行こそ止んでいないものの、クラスメイトの手前奇行は起こさない。奇行の一つでも起こしてくれれば、と身勝手にも考えてしまうが、舞は昔から、俺以外の人間を奇行に巻き込まないよう徹底していた。絶対に勉強会では奇行に走らない。舞に対して行動を起こそうとした人間を排除するにしても、数が多すぎた。クラスメイトが次々に転校したら大きく問題にされ、足がつく。さりげなく牽制したり、舞に接触できないよう場を支配することしか出来なかった。いっそ、クラス全員事故に見せかけて殺してしまおうか。なんて思いも浮かんでくる。それを現実のものとする計画も簡単に浮かんだけれど、そこまでのリスクを背負う必要は無い。
俺は今、舞との未来を考えている。舞を手に入れて、ずっとそばにいる。その為に手段を選ばないつもりではあるけど、危険因子は最低限に抑えたい。せめて俺の家ではなくて、他人の家での勉強会であったなら、ガスの爆発事故でも起こして殺せるのに。でもそうなるとそもそも舞に俺が姫ヶ崎といるところを見せる計画と破綻する。それじゃあ意味がない。舞と出会ってから、ただただ霧の中を進むような、答えの見つからない考え事をすることが増えた。
そう悩んでいた矢先。姫ヶ崎が舞に応援を求める現場を目撃した。応援を求める、といっても純粋に応援を乞うのではない。マウンティングであり牽制だ。俺を想う姫ヶ崎が舞にマウントを取ろうとしたということは、舞が俺に対し何かしら思いを抱いているということを、姫ヶ崎が感じ取ったということだ。舞が男として俺を見ていることは確定している。期待、出来るかもしれない。
その日、姫ヶ崎に告白され、そのことを舞に伝えると、応援された。しかし舞の表情はどことなく暗い。失敗したと思っていた計画にかすかな希望が見えたが、胸が痛む。頃合いを見て、断ったことを報告すると、舞はどことなく嬉しそうにしていて、不意にまた舞を抱きしめたくなり、慌てて抑えた。今度は、抱きしめるだけじゃ足りなくなるかもしれない。次に抱きしめるのは、何かの変化が起きた時、そう決めた。
俺は、高校受験を期に、舞が俺の部屋に立ち入らなくなってから、本棚に細工をした。そこには、舞に好きな人が出来たり、舞が俺を拒絶したときに使う為の道具が入っている。舞の自由を奪う手錠と、足枷。そして部屋に繋ぐ鎖。親二人が存在する中で出来ることは限られているから、ゆっくりと時間をかけることは出来ない。だからどうしても犠牲を払う必要はある。そしてそれは、間違いなく舞の心だ。俺は別に舞の容姿を好んだわけではない。心に惹かれた。でも舞を早急に手に入れるには心を犠牲にする必要があって、矛盾しているように思う。舞を誰かに渡さないかわりに、舞を永遠に手に出来なくなる。俺は何がしたいんだろうと思う反面、やめようとは全く思わなかった。だけど出来ればそれを使う時は来ない方がいいけど、何事にも備えは必要、ということで準備だけはしていた。いつその時が来てもいいように。けれど、その時は来ない方がいいとも、同じように思っていた。
夏休みが差し迫ったある日。俺は、たまには邪魔な人間が居ない状態で舞と過ごしたいと考え、親に旅行券を贈った。はじめ親たちは家族で行こうと面倒なことを言い出したけど、舞の受験を理由に断り「旅券じゃなく、町内で行くって言えば、きっと舞も納得するよ」と伝えると、親たちはその通りに舞に説明した。本当に、簡単に唆される人間だと思う。親じゃなければ、関わっていなかったし、関わらなかったとつくづく思った。舞をこの世に産みだしたことに、感謝の感情はあるけれど、別に舞はこの親の腹から産まれる必要があったかと問われればまた違ってくるわけで、俺は舞以外に感謝を抱くことは結局ないのだと分かった。
一方、舞はおかしな行動を取り始めた。ネットで食料と水を買い込みはじめ、レンタルショップで予約をし、小説を大量に買い漁り、今まで欲しいなんて一言も言わなかった電子機器を買い揃え始めた。今まで舞は、機器に興味を示すのは俺関連。自動的に移動する掃除機を改造して、人間が這いずるように見えるようにしたり、そういう理解不能で奇怪な行動をするだけ。娯楽のために購入しようとするとか、欲しがることは一切無かった。夏休み、外に出ないようにしているのか、それとも受験のストレスか。気になって舞が寝ている間に、舞のアカウントで通販サイトにログインして購入履歴を漁った。
すると、食料や水と一緒に、鎖と手錠が購入されていた。同時期に洗わず使用できるシャンプーなども購入されており、まるで誰かを一時監禁するようなラインナップが並べられていた。それは、酷く懐かしく、見覚えのあるラインナップでもあった。本棚を改造して、部屋に備えている、俺と全く同じ商品たち。ただ、舞の購入した手錠も鎖も、繋がれた人間を考えた作りで、簡単に壊れそうなもの。外そうとしたら自分が痛むような、鍵がなければ絶対に外れない、繋がった人間よりもつながった人間を拘束することに重きを置いた俺の購入品とは大きく違うものだった。
舞は誰かを監禁する気なのだろうか。
……でも、舞は俺と違って本懐を遂げれないから監禁するような人間じゃない。なら、俺に対抗して、という可能性が高いだろう。
かなり前、部屋に誰かが入った形跡があった。それも、入ったことを悟られない様にした形跡が。そんなもの、邪魔な人間二人はしない。間違いなく部屋に入ったのは舞だ。舞に見られてはいけないもの、かつて俺が惹かれていた人体解剖図や、虫を喰わせ合わせたことの日記は、興味を失い処理していたから気に留めていなかった。見られて困るものはすべて隠している。だけど相手は舞だ。何をするか、何を考えているか分からない相手。もしかしたら舞は何かしら悟り、逃げようとしているのかもしれない。
もし、そうなら、舞が離れていくのは時間の問題だ。何故レンタルを予約したのか分からないけど逃走に気付かれないようにする為の細工かもしれない。舞は馬鹿じゃない。
レンタル日からひとつひとつ計算し、舞の予定と重ね合わせていくと、偶然にも舞が何かを起こそうとしている日は、親二人が旅行に出発する日だった。
だから俺は、本棚の仕掛けを解き、中身を確認し、妹を捕らえる計画を立て始めた。
ずっと使うことはないと思っていた道具たちを一つ一つ点検して、頭の中で計画を立てていく。舞を眠らせ、この部屋に繋げる。幸い親二人は旅行に行っていて、二泊三日の間、手を出すことは絶対に出来ない。あの時の、俺が修学旅行を休んだ時よりゆっくりと過ごすことが出来るだろうけど、やらなければいけないことがある。舞を強引に奪い、心を壊して、俺を愛するように作り直す。果たしてその舞が、俺が新しく作り直した舞が、俺が愛している舞なのかと思うけど、それでも舞が遠くへ行くくらいなら、あの時、トラックに撥ね飛ばされたときのように、遠くへ消えて溶けていってしまうくらいなら、舞を壊して、残骸をかき集めて抱いていた方が、きっとこの虚ろは満たされる。
そう決めたのに、俺の心は定まらない。しっかりとパズルのピースを埋め合わせているはずなのに、浮いてはまらないようなそんな不快感がこみ上げる。だから、その定まらない感情を埋めようと思ったけど、舞を見る度にその心は乱れていく。そして夏休みが始まり、舞と居る時間が格段に増え、一つひとつ丁寧に裂き、千切るように舞への渇望は酷くなっていた。舞を見る度に、抱きしめたくなる。好きだと言って、受け入れてほしくなる。喉が渇いて仕方がなくなって、舞に縋りつきたいとすら思うようになった。
