武蔵山水

 「そんなら僕が逃して遣る」つぶてはひゅうと云う微かな響きをさせて飛んだ。僕がその行方をじっと見ていると、一羽の雁が擡げていた頸をぐたりと垂れた。それと同時に二三羽の雁が鳴きつつ羽たたきをして、水面を滑って散った。しかし飛び起ちはしなかった。頸を垂れた雁は動かず故の所にいる。

                             -森鴎外 『雁』

    第一章

 秋晴れの昼。暖かい上着を纏い私は散歩に出かけるのである。玄関から表へ出る時、平時よりも澄み渡る青空に目が眩みつつも我が歩みの前途を祝しているが如きで大変に心が弾むのである。今日も私は歩くのだ。開闢以来変わらぬ空と目眩く変容する大地とを道連れに。

 往来に繰り出すと青空の下に歩む人々の顔は楽しげに映った。それを認めた私も自然に笑みを浮かべ歩みが殊更に快活になったのである。

 快晴の大空に鳥が一羽過ぎ去りゆくのを私は認めた。そんな鳥の跡を追う様にしてみたが悲しき事に直ぐ様立ち並ぶ文明の影に隠れてしまったのだ。

 裏路地を行こう。最早既に多くの人々から忘れ去られてしまったさりげない裏路地へと入って行こう。然し幾ら人気のない裏路地であろうとも文明の魔の手を逃れることが出来ない様だ。何時ぞやから侵入した西方の文明は池に滴る水が波紋を成すが如く際限なく広がり我々が気づかぬ中に今日の如きに成ってしまった。後に残るものとは果たして何であろうか。私はこの問いを折りに触れて自らに問わずにはいられないのである。何が待っているのだ。悲しみと失望の果てに。確かなる解は往々にして残酷であるのが世の習いである。我々に残っているもの。それは衰退と没落そして敗北と剥奪。それ以外にはないのである。私は辿り着く終着点を理解しているのにもかかわらず何故この世に足跡を残そうとしているのだろうか。愚かなる野望と惨めなる為体の私は一体この後生きて行けるのであろうか。

 山手の手を歩く私は凸凹を確かに感じるのである。時として登り坂になりまた時として下り坂になっているこの長い道を去来する様々なものを見ながら歩むのである。寺あり墓あり神社あり。その場あらゆる過去の墓場としてゆくりなく姿を見せるのである。

 徒然と歩いている内に武蔵野の突端付近まで来てしまった。やがて日も暮れる時刻である。結局私は今日も何処へも寄るということもなかった。久方ぶりに墨東へ訪うて見ようかとも意識の表裏に現れないこともなかったが何故だか歩みはそちらの方へは向かずに城西から城北まで移動したのみであった。抽斎の墓へも寄って見ようかとも思ったがそれも叶わず。愚図愚図とたどり着いたのは向丘の詰まらない歩道橋である。今日も富士は見えない。丹沢の山並みも地平ごと乱立する建物に覆われ今眼に映るのは人様の家の窓のみである。全く悲しい。

 気付けば街は夜に備えて粛々と準備を始めていた。きっと我家でも母親が夕食の支度をしているだろう。私も帰らねばならぬ。暮れゆく夕の空の下を私は駒込の駅舎まで歩く事にした。

 落陽と同じである。人類の栄華も健闘虚しく暮れてゆくのである。


   第二章

 十二月も大分過ぎた冬の日である。現在十二時三十分。一昨日は雪が降ったので今日の予定も危ぶまれたが昨日そして今日も無事に晴れ渡る天候であるので何とか計画通りに事が運んだ。有難い。真の男を目標としたる俺は約束の三十分早く集合場所の上野駅で彼女を待つのである。本なんぞを読んで待つのである。読み差しの本をめくり連なる文字を目で追う。しかし思考は本の内容ではなく今日の予定或いは計画を思索しているのである。俺の今の姿勢は満点である。

 しばらく思索した。そして俺は満足して本から目を上げ駅舎内を見渡してみた。人芥である。するとその群衆の奥から一際輝く人間がこちらに寄ってきた。彼女である。時計を確認するとまだ約束の時間より十五分早い。成程。彼女も私と同じ魂胆であった。

