夏休み特別編 オリエント急行襲撃事件
オリエント急行襲撃事件(前編)
殺し屋ハニーマスタードがお使いから戻ると、そこはビーチだった。
寄せては返す波の音に、ゆったりとしたウクレレの音色が重なる。風でヤシの葉がそよぐ。天井にはゆらゆらとさざなみが照り返す光が踊っていた。応接セットが取っ払われ、代わりにパラソルの刺さったピクニックテーブルが出ている。そこに水着姿のチョコレートミントがいた。
「なにしてんだ?」
「ビーチを楽しんでる」
室内なのに、チョコレートミントは日焼け止めを塗りなおす気合いの入れようだ。
部屋の向こうから上司が登場した。「戻ったな」
パーシー・メルバはこの宇宙生物研究所のボス、若き身空でラボの運営とこの街に出没するクリーチャーの謎を背負う十四歳の立派な研究者だが、今はリゾートに来た浮かれ中学生そのものだった。トビウオ柄のアロハシャツにブルーの海水パンツ、額にサングラス、足にはビーチサンダルを装備し、大きな浮き輪を担いでいる。「ボス、いかしてる!」とミントが感想を述べた。「特にシャツ」
「ありがとう、きみもね。羽生、買ってきたものはポピーに渡せ」
給湯室から顔を出したメルバの秘書、ポピーシードもハワイアンドレスを着ていた。となると、帽子掛けにある麦わら帽子は彼女のものだろう。演出が細かい。「ご苦労さまです。サマー・デライト、飲む?」
「いえ、結構です」なぜライムジュースが必要だったのかやっとわかった。
他に座るところがないので、ハニーは仕方なくピクニックテーブルについた。部屋のすみにあるプロジェクターが天井に光を、床に波を映している。「観葉植物まで変えて、どうしたんだよ。普段の茶番の比じゃねえな」
「わたしたちに足りないものってなんだと思う? それはね」ミントは吐息多めに発音した。「バ・カ・ン・ス」
「うん」メルバはビーチチェアに寝転がり、LED照明の光を一身に浴び始めた。「ないものは代用品で補う。いい発想だ」
ミントがむっと眉根を寄せた。おそらくふたりはすでに一戦交えた後なのだろう。チョコレートミントは四六時中殺し屋に狙われているから、ふらふらとバカンスに出かけるのはほとんど自殺みたいなものだが、どうやら本人はうまく理解できないらしい。ミントは件の宇宙生物に飲み込まれた経験があるので、メルバ研究所にとっても貴重な存在だ。だから外出にうるさく口出しするし、ハニーのような殺し屋を雇って用心棒にする。
そのとき「パンケーキが焼けましたよ」と皿を持ってポピーが現れたため、チョコレートミントは破顔した。メルバも「やったー!」と飛び起きて、パンケーキに駆け寄った。
上司と警護対象がブルーベリーパンケーキを堪能しているあいだは、ハニーの仕事はない。テーブルに肘をついて波の音を聞いていると、真っ昼間なのになんだか眠くなってくる。リラックス効果は高いようだ。ミントとメルバがこのかりそめのビーチで一応の妥協を得ているのなら、いいだろう。
このとき気付くべきだった。チョコレートミントのバカンスへの執念に。
それから二週間も経たないうちに、ミントは彼氏と旅行に行きたいと言い出した。
チョコレートミントの新しいボーイフレンドはフレッド・ハントというニュージャージー州出身の青年で、NYCC市内の大学に通う学生だった。ハニーは警護責任者としてこいつの素性を調べ上げたものの、ネット上での態度がやや悪いという難癖しかつけられなかった。裕福な家庭で育った次男坊で、ミントよりひとつ年上、趣味は登山とカメラとその他もろもろ、社会学部。軽薄そうに見えたが、前の彼女とは三か月前に別れてそれっきりだ。職場としても……友人としても、懸念すべき問題はない。ハニーの報告を聞いたメルバは舌打ちした。「こいつのどこがいいんだ?」ハニーも疑問ではあった。経歴はともかくとして、なんとなく信用できないという気がするのだ。
「顔じゃない?」とポピーが意見を述べた。「イケメンねえ」
どこで知り合ったやら、ミントは彼にずいぶん熱を上げていた。ハニーは、ブルーの新しいピアスを買うチョコレートミントについうっかり「今度のはミント色じゃないんだな?」と訊いて死ぬほど後悔した。
「これはねえ、えへへ、彼の目の色なんだもの!」
「そうか」
暇さえあれば会っていた。ミントがランチで外に出ると言うと、ハニーは銃を持ってついて行かざるを得ないのだが、最近は決まってフレッドが店で待っている。彼はミントがなぜボディガード連れなのかも、どんな仕事をしているのかもよく知らないので、あからさまにこちらを邪険にした。
「ランチくらい自由に取らせてやれよ」メキシコ料理のビュッフェで、席を立った際にさりげなくハニーのテーブルに寄って言った言葉だ。「あんたみたいのにじっと見られてちゃ、息が詰まってしょうがないだろ」
「は? 死体とデートしたいってことなら他の娘を当たれ」
一度など、彼はミントを連れてスクーターで逃げようとした。ハニーはこれ幸いと拳銃を抜いて追いかけたが、さすがにまずいと思ったのかチョコレートミントがフレッドをいさめて引き返してきたので、やつを合法的に撃ち殺す機会を逃してしまった。フレッドはいたずらを叱られる前の子供みたいな顔でハニーを見た。「おたく、足速いね?」
「やめて」とミント。
ハニーは銃を収めた。「次やったら殺す」
「やめて!」
そしてバカンスである。
ミントはしつこかった。“夏”“彼氏”がそろえばあとは“旅行”の目しかないと思っているようで、ありとあらゆる手段でメルバに攻撃を仕掛けた。なだめすかし、怒ってみせ、物で釣ろうとし、プレゼン資料を作り、双方の利益を説き、曲に乗せて歌い上げ、泣き落そうとした。ちょうど執筆の締め切りの時期と重なり、神経をすり減らしたメルバは逃げの一手を打った。「羽生と一緒ならいいよ」
チョコレートミントのうそ泣きがぱたりと止んだ。
どのくらい逡巡したのか知る由もないが、彼女はそれで合意してしまった。
「冗談じゃねえ」最初ハニーは突っぱねた。「なんでおまえらの旅行におれがついてかなきゃならないんだ? さすがに業務の範囲を超えてる。ボス?」
「特別手当を出す」メルバは明らかに弱っていた。両腕と胸と頭が机にへばりついていた。「帰ったらきみも長期休暇を取っていい」
「ありがたくって涙が出そうだ」
「嫌ならいいよ」
疲れたメルバの雑な応対だったが、ハニーの背筋は凍った。本来彼に逆らえるわけもない。雇用主だからというのは言わずもがな、いずれ彼を利用して彼の母校マンハッタン工科大学にコネを作る計画があるからだ。このミッションをかなえたところでメルバの心象にさほど変わりなさそうなのが難点だが。
「いいじゃん! いいよね? いいの? やったあ!」
チョコレートミントが勝ちどきをあげ、ハニーは観念した。「行先は?」
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