■
このままだと、舞を監禁し、直す間に殺してしまうかもしれない。
そう思い立ったのは、舞が何かを起こそうとする二日前のことだった。ふっと湧いただけのことなのに妙に鮮明で、頭の中に色鮮やかにこびりついていく。鎖に繋がれ、俺を拒絶する舞の首を思い切り締め上げると、放っていた瞳が濁っていき、よく動いていた四肢がだらりと力なく下がる。俺に怯える舞の腹を貫くと、舞の唇の色よりも濃い赤が流れて来て、床を染め上げていく。
殺したく、ない。
かつて生き死にに強く惹かれた頃はあった。舞のことを死んでもいいと考えていた。でも今は違う。それなのに、心が手に入らなければ、身体だけならばいっそ殺してしまってもいいんじゃないかとすら思ってしまう。感覚が甦ってくる。舞がトラックに撥ねられた晩、箱庭を潰していたあの時の記憶が。このままだと間違いなく殺してしまう。違う。殺す。はっきりと舞への殺意を自覚して、俺はそのまま眠りに落ちた。
「舞と一緒に、遊園地に行こうと思って」
驚き、疑う前にそう言い放つと、舞はおどろいた顔をする。俺自身、どうしてそう思ったかは分からない。ただ、思い出を作りたくなった。舞が舞である最後の時間を、出来れば親のいない場所、二人で過ごしたかった。今日を過ぎて、明日になれば、俺は舞を殺してしまうかもしれない。そのことを心の中に落とし込んで、整理する時間や機会が必要だと考えていた。
遊園地へは、バスで行った。そこでも手は離さない。住んでいる市を離れていくのを見計らい、舞の指に自分の指を絡め合うようにして繋ぐ。舞は最初驚いたような顔をしたけど、俺がそのままいつも通りに接していると、やがて躊躇いがちに俺の指に自分の指を絡ませた。そのままスマホや外の景色を眺めながら、これから向かう遊園地について言葉を交わす。舞はどこか元気がなくて、明日逃げる計画が失敗することを恐れているのかと思い髪を軽く撫でると、すぐに笑みを浮かべこちらを向き、じゃれるように頭をぶつけてくる。そんな時間が永遠に続けばいいと思った。このままバスがどこかに落ちて行き、一緒に死ねたなら舞の心を壊さず、最後まで一緒にいれるのに。そう思っていると、バスは事故に遭うこともなく遊園地の前に停車した。
遊園地に訪れてすぐは舞はどこか戸惑ったような、そんな様子だった。俺自身遊園地に対して楽しもうという意識を持ったことはなく、舞と親二人と行ったことは何度もあるけどはしゃぐ舞や、親二人、そして周りの人間たちを見て別の世界の生き物を見ているとしか思わなかった。だから、遊園地を楽しむ気持ちが分からない。でもしばらくすると舞は乗り物を楽しみ始め、嬉々として俺の腕を引くようになった。別に前後に揺さぶられたり、振り回されたり、高いところから滑り落とされることに関して楽しさも興奮もない。だけどそれらに怯え、楽しみ、興奮する舞のその姿を見ていると、楽しいと確かに感じた。
俺は舞に勉強を教えるけど、俺は舞を通じて舞の感情を学ぶ。勉強は誰に教わっても結果は同じだ。でも俺はきっと舞以外の人間からそれらを学ぶことは永久にないんだと思う。これから暗闇に引きずり込むのに舞はずっと笑っていて、時折俺を見て胸を痛めるような眼差しを向ける。今まで何かを求められることも贈られることも、特に思うことがなかったはずなのに、舞の願いを叶えたいと思う。何かを願っているのなら言ってほしい。そうしたら、叶えるから。でも、もし舞に自分を解放してと願われたら、絶対に叶えない。だから聞くのは不誠実だ。それなのに、舞の笑っている声を聞いたりすると、全てを引きずり出して聞き入れたくなる。優しくしてやりたい。甘やかしたい。そう思うのに、それと同時に独り占めしたい。全てを奪い尽くして貪りたいと思う。
「舞と乗りたいと思ってたんだよね」
「え」
最後に観覧車に乗ることは、初めから決めていた。雰囲気が良くなるから、恋人同士の間柄で人気だからではなく、遊園地という人間たちが蠢きひしめき合う環境の中で、舞と一緒の空間になれる場所はそこしかないからだ。二人、向かい合うように座って、静かに空間が浮上していくのを待ってからそう呟くと、舞は意外という字を書いたような顔をした。
「なに?」
「いや、なんか意外だなと思って」
「否定は出来ないかな」
ほんの少し、空間が揺れる。窓に目を向けるともう地上とはだいぶ離れたところに来ていて、ほんとうに、世界で二人きりになったかのような錯覚すら覚えた。
「……ただ上って、後は落ちるだけのものに、並んで乗るなんて理解できなかったけどね」
今まで、娯楽と呼ばれるものごとに、何一つ興味が持てなかった。心惹かれるのは、生き物が息途絶える刹那の瞬間だけ。何を見ても、聞いても想像通りのものが続く世界は苦痛でしかなくて、その中の微かな光が、その一瞬だった。溢れる液体を見る度に落ち着いて、微かな呼吸、生命の芽吹きが途絶えて空虚に堕ちていく瞬間こそが永遠だった。それなのに、舞によって全てが変わった。変えられてしまった。それは他の命にとっては、最良であると言える。でも舞は違う。舞だけが、世界で一番大切な存在が、犠牲にならなくちゃいけない。
「こんな風な景色だったんだね……」
今までは、ただの色覚情報としか認識していなかった夕焼けの赤が、時間の流れが、酷く憎々しく感じる。明日なんて、来なければ良い。今が永遠になって、この時間がずっと続いて、舞と溶けて、同じになりたい。ただひたすらにあり得ないことを願っていれば、舞が隣に座った。
「どうしたの、舞」
「何でもない。こっちのが景色良さそうだったから」
「なら場所変わろうか?」
「ううん、このままでいいよ」
舞は、手すりを握りしめている。まるで一人で何かを耐えているようで、何を考えているのか全て暴いて、抱きしめたくなる衝動を抑えて、空いているほうの手を握る。離れたくない。この時間が永遠に続けばいい。時間が止まればいい。離れたくない。ずっと傍にいたい。祈るようにただ手を握っていると、舞は握り返してきた。気持ちを返してもらえてるんじゃないか。受け入れようとしてくれているんじゃないかと、勘違いしてしまいそうになる。きっとこうやって手を繋ぐことは、今日で最後だ。明日には、舞の心か、命、どちらかを弔うことになるだろう。他でもない、俺が、舞を。
「舞、何で泣きそうになってるの?」
「なってないよ、泣きそうになんて、怖くないし」
「本当に?」
「本当!」
舞の吐息が、涙で震えているような錯覚を覚えて問いかけると、舞の声色がかすかに震えた。それだけのことなのに、途方もなく好きだという気持ちが溢れ出す。泣かせたいわけじゃない。好きだ。全ての表情も、感情も、舞ならば、舞だけは愛おしい。こんな世界でも、未来に向かって何かを思える存在は、舞しかいない。好きだ。好きなのに、好きで好きで仕方がないのに、明日、そんな舞の存在を俺は、消す。消さなきゃいけない。だって、こんな俺を、舞が受け入れるわけがない。受け入れられるはずがない。愛してもらえない。それなのに変われない。そんな異常者を愛せるわけがない。そんなことは自分が一番よく分かってる。なのに、好きであることが止められない。不幸せにしてしまうのに、好きで、好きで、苦しい。好きだ。舞のことがどうしようもなく好きだ。それなのに、殺す。どうしようもなく好きなのに。愛しているのに、それなのに殺す事しか、奪う事しか出来ない。
