魂祭




 やわく、ゆるく、ながい呼気が湯けむりに混ざって、天へと昇って行く。

 タオルを置いた岩に後頭部を預けてれば、自然と向かう視線の先。

 澄み切った夜空には、数えを諦めてしまう無数の星々が四方八方にちりばめられていた。



 静かで、癒されて、温まって。

 このまま温泉の一部になってしまうのではないか。



 液体で漂い、気体で昇り、液体か固体で下る。

 幾度も、幾度も、回り続ける。

 同じ惑星での果てない旅。

 いや。どこかで違う惑星にでも攫われるかもしれないな。



(ああ、溶かされる)



 短い呼気が零れる。充足感に満ち足りた、少し、気味が悪く聞こえるような。

 想像を働かせたり、休ませたり。身体が限界を訴えるまできっと、観照に浸っていられただろう。



 絃の言葉さえなければ、


 口の端を少し上げる。




『ととさん、だいっきらい!』




 叫んで、泣き喚いて、疲れ果てて眠りに就いて。

 目を覚ました絃は別人のように言い放ち続けた。

 たった一言。一字だけ。



『や』



 近すぎてもダメ。遠すぎてもダメ。寿が自分の望む場所にいなければ。

 貴が自分から離れようとすれば。

 や。や。や。や。や。の連続。

 癇癪が振り切れた金切り声から絶望に染まったか細い声まで使い分ける始末。

 おかげで脳に刻みつけられてしまった。



「身内。父親はおまえみたいだな、寿」

「そうみたいですね」



 尚斗は並んで温泉に浸かる寿に言った。


 今、二人は旅館の個室それぞれに別個用意されている温泉に入っていた。




「おまえが表情を変えないもんだから、いとちゃんはご立腹だったぞ」

「そうなんですか。変えない方が安心すると思いましたが」

「自分の言動に一喜一憂されたいんだよ」



 寿は夜空から緑白色の温泉へと視線を下げた。

 動じるさまを見せるのはよくないと、笑顔を絶やさなかった。

 動じるさまを見せたくなかったから、ゆとりを絶やさなかった。



「いとちゃんを安心させられるなら、いくらでもできます。ですが、心からは無理です」

「揺らがないか」

「揺らぎません」

「竹蔵は揺らいでいるが?」

「竹蔵はもう忍びではありませんから」

「竹蔵が耳にしたら怒るんじゃないか?」

「技は確かに忍びですが、心はもう違います。竹蔵本人も気づいていますよ」



 寿。尚斗は静かに名を呼んだ。途切れさせたくはなかったが、流れを少しだけ変えたかった。



「おまえは忍びか」

「はい」

「変わるつもりはないか?」

「尚斗様が変われと言うのなら変わります」

「俺が言うと思うか?」

「言いませんね」



 尚斗は口をへの字にした。



「要らぬ心配だったか」



 気負いがないようでいて、そうではない。

 と思っていたが、そうではなかったようだ。



 知っているようでいて、まるで知らなかった。思い知らされた。

 忍びとして、寿を見ていたくなかった自分に。

 けれど、寿は忍びだった。死ぬまでずっと。



(覚悟を決めなければいけないのは、俺か)



「主に心配されるなんて、僕はまだまだ修行不足ですね」



 申し訳ありませんでした。

 身体を向けて真面目に謝る寿を一瞥して、尚斗は眉根を寄せた。



「俺はずっと心配するからな。おまえの一喜一憂一動一休全部だ。頼りないからじゃない。頼りにしたいから、だ。分かるか?」



 じんわりと。胸の内から全身あまねく広がる、時に火傷さえ生じさせる熱が合いまった温もりは、決して温泉の所為ではないと分かっていた。



 寿は顔を綻ばせた。

 冬に眠る植物が春に目覚めるように、時をかけて。



「はい」



 尚斗は肩を落とし、いじけにいじけた溜息を出した。



「手玉に取られるのは俺だな。あーあ。早く絃に寿の手綱を握ってもらって。俺が絃を味方につける、と。俺ら三人で仲良しこよしだな」



 寿は否定しようとしたが止めた。この流れを続けたかった。



「竹蔵も入れないといじけますよ」

「あー。じゃあ、四人で仲良しこよし」

「銀哉さんも」

「しょうがない。五人で仲良しこよしだ」

「キリがありませんよ。若旦那は広げていくのがお得意ですから」

「別に。激震三莫迦組を取り込もうとは考えてないからな」

「そうなんですか?」

「そうだ。絃がどうであれ。な」



 そうなんですか。呟き、てっきり味方につけると思っていた寿。不意に貴の傍から離れようとしない絃が強烈に蘇り、つい、疑問が零れてしまった。



「僕が父親だとするなら、都司さんは絃さんにとって、どういう相手なんでしょうか?」


 尚斗はニヤニヤと笑った。


「拗ねるなよ」

「拗ねているように見えますか?」

「俺にはな」


 寿は少し考え、口をやわく開いた。


「僕を見てもらえないのは、少し、拗ねてしまいますね」


 尚斗は噴き出した。


「嫌いと言われた方がましだったか?」

「……ましかもしれません」


 のぼせる前にそろそろ出ましょう。




 追究されたくないのだろう。立ち上がって、シャワー室へと向かう寿。ついてこない尚斗に、腕はどうですかと問えば、重いと返された。しかしどうやら震えは改善されたようだ。一日目の温泉は波紋がすごかったもんな。思いながら、早くしてくださいと急き立てた。このあと、旅館自慢のマッサージの予約が入っているのだ。まだ時間は優にあり、急ぐ必要は皆無なわけだが。



 シャワー室に入り、ざっと湯をかけた尚斗と寿。そのまま脱衣所へと向かい、黙々とタオルで身体を拭い、下着と着物を身に着けていき、持ってきていたコーヒー牛乳をぐいっと飲み干して、洗面台の前で髪の毛をドライヤーで乾かした。



 尚斗はゆるんだ己の顔を見ながら、絃の言葉を思い返していた。






『私が戻るまで個室に閉じ込めておいてください』



 覚醒したのは、絃が叫んだ時。

 それでも、絃の意識が完全に戻るには、まだまだ時間はかかるらしい。

 まだまだ、休みが必要だという事。



 了解と返した。

 だが、




(悪いな。絃。俺は存外嘘つきだ)


(…絃さんを選ぶかもしれないと、僕はまだ思っていますよ。尚斗様)


 ゆるく否定するだろうが、尚斗が絃を『豊慢』に連れ帰ってきた時から、その予感はあった寿。鏡を見れば、優しい微笑を湛えている顔が見られて、ひっそりと笑った。











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