夜霧
『こら!投げるんじゃない!』
『や!こわい!』
『…怖い、か?』
『こわい!』
『うん。そうか。怖いか。ごめんな。でも、これはととさんにとって大切なものだし、投げちゃうと、おまえが痛い思いをするかもしれないから、投げてほしくはないな』
『……ごめんさい』
『ととさんも怒鳴ってごめんさい』
『………でも、こわい』
『どうして怖いと思うんだ?』
『うー。おもい?』
『そうか。重いか』
『…いろ。くらい。まっくらくら』
『そうか、暗いか』
『あっちないないしたい』
『そうか。見たくないか』
『う』
『でもなあ、ととさん。これ、おまえにあげようと思ってるんだ』
『や!』
『うん。や、な。これ、怖いもんな』
『う』
『怖いもんなんか、持ちたくないよな』
『う』
『…うん。じゃあ、今は、ないない、な』
『う……ごめんさい』
『ごめんさいしなくていい。怖いと思ってくれてよかった。これは、今、流行りの装飾もんじゃないからな』
『ん?』
『…もう少し、年を重ねてから、な。本当は。闇に葬れば、いいんだろうけど。ととさん。捨てられなかった。人に預けられなかった。手入れを怠れなかった。使いたいわけじゃない。だけど。これは、重いものだから。他人がどうこう思おうが、俺は』
『……ととさん。ととさん』
『ん。ないない、ないない、な、』
『……こわい、こわい』
『ん。こわい、こわい』
『……ないない、したら、こわい?』
『…んー。そうだなあ。ととさんにないしょでないないしたら、怖いけど。おまえにあげた時は、』
捨てようと思っていたこれを未だに持っている理由。
それはきっと、己の手で決着をつける日を待っていたのだと。
そう、思うのだ、
温泉饅頭。芋ほり。芋ほりで得た芋と、地鶏天ぷら付き、とろろそば。手湯。手冷泉。射的。輪投げ。足湯。足冷泉。髪専用温泉。プロお任せ髪乾かし及びツボ押し。
「ここは極楽か」
眼福満身。気分爽快。全身浸かっていないにもかかわらず、身体の肌が艶やか。身体の芯からぽかぽかと温まっている。これで全身浸かれる温泉冷泉に入ったらどうなるんだろう。常世に戻れるのだろうか。ここに定住しちゃわない。え。大丈夫。大丈夫かあ。いざとなれば、定住すればいいじゃない。
竹蔵、貴、曇、滝は、尚斗の漏れ出た感想に、全身全霊で同意していた。
「都司さん。いとちゃん、抱えっぱなしで疲れませんか?」
竹蔵は前を歩く貴に話しかけた。いと、もとい、絃は昼食と手洗い以外、ほぼほぼ貴の片腕(胸)に乗っていたのだ。いくら軽いといっても、長時間なのだ。鍛錬しているだろうし心配はしていないが、慰安旅行で訪れているのに、と、今更ながらに少し申し訳なく思った。
「いや。別に、」
「貴。いとちゃんと、離れる時、泣いちゃうねー」
「誰が泣くか!」
「誘拐は止めてくださいよ、貴さん」
「稀に見る真面目な顔を止めろ、滝」
歯切れ悪く答える貴の反応に、ニヤニヤが止まらない曇と心配が止まない滝であった。
「しかし、本当に好かれてるな……なんか、子どもに好かれる匂いでも発散してんじゃないかおまえ」
竹蔵の横にいた尚斗の発言に、貴は振り返らないまま知るかと答えた。
「子どもにこんな近づかれた事はなかったしよ」
「ふーん」
貴は眉をひそめた。
「…なんだ?好かれなくて、不貞腐れてんのか?」
「そうそう。めっちゃ、不貞腐れてんだよ」
尚斗は二跨ぎして貴の少し斜め前に行き、絃に顔を近づけた。
「なにがいやなのかなー?」
絃はぷいっと顔を背けた。尚斗は肩を落とした。
「そこまで顕著に嫌がらなくたっていいだろ」
まあまあ。曇が和やかに尚斗に話しかけた。
「照れてるだけかもしれないだろう」
「…照れてる、ねえ」
