偶然の日常Ⅰ

阿紋

「ねえ、見える」彼女が彼に言う。

 女に声をかけられた男は、黙ったまま歩き続けている。

「見えないの」

「何が」

「ほら、少し先に」

 少し先に確かに何かは見えている。

 彼はそう思いながら彼女のほうを見る。

「前から怪しいと思っていたのよね、あの二人」

 男は彼女が誰のことを言っているのか何となく察しがついた。

 男は紅葉した樹木を見ながらコーヒーを飲む。

 彼女は向かいでチョコレート・ケーキをフォークで切り分けている。

「振り返らないで」女が男にそう言う。

 男はそう言われて反射的に振り返りそうになる。

「あの二人が来るの」

 女はそう言って通りと逆の方向に体を向ける。

「どうしたんだい」

 男が女にきく。女が男の顔を見て微笑んだ。

「ほら、そこのテラス席」

 彼女は彼の腕を引っ張った。男は視線の先の彼を見た。

 そして彼女と目が合う。

「ねえ、見えたでしょう」

 彼は無言でうなずいた。

 男が通りの方を振り返り、お互いの視線を感じる。

「開き直ってる」女が言う。

 男はチョコレート・ケーキにフォークをさしたまま動かない女を見た。

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