 「早いね」

 と彼女は微笑みながら俺のもとへとやってきた。俺は本をしまった。そして俺も彼女に笑みを向けた。

 「私の方が早く着くと思ったけど違ったみたい」

 彼女は今日も綺麗である。言葉にもならないほど。正確に表現するのであれば言葉も詰まるほど。俺は些か緊張しているのか声が出にくかった。しかし何とか詰まらない事を口走る事が出来たのである。

 俺は彼女と共に美術館の方へと歩み始めた。

 美術館に入った。もちろん入場料は俺が払うのである。彼女は最後まで自分で払うと言っていたがとうとう折れてくれた。

 美術館の中は暖かい。俺はどうやら先ほど彼女を待ちながら冬枯れ木枯らしに打たれ続けていたものだから気付かぬ内に体の芯から冷え切っていた様である。とても有難い。

 絵画展である。彼女は熱心にいつもかけていない眼鏡を掛けてじっくりと見ている。俺は俺で絵画鑑賞を装って彼女の横顔を見ているのである。それもそのはずである。この世のどんな至宝よりも彼女の方が美しく煌く宝なのであるから。彼女の長い睫毛に漆の様に深い色をした瞳。瞬く間に存在が消えてしまいそうな体は儚さを感じさせられるのである。俺はいつも思う。現代に菱川師宣やら小早川清が生きていたら文字通り命をかけてでも彼女の絵を描きたくなるはずだと。

 俺は彼女の存在に対して甚だしく憂うのである。俺は確かに彼女の事をいつの間にか愛してしまった。そんな俺はどうすれば良いのだろうか。いや、俺は分かっている。どうすれば良いのかなんて。彼女の目を見て愛を告げる、それまでである。全く容易なことである。何故、それが出来ない。俺は彼女を失ったらその後の生活を想像が出来ないのである。果たして俺は本当に彼女を愛しているのだろうか。ただ誰でも良い。偶さか彼女が俺の近くにいたもんだから、比較的近づき安かったからに過ぎないのではないだろうか。俺は彼女という女を己自身の性生活に利用しようとしているに過ぎないのではないだろうか。

 結局俺は絵画を堪能する事なく美術館から出てきた。彼女の瞳は爛々としていた。俺はそれだけで満足であるが先ほどまで俺がしていた思考を以てして胸が痛むのである。彼女はそんな俺に感付いたのか俺を心配したが気丈を装ったのである。俺は彼女を守り得るほどの立派な男になれるのであろうか。

 しばらく春には桜が満開になる今は裸の並木道を歩んだ。今日の予定は美術館だけだったのでもうおしまいである。

 「ねえ、どうする」

 と彼女が尋ねてきた。まだ少なくとも俺は彼女から離れたくないのである。それはおそらく俺が負けるから。彼女と離れた時俺は今日の負けを認めざるを得なくなる。俺は俺の脆弱さを認めざるを得なくなってしまうのだ。俺は彼女を引き留めんとある提案をしようとする思いが一気に噴出したのである。

 「不忍池に行こうか」

 彼女の表情がにわかに雲った事を俺は見逃さなかった。何か嫌悪を感じる事を言ってしまったのだろうか。

 「どこにあるの」

 そう彼女は聴いてきた。まさか不忍池を知らないのだろうか。いや、そんな事あるはずがない。

 俺は驚いて立ち止まった。すると彼女も少し俺を追い越して立ち止まった。

 「え、不忍池って知らない?」

 俺がもう一度確認すると首を傾げた。

 「うん、知らない。ここら辺に池なんてあるんだ」

 俺は愕然とした。

 不忍池は言うまでもなく近代まで文化の中心であった。俺の浪漫は全てここに集約されている。然し、彼女はその存在を知らないのであった。或いは他も。

 唐突に俺は悟った。俺の持っている芸術性の貧弱さを。

 「いや、ちょっと遠い」

 俺は俯向き勝ちにそう言った。

 「だからまた今度行こう」

 俺は確かに目の前に存在している彼女に笑顔でそう言った。

 「うん」

 と彼女も微笑んだ。そうしてまた歩き出した。

 「コーヒーでも飲みに行こうか」

 そう、これで良い。この流れで俺たちは一向に構わない。

                                  (了)

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武蔵山水 @Sansui_Musashi

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