「もしくは、子どもにだけ嗅ぎつけられる臭気を発しているとかじゃないっすか?」
滝のやる気のないツッコミに、尚斗は苦笑を溢した。
「金の匂いが嫌なのかもなー」
「若旦那。大丈夫ですよ。いとちゃんもきっと、帰る頃には若旦那に顔を見せてくれますよ」
寿は力強く言った。顔を見せるって、水準が低くない。誰もがツッコんだ。
「だが、そろそろ部屋に戻って夕飯を食べる頃合いだろ」
貴は振り返って竹蔵に絃を渡そうとした。
実は、こっそり、離れるのが嫌で着物を握りしめるかなと思ったりもしたが、いやほんと、ほんの少し。でも、そうはならなかった。素直に竹蔵の腕に抱えられていた。え?別に。残念がってませんよ。清々してますよ。ほんと。
「貴。明日も会えるから。僕がちゃああんと、竹蔵さんと計画を話し合ったから」
「あ?もう、さんざん今日付き合ったからいいだろうが」
「貴さん。未練を残さないように、思いっきり遊んどいたほうがいいっすよ」
「だからおまえ、その顔止めろ。怖いわ」
腹を立たせる幼馴染から逃れるように、貴は視線をずらすと、ちょうど絃と目が合った。すると、絃が小さく、ほんの少しだけ、頭を下げた。
瞬間、きゅううぅうんと、胸が甘い何かに締め付けられる。
「ま、まあ。おまえたちが不甲斐ないから、しかたなく、明日も付き合ってやるよ」
新五郎さんにちゃんと言っとけよ。
言い放つと、貴は曇と滝と共に宿泊施設へと足を向けていった。
「明日。どうするんだ?」
「ええ。牧場に行ってみようかと。色々体験できるらしいですよ」
「じゃあ、旅館に戻ったら、今から目いっぱい温泉冷泉入っとくか」
調理室と管理室がある母屋を中心にして、和洋折衷の庭を見ながら屋根のある廊下を進んで辿り着くのは、一戸建てで独立している客室十室。その客室から屋根付き廊下を進むと、それぞれ別個に温泉と冷泉が用意してあった。
「女将さんがまた湿布を用意してくれているでしょうし」
竹蔵は未だに震える尚斗の腕を見て、苦笑を溢した。
「刀って、あんなに重かったんだな」
尚斗はしみじみと告げた。
刀を握る手から血管の一本一本あまねく浸透する冷たく硬い感触が、身体すべて振り回される感覚が、皮を破り、肉を通り抜け、骨に直接ぶつけられる響き、痛み、重み、粘つきが、離れそうになかった。
最悪、一生ものかもしれない、
「はい」
「おまえたちはよく扱える」
「修行していますし。若旦那は無理をし過ぎですよ。準備もなしに、いきなり長時間も振り回すなんて」
「ああ。まったく。反省した。これからはもう少し真面目に身体を鍛えるかな」
「無理はなさらないでください」
寿は広い背中に向かって、見えない小さな背中に向かって、切実に告げた。尚斗は振り返って、寿と向かい合い、優しく微笑んだ。
「絃の短刀と風船は、多分、純白の間に置かれてんだろうな」
絃が常に身に着けていた短刀と風船は、幼い姿になってからは、影も形もなくなっていた。
気を張っているのは、短刀があるから。
気を断たずにいられるのは、風船があるから。
双方ともに、目的を果たす為に必要なもの。
「もしかしたら、大半の記憶と一緒に」
「絃さんは、休んでいるんですね」
竹蔵が振り返ってくれたおかげで、絃も見えている寿。もう、眠りに就いている。疲れたんだろう。休息を欲しているのだろう。
いつになったら、
いつになったら、この人に。
(僕ができる事を)
寿はこぼれんばかりの笑みを尚斗に向けた。
「旅館に着いたら、ストレッチをしましょうね」
尚斗は目を点にして、次いで、眉尻を下げた。
「ほどほどに頼む」
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