「……舞」
好きだと言ってしまばいいのだろうか。いっそ今、伝えて。どうせ明日、失うのだから。そう思っても喉がただ焼けていくばかりで、声が出ない。舞が窓に顔を近づける。そのまま抱きしめたい。触れたい。好きだと伝えたい。それなのに俺の手は舞の手を握るばかりで、全く動かない。それなのに、今まで舞と過ごして来た出来事が、次々と頭に浮かんで、消えていく。舞の笑顔、泣き顔、少し怒ったような顔、俺に期待をする目、笑う声、舞との思い出が溢れて、同じように好きだという気持ちが、止まらない。止まってくれない。
「来年も来ようよ! また、一緒に!」
舞が元気を振り絞るように言う。そんな未来が来ない。俺が壊す。それなのに苦しい。俺は今ちゃんと笑えているだろうか。「そうだね」と肯定をすればいいのに、言葉が出ない。今まで何百回、何千回と嘘を吐き続けたのに、口から出てこない。どうしてその四文字が言えない。もどかしさで舞の手を握りしめると、舞も同じように握りしめて来て、余計に胸が締め付けられる。
そうして、最後まで俺は、舞の言葉を肯定することが出来なかった。
決行当日。親二人は早々に家を出た。そして舞はそわそわした様子で俺との勉強を始め、俺の紅茶に薬を仕込んでいた。舞の淹れたものなら、飲んでも良かったけれど、今日だけはいけない。
すり替えた紅茶を一口飲む。すると、舞はじっと俺が紅茶を飲みこむ様子を観察している。
「舞はさ」
「ん?」
「俺が兄で良かったって、思ったことはある?」
舞に、質問をする。俺は舞が妹で良かったと思ったことは、一度もない。舞が傍にいて良かったと思ったこともない。恋しい、愛おしい、欲しい。そう思うけれど、その想いをぶつけられた舞が哀れで、舞が傍にいて幸せを感じることはあっても、「良い」とは思えない。可哀想、そう同情をする。こんな化け物に愛されて、犠牲にされて、そして今日全てを奪われ、失われていく舞は、酷く可哀想だ。
でも、やめてやれない。
舞が欲しい。俺は全てが欲しい。生きている限り終わらない。俺は舞を好きになってしまった。愛している。だからこそ、舞を呪い、不幸にする。ただ幸せを願いそっと愛することなんて、俺には出来ない。
「どうしたの、いきなり」
「いや、舞は可哀想だなと思って」
俺の言葉に、舞は戸惑った顔をする。きっと俺の言葉を理解するのは、俺が舞に手を下す瞬間だ。そのときはじめて、舞は俺の真意を知ることになるだろう。俺が舞を愛していることを、好んでいることを、知って、嫌悪して、俺に怯え、命を途絶えさせていく。想像すればするほど色鮮やかに見える光景は、ぞっとするほど心が震えず、ただただ身体を冷やしていく。
「世界で一番可哀想だよ。舞は」
好きだよ。好きだ。ずっと好きだった。好きになってしまった。好きで好きで、もう、本当におかしくなるくらいに好きだ。そんな気持ちを全て込めて、潰して、塗り交ぜて、念を押すように言う。舞は、可哀想だ。これから、世界で一番可愛そうな女の子になる。俺がする。化け物に愛されたばっかりに、何一つ悪くないのに、貪り、奪い尽くされる、可哀想な舞。可哀想な舞。可哀想な舞。
「ねえ、お兄ちゃん、私ね……」
舞は俺を見て、意を決したように何かを伝えようとする。薬が効いて来た。身体が痺れてきたのだろう。もうあとは、意識を堕とすことしかできない。さよなら、舞。また会おうね。俺を愛せるように直してあげる。それが駄目だったら、一緒に死んで、一緒に死のう。
「お兄ちゃ……」
「舞。俺やっぱり変われないや。俺のこと、一生許さなくていいよ」
俺に手を伸ばすように、俺を求めるように、舞の瞳は最後まで俺を映している。最後の意識が途絶えていく前に、俺は舞の額に唇を触れさせる。
しばらくそうした後、用意していた手錠を、舞の手首にかける。そしてそれを鎖で繋ぎ、さらに俺の部屋に繋げた。これで、舞が手首を切断するか、俺が鍵を渡さない限り、絶対逃げられない。
ぐっすりと眠る舞を眺める。
いつだって、計画を止める機会はあった。でも、結局今日まで、今まで来た。これから舞の目が覚めたら、状況を説明して、出方を窺う。二択だ。舞の心を壊すか、命を奪うかの、二択。
舞の頬を撫でる。柔らかくて、すぐに切り裂けそうだ。病室で横たわる舞を見つめていたときが懐かしい。あの時は、こんなことになるなんて思いもしなかった。ただただ舞が目覚めないことが不愉快で、怯えていたあの頃。まさかその命へ、こんな風に執着して、奪おうと思うなんて。
俺に、人への執着が芽生えるなんて。
池に突き落としたらどうなるんだろうと思っていた、舞の存在。俺にとっては舞は、いや、俺は誰がどうなろうがどうでも良かった。家族という存在でも、どんな存在でも。ただ、落ちているゴミと変わらない。舞も、同じだった。
でも今は、あの時実行しなくて良かったと心の底から思う。突き落とさなくても、自分から飛び込んでいったけど。それは今日殺せなくなるからなのか、今日まで一緒に過ごすことが出来たからなのか。だけど、昨日よりずっと、俺の心は落ち着いている。このまま落ち着いたままでいられるのだろうか。それとも、舞が目覚めたら、また俺は変質していくのだろうか。
舞は、目が覚めたら、どんな反応をするんだろう。怖がるだろうか、それとも怒る? きっと舞が目を覚ました時、この歪んだ想いは完全に一線を越え、舞を苦しめる呪いになる。硝子のように砕け散った舞を、組み直してまで蝕む。
「可哀想にね」
呟いても、舞は目覚めない。しっかりと舞の身体に合わせたものだから、副作用が酷く出たりする心配は無いけど、深すぎる眠りは少し心配にもなる。心配。人を想う感情。俺がまともだったら、もっと違った結末を迎えていただろうか。正しく舞を幸せにして、舞を好きで、愛して、愛されていたのだろうか。
「ごめんね」
今まで、心の底から誰かに謝ることなんて出来ないと思っていた。でも、今は心の底から、舞に申し訳ないと思う。胸が痛い。これからもっと痛むことを、舞にする。それでもやめられないのだから、俺はどうしようもない。
「好きだ、好きなんだ。舞のこと」
好きになって、ごめん。謝りながら、最後に舞を抱きしめる。体温が、温かくて、それがうつったのか、目頭が熱くなった。そのまましばらく舞を眺め、部屋から出た。
◇○◇○◇○◇○◇
「これから舞は、俺のことを好きになれるように、愛せるように、一緒に生きていけるように、この部屋でたくさん頑張るんだよ」
そう言って兄はにこにこと効果音がついているかのように笑う。全く意味が分からない。惨劇は? 私が兄を好きになるように? 意味が分からない。日本語は正しく言われているし、一つ一つの言葉の意味は分かる。だけど今の状況と不釣り合い過ぎて全く頭に入ってこない。なんだたくさん頑張るって。「俺は刑務所に行くからお前はこの家を守れ」みたいな話を抽象的に言ってるってこと?
