正体どこに②

【前日 09:40 p.m.】

 こういうのが好きなの、と照れたようにチョコレートミントが打ち明ける。映画の話だ。次の演目は彼女のライブラリから選んだ作品だった。

「ミュージカルが?」

「それもだけど、ハッピーエンドが」

 次は明るいのが観たいというミントの希望のもと、ミュージカル初心者のハニーの意向も踏まえつつ、ホームシアターならぬ研究所ラボシアターに投げ込まれたのは、「こいつで何人ものミュージカル嫌いを好き側に叩き落としてやった」とミントが豪語するおすすめの一本だった。

「ああ、ミュージカルは苦手だけどこれは悪くない」

 チョコレートミントがガッツポーズをとる。

「ヒロインがよかった。あとジョン・トラボルタが反則だった」

「そうでしょう、そうでしょう。まあジョン・トラボルタはなにに出てたって反則だけどね。ああ、楽しかった! 次はどれを観る?」

「もう帰ろうぜ」

「は? これからでしょ? 明日土曜日だよ?」

 三本も四本も連続で観るのはさすがに疲れる、体力無限状態のおまえとは違うのだ、というようなことをやんわりと告げると、ミントはなにがおかしいのかけらけらと笑い、新たな赤ワインをどんとテーブルに乗せるやいなやスパッと封を切った。「これはサミットでも出されたおいしいワインなんですけどね」

 ハニーは黙ってグラスを差し出した。ミントは魔法のように取り出したくるみの袋とカマンベールチーズの包みを開けた。

「やっぱり映画はハッピーエンドのほうが好き、どっちかと言うとね。ハニーは逆でしょ」

「別に嫌いなわけじゃねえけど」

「安易な感じがする?」

「それもあるが、ホラーやスリラーはそう終わらないこともあるから、別に」

「そういうの、モヤモヤしない? あたしたちって、多少なりとも主人公に感情移入して観てるわけじゃん。おばけを倒したり呪いを解いたりしてすっきり終わったほうがよくない?」

「気にならないな。こういうジャンルにおいて謎の解明は必須じゃないし」

「怖ければいいって?」

「まあ、そうだ。殺人鬼のバックボーンとかいちいち見たいか? 知らない方が怖いこともある」

 うーんとうなってチョコレートミントはくるみをかじり、咀嚼ののちに言い放った。

「おもしろければそれでいい」

 異なる、しかしどこか似通った意見の相対に、ふたりはしばし沈黙した。演出を重視するか、ストーリーを重視するかの違いじゃないかとチョコレートミントが無難にまとめあげ、その話は終わった。



【現在 09.30 a.m.】

「だいたいきみたちは、どういう経緯でそんなにお酒を飲むことになったんだ? ぼくにはよくわかんないんだけど、記憶を飛ばしたくてわざとやったのか?」

「まさか」

 こんな気分に自分からなろうと思うやつなんていない。胃のあたりにとどまりすべてに対してのやる気を削ぐ吐き気と、どこに行こうが常に寄り添う頭痛と、一晩の記憶がすっぽり抜け落ちた心もとなさを、この少年が知るのはもう何年か先のことになるだろう。もしかすると、まじめなメルバのことだ、ずっと無縁のまま、ということもあるかもしれない。

 ボスがバイクのふたり乗りおよび徒歩を嫌がったので、ハニーは配車サービスで車を呼びつけていた。後部座席に収まったメルバ少年はタブレットをひざの上に置いている。しかめっつらだ。

 チョコレートミントの携帯はまた電源が切れ、位置もたどれなくなってしまったが、通話の際に赤い点が付いた地図の場所にふたりは向かっていた。とりあえず一番恐れていた説は否定されたが、依然として状況は不明である。彼女がなぜ失踪したのか、これからどうするつもりでいるのか、なによりなにが「ギャーッ!」なのか、それを知るために、とりあえずGPSの反応があった場所に行ってみようということになったのだ。

「次を右に曲がって」

 車線変更しながら、地図上はなにがあるのかと目的地を問う。バーがある、というのが答えだった。

「バー?」

「ミントの前のバイト先だよ。前はよく手伝ってた。きみが来る前の話だけど、夜中ヒマすぎて死にそうって言うから。最近は聞いてないけど、もしかして無断で行ってたかもね」

 知らなかった。チョコレートミントが二十四時間起きていられる体質でありハニーがそうでない以上しょうがないが、自分が用心棒として張りついている時間外に出歩いていたとは。と、ふいに昨日のことでおぼろげに思い出した光景があった。給湯室から、ミントがサングリアのデキャンタを持ってくるところだ。これすぐできるやつ、とかなんとか言っていたような記憶もよみがえる。

 店の看板には「シルキー」とあった。

 とっくに営業時間は終えていたが、店の裏口から帰り支度をした店員が出てくるところを捕まえることができた。ブロンドの髪をポニーテールにした女が、ドアのカギを閉めようとしている最中に声をかける。メルバがチョコレートミントの写真を見せると、「ミニーじゃん」と眠そうな目を瞬かせた。「なに、ミニーの知り合い?」

