とある音声記録より
『
彼と初めて出会ったのは、通学に使っている電車の中でした。
正直当時のことはうっすらとしか覚えていません。
ただただ気分が悪くて、立っているのが精いっぱいな状態だったものですから、まわりに気を配る余裕さえなかったんです。
前の日、夜通しでゲームをやってて、完全に睡眠不足ですね……。
とにかく、別に普段は病弱とかではないんですけど、当時はそんな感じで、血の巡りが悪くて、ふらふらしてました。
視野も白く靄がかかっていって、立っているのがやっとで……あたしは「たすけて」と思いながら手を伸ばして、必死に何かを掴もうとしました。でもつかめなくて、誰も助けてくれなくて、地面が近くなって、ああ倒れると思いました。
そのとき、伸ばした手を掴んでくれた人がいました。
薄れゆく意識の中で、その人の顔を間近に見ました。
気分が悪くてそれどころじゃないのに、急に心臓が大きく跳ね上がったのは、良く覚えています。
彼、そのとき割と疲れた顔をしてたんですけど、その、瞳をカッと開いて、必死に何かを言ってるのが、なんだか健気で、印象深かったです。
そのあとすぐに気を失っちゃいましたけど……。
結局は救急車を呼びだすような状況になり、窮地を救ってくれたその誰かさんの姿は、もうその場から消えていました。
後日、同じ時間、同じ車両に乗ると、彼がいました。
きっとあたしが気づかなかっただけで、いつも同じ電車に乗ってたんでしょうね。
相変わらず、疲れた顔で窓の外を見ていました。
地下鉄を走る電車の窓の外なんて、真っ暗で何も見えやしないのに、いったい何が楽しいんだろうと思いながら見ていました。
それはちょっと、失礼だったかもしれませんね……。
とにかく、頻繁に彼を目にしました。
あたしに手を差し伸べてくれた彼です。
普段からまわりに気をまわしてる様子がうかがえました。杖をつくおばあさんを前に居眠りをしている男性。満員電車で、わざと女の人を押すような動作をする中年男性。彼はそのたびに、怒った表情を浮かべていました。
あたしの時のように何かするようなことはしませんでしたけど、なんだかそういう何もしない自分に苛立っているようにも見えました。
いつも決まった時間に決まった駅から車両に乗り込んできて、出入り口付近に立って、ガラス張りの小窓の外を眺めていました。
不思議なもので、そんな光景を何回か見ていると、やはり彼自身のことが気になりだしてきました。
そもそも恩人でもある人です。気にならない理由がりません。
何かお礼をしなきゃ、と考えるようになりました。
でも朝の忙しいタイミングで声をかけるわけにもいかず、悶々とした日々が続いていました。
一週間後くらい?
母にこのことを打ち明けて、相談しました。
母は何やら面白いものでも見つけた子供みたいに、ニヤニヤと笑っていました。
ネタにされそうで、すごい後悔しましたけど、でも母は結構イケてる父を射止めたその道のプロなので、話を聞くことにしました。
そんな母のアドバイスで、前にアルバイトをしたときに得たお金でお菓子を贈ることにしました。
住所や連絡先は、事前に駅員の方々から伺っていましたから、まずは荷物を住所に送りました。でもそれだけだとなんだか自分でも納得がいかず、急遽お電話を差し上げることを決めました。
直接会話するのはさすがに恥ずかしかったので、学校から帰ってすぐに電話を入れることにしました。
それなら、彼が不在の間に留守番電話の通知にメッセージを残せるんじゃないかと考えたからです。
我ながらこういうところには頭が回ります。
友だちにもよく気が利くと褒められますから、たぶん目の付け所が違うんだと思います。
とにかくそうしてお礼の品とお電話を差し上げて、一旦は満足しました。
ところがです。
その日のうちに件の殿方から折り返しのお電話がありました。
予想外です。
そのとき直接お話をするという機会に恵まれまして、あたしったら、とてもその、舞い上がってしまいました。
それで思わず、約束を取り付けたんです。
一緒にお食事でもどうですか? って。
元々思い込みが激しくて、これと決めたら積極的になる性格でした。
それからは、滑り台を降りるみたいに、急速に彼に惹かれていきました。
気の弱いところとか、そういう中でもあたしを助けていただいたという事実もあって、なんだか全部好ましく感じてしまって……。
ええ、ええ。一目ぼれみたいなものです。
恋ってそういうものだと思います。
恋をするって、理屈じゃないですから。
それで――
何度かお食事を一緒にしました。遊びにも連れて行ってもらいました。
別にやましいことは何もしてません。
清らかなお付き合いというやつです。
あたしは別にお利口というタイプの人間ではありませんでしたが、彼は結構、真面目でした。
「君に手を出したら人間として終わる……」などとたびたび口にしていましたから。
ええ、ですから、そういう犯罪行為みたいなことにはなりませんでした。
あたしは結構、誘惑っぽいことしましたけど。
それで一時は自分って実はあんまり魅力ない? とか悩んだものですが……まあ今思えば結果オーライですね。
あの人を留置場に送り込むことにならなくて良かったです。
結局卒業までは健全のお付き合いを続けて、卒業と同時に正式にわたしの方から告白しました。
彼はなかなかあたしの好意を信じてくれない人でしたから、だいぶ迷ってはいたみたいですけど、あたしはもう彼以外には考えられないという気持ちでしたから、何度もお願いをして――
最終的に彼はあたしを受け入れてくれて、晴れて恋人同士になりました。
大学に通いながら、彼との交際を続けました。
それで、一つ一つ二人の間ですべきことをこなしていって、スタンプカードにハンコを押すような感覚で、二人の関係を進展させていきました。
彼との結婚は、そういう意味ではスタンプの一つにしか過ぎないと思ってました。
そうやって幸せな家庭を得ました。
つい最近まで幸せな日々を送っていました。
彼の収入は慎ましいものだったし、彼との時間はあまり多くは取れませんでしたけど、でも、家に帰っておかえりと迎えるあたしに、とても幸せそうに「ただいま」って言い返してくれる人でした。
不満は、それなりにありました。
帰りが遅いのもそうだし、休日以外はあまり構ってくれません。
それでも、二人の時はたくさん甘えてきたし、甘えさせてくれました。
自分はそれなりに幸せだと感じていました。
それで十分だとも思っていました。
でも――
でも、ある日それが、長い夢から覚めるように、消えてしまったんです。
幸せな日々も、記憶も、彼のいない真っ新な、なんの味気のもない日々に無理やり置き換えられたんです。
今更そんなことって、ひどくないですか?
それとも先生は、まだあたしのことをおかしくなったっておっしゃいますか。
おかしいのは、あたしじゃないです。
あたしは確かに彼とお付き合いしていたんです。
一緒に幸せになろうって約束したんです。
君ならこの先いくらでも幸せを手に入れられる、ですって?
ちがう、違う、違うよ。
幸せを奪われたら、不幸なだけなんです。
取り戻さない限りは、不幸なままなんです。
先生もあたしを信じてくれないんですか?
』
音声記録以上。
患者には記憶障害と思われる後天的な精神疾患の傾向が見られます。
良識を持って患者の心身検査に努めてください。
またカウンセラーには守秘義務があります。
カウンセリングで知りえた情報を本人の同意なくして他の誰かに伝えてはいけません。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます