おうぎを舞いし染の運命 十四




 刹那の出来事だった。

 氷月ひづきが立ち上がって、加治かじの家に行くと言ったかと思えば、氷月は失礼しますと頭を深く下げては紅凪こうしに背負い疾走。秘密基地から出て加治の家に到着して、呼び鈴を鳴らして玄関の扉を開いて出て来てくれた加治に就寝中に申し訳ありませんと深く謝罪をしたのち、白扇に風景が映し出されたままかを尋ねると、風景は映し出されたままだと見せてくれた白扇を凝視したのち、ありがとうございました本当に申し訳ありませんでしたと深く頭を下げて玄関の扉を閉めると、また疾走。秘密基地へと戻って来たのであった。





 仁の区画、漆黒町、絶滅危惧種『ほの』が地生する森にて。

 秘密基地の中で失礼しましたと背中から紅凪を下ろした氷月は、紅凪と向かい合う位置で座を正すと、神妙な顔をして言った。

 私の名前は氷月です。


雪晶ゆきあき様に『天紅あまがべに』家を出るようにと言われたので、『天紅』の姓を名乗る事はできませんでした。本当は、この姓を名乗りたかったのですが。名乗れる人間になりたかったのですが。私では無理でした」


 真っ直ぐに見つめてくる氷月の顔に、悲哀の色はないように思えた紅凪は、自分もゆっくりと腰を下ろし座を正して視線を合わせた。

 氷月が名乗ってくれた事。その事自体は諸手を挙げながら何度も何度も何度だって飛び跳ねたいほど嬉しい。

 嬉し過ぎて、心臓をはじめ、身体のあらゆる部分が、熱く煮え滾り、狂い踊っている。

 例えば『天紅』の姓がなくとも。

 

 けれど、どうした事か。奇妙なほどに冷静だったのだ。思考が。どこもかしこもはしゃいでいるな冷静にならなければならないと抑えつけられているのだろうか。

 断片的に覚えている今迄やり直して来た記憶の中では、氷月は『天紅』を名乗っていた。名乗っていたからこそ、『雪芒』であったからこそ、氷月は殺されてしまったのだ。


 これからまた変わってしまうのか。

 もしかしてすでに変わってしまったのか。


(俺が記憶を持っていたからか。もしくは。トキが俺たちの世界に下りて、俺たちに接触して変わった………なら。もう。氷月が。殺される事は、)


 『天紅』の姓を名乗れない事に対して、氷月はすごく、負の感情が渦巻いている事だろう。自分自身に絶望し、失望し、腹を立て、泣き喚きたい事だろう。

 氷月の事を考えると、胸がひどく痛むが。


(このまま。氷月でいてくれたら。生きていてくれる、なら、このままで。後は、おばばに養母のなってもらえたら………いや。今から。変えられる。だろうか。氷月の芯になっている雪晶殿を氷月が忘れる事はできない。なら。ここに、雪晶殿が主に活動する『扇晶道』に氷月がいるのは、苦痛になるんじゃ。だったら。別の道に行って、心機一転してもらった方が。生きやすいんじゃ。俺たちに会わない事で、氷月が生きやすくなるなら。俺は構わない。一生会えなくても、いい)


 もう日付も超えている事だろう。暗闇は一層増しているはずだ。にも拘らず、不思議と氷月の顔が克明に見える。今時分には淡い光を放つ青色の『ほの』が近くにあるわけでもないのに。


(やけっぱちなのか。心機一転しようと考えたのか。吹っ切れたのか。何で突然、名乗ろうと考えたのか。氷月じゃないって。言ったばっかりだったのに。俺を。俺が。痛いって。言っちまったから、か。俺が氷月が名乗るのをそんなに長く待たないって言ったから。俺が早く氷月の名前を聞きたいって。思ってるけど。よ。でも。ああ。やっぱ。何でこう俺って。人間の器が小さいんだ。いつまでも待つって言ってやればよかった。俺が急かしたから。本当に追い詰めてばっかりだ)


「紅凪王子。私は、『扇晶せんしょう国』を出ようと思います」

「………え?」


 明確に力強く言った氷月の顔を茫然と見つめる事しかできなかった紅凪。氷月にはやはり、悲哀の色がないように見えた。


(あ。いや。でも。『扇晶国』を出たら。顔を見る限りは。死のうとしているようには、見えないし。氷月に考えがあるのかも。だったら。氷月の意志を尊重して送り出した方がいいのかもしれないな。どう転ぼうと、この国が大変な事になるのは確定だしな)


 茫然としながらも送り出す事がいいかもしれないと考えた紅凪が、力になると言おうとした時だった。


「あ~~~。いやいや。それは困る。貴様には『扇の舞』を舞い踊ってもらわなければならないのだからな」

「ッバ。国王様!?」


 紅凪は目を白黒させながら、出入り口からのっそりと秘密基地の中に顔だけ見せた、父親でありこの国の国王である錦秋きんしゅうを穴が開くほど見つめたのであった。











(2024.11.9)



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