サイダーサイダー
ワンス
第0話 プロローグ 嵐が持ってきたもの
稲光が空を奔り街路樹が枝をしならせ躍り狂う。南からの温かく湿った風は時間の経過とともに勢いを増していた。
●●市は富士山の麓に位置し都心からもアクセスが良い避暑地として有名な町だ。駅から徒歩で5分ほどの場所にある遊楽街は緑に囲まれた近代風平屋建ての建物が並び、晴れた日にはその背後に富士の裾野を一望することができる。
7月。
いつもであれば暑さを忍んで訪れた観光客でにぎわっているシーズンだったが、生憎この天候では人の姿はなく軒を連ねる商店もみなシャッターを下ろしている。
その閑散とした通りを一人の少年が歩いていた。
灰色のコートを頭からすっぽり被ったその姿はまるで大きなてるてる坊主のようだった。
ぽつり、と顔に雫が当たった。
「食事処いりや」と書かれたシャッターの前で少年は足を止める。
顔を上げると厚い灰色に覆われた空から斜めに線を描いて雨が降り始めたところだった。
少年は無言で着ているコートの胸元を手繰り寄せる。寒いわけではない。むしろ白色の薄手のチェスターコートはこの時期には暑く、実際中は汗で湿って心地が悪い。
それでもなお、コートを脱がないのはなにより雨に濡れたくない理由が少年にはあった。
少年は唇を噛み締める。
稲妻が空を割り、轟音が少年の鼓膜を震わせた。それを合図に雨脚が一気に勢いを増す。
こちらの言葉で篠突く雨――いつぞや覚えた単語が脳裏に浮かぶ。まさにその通りの凄まじい雨だった。
慌てて近くの店の軒に転がり込むが、予想を裏切り雨は軒先程度の障害物を簡単に抜けて体に降り注いだ。少年はあたふたしながら視線を巡らせる。乾いた場所──、一階が駐車場となっているマンションに駆け込んだがすでにコートの中まで水は侵食していた。
顔をしかめて水滴を払う。
嵐は強弱をつけながら勢いづき道路に白く泡波を立たせる。弱まる気配は全くない。
稲妻がまた街を切った。
「いたぞ、捕らえろ!」
雨音に交じって男の怒鳴り声が響いた。白く濁る雨脚のなか、黒い影がぼんやりと浮かぶ。
それはこちらに向かって走ってくる。
少年は慌てて目の前にあった小さな路地に向かって飛び出した。
豪雨で前が白く霞む。
どの道をどう走っているのか、男たちは近いのか遠いのか、雨音以外の音が聞こえない。それでも闇雲に街を駆け抜けるしかなかった。
唐突に前が開けた。
……共に被っていた少年のフードが風に弾き飛ばされる。
閃光が少年の色素の薄い金色の髪を天の下に晒しだした。
慌てて被りなおし、辺りを見回す。いつの間にか、大通りに面した広い二車線道路に出ていた。道と住宅地を分けるように少年の背丈ほどの白い壁が続いている。
見通しが良すぎる。
「そっちにいったぞ!!」
男の怒号が響く。近い。
(捕まってしまう)
焦燥感で少年は足がすくみ、手が震える。視線を巡らせる。視界の隅に灰色のなにかが入った。
白い壁と壁が一部だけ切れ、その境に
迷っている暇はなかった。少年は乱雑に腕で顔についた水滴を拭い、足を踏み出した。
穴をくぐる時に、ちりん……。と鈴がなった気がしたが、確認する余裕もなく背中を壁に合わせる。男たちとの間には壁一枚しかない。
自分の吐く息が荒い。
息を止める。
「そっちに行ったか?」
「いや、いない」
「くそ……あの小僧どこ行きやがった…!」
雨音と怒号の響き渡るなか、男たちが通りすぎるのを息を潜ませて待った。どれほど時間が経っただろう。気付くと雨音の他に聞こえる音が無くなっていた。
恐る恐る壁の向こう側を覗きこんで、誰もいないことを確認し、深く息を吐く。
安堵から、ずるずると壁によりかかるようにしゃがみこむ。
どうにか追手は撒けたらしい。
(助かった……)
そう思って息を吐いて目を開けて、地面にある石に違和感を感じた。
枯葉でできた腐葉土に半分以上身を埋めてはいるが、表面には凹凸を無くすように荒く整形した跡がある。長い期間雨風に晒されてところどころ欠けてはいるが、作為的に積み上げられたものだ。
さらに視線を上げて、茂みの中に同じような石が点在していることに気が付いた。
どうやらここは道としてどこかに繋がっているらしい。
道の先を視線でたどれば、鬱蒼と生える草木のわずかな隙間から茶色の柵と赤い門のようなものが見えた。
同時に遠くでバタン、と何かの物音がした――それが追手が放ったものかどうかはわからない。
だが、その音は覚悟を決めるのに十分なものだった。
少年は立ち上がった。
それからコートが汚れるのも構わず、素手で伸びきった草を掴む。
一歩一歩、道なき道を開拓するように、少年は前へ進んだ。
先の尖った葉は少年の白い手を容赦なく刺し、ぬかるんだ土は少年の足を滑らせ、行く手を阻む。
服は汚れ、肌には無数の擦り傷ができた。だが、代わりに歩を進めるごとに景色は変わり、開けてくるのもまた事実だった。
道を抜けると人一人がくぐれるほどの大きさの赤い鳥居があった。
少年にはそれを鳥居と呼ぶことも、鳥居のすぐ横にある【霧島神社】と書かれた看板の意味も分からなかったが、進むごとに感じた事の無いような希望を覚えるのもまた事実だった。
鳥居の向こう側には今進んできた場所よりも、もっと深い森がある。
そのさらに向こう側に今まで見てきた建造物とはまた違う――古めいてはいるが、がっしりした軒先が見えている。
鳥居の前に来たところで、少年はずっと握っていた左手を開く。曇天の空の下、少しの光の下でそれは淡く輝く。
それは――青い宝石のついた指輪だった。
少年は輝く宝石をみて少し安堵の表情を見せる。
だが、それもつかの間だった。
宝石の光が鈍くなる――急に雨音と風音が大きくなった。
『…水の聖霊よ、――汝、我に従うべし』
張りのある男の声だった。どこからともなく響いてくる。
「…っ」
どくん、と少年の心臓が波打った。
――まずい。
左手に握った指輪が声に反応したように熱を持つ。途端に自分の周りの空気が重くなるのを感じた。
目の前の鳥居が光りだす。それは少年のことを拒否するかのように開いていた入り口を光で塞ぎ、壁を作る。その光を浴びる毎に少年の体に無数の針で体を刺されているようなピリピリとした痛みが走る。
のっぺりとした抑揚がない男の声が雨音に混ざり、不気味に響く。
日は陰り、雨は荒く、緑はますます重たげに色を落す。
少年の周りがさらに重くなった。体が鉛のように重くて動けない。刺すような痛みはさらに強くなる。
――まずい、これは。
一瞬の逡巡のち、少年は勢いよく鳥居を越えた――同時に今まで感じたことのない激しい痛みが左手から全身へと襲う。同時に男が叫ぶ。
『―――スイグン』
唱えられた呪文は嫌にはっきりと少年の耳に届いた。しかしその意味を思い出す前に全身を貫く光線が痛みとなって押し寄せてきた。
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