 姉がしばらくうちに帰ってないので探している、こっちは姉の職場の人、とすらすらうその説明をするメルバに合わせる。

「彼女なら今朝見かけたよ。変な時間でどうしたのかと思ったけど、携帯の充電に来ただけだって。更衣室で充電してたけど、いつのまにか出てった」

「それって何時くらい?」

「……八時くらいかな。いなくなった時間はわかんない」

 充電が完了したのちのあの電話、と考えると、まだチョコレートミントは近くにいるのではないかと思われた。

 礼を言って離れようとするハニーをよそに、メルバは「もうひとつだけ」とポニーテールの女に訊いた。「このへんでおいしい朝ごはんが食べられるところない?」



「アルコールって怖いよね」テーブルの上に両腕を投げ出したメルバがちくちく言いはじめる。「知ってる? 酒に酔うっていうのは、徐々に脳がマヒしていってる状態なんだよ。まず大脳新皮質、次に大脳辺縁系、そこから大脳基底核、小脳、そして脳幹、という順番で神経細胞がマヒしていく。つまりさ、記憶が飛ぶってことは」

 その絶妙なタイミングでパンケーキセットが来たので、ハニーはその先を聞かずにすんだ。

 ポニーテールの女が教えてくれたパンケーキパーラーはそこそこの人気店だったが、今はすいていた。ここらで朝食を補給しなければぼくは一歩も動けなくなるとはメルバの主張だったが、ハニーはメニューを見ることすらしなかった。メルバが慎重に目玉焼きの黄身をくずし、ていねいにパンケーキを切り分けて食べていくあいだ、ハニーは料理の匂いをなるべくかぐまいと窓の外へ顔を向ける形でじっとしていた。

「昨日なにがあったのか少しは思い出せた?」

 無言よりましといった体でメルバが口を開いた。

「いや」

「チョコレートミントの位置がたどれない今、きみのおそまつな記憶だけが頼りなんだけど」

「面目ありません」

「本当だよ。コーヒーでも飲めば? 頭痛が少しは収まるはずだ。カフェインが血管を収縮させる」ハニーがなにか言う前に、メルバはコーヒーと自分のココアを追加注文した。「それで、電話口で女性に悲鳴を上げられる覚えは?」

 ハニーは力なく答える。「まったくないです」

が起きたんじゃないか?」

「はっ?」

「ぼくだってこんな話は不愉快だ! で、どうなんだ?」

「それはない」

「どうして言い切れるんだよ」

「……アルコールってやつは理性を飛ばすだろ。残るのは本能」

「まあ、うん」

「つまりな、おれにとってあの女は、これ最後まで説明するか?」

「その説明できみが好みか好みじゃないかに関わらず女に手を出す見境のないクソ野郎じゃないって証明できるのならかまわないけど。どうなの」

「………」

 飲み物が届く。

 息を吹きかけてココアを冷ましながらも、メルバの小言は続いた。「シャツの前閉めなよ、さっきの店員さんだってものすごく見てたぞ。ここはハワイじゃないんだし。なんなの? 腹筋を見せびらかしたいの?」

「ボタンが取れていてかけられない」

 引きちぎれたボタンを確認したメルバの侮蔑の目が、たっぷり十秒間ほどかけてハニーをメッタ刺しにした。

「……ケダモノ」

「違う」

「いやらしい」

「やめろ、なにを想像してるんです」

「言っておくけど、チョコレートミントに手を出してたら、生きたままアリのえさにしてやるからね」

「ボスはあの子が好きなのか?」

 反射的に口から出た、足止め程度の苦しまぎれな返答だったが、効果は絶大だった。メルバの口撃が止まった。言葉が出ない様子で、目を見開いている。色白の頬がじんわりと火照ってゆく。

 ハニーは目をすがめた。

「違うよ」メルバはすぐに自分を取り戻したが、耳がまだ赤かった。「バカを言うな! 研究対象に恋なんかするもんか! ぼくはただ……彼女は助手だから……ほら、その、あー、だって、かわいいにはかわいいし……。少しは意識しないほうが変だろ」

 まあ、はい、とハニーは驚きからすべてを肯定する。我らが非凡なボスも人の子だったというわけだ。

「とにかく」メルバはこほんとせきばらいをした。「仕事の面でも、チョコレートミントに研究所を去られると非常に困るんだ。きみのせいで彼女が辞めることになったら、二度とNYCCで働けなくしてやるからな」

 空いたいすに置いたメルバのタブレットから、ポーンと音がした。

「補足した!」口元をぬぐいつつ、メルバは勢いよく立ち上がった。「ほら行くよ、露出狂!」

 照れ隠しにしてもひどすぎやしねえか、と思いながらハニーも腰を上げる。

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