天と地のせいめい 十
次の日。俺は一人で天紅家の門を潜った。
昨日の礼と謝罪を言いに。
氷月の要らない発言が、どうにも会いに行かない方がいいのではと足取りを重くさせるのだが、氷月の真意と状態も知る為にもと、足に気合を入れて一歩一歩、歩を進めたのであった。
雪晶殿は仕事で家を空けており、未空が氷月の部屋まで案内してくれると言うので、俺は彼女の細高い背を追って歩き続けた。
未空とは、氷月を邸まで迎えに来た際によく会っていたので、顔見知りになっていた。
ビシィという効果音を背負っていると錯覚してしまうほど、頭の天辺から足の爪先まで綺麗に整えている彼女の年齢は不詳。普段は鋭利な顔立ちと雰囲気で近寄りがたいのに、笑顔だけは何処にでもいる妙年齢のおばちゃんみたいに温かく変化し、印象を覆す。滅多にその笑顔を見る事はできないが。
『昨日は災難でしたね』
『ああ。氷月にも怖い思いをさせて悪かった』
『あなたの所為ではないのですから謝罪は結構かと思います』
『ああ。いや、まあ』
口を尖らせて、手に持っている或る物へと意識を向ける。
――氷月ちゃんのおかげで早く見つけられたんだから、ふか~く頭を下げて感謝の気持ちを言うのよ。怖い思いもさせたんだから、手ぶらで行くなんて論外だからね。
(……だったら、菓子やら花やら果物やらを買う金寄こせっての)
それはそれで恥ずかしくてすんなり買えずに今日行く事などできなかったかもしれないが。
だからと言って、やはりこれはなかったんじゃないかと後悔と羞恥が入り混じる中、強く握りしめてしまわないように、細心の注意を払いながら氷月の部屋まで歩き続けた。
『氷月さん。紅凪さんがおいでになりましたよ』
未空が部屋の襖の前に立って、そう声を掛けてから、部屋の方へと手を向けて、どうぞと俺に許可を与えた。
返事がないのはいいのかと頭の片隅で突っ込みながら、入るぞと、僅かに声を大きくして襖を開けた。
この時占めていた感情は歓喜だったのだろうか。
殺風景な部屋の奥。一段高くなったその場所。寝具の上で。上半身を起こし。日光が降り注ぐ窓を背に。灰影を覆いながら俺を見つめる瞳と確かに交わった瞬間。
部屋に入れた事。氷月の生きている姿を目の当たりにした事。その事実が。胸を締め付けて。
顔を綻ばせた。
『氷月』
のは、氷月が布団を覆い被るたった一分にも満たない短い時間で。
やっぱり嫌われている超嫌われている。地の果てまで落ち込む精神を、肉体はまだ何も為していないだろうと無視しながら、よたよたと氷月へと近づき、寝具に触れない距離で止まって崩れるように腰を床に下ろした。
『昨日はごめんな。ありがとう』
伸び飛び続ける精神を一気に手繰り寄せ、据えて、真摯に頭を下げた。
『………』
反応はない。落胆と怯えで伸び飛びそうになる精神を掴んで引き留める。
『氷月は、俺の事が嫌いか?』
『……嫌いじゃない』
氷月は布団の中から出ずにそう返した。間が気になるが、とりあえず嫌われていなかったと、拳を握り締める。
『昨日の、要らないって、何が要らなかったんだ?』
『……必要なもの。でも、もう、貰えた』
うん。さっぱり分からない。
『あなたのおかげです』
『氷月』
知らぬ間に氷月に何かを渡して、感謝をされている事は、なんとなく分かった。が。
捨て置けぬ発言をした事に集中した俺は神妙な声音で言葉を紡いだ。
『俺の事は兄ちゃんだと思え……兄ちゃんってのは別にあれだぞ氷月が可愛くて仕方がないからじゃなくてだな兄ちゃんって偉い存在で年功序列の師と弟子みたいな敬われて当然みたいな俺はそんな偉い存在になりたいし氷月は俺より年下だし年下で身近にいるのは氷月だけだしそういう間柄になるのに最良なだけで血の繋がりはないけどんなのはどうでもよくて』
前半の腰を下ろした感は何処ぞへ消えてしまったのか。中盤から最後まで息継ぎなしの早口で紡ぎ続けた結果、息切れを起こしてしまったので軽く口を閉じた。そして静かに呼吸を繰り返しては口を尖らせた。
『だからあなたとかんな呼び方すんな』
耳がやけに熱く感じた。
『……氷月』
もぞもぞ。布団の中で体勢を変えているのだろう。ひょっこり額だけ姿を見せた氷月に、息苦しくないんだろうか無理矢理剝がそうかと思いながらも、そっと、手に持っていた花束を差し出した。
庭に咲いていた、白と薄紅のれんげそう、黄のたんぽぽ、紫のすみれを白紙で包んだものだ。
春を感じさせる花々で可愛いと言えば可愛いし和ませるとは思うが、そこらへんに生えているものなので、有り難さや特別感は皆無だろう。
無言でのこの体勢に、ますます耳が熱くなるのを実感しつつ、受け取る気配のない氷月に、枕元にそっとそれを置いて、とりあえず言いたい事は言ったと、腰を上げようとした時だった。か細い声で呼び止められたのだ。
まさかもう実践してくれるのかと期待で胸を弾ませていたら。
新聞を読んでくださいと願われた。
これは甘えられているのだろうかと浮上と下降を行き来しながら、その願いを叶えるべく寝具の傍に置いていた今日の新聞に手を伸ばしたのであった。
そうして読み続けて一時間経ったか経たないか。控えめな寝息が耳元を擽ってから、氷月の部屋を後にしたのである。
その次の日。俺と仙弥が天紅家まで氷月を迎えに行くと、頬の腫れを引かせていた氷月が紅兄貴と仙兄貴と、つっけんどんに呼んだのである。
正直、歓喜より落胆が勝った。せめぎ合った結果である。
兄ちゃんとかおにいとかが良かった。
無論、純粋無垢な満面の笑顔付きで。はにかみ笑顔も歓迎です。
後日、今回の誘拐の首謀者が捕まったと警備兵に教えられた。
色々罪を犯していたらしく、もう流刑島から出て来られない事も。
少女と底冷え男が実刑を宣告され遠くの牢に入った事も。
甦るのは、去り際に伝えられた嘘か本当か分からない二人の名前。
申請書を出せば許可を貰い森の中に入って確認できただろうが、紅凪はそうしなかった。
朽ちているかもしれない現実を見たくなかったからかもしれない。
確かに鮮明に覚えてはいる。しかし、心の中に永遠に。などと、言えはしなかった。今。恐らく、当分は。
残っていてほしかったのだ。
(…楽しんでるな)
紅凪は首を動かして開けられている窓から庭へと視線を映し、手合わせしている仙弥と杏梨に声を掛けた。
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