「は? 何で? 殺すんでしょ? 計画に邪魔だから、私が計画に勘付いてるって分かったから、殺すんだよね?」
私の言葉に、兄は一瞬呆気にとられたような顔をして、私の顔をまじまじと観察する。そうだよ。どうして兄はここにいるんだ。惨劇は起きてない? それとも、自殺だけやめて、全員殺してここに現れた? わざわざ私を殺すために? それとも私を殺して学校に向かう……? 兄は今日肝試し大会を開いた感じはないし、集合時間にずれが生じていてもおかしい話じゃない。順番がおかしくなっていたって、不思議じゃない。今ここで椅子ごとぶつかれば、兄にけがをさせることになったとしても、惨劇を回避できるのでは?
「何言ってるの、舞、俺は……」
「学校!」
「なに?」
「学校行った? 今日!」
私の質問に兄は答えようとしない。もしや学校に行って、殺してきたのではないだろうか。いやでもそんなはずない。さよ獄では黒辺くんは血濡れだった。今兄は特に血に濡れてないし、鉄の匂いもしない。お風呂に入ったとしても早過ぎる。時間が全く合ってない。
「学校行った!? ねえ! 聞いてる!? 今日学校行ったの!? ねえ!? 答えてよ! ねえ!」
「行くわけないでしょ」
半ば怒鳴るように問いただすと、兄は呆れたように溜息を吐いた。だとしたら、きっと今から私を殺して、そして惨劇に向かう手はずだ。それならまだ回避できる。まだ兄を救える! 兄を殺させないようにできる!
「舞、自分の状況分かってる? 今俺に何されようとしてるか分かって、そういう態度取ってるの……?」
あやすように兄は私の頭を撫で、馬鹿にした声色で見下ろす。そんなこと百も承知だ。
「うん! お兄ちゃん生きてて、私は邪魔だから殺すんでしょ? 学校行くのに邪魔だから!」
「……は?」
露骨に冷たい目を向けられた。でもいい。それでもいい。一瞬の隙をついて、椅子ごと突っ込むことさえ出来れば、椅子込みの戦闘力で兄に大ダメージを与えることが出来る。怪我をさせてしまうけど、兄が生きてくれるなら、殺人鬼にならずに済むならずっといい。
「私は、そんなことさせないから。学校になんか行かせないから、たとえお兄ちゃんが、今生きてるの辛くて死んじゃいたくなっても、死なせないから、少し怪我とかさせちゃうけど、私はそれでも、ずっとお兄ちゃんの傍にいたいから」
「だからごめん!」そう言って、思い切り地面を蹴る。今兄は、私の目の前。この椅子は鎖に繋がれて、部屋から出ることは出来ない。でも、今目の前にいる兄に、渾身の突撃をすることは出来る。それに私だけじゃ兄の力に到底叶わないけれど、足枷で繋がれた椅子がある。顔面を床に強打するかもしれないけど、そんなことどうでもいい。兄が生きてさえいれば顔面だって腕だって足だってくれてやるんだと兄に向かっていくと、兄は私の肩を掴み、ガタンと音を立て椅子ごと押えつけられる。完全な阻止。反動で少し前側の足が浮いた。
「ぎゃっ」
「舞……」
兄は私の肩を掴みながら、ただじっと私を見下ろしている。こちらを巣食うような瞳は、いつになく動揺に揺れているように見えた。
「舞、舞は、俺の傍にいたいと、そう、思ってるの……?」
「え」
兄の真っ暗な瞳がどんどん近づいて来た。食い入るように見つめられて、どう返事をしていいか分からなくなる。兄の声色は、いつになく純粋で余計混乱してくる。これは邪魔な人間を排除しようとするときの態度じゃない。どういうこと? 油断させて殺す作戦でも限度があるし、兄の手には包丁も銃もない。
「お、お兄ちゃん? な、何? 何か近くない!?」
「答えて」
「お、お、お、思ってるよ」
「舞は、俺を受け入れてくれる?」
「え? う、うん。でもそれ告白みたいだよ」
「告白だからね」
「は!? それは、自白ではなく、恋愛的な意味合いで……?」
「そうだよ」
しれっと兄は肯定したが、疑問しかない。私は兄に疎まれるようなことはしても、好意を持たれるようなことなんてしていない。今まで最も一番兄に対して好かれるような行いは、兄を油断させるために静かにしていた時くらいだと思う。それもほんの少しの間だけ。次の瞬間には木魚を鳴らしたり、タンバリンを持って暴れたりしたし、酷い時は飛んで跳ねた。
「え、お兄ちゃん、私に興味があるの? 虫とか潰して、蠱毒したり、生き物殺すほうに興味があって、私っていうか、基本的に人間に興味ないよね……? わ、私生きてる人間だよ? それにわりと生命力、強いよ?」
「……まぁそうだったけど、舞、俺のことそういう感じの人間だと思ってたんだね」
「え、ええっと……」
兄は俯いて、やがてふっと笑みをこぼす。その笑い方が、いつになく残酷で、何も取り繕っていない顔で血の気が引いていく。
「お、お、お、お兄ちゃん……?」
「何だ。取り繕わなくても俺の本質分かってたんだ。……ははっ。それで、その上で、傍にいたいって言ったんだ……?」
目を見開き、喉の奥で笑う兄の瞳は、ぞっとするほど昏い。それなのに兄らしい気もしてくるし、仄暗い安心感とともに惹きつけられて目が逸らせない。
「俺さ、一人の女の子として舞が好きなんだ、だから邪魔なんかじゃないよ。舞以外の人間は、皆邪魔だけど」
「え、ええ……」
兄はおかしいと思っていたけど、本当にベクトルの違うおかしさかもしれない。普通、ペットボトルロケットで川向うへ飛ぼうとしたり、目潰ししようとしたり、奇行に走る人間を好きにならないし、そんな人間以外を邪魔だと思わない。
「私、変なこと、いっぱいしてきたよね……?」
「ああ、自覚あったんだ」
「そんなんでも……好きだと……?」
「舞自身が危ないものはやめてほしいけど、それ以外なら別に何とも思ってないよ、慣れたし」
慣れた。
薄々感じてはいたが、ショックだ。今まで兄に予想外を提供する為に頑張ってきたのに。奇行自体に慣れてしまったら、どんなに頑張っても「ああいつものか」と流されてしまう。
そうしたら、惨劇が……と考え、気づく。
そうだよ、惨劇だよ。兄は学校に行ってない。そして今兄がいるということは、惨劇の一夜は起きなかったということだ! 何だかよく分からないが失敗じゃなかったんだ! これで兄もクラスメイトも無事で、兄は真っ当な人間として一生を終えるじゃないか! 兄は生きてる! そして死なない!
