登校

@kuroiinu2001

第1話

月曜日の朝、高校生のすることといえば、最寄り駅から学校に急ぐことだ。今朝は運悪く電車を一本逃し、あまり余裕がない。僕は跨線橋を滑るように降りると小さな商店街に入る。ここから校門までは九分、教室にかばんを置いて四分、安物のデジタル時計は朝礼まで二十分を指している。


本当は登校しなくてもよかったのだ。何しろ祖母の葬儀は土曜日で、学校では親族の忌引に三日間が認められていた。別に意地や義務感で登校しているわけではなかった。ただ、家に充満していた重苦しい空気に耐えられなかっただけだ。

 祖母は半年前まで、普通に生活していた。糖尿病や高血圧を抱えてはいたものの、日常の活動に支障はなかった。でも、突然始まったせん妄のために、すべてが変わってしまった。祖母自身だけではなくて、僕たち一家の生活までも。


 十六歳の高校生には、ヘビーすぎる経験だった。祖母の実の娘である母が主に看病の主役になった。母は看護婦で、夜勤をやめて毎日病院に通いはじめた。

 僕は部活動をやめなければならなかった。学校帰りに祖母と母の待つ病院に立ち寄り、母の弁当を届け、洗濯物を持ち帰る役目があったからだ。家に帰ると、残業をせずに帰宅した父が炊事をしている、そんな毎日になった。

 月に一回のドライブ旅行もなくなった。母はハンドル握ると、いつまでも飽きずに運転していて、近場のありとあらゆる名所を訪れたものだ。

 すべてが変わってしまった。家の中は疲労で暗く沈み、笑顔が消えた。父は冗談も言わなくなった。常に手動かしていなければ気の済まない母でさえ、家にいるときにはぼうっとテレビの前に座っていた。

 

 人の気も知らないで、商店街は素知らぬ顔でいつもの風景だ。

 客がいるのを見たことのない履物屋――学校指定の上履きがあるから四月だけ混み、あとはいじめられている子だけが常連の店だ――のシャッターはまだ閉じている。朝礼を諦めた女子が、ベーカリーに入っていく。スクーターで二人乗りをした生徒が緩やかに追い越していき、それをスーパーの店長がけげんそうに眺めている。コロッケが名物の肉屋は昼から開店する。


 この通りは、ずっと昔から代わり映えしていないそうだ。そう、祖母が挺身隊として通い詰め、今僕の母校になり、毎日を過ごしている校舎で働いていたときから。二回の空襲でこのあたりは焼けたそうだ。校庭の片隅には、鎮魂碑の隣に黒く焼け焦げ、機銃の跡がある石柱が残されている。


  廃屋――主がいなくなってしばらく経ち、外壁を覆う蔦によって緑化に成功した一軒家――を右に曲がれば、校門への一本道になる―はずだった。


 道の半分を工事の柵が囲んでいる。削岩機の大きな音が響き、やがて聴覚がその音にすっぽり覆われてしまった。道を曲がってしまえば不快な音も小さくなるだろう、そう思っていた。しかし、その刹那、僕は自分が跨線橋に戻っていることに気がついた。しかも、なんだか全体が古びている。時計を見ると、祖父の形見の自動巻きに変わっていた。時間も戻っていて、朝礼まではあと二十分ある。


 改札の前を再び横切ると、そこは手動になっていて、駅員がハサミを鳴らしていた。何かがおかしい。僕は急いで木製の階段を駆け下りる。


 祖母は様子がおかしくなってからすぐに入院した。何日も検査を行った結果、ある精神病にかかっていると診断された。僕たち親族の顔と名前は判別できるものの、その心はずっと戦中に生きていた。我が子である母を見ると、挺身隊の仕事は辛くないかと聞いていたし、父は戦地から休暇で一時的に前線から戻っているものだと信じていて、僕らもそれに合わせて会話をするしかなかった。何しろ、思い違いを否定したりすれば非国民だと罵り、大声で喚き散らすからだった。


 商店街は彩りにかけている。空気全体がくすんでいるのだ。履物屋には珍しく中年の女性が軒先に立ち、シャッターを開けようとしている。パン屋のガラスのケースの前で三編みの女子生徒が佇んでいた。八百屋の店主が、店先に大根を並べている。業務用自転車の二人乗りが、僕の隣をすり抜けていった。これは幻なのだろうか。まだ家のベッドで夢を見ているのかもしれない。


