中学時代のぼく? 弐
水戸瀬と二人で図書室のデスクでノートや教科書を広げて、一緒に勉強をしていた。
来年の高校受験は、一緒に同じ地元の公立高校を受ける約束をしていたから、そのための勉強会だった。
中学生の恋愛。
最初はどう過ごすのが正解なのかよくわからなくて、彼女といるときはいつも緊張していた。
彼女は、ぼくのすぐ隣――肩がぶつかるぐらいの距離で体を寄せてくるので、なおさらドキドキした。
相手との距離が近いと、心臓の鼓動が激しくなって、手なんて触れたりすれば心臓が止まりそうになった。
まだ、恋愛っぽことをちゃんとしていた頃の話だ。
付き合って半年ほど経った。
何度かデートってやつも経験したし、一緒に登下校したり、お互いの家に遊びに行ったりもした。
でも、ぼくは、前ほど彼女と一緒にいる時間を楽しめていない。
「あ、ほらまた間違ってる」
参考書を覗き込むようにして、ぼくの回答を指摘してくれる。
彼女の髪が顔にかかって、良い匂いがした。
ちょっと前までは恥ずかしがっていたはずなのに、今はめまいと吐き気に襲われる。
「ちょっと疲れちゃった?」
「いや……」
「もう少しだけ頑張ったら、休憩しよ」
彼女は優しい顔で微笑んだ。
健気で、可愛らしい、ぼくには到底釣り合わない恋人。
だから彼女に対して不満に感じる部分なんてあるはずがなかった。
勉強はそつなくこなしてたし、先生からも慕われてたし――
「なにぼーっとしてるの?」
ぼくの頬を、水戸瀬が人差し指でつついた。
「一緒の高校、受けるんでしょ? さぼらないでよ」
水戸瀬秋沙は口をとがらせて言った。そんな仕草さえ、愛らしさが垣間見える。怒っているのだろうけど、ちっとも怖くない。
不満なんてあるはずがない。でも――
「もしかしてわたしと行きたくないの?」
水戸瀬の目は不安そうに揺れていた。
「いや、いきたいよ」
ぼくは即座に答えた。彼女の意向に背くなんて、そんなの身の程知らずだ。
きっと周りの連中はそう思うに違いなかった。
「でも、ちょっと嬉しくなさそう」
「そんなことないよ」
楽しいはずだ。笑ってるはずだ。
だって、彼女といるこの時間が唯一、心休まる時間なんだから。
だけど――ふと思った。
水戸瀬にはきっと、ぼくみたいに学校への不満や、明日への不安なんてないんだろうな、なんて。
だって彼女ならきっと、将来たいした悩みもせずそつなく生きていくに決まっているから。
そんな卑屈なことを、考えてしまう。
こんな気持ちでここにいるぼくが、恋人といえるのだろうか……?
「あれ? タケル」
「ん?」
水戸瀬は突然、驚いたように目を見開いた。
「その首、どうしたの? 痣になってない?」
そう指摘され、ぼくは自分の首を見ようと試みる。
「自分じゃ見えないんじゃない? ほら、鏡」
そう言って手鏡を渡してくれる。
「お、ありがと」
鏡を受け取りながら、ぼくは内心焦っていた。
自分の中の動揺を水戸瀬に気取られないようにと、必死で抑え込んでいた。
鏡には、耳の下から首回りの方に伸びている蚯蚓腫れが写っている。
原因はすでに察しがついていた。でもそれを、目の前の女の子に教えるつもりはなかった。
「あれ? なんだろ……なにかにひっかけたかなぁ」
「ちょっと大丈夫? 痛くない?」
水戸瀬は心配そうな目で傷の後を指でなぞった。ひやりと冷たい感触が、首筋に走る。
ここはドキドキしてしかるべきなのに、胃が縮むような緊張感に襲われる。
恋人なのに、彼女に触れられた瞬間、恐怖にすくんだ。
これは、恋人といえるのだろうか……?
「タケル?」
彼女に名前を呼ばれて向き直ると、水戸瀬の背後――本棚の向こうからこちらを覗く誰かの視線を感じたような気がした。
悲鳴を飲み込んで、ぼくは笑い返した。
「なんでもないよ」
「そう?」
水戸瀬とぼくが釣り合っていないのは自覚していた。
彼女なら運動部のエースとだって、イケメンの先輩とだって付き合えるのに、
ぼくなんか、友人と呼べるような同級生なんていないただのいじめられっ子だ。
少し嫌なことがあっただけで涙を流す、心に欠陥のある人間なんだ。
そんな奴を、どうして?
いじめは、水戸瀬にもバレないやり方で今も続いている。
物を隠されたり、すれ違いざまに殴られたり。
いじめだとは認めたくなかった。そういう奴らに屈して、登校拒否にもなりたくなかった。だから、毎日を必死に過ごしていた。
「大丈夫だよ。いいから勉強の続きしよう」
ぼくは水戸瀬に微笑む。ちゃんと、笑えてるだろうかと不安になる。
水戸瀬に打ち明ける?
そんな情けないことを白状するのは、死んでも嫌だった。
「……うん。がんばろうねっ」
彼女はぐっと両手をグーにして笑った。妙に楽しそうで、幸せそうで。
ぼくにだけ見せてくれる表情だった。
けどコールタールみたいに黒い感情に、彼女の笑顔はなすすべもなく飲み込まれていく。
この子と同じ高校に行くために勉強を頑張る。それがとても魅力的なはずなのに、同時に恐ろしく感じていた。
彼女は知らない。
ぼくが同級生の連中にどういう扱いを受けているか。地元の公立高校に行くということがぼくに何をもたらすのか。
きっと、同じ高校を受験する人が多くいるだろう。
ペンを持っていると、あいつらの顔が頭にちらついて、指先が震える。
恐怖を押し殺して、ペンを動かす。
水戸瀬には気づかれないように。
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