第2話 火星から来た男
火星から来た男①
眠る夢を何度も見ているような、曖昧な意識がやっと晴れ始めたのは、爆発から丸二日ほど経ったころだった。麻酔と激痛が神経の支配権を奪いあう狭間で、ハニーは延々とその瞬間を繰り返していた。一気にわき上がる光と熱の中で、自分を押しやる白い二本の腕。それが炎の照り返しで赤く変わると、ごう、と熱い空気が吹きつけてきて、なにも見えなくなる。あおむけで地面にたたきつけられる。ももから下の感覚がおかしい。顔や体にばらばらとなにかが降ってくる。痛み。どこまでもつづく赤い砂の丘陵、押しつぶされそうな藍色の星空、くすぶる炎と、血と肉の焦げた匂い。そこまできたら、また最初から。
だから、両足を失ったことと、一緒にいた戦闘支援アンドロイドMS-T4400が損壊したことは、医師に告げられなくてもわかっていた。なおるよな、と言う自分の声が、遠くで響いているように聞こえる。ええ、命は助かりましたよ、などというとんちんかんな答えをさえぎった。マスタードは直るよな?
医師は誠実な人間だった。結論から言うと、それは無理です。
外に出してくれ。
なんですって?
おまえらにまかせておけない、とハニーは起き上がろうとした。あいつはある程度の損傷は自分で直せるんだよ、頭脳さえ動けば、おれが手伝って直してやれる。どいてくれ、残ってるパーツを少しでも集めないと。
体はあっさりと医者に押し戻された。たったそれだけの攻防で、息が上がった。ベッドの上でもがくハニーに透明な袋が手渡された。砂にまみれた強化カーボンのかけらがたくさん入っていた。白い指のパーツ。溶けかけたネジ。もうどこの部品かもわからない割れたプレート。ひしゃげた関節球。
医師はハニーに車で事故を起こしたことはあるかと訊ねた。どこまで傷ついたら廃車にする? 窓が割れたら? ボンネットに傷が着いたら? ドアが歪んだら? 普通は、ここまでの状態から、修復させようとは思わないと。これはもう、壊れてしまったのだと。
先生、あいつはおれを助けてくれたんです。あいつがいなかったら死んでた。
人間を守る基本プログラムが働いたんですね。爆発の中心にいたのに、足以外に大きなけががないのが不思議でした。不幸中の幸いです。
とてつもない不条理に聞こえた。
「きっと生き返らせる」ハニーはそう口走った。「絶対に。どんな手を使ってでも、必ず」
医師の顔にははっきりと困惑が現れていた。彼は機械なんですよ。
ハニーはゆっくりと顔をあげ、なにか恐ろしいものでも見るように医師を見た。そうだ。かすれ声がくちびるの隙間から漏れ出た。そうだな。
もう休んで。医師の声が優しいものに変わる。傷ついた者、かわいそうなけが人、ショックで頭が混乱している哀れな患者への慈愛のこもった声。今は回復に専念しましょう。
ハニーがMS-T4400のスペア脚部パーツを見つけるのは、まだ先のことだった。
ベーコン、ゆでたソーセージ。目玉焼きを二つ。蒸したジャガイモとブロッコリー、トウモロコシ。三角に切ったトーストを二切れ、ロールパンをひとつ、ハチミツをたっぷりつけて食う。スモークサーモンのマリネ、根菜のサラダ、トマトスープ。りんごとキウイをヨーグルトに合わせる。
コーヒーを飲んでいると、テーブルの向かいにすっと眠らない女が立った。トレーを抱えている。
「おはよう」彼女ははきはきと言った。「花瓶とベッドの弁償の話はつけたよ」
「悪かったな」
「いいよ。なんて説明したか聞く?」
「遠慮しとく」
「ここいいかな?」
「どうぞ」
「あんまり朝食べない感じ?」と指摘される。
食べてるだろ、と返そうとして、チョコレートミントのトレーの上を見て口をつぐむ。ラズベリーソースと生クリームのたっぷりかかったパンケーキのタワーの時点で負けているとして、そのほかに大きなオムレツ、厚切りのハム、山のようなポテトサラダ、別のボウルにシーザーサラダ、トールサイズのオレンジジュース、牛乳、モモとりんごのコンポートとよくもまあこれだけ載せたものだ。
「……足の分食わないでいいからな」と言うと、なるほどとまじめに納得される。
「食事って血や肉を作ることだもんね」
卵から取りかかったチョコレートミントはみじんも朝のけだるさを感じさせない顔をしていた。眠らないというのは自分の目でたしかめて知っているが、彼女のぱっちり開いた目とばっちりキメた化粧を間近で見ると、あらためて考えさせられる。眠らないということはつまり、睡魔を感じることもないはずだ。彼女は朝寝坊も、午後の昼寝も、日没前のうたたねも、夜更かしのあくびも、しないのだ。
「どうして眠らないんだ?」
彼女は肩をすぼめた。「それがわからないのよ。ある日突然こうなった」
「疲れないのか」
「疲れるけど、ちょっと休むとすぐ回復する。五分くらい目をつぶって静かにしてると、もう大丈夫」チョコレートミントはストローを噛んだ。「たまに眠りたくなるよ。眠気とかじゃなくてね。毛布にくるまって、だんだん意識を手放していって、夢でも見て一日をリセットしたいって思うの。できないけどね」
「大変だな」
「そうなのよ」彼女の視線がハニーの手の中のカップに向いた。
「今日の予定は?」
「ボスのとこ行こう。さっき連絡しといたから。九時にロビーでどう?」
「よし」コーヒーを飲みほして立ち上がった。
チェックアウトの際、受付嬢のカギを受け取る手がふるえているのと、奥から支配人らしき男が畏怖の目でこちらを見ているのに気づき、ハニーは眠らない女にちょっとでも同情したことを後悔した。あの女、どんな説明したんだ?