 先ほどと同じように、道半分を塞いで道路工事が行われていた。暑いアスファルトを未舗装の土の上に―そういえば、今たどってきた道は、土だった―それをならすスコップの音が鳴り響いていて、段々と大きくなる。


 祖母は入院してから、いつも誰かを探す素振りを見せていた。すでに鬼籍に入った顔見知りか、それとも迷い込んだ戦中の記憶の中に出てくる誰か――兵隊に取られて戻ってこなかった青年、空襲で命を失った知り合いなのかもしれない。

 ある日、見舞いに行ったときには僕にこう言った。

『寿ちゃん、寿子ちゃんは今日来ていないの? 元気でいるかしら』

 見舞いに来る親戚には寿子という名前の女性はいない。


 アスファルトの熱気が顔を覆い、目を閉じた刹那、再び僕は駅に戻されていた。今度は踏切を渡っている。随分と見晴らしが良く、学校の校舎まで見通せた。


 商店街の通りは随分ひなびている。そこへ、た、た、た、と重い音が聞こえてきた。釘を打ち付けている音に似ている。銀色の機体が頭上から、非常に速い速度で接近してくる。重い音は機銃で、うねりを上げているのはプロペラの音だ。路上の土が跳ねていた。確実に、狙われている。僕はジグザグに走り、八百屋の裏の空き地に駆け込む。そこは高い草むらで、なんとか戦闘機をやり過ごせそうだ。しゃがんで息を殺していると、旋回していたプロペラの音は上へと遠ざかっていった。


 日本はいつ戦場になったのだ? そもそも、ここは現代なのだろうか? 様々な考えが浮かび、交錯した。肉屋のあったはずのところでは、ゲートルを巻いた、国民服姿の男がいた。反り返るような背筋で、上空を睨みつけている。


 一体これは何なのだ? 左を見ても、そこには時計はない。立ち上がり、あたりを見渡す。校舎からは煙が高く上がっている。炎こそ見えないものの、火災が起こっているのは明らかだった。


 亡くなる前の祖母は怯えていた。すきを見ては起き上がって、ベッドの下に隠れた。見えない空襲から身を防いでいたのだ。ある日、僕が見舞いに行ったときに小声でこう言った。

『ひたすら走るんだよ、誰が呼び止めても』


 背後から熱気が迫ってくるのがわかる。なにか有毒なものが燃えている、嫌な匂いがする。雷が落ちたような音がしたので振り返ると、何かが直撃したいちょうの木が裂けて燃え上がっている。生木が、あんなふうに燃えるものなのか。


 僕は前を向き、走って逃げようとする。だが、どこへ? 煙を上げている校舎に向かってどうする? どこに行けばいいんだ? 誰かが僕の名前を読んだような気がする。だが、その声はすぐに燃焼音と多くの叫び声にかき消されてしまう。


『ひたすら走るんだよ、誰が呼び止めても』

祖母が僕にささやく。そうだ、僕はひたすら走らなくてはならない。炎から逃げるのだ。


 やはり、どこかしっかりした建物に逃げ込むしかない。だとしたら、やはり校舎しかないのではないか。曲がり角にある、大きな屋敷のあたりで地面に大きな穴が空いていた。テレビで見たことのある、防空頭巾やもんぺ姿の人たちが逃げ惑っていた。


 熱気が肺を焼いていく。早く、早く逃げ込まなくては。しっかりした石造りの校舎にいれば、生き延びられるかもしれない。


 屋敷を曲がったところで。ふっと、熱い手が僕の足首に触れる。タスケテ、とか細い声がする。だが、再び祖母がささやく。

『ひたすら走るんだよ、誰が呼び止めても』


 僕は走り続けなくてはいけない。逃げ延びて、早く家のベッドの上で目覚めなくては。僕は走り出す。再び、タスケテ、声が聞こえた。

 足がすくむ。怯んで、振り返らなくてはいけない衝動に駆られる。でも、逃げなくては。

 その時僕は思い出す。この声は、僕の祖母の声ではない。

『寿子さん?』

思わずそう尋ねる。振り返ってはいけない。早く逃げなければ。誰が呼び止めてもひたすら走らなくては。

祖母の声は続いている。

『ごめんねえ、置いてきてしまって。でも、そうしなければふたりとも死んでいた。あそこで立ち止まったりしたら、私まで焼け死んでいたに違いないわ』

タスケテ、ともう一度声がする。行かなくては。

『ひたすら走るんだよ、誰が呼び止めても』

でも、振り返らずにはいられない。振り返ったその瞬間、僕の視界は真っ赤に燃え上がった。

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