「え、じゃあお兄ちゃん今日学校行ったりしない? ここにいる?」
「当然だよ」
「そっか!」
これは来た。完全勝利決まった。だって兄は生きているし、惨劇も起こしていない。完全なる勝利だ。明日も明後日も来年も兄は生きている。良かった。本当に良かった。
「何か楽しそうにしているところ悪いけど、今、自分が監禁されてるってこと、分かってる?」
兄が、呆れたように笑う。本当だ、監禁されてる。あれ? でも何で私は監禁されてるの? 惨劇する必要が無いのに。何で私をこの部屋に? っていうか何で手錠つけられてるの? 何で私、兄に見下ろされてる?
「ええと、あの、何で私、閉じ込められてるの?」
「誤魔化そうとしても無駄だよ。舞が俺から逃げようとしたこと、全部知ってるんだから」
「は……?」
「は……?」
兄は何言っているんだろう、という顔をしている。いやそれ私がしたい顔だよ。返してほしい。
「逃げるって何? 私どこも行かないけど」
そう尋ねると、兄は混乱したようなそぶりを見せる。何だこの表情、初めて見た。今まで兄は冷静に物事をさらっとこなしていて、戸惑う様な表情なんてほとんどしていないのに。
「手錠と鎖と食料は、逃げる為に買ったんじゃないの? まさか……本当に、籠ろうとして?」
兄が恐る恐るといった様子で尋ねてくる。あれ、手錠と鎖と食料って、私の監禁グッズのことだ。そして兄の言った「逃げる」という単語。もしや兄は、私の監禁グッズを見て、逃げると考えたのでは。
「お兄ちゃん、もしかして、私の監禁グッズを、逃亡グッズだと勘違いしたの……?」
そう言うと兄は驚愕の表情を浮かべた。おお、予想外の提供! と少し浮かれていると、兄は目を細める。
「監禁って……舞は、誰を監禁しようとしてるの?」
直球過ぎる。まさか貴方の事です! なんて言える訳が無い。しかし、別の人です! と答えてもじゃあ誰? ってなるし……。どう答えようか考えていると兄が口を開いた。
「もしかして……俺?」
尋問だ。尋問が始まった。手錠もつけられてるし、これ完全に尋問だ。兄の射抜くような目を避けるように俯く。
「も、黙秘権の行使を……」
「いいの?」
「何が」
聞き返すと、兄は私の手錠に目を向け、愉快そうに笑う。
「食事も、トイレも、何もかも、手錠がついている限りは親二人帰ってくるまで舞じゃなくて俺に支配権があるけど、いいの? 黙秘権行使して、本当に」
暗に、黙っている限り断食を強いることを示してきている。断食くらいどうってことないけど、トイレは困る。というかここ兄の部屋だし、汚せない。
「もう一度聞くよ? 舞が監禁しようとしてたのって、俺だよね?」
「はい……ごめんなさい」
駄目だ、自白してしまった。普通自白は兄のほうなのに。悔しさに兄を睨もうと見上げると、兄は考え込んでいた。その為周囲は重い沈黙に包まれる。
これからどうなるんだろう。怒る? 呆れる? でも予想外の提供は慣れたなら、いつも通りの何でも無いような反応のはず。しかし、兄は黙ったままだ。
どれくらい時間が経ったのだろうかと考えていると、兄がようやく口を開く。
「うん、逃げようとしていないなら何でもいいか。ちょっと俺も冷静に考えるべきだった」
あれ、理由とか聞かない……? と、考えて気づく。そうだ。兄は慣れている。私は小さい頃から兄に対して理由を答えない異常行動を見せ続けて来たから、今更理由を求めてきたりはしない。逆に理由を聞かれても説明できないし、これで良かった。「私前世の記憶が……」なんて説明出来るはずがないし、「あ、とうとうヤバくなってきたな、完全に」と思われる。じゃあ兄は惨劇を起こさない。私は逃げない。なら、何で私は拘束されてるんだろう。この拘束、間違いなく不要では。
「えーと、逃げないということで、この手錠を外してくれないかな?」
「外さないよ」
「え」
兄は私に繋がった鎖を手に巻きつけ弄びながら、無邪気に笑っている。笑うままで、一向に外そうとしない。
「はじめに言ったよね? 俺の事を好きになるように、愛せるように、舞はこの部屋で、頑張ってもらうって」
「頑張るって」
「ここで、俺のこと好きになるようにお勉強するんだよ、親たちが帰って来るか、俺の事を好きになるまで、舞はここから出られない」
「その好きは、ええと、恋愛関係の好き……なんだよね?」
「そうだよ」
一体私のどこを好きになったんだろう。全部、って言ってたけど、でも、嘘を吐いているようにも見えないし。というか、兄に人を想う感情があるとは……。これじゃあ私のほうが予想外の驚きを兄に提供されてしまっている。
「舞は俺と一緒にいるの嫌?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ、俺とずっと一緒に居ても辛くない?」
「辛くない」
「じゃあずっと一緒にいてくれるよね? 俺の傍から離れなくていいよね? ずっとここに繋がれてもいいでしょう?」
「うん……、待ってこれ誘導じゃない? っていうか洗脳しようとしてない?」
はっとする。めちゃくちゃ誘導されている。兄は溜息を吐くと、私の頭を撫でた。
「俺の事、早く好きにならないと舞が辛いだけだよ? 結局、舞が頼る人間は、俺しかいないようにするし、これからも」
「それは、殺す的な……」
「違う違う、お願いして、居なくなってもらうだけ、殺したりしてたらキリが無いしね。自分は舞に近付いちゃいけないんだってきちんと理解してもらうだけ。そうすればこれまで通りの生活が送れるって」
「脅迫だよお兄ちゃん! それ、間違いなく脅迫だよ! 脅迫以外の何物でもないよ!?」
「これも全部、舞を手に入れる為だから。舞が俺の傍にいてくれるなら脅迫なんてしなくて済むんだけど、でも結局は舞の気持ちだからね、どうする? 俺を受け入れるか、受け入れないか。舞はどっちを選ぶ?」
「どうするも、拒否は選択肢には入ってないよ……ね?」
「そうだね、俺は頭がおかしいから、どんな手を使っても舞を手に入れるよ。……たとえ何を犠牲にしてでも、誰を犠牲にしてでも」
兄の顔が冷えたものに変わる。体感も氷点下くらい下がっている気がする。兄が、私のことを好きなのは分かった。となると、私の気持ちになるわけで。
今まで思い返してみれば、この十年間、兄の為尽力してきたわけで。それなりの情もあるし、愛はある。好意的に思っているし、ずっと一緒にいれるなら一緒にいたいとは思う。
「舞は俺に触られたり、好きだって言われて、気持ち悪いと思った? 死にたい?」
