石鹸玉
『笑って明日を生きよう』
海辺にたった二人。
今日も今日とて言葉少なに、空に浮く岩を見つめる。
私たち同様に生き残った他の人たちは、この人の言葉を実行すべく旅立っていったのに、当の本人はここに残ったままだった。
『笑って生きよう』
日に一度か二度、この人は言った。
柔らかい口調だった。意思を確かに含んでいた。
笑って生きられる日が来るのか。
疑問だったが、この人が言うのなら、いつの日かそんな日が訪れるのだろうと思った。
『わらっていきたいから』
言葉通り、この人は笑っていた。
優しく笑って、旅立っていった。
凪いでいた海の中へと。自分の足で。
月にも波にも風にも連れ去られる事なく。己の身体一つで旅立った。
旅立ったまま、戻る事はなかった。
追えばよかったのか。
今もなお私は考え続ける。
神様に生きる希望をもらってからもずっと。
汚染され、封じられた土地に住んでいた者のみに与えられる、神からの温情。
神から下された課題を成功させれば、己の願いを叶えてもらえる。
課題は人それぞれに下されるが、受ける者はほとんどいない。
助かっただけで十二分に有り難いと思う者が大多数だからだ。
神から下された課題を実行する彼ら。
すなわち、神に選ばれし者を知る者は数少ない。
百年に一度にあるかないかの不確かな頻度、実行する者の数の少なさがその大きな要因だろう。
加えて。
上層部があえて、秘匿しようとしている事実も大きい。
己らの遊びを他の者に邪魔をされては面白くない。と。
上層部の御方々は、課題を受けた者たちからそれぞれが一人を選び、一番に課題を成功させられるように支援する。
一定の規則の中。
暇を持て余した権力者の遊び。
なんてことはない、戯れ。
同一に並ぶ他者への、仄暗い優越感。
この平和な時代、存分に、純粋に、己のすべてを、己の欲の為に使える唯一の機会。
言葉も物も、命も要らぬ。
一番になってくれればいい。
一番になれずとも、楽しませてくれたので何も要らぬ。
神に選ばれし者を知る、数少ない者に含まれるのは。
権力を握る上層部に。
上層部が使う忍びのみ。
渦と竹の模様が所々にある天井。
真っ先に目に映ったその見慣れた光景に、自分の部屋だと認識した絃。隣に座る人に目を合わせたのは、身体を起こして、布団を畳んで、押し入れに戻し、座を正してからだった。
「ご飯を食べようか」
機先を制したのは、竹蔵だった。
目が合って、にっこり微笑み、傍らに置いていたお盆を持ち上げて、絃に手渡した。
お盆の上には、三角の塩おむすびが三つ、わかめと豆腐と葱のお味噌汁、一本丸ごと切った白い大根の漬物が乗っていた。
いただきます。
形に反して、口に含めば、ほろほろと柔らかく崩れていく塩おむすびを半分食べてから、お味噌汁に手を伸ばす。歯ごたえのあるわかめと少しだけ固い木綿豆腐を箸で挟んで口の中に運んで、咀嚼して、味噌汁を飲んでから初めて一息ついて、また塩おむすびを一口。甘い大根の漬物は手で掴んで、半分噛んで、ぽりぽり音を立てながら咀嚼して、呑み込んで、残った塩おむすびを食べて、半分残った漬物も食べて、最後にお味噌汁を飲み干した。
お椀の底に残っていた葱三切れをお箸で摘まみ、舌に乗せて、そのまま飲み込む。
漬物以外は、ゆっくりと食べた割には、温かいままだった。
今日も美味しかったね。
二人が食べ終えて十分ほど経ってから、いつものように自画自賛する大家と共に食器を洗って、拭いてから、お茶を淹れて、それぞれ自分の湯呑みを持って、畳の上に直接置いて、向かい合い、座を正し、目を合わせた。
肯定してくれて、微かな希望をくれて、恐らくは大きな絶望を与えた人。
私の魂を連れて行った人。
あの人が旅立ってからだろう、私が殊更に人を信用する事ができなくなったのは。
眼前の人も例に漏れず、信用できなかった。
いつになったら私の前から姿を消すのだろうと思っていた。ずっと。
この人が消えたら。
必ず訪れるだろう未来に付きまとう感情。
願いを叶えられるのかという、不安、恐怖。
やり遂げなくても構わないという、無気力感、安堵。
諦めきれない、焦燥、悲壮。
諦めきれない、縁(よすが)。
『豊慢』で働くように言われた時に、その時が来たと思った。
私の前から姿を消すのだ。
知っていたから、次に手を貸してくれそうな人に声をかけた。
失敗したから、次の人へと。また、次の人へと。
断られ続けて、痛感するのは、己の無力さ。
『あなたを助けたいんです!』
出会ってそう日が経たない少年にさえ、容易く見破れるほどの脆弱さ。
肥大し続けるそれが、縁を絶ってくれればよかったのに。
それでも、消えずに残るのは。燻り続けるのは。
見たい景色があるからだ。
その為に何を犠牲にしても構わない。
『君はお金を盗む。僕は別の物を盗む。盗んで、鍛えて、君も僕も世界を壊す。けど、僕は君とは違う。僕が壊すものは、』
良心が疼く事などなく。
罪悪感など一抹もなく。
しかし、重みだけは、確かに感じ取れる。
共にいてくれた時間の分だけ。
信用はできなくとも。
「あなたの命を私にください」
正した姿勢に、交わる視線に、一層力を込めて。
絃は竹蔵に告げた。
願うでもなく、命じるでもなく。ただまっすぐに。
(漸く、それとも、とうとう?)
意図を正確に理解した竹蔵は、睫毛を揺らす。
半分かそれ以上か、目を背けていたのは同じ。
そうして、踏み出せずに何年もの月日が経ったのだろうか。
答えが出ないまま、時だけが流れて、願いを叶えられないままに終える事もあるのではないか。もしくは、違う道を見つけ出せるのではと、考えた事もある。
若旦那が出てきた時は、自分は手を離して、絃を任せられるのではと半ば本気で考えた。
普通と呼べる生き方を歩んでほしいと。半ば本気に。
覚悟を伝えられた今もなお、その考えが消える事はなく。
考えが一本にまとまる事のないままに応えていいのか。
逡巡は、けれど、求められる高揚に、一掃される。
己のすべてを以て、叶えてあげたい。
そう思ってしまったから。今初めて。
竹蔵は柔らかい吐息を零した。間をそう置かずして。零して。途切れさせず。緩く長く息を吐き出し続けて。口の端を上げた。
「もっと可愛く言ってくれなきゃあ、あげられない」
この返答は予想だにしていなかったのだろう。目を白黒させた絃だったが次には、ぽつりと所在なさげに告げた。
本当はあの人に告げたかった言葉。だったのだろう。
言えずにいた想い。
「私に何も言わないで、いなくならないでください」
じわりじわりと。
僅かな水を浸透させる土のように時間を使って。竹蔵は笑みを顔いっぱいに広げ。了承の言葉を絃に伝えた。
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