答え合わせは昨夜のうちにだいたいすませていた。
「オッケー。お互いに、ひとつずつ、疑問を解決していきましょう」チョコレートミントは頼んでもないのに仕切りはじめた。「まずこっちからね。アーモンドファッジとどういう関係?」
「先輩後輩」
「うそ!」
「ハイスクールのアルバムでも見せようか?」質問を投げ返す。「そういうおまえはどういう関係だ」
「この会話いやだ。三角関係みたい」と毒づいてから、少し考え込む。「うーん、仕事の知り合い……敵でもあるかな?」
「敵?」
「前にあいつの仲介で殺し屋を差し向けられたからね」
「じゃあいったいどういうわけで、おまえにあんな連絡が来るんだ」
「待った! ふたつ質問してるよ。次はあたし。アーモンドファッジになんて言われてきたの?」
「殺し屋になるのはどうだろうかと」
「なるほど? あたしは用心棒を寄越せって言ったんだけど」
「というと」
「ええ、彼と取引しましたとも。これはさっきの質問の答えね」
チョコレートミントと彼女のボスは、研究成果の横取りをもくろむ同業者から今までに三度、命を狙われたという。すでにNYCC市ではビターの研究をめぐる醜い争いが勃発しており、ビターの正体および研究資金を狙う科学者たちが互いに足を引っ張っているという状況にあった。その大きな理由が、研究対象であるビターの体がなかなか手に入らないということだ。
「手に入ってる」
「それはうちのボスが天才だからよ」チョコレートミントは鼻高々に腕を組んだ。「ボスは一番にビターを捕まえて無力化する方法を見つけたの」
「さっきドレッドの男も言ってたが、そいつを開示すれば、殺し屋を差し向けられることもなくなるんじゃないか?」
「まだ早いとボスは考えている。この方法に問題がないか、徹底的に調べなければ。無責任に成果とも言えないものを公開できない」
「同業者連中はそうは考えてないんだろ」
「ええ、そうは考えてない。だからあたしは、身を守るためにガードを雇おうとしたの」
「それでファッジか」
「うさんくさいやつだけど、蛇の道は蛇っていうでしょ? それに彼は仲介業者であって、あいつがあたしたちを殺そうとしたわけじゃない、と考えていたし……。それで、今まで来た殺し屋を基準にして、やつらを返り討ちにできる人を寄越してって頼んだ」
「先輩はなんて?」
「『そちらのご予算の範囲内で適切な人材を派遣いたします』」
いったいいくらで自分が見積もられたのか図りかねる。
「で」チョコレートミントは疑わし気な顔をした。「どうしてあなたはそのもろもろのことを聞いてないの?」
「それはこちらが知りたい」
そうは言ったが、ファッジのそれは性格だとわかっていた。秘密主義というか、自分の頭の中ですべてを完結させてしまうところだ。学生の時から振り回されてきて、腹立たしいこともあったが、それが仕事では戦略として機能するのを何度も目にすると、彼の能力の一部として納得できるようになったのだが、顔見知り程度のやつにそれをわからせるのは困難極まりないだろう。ともかく、ハニーにとってそこは理解し得る領域だった。
「あんたらがファッジに用心棒の派遣を頼んだのは分かった。それならなぜ、おれを拘束したんだ?」
「用心のためにね」とたんにチョコレートミントは小さくなった。「アーモンドファッジを完全に信用していいものか、わからなかったし。よその研究所のスパイを送り込んできたかもしれないでしょ? だから最初に拷問して」
「拷問」
「未遂だしいいでしょ!」チョコレートミントはばつが悪そうにくちびるをとがらせた。「ポットに一服盛ったのは悪かったよ。でも、そうでもしなきゃあたしは殺されてたわけだし」
「まあそうだな。どうやって部屋に入った」
「そこはボスがやったからわかんない」
こいつのボスはいったい何者なのだ、とハニーは考えた。ビターの研究者であるらしいが、他者に一歩先んじているということは有能な宇宙生物学者なのか。チョコレートミントが持っていた甘い匂いを放つ銃がビターを殺す秘密の手段で間違いないが、銃を自作できるなら工学系の知識も持ち合わせているかもしれない。
「ええっと、次はどっちが質問する番だったっけ?」
「おれはもういい、だいたいわかった」
「じゃあ最後に」眠らない女は小首をかしげた。「いつから来られる?」
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