「思わないけど……」
「じゃあこれは気持ち悪い?」
そう言って、兄の顔が近づき、頬に柔らかいものが触れて、すぐに離れた。
「え、おに、お兄ちゃん!?」
「キスはどう? 気持ち悪かった? 俺のこと殺したいと思った?」
「ううん……」
「なら、きっと舞は俺のことが好きだよ。自覚してないだけで、俺のこと男として見てるし、俺のことが好き、そうだよね?」
「うん……、いやいやいやいや、洗脳だよ! さらっと洗脳していくのやめて!?」
「やめない。舞のこと欲しいから……舞が俺のこと好きだって思うまで今日は離れないでおこうかな。舞の世話全部して、羞恥心も理性も壊しておきつつ、ね?」
兄の目に、戦慄する。本気だ。何されるか分からない。相手は四十人殺すポテンシャルを持っている。そしてそのポテンシャルは殺意に向かず、その、私の方へ向かっているわけで、とにかく何をされるか分からない。世話の全部は、間違いなく全部だ。
「ええと、一足飛びに交際ではなく友達から段階を経て、というのはいかがでしょうか……?」
「最終的な結果は?」
「まあ、その、お互いの気持ちが同意の上であれば、交際に、ということで、今日のところは……」
そう言うと兄はしばらく考え込んだ後、頷いた。
「じゃあ、まずは友達として監禁ってことで」
「それは、友達の範疇に入らないよね?」
「でも、兄妹から友達ってある種、特殊な過程を経てるよね? ならおかしいことじゃないよ」
「いやおかしいよ! 充分おかしい!」
「はいはい、落ち着いて。映画でも見ようよ。俺の事監禁しようと思って舞が借りた映画……うん、どれも面白そうだ」
兄は私が借りて来た映画をプレイヤーにセットしはじめる。完全に私をスルーしている。私は手錠も足枷もつけられたままなのに。
「待って、手錠外してよ?! 友達として監禁っておかしいって!?」
「落ち着きなよ、ほら、映画始まるよ。映画を見る時は静かにしないと。鎖は外してあげるから」
兄は私を窘めるように頭を撫で、手錠と部屋を繋ぐ鎖を外した後、そのまま私を抱きかかえるようにして椅子に座った。手錠はつけられたままで拘束続行。意味が分からない。友達として監禁って何? っていうか明らかにこの距離は友達の距離じゃない。でもとりあえず、惨劇は起きていないし、兄との関係は、友達から、と始まったばかりの訳で……。手錠と鎖さえなければ、映画を見ると言うのは、割と普通だ。普通の、穏やかな日常……もしかして、失敗はしていない?
でも、この結末は、あまりに予想外すぎる。今まで予想外を兄に提供しようと奮闘していたけど、最後の最後で兄にこんな予想外を提供されるとは思わなかった。
あれ、ってことは、ちゃんと兄に、予想外を提供出来たってこと……?
私を抱きかかえながらリモコンを操作する兄のほうに顔を向けると、兄は少し嬉しそうにしている。ずっと一緒に居たけど、この表情を見るのも初めてかもしれない。無防備っぽいというか。自然っぽいというか……。
何だか、嬉しくてたまらなくなって、ぐりぐりと兄の肩に頭をすりつける。すると兄は子供みたいに笑った。
◇
あの頓珍漢な監禁生活ならぬ、手錠と鎖がつけられているだけの兄妹引きこもり二泊三日間を終えると、兄はすんなり私を解放した。好きになるように頑張ると言えど、なんやかんやで自堕落に、怠惰に過ごしたと言うか、兄の部屋で一緒に映画を見たり小説を読んだり、一緒に料理を作って食べたり、一緒に寝ただけだった。お風呂やトイレは「今はいいよ。今はね」と何だか凄まじく不穏な言葉を残して手錠を外されたけど、出たらすぐに装着された。
そして今日、とうとう両親が帰って来た。兄はまた「まぁ、帰って来るしね、今はね」とまた不穏な言葉を残して私から手錠を外した。ということで今は家に帰ってきた両親からお土産を貰い、軽くなった両手で饅頭を食べている。兄は何故か元気がなく、口に饅頭を詰めてあげようとしたらやんわり拒絶された。もう一度トライしようとすると兄は重々しく口を開く。
「ねえ、お父さん、お母さん。大切な話があるんだけど、話をしてもいいかな」
団欒とした空気に、緊張が走る。リビングの床でせっせと近所や会社の人に渡すお土産を仕分けしていたお父さんとお母さんは、緊張した面持ちで兄の方へ身体を向け、兄は二人の前に正座をして、静かに二人を見据えた。
「俺、舞と付き合うことになったよ」
兄の言葉に、両親は愕然とした様子で兄を見て、そんな二人を見て兄は顔を歪ませながら話を続けた。
「中途半端な気持ちは、一切無いよ、気の迷いでも無い。舞は、結婚したいって、初めて一緒に生きていきたいと思った女の子なんだ」
「誠……、本気なのか……?」
「まだ若いからって、思われて当然だと思う。それに舞は、お父さんとお母さんと同じ、世界でかけがえのない家族だから、俺の汚い感情で、こんなに醜い感情で壊したくなくて、だから、ちゃんと将来の見通しを立てて、気持ちを伝えようって決めてた。駄目だったら、家を出ようって」
お父さんに問いかけられ、兄は静かに頷いて、ひとつひとつ確かめていくように言葉を紡ぐ、両親は悲痛な面持ちで兄を見て、静かに話を聞いている。兄が世間話を両親とするところは当然何度も見て来たけど、こんなにも真剣な話をするところはみたことがない。それは両親も同じことを思っているのか、どこか落ち着かない様子で、静かに話を聞いている。
「だから、舞に告白をするのは、舞が成人して、なおかつ俺が大学を出て、社会に出て、きちんと給料を貰ってからにしようって。それまでに舞に愛する人が出来たら、俺の気持ちは永遠に隠しておこうってそう決めてたんだけど、舞に告白されて、俺たち、同じ気持ちだったんだ。俺、何度も諦めようとしていて……舞はきっと俺を、血が繋がってなくても、ちゃんと家族として見てる。でも俺は、一人の女の子だと思って見てた。でも、それって酷い裏切りでしょう。お父さんやお母さんに対してもそうだ。だから、死んでしまおうって、何度も思ったし、何度も実行した。お父さんとお母さんへ、育ててくれた恩は忘れてない。でも二人に感謝する度に裏切るのが辛くて、苦しくて……でも出来なくて……。首を吊ろうとしても、手首を切ろうとしても、生きてたい。お父さんとお母さんに、もっと親孝行してあげたかったなあって、涙溢れて、死ねなくてっ……」
話の後半、声を震わせる兄を見て、お母さんとお父さんは目に涙を浮かべた。「もういい、話すな」「大丈夫よ、私たちは二人を応援するわ」そう二人が兄に声をかけても、兄は頭を下げるのを止めない。当然だ、兄は今、笑っている。肩と声を震わせているのは、涙を堪えているからじゃない。完全に、笑わないように耐えている。兄の口角は上がっている。そしてそれが見えるのは、私だけだ。この兄、ものすごくとんでもない人間だ。一見すれば親子の感動のシーンだけど、もう犯行を披露しているようにしか見えない。
「大丈夫よ誠」
「お父さんとお母さんはお前たちの味方だ!」
そう言って、兄を抱きしめる両親。兄は私を見て、「話合せてね?」と声に出さず言って、勝利を確信した笑みを浮かべた。今すぐ言ってしまいたい。お父さん、お母さん、この人に騙されてますよと。というか生き物への加虐性癖は直ったといえど兄は根本から相当性格が歪んでいるのではないだろうか。今の兄には完全に「妹を好きになり両親に申し訳なさを感じている息子」の面影はなく、馬鹿にした目で両親を見ている。最早ゴミを見る目だ。思えば引きこもり中に、「あの親二人、ちょっと心配だよね、騙されやすいっていうか」と鼻で笑いながらカレンダーを見ていた。それに、今日の朝は「なんなら一か月くらい旅行行っててくれないかなあ……あはは」と笑っていた。限りなく馬鹿にした目で。
「舞、お父さんとお母さん、許してくれるって……、俺たち、一緒にいてもいいって」
「そうだ、舞……安心しろ」
「私たちがついてるわ」
兄の言葉に、お父さんとお母さんは私を見て呼びかける。戸惑いつつ近付いていくと、両親は私と兄をぎゅうぎゅうに抱きしめ、その未来を祝福してくれる。そして兄は「良かったね、舞」と昏く巣食うような私を見つめていた。
◇◇
「ねえお兄ちゃん、友達からじゃないの? 話違くない?」
兄の作り出した感動劇を終えた後、私は兄の部屋へと向かった。するとやはりというべきか、兄はけろりとした顔で私を待ち構えていた。この兄は、やはりとんでもない兄だ。家族みんなで抱きしめあったあと、兄は当然のように場の空気を支配し、私が大学を卒業したら結婚をすると宣ったのだ。その頃に自分は社会人二年目。その頃にはしっかりと責任が取れると言って。両親は戸惑うことなくそれを受け入れた。兄の私の手を握っていても両親に不自然に思わせない手腕についてはかねてより脅威に思っていたけど、ここまでいかんなく発揮されるとは全く思っていなかった。恐るべしとかのレベルじゃない。兄だったら常識と言うものを全て覆しとんでもない世の中を作ることも可能そうだ。
「それは友達からはじめて、いずれ同意の上で交際って流れの話でしょ? 結婚は同意ありなんて言ってないよ、舞も、俺も」
涼しい顔でしれっと言いのけ、私の口にまんじゅうを詰める兄。美味しい。いやどこまでもとんでもない人間だ。交際は同意を求めて、結婚は求めません! なんてあってたまるか。というか兄は、何だか惨劇の夜を越えて元気に、活動的に、そして性格がねじきれた気がする。前はこちらを小馬鹿にしたような笑い方をしていたけど、今は完全にこちらを馬鹿にした笑い方をしている。饅頭を食べてしっかり飲み込んで、兄に反論する。
「いや友達からお付き合い飛ばして結婚ってあり?」
「法的には何の問題もないよ」
「倫理的にだよ!」
「小さい頃、池に飛び込み続けた女の子が、倫理を説いてくれるようになるとは。驚いたなあ」
「笑い事じゃないからね?」
「……嫌なの?」
不意に兄は寂しそうな目で、静かに呟く。私は立っていて、兄は座っているから、自動的に上目遣いで見つめられている。なんだか、この感じは、とても……。
「俺と結婚するのは、嫌なの? 舞にとって」
「順番を、きちんと守って頂ければ……」
「順番って、手を繋ぐ、抱きしめるとか?」
突然目の色が変わった兄は、立ち上がり私の手を握り出す。これは相当まずい流れでは。逃げようと後ずさると、そのまま腕を引かれ兄に飛び込み抱きしめられる。背中を押されるように支えられ、身体が隙間なくぴったりとくっついた。
「うわあ」
「前に、舞に着替え覗かれたとき、こうしてたら舞すっごいどきどきしてくれたよね……?」
「覗いてないしあれはお兄ちゃんの方が露出狂だったっていうか、とにかく離れて心臓が死ぬから」
あれは忘れもしない出来事だ。扉を開けたらシャツのボタンが全部外れている兄がいて、私の腕を掴むと壁際に追い詰めてきた。私は心臓が潰れそうになり危うく死ぬところだった重大事件。あの後復讐を考えに考え、いっそ兄がお風呂に入っている時に防水性のある着ぐるみ……ビーチボール着ぐるみを着て飛び込んでやろうと考えたけど、資金が足りず先送りにした。絶対今度やってやる。
「これくらいじゃ死なないよ。これから順番に、もっとすごいことするようになるんだから」
兄は私の首筋をなぞると、顔を近づけてくる。
「一回眠ってもらった時、おでこにして、この間は頬にしたけど、唇には初めてだから、ちゃんと覚えておいてね」
「え、あっ、えっ? うっ」
文句を言おうとすると、唇が重ねられた。そのまま一歩も動けず呆然としていると、兄の顔が離れていく。
「……」
「どうしたの舞、顔真っ赤だよ」
「当然でしょ!? っていうかおでこにしたって何? それ知らないんだけど!? 寝てる間ってなに!?」
「ここに、こうして、キスした」
後頭部を抑えられ、額に口づけられる。唇が離れる音がして、その音でもまた心臓が潰されそうになっていると、兄は楽しそうに、無邪気な子供のように笑う。
「段々長くするから、息継ぎ覚えてね」
いや、前言撤回だ。兄は無邪気な子供なんかじゃない。悪質極まりない邪悪な人間だ。なんだこいつ。負けてたまるか。
「お兄ちゃん、ちょっと」
楽しそうに笑う兄の頬に軽く触れ、顔を寄せる。そして私は反抗する意思、そしていつもの、驚かせる意味も全部込めて、兄の頬にキスをした。
「友達から始める将来的に同意があれば交際、しかし結婚はおそらく確定している」
そんな奇妙な関係性を兄と構築した私は、無事受験に合格し、「さよ獄」の舞台であり、兄がいる高校に入学した。
高校ではやはりと言うべきか、私は生きているのが奇跡なほど身体が弱い人間として周知され、私が移動するともれなく兄に情報が行くようになっており震撼した。兄は生徒だけじゃなく、教師すら手駒にし、学校を支配していたのだ。流石元黒辺くん。状況支配のポテンシャルが違う。
そしてそこでは兄の勉強会では見ていなかった「さよ獄」に出ていた生徒たちを時折見かけた。しかしどことなくさよ獄の彼ら、彼女らとは異なっていて、もしかしたら私が何もしなくても兄は惨劇の一夜を起こさなかったのではとすら思うほど、私の知る彼らとは少しずつ違っていたのだ。
主人公であるひろしくんも、ありふれた普通の生徒から兄の次に優秀な生徒になっていたし、姫ヶ崎さんを思っているはずの彼には、幼馴染の彼女までいた。一度図書室で二人と出会ったことがあったけれど、ひろしくんは私を見て「だからか」と呟いて、そのまま立ち去った。
とまあ、私は高校で穏やかな日々を過ごしたのだ。けれどその一方で、兄の、私への監視体制ならぬ、友達から始める交際体制はかなり強固なものとなっていった。
まず、朝は兄の声掛けによる起床、兄と共に朝食、兄と共に登校、休み時間は兄と会話、昼は兄と、放課後はどこかに寄ったりしつつ兄と帰宅。寝る。まさしく風呂、トイレ以外は兄と一緒だ。親が傍にいれば別だけど、居なければ距離も近い。隣にいる時も、今までは拳骨くらいの距離は空いて居たのにまさかのゼロ距離で最早兄が私にめりこんでいるか、私が兄にめりこんでいるような状態だった。
何となく、「兄以外の人間と関わることをさり気なく禁じられているのでは?」と気付き尋ねれば、「今更?」と兄は笑う。確信犯だった。兄は自分が近づき、周囲を牽制、さらに義兄妹で常に一緒にいることは何らおかしいことじゃないと周囲に半ば洗脳するように擦り込んでいた。とんでもない兄である。
そして、惨劇の一夜から、私の兄へ贈る「予想外の提供」は、ややその姿を変え、継続している。正直ぱったりやめてしまっても良かったけれど今まで散々暴れ続けたのだから、突然やめたらやめたで兄に精神的な負荷がかかる。兄は頭がおかしいけど、別に何かに傷ついたりストレスを感じないわけがない。だから兄への配慮だ。それに私は兄と違いとんでもなくない、優しさを兼ね備えている。よって徐々に「予想外の提供」を減らしていき、毎日だったものが二日に一度、三日に一度とその頻度を減らしている。
でも、弁当作りは普通に続けている。結局弁当で兄を驚かせたことは一度も無くて悔しいからだ。一度驚かせてから、一泡どころかぶくぶくと泡を吹かせてから、普通のお弁当を作ろうと決め奮闘している。けど私が普通のお弁当を作る日は、全く目処が立っていない。
むしろ、空の弁当箱にメッセージが書かれていたり、それが暗号だったりと、私が兄に予想外なことをされる日々だ。本末転倒どころの問題じゃない。
兄はあの一夜から、私を驚かせることを楽しむようになった。ある時は突然キスをしてきたり、突然通り魔的に抱き着いてきたり。そして次の瞬間には涼しい顔をして去る。絶対許さない。
兄は、まるで仕返しをするように私を驚かせ続けることをやめない。中でも、兄の行動で最も驚かされたのは、惨劇の一夜から予想外の一夜に変わったあの夜を、さらに進化させたことだ。
きっかけは、私が大学に合格した今年。夏がさしかかった頃、改めて兄から合格祝いとして、箱を受け取った。中に入っていたのは、指輪と婚姻届けだった。
指輪と婚姻届け。合格祝いじゃなくて、もう完全にプロポーズとしか思えない二品。
目の前の状況を把握できない私に、兄は怒涛の如く、結婚における姓名の変更手続き、そしてこれから私の名義を変える手順について説明した。
「いや、変更と言っても、苗字同じじゃない?」という私の考えは甘かったらしい。これからの手続きの煩わしさをを懇切丁寧に説明してくれた。もう、何か役所の人みたいだった。
「だから、手続きってわりと時間がかかるんだよ俺、就職活動あるし、忙しくなるから今のうちに籍だけ入れれば、後は全部俺がするから、今のうちに結婚しよう? プロポーズも、式もちゃんとするし」
「俺、手続き終えてないと気になって就職活動に本腰入れられないな」
「だから、今のうちに籍だけ入れておこうよ」
この三点セットの言葉。
大学受験という人生の山場の一つから解放され、これから青春を、と歩みを進める私。一方で、兄は、これから就職活動という死地に向かう。そんな兄の望みを無視なんて出来なかった。
兄と友達から始め交際を目指しつつ、結婚は確定している謎関係期間。その期間は、私が兄を一人の男の人として認識するには充分なもので、元々、お兄ちゃんと結婚したいという夢もあり、兄に対して妹を越えた感情を持っていた私は、進んで婚姻届けにサインをした。
兄に騙されていたことを知らずに。
兄は、私を騙していたのだ。就職活動に本腰入れられない、という兄の言葉。あれは真っ赤な嘘だった。本当に、色が見えていたら原色の赤の嘘。兄は本腰入れられないも何も、兄はそもそも入れるつもりは無かったのである。私に婚姻届けと指輪を用意していた時点で、すでにいくつかの企業から声がかかっており、入社する企業の選定を終えていた。選ばれる側じゃなく、選ぶ側だったのである。そして私に贈った結婚指輪は、その声がかかる前に受けたインターンの報酬で買ったものだった。
兄は優秀で、能力値が高いとかのレベルじゃない、ハイスペック黒辺くんでもあるということを、私はすっかり忘れていたのだ。存在がチート。国の最難関大学をトップ状態でスキップし続けているような人間だ。そもそも声がかからなくても、ささっと最優良企業を一発で決めていたことだろう。
ようはすっかり兄の手の平の上で転がされるどころか、ジャグリングさせられていたのである。もう許さない。
それから入籍。あれよあれよという間に時は過ぎ、兄は就職し、それを期に私を連れて家を出た。マンションを借り、兄は会社へ、私は大学へ。そして私の大学卒業と共に兄からプロポーズを受け、式をして、晴れて完全な夫婦になったのである。
そうして、時は過ぎ、惨劇の、予想外の一夜から、八年が経った。
今日は久々に驚かせようと、玄関で肩にゾンビの抱き枕を乗せて、会社から帰ってきた兄こと旦那様を出迎えたら、帰って来るなりゾンビをはたき落とした。「抱き枕でも舞に触れてると思うと妬く」というのが旦那様の言い分である。無機物相手にどうかしている。けれどそれが嬉しいと思う私もどうかしている。どうかしている兄妹、いや、今はどうかしている夫婦だ。
「俺が舞を監禁したとき、拒絶しなかったのは、舞の間違いなく失敗だったと思うよ」
「いやあ成功だよ、今誠といられて幸せだしね」
そう言って、誠は花束を差し出してくる。それを受け取り、私は笑うと、誠も心から楽しそうに笑う。
惨劇の一夜は、結婚記念日に姿を変えて、こうして毎年訪れる、二人の記念日になった。
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