第4話 嫌で嫌でしょうがなくても
「で、どうするの?」
上司には人の心がない。
「はぁ……」
「はあじゃない。どうやって遅れをリカバリーするのか聞いてるんだよ!」
彼がしゃべるたびに、顔に飛沫が飛んでくる。
彼はたぶん、僕の遅刻が、会社にどれぐらいの損を出すのかしか考えていない。脳味噌の代わりに電卓でも入ってるんじゃないだろうか。
「何か言えよ」
上司の渡利は机を叩いた。周りのみんながその音に反応してこっちに視線を向けている。
団塊世代、痩せた体形に、染みだらけの顔、強烈なタバコの臭い。
時間は、男をたやすくおじさんにしてしまうんだ。世知辛い……。
「聞いてるの?」
「聞いてます、はい」
口の中で歯を食いしばりながら応えた。
泣きそうになる感情を、今の状況を達観することでごまかす。
長年の社会生活で編み出した僕のスキルの一つだ。
どうせなら目の前のこいつの顔をぶんなぐっても罪にならないスキルが欲しかった。
最近は彼のお小言を聞くのが、当たり前になっていた。
別に怒られたいわけじゃない。むしろ怒られないために頑張ることが、彼への意趣返しになるとさえ考えていた。
こいつにだけは僕を泣き虫だなんて呼ばせたくない、その一心だったのだ。
でも、今請け負っている案件は、僕にそんな余裕さえ与えてはくれない。
僕は当初、人手不足だったその案件に入ったただのメンバーの一人で、元々リーダーにあたる人間が別にいた。
しかしながらそのリーダーという奴がとんだ無能で、客の言いなりで実現できもしない無茶なスケジュールを了承してきたあげく、自分は体調不良を理由に次の日から休みはじめ、そのまま来なくなった。
配属してたった一か月で僕はリーダーに蔵上げされたわけだ。
しかし、そのまま現場に来なくなった前任からの引継ぎらしい引継ぎは無く、残されたのは低品質の設計書と、遅延だらけの工程表だけ。
そうやって、給料なんて変わりはしないのに、金にならない責任と役職を押し付けられた。
どうする、ではない。
僕には今この案件で何が起きているのかも把握していないのだ。
『僕にもよくわからないんですよ。前任の伊藤さんがお客さんとどんなネゴとったのかとかも、議事録がないんで一切不明です。こんな状態から何とかしようなんて、難しいんじゃないですかねー』
そんなセリフが脳内をかけめぐった。
『それを何とかするのがお前の仕事だろ!?』
という有難い返答まで織り込み済みだ。
「とにかく週末までに今の遅れを取り返せ」
紙の資料を顔に投げつけられ、渡利はぶつぶつなにか言いながら離れていった。
消費した貴重な時間は四〇分ほどなり。
彼を納得させるようなリカバリープランの資料作成と、チームメンバーへの作業の割り当て、進捗状況の確認、客先との会議に、状況報告。やることは山澄みだった。
床に散らばった資料を拾いながら、僕は考えていた。
死にたい、ここから消えていなくなりたい。
同時に頭には母さんの顔がまっさき浮かんでくる。
ひひ、と乾いた笑いが漏れた。それを聞いていた隣の席の社員が、訝しげに僕を見ていた。
*
「この会社って、女少ないっすよね」
後輩の野木孝雄は、昼休みに同行した中華屋の席で、たばこを吹かしながら言った。
「僕はタバコ吸わないんだが?」
「あ、すんません」
野木は慌てて吸殻を灰皿でもみ消す。懐からまたマイセンを出そうとして、僕は野木を睨んだ。
「冗談っすよ。そんなに睨まないでください」
「仕事ができるなら女でも男でもどっちでもいいよ」
さっきの話の続きのつもりで言葉を返すと、野木はげんなりした顔をする。
「女少ないうえに、可愛い子が全然いないのもいただけない」
「顔は関係なくないか?」
「可愛い子が同じオフィスにいたらそれだけでモチベーション上がりますって」
野木はキラキラした目で熱弁する。
二年目の、新人に毛が生えた程度の社員だが、行動や言動の一つ一つにまだ若さと力強さがにじみ出ていた。
去年、同じ案件のチームに入ってからは何かと交流の増えた後輩だ。前の案件も大炎上していて、当時一緒に苦労した野木とは妙な一体感が生まれていたんだと思う。
年齢は結構離れていたけど、野木の先輩にへつらわない態度というか、砕けた雰囲気は割と気に入っていた。
僕にとっては珍しく気の合う社員だった。
優秀かどうかは置いておいて、こいつとならクソみたいな上長のお小言に耳を貸すよりは有意義な時間がすごせた。
傍で彼のバカな姿を眺める分には、ささやかながら元気も貰える。
「六条さん、なんでこの前の合コン途中で帰っちゃったんですか?」
ただし、そんな野木の誘いに乗って合同コンパなんていう苦痛しかない催しに参加したのは、心の底から後悔している。
「野木、僕があの場にどういう感情でいたか想像つくか?」
「感情? なんすか?」
「虚無だよ」
僕は強い口調で言った。
「誰からも相手にされてなかっただろ。年長だったし、悪目立ちしてた。虚無だよ」
まあ今思うと周りの盛り立て役にはなっていたかもしれない。あの場ではきっと他のどの男も、僕よりはましだと思われてただろうし。
「だからって俺を置いて帰らなくてもいいじゃないですか」
「あの場にいたら二次会に連れて行かれかねなかったからね……」
「俺だってすぐ帰りましたよ。どいつもこいつも外れでしたしね」
外れ、そう口にした野木の表情は自信と余裕に満ち溢れている。
「結構綺麗な人いたと思ったけど」
「あんなの顔だけでどれも似たような感じっすよ」
さっきの可愛い子がいたらモチベーション云々の話はなんだったんだ?
いや、この後輩の言ってることを真面目に考えるのは無駄だ。野木って男はいつも勢いで生きてて、自由気ままなんだ。
僕みたいなモテない陰キャとは根本的に何かが違う。
「六条さん、彼女とかいないんすよね?」
言われて、口を噤んだ。
「いないよ。いたらコンパになんか参加するかよ」
いないどころか、まともに女性とお付き合いしたこともない。
「へぇ、数合わせで来てくれてるだけかと思ったら意外ですね。いそうなのに」
「お前に言われても嬉しくもなんともないなぁ……」
いそう、なんてフォロー誰でも言える。社交辞令なんて聞きたくもない。
恋人がいないことについては、自分でもやばいなと気にしているくらいだ。
顔に出ないようにしているだけだ。
今しがた野木に潰された吸殻を見た。消し炭になったそれらが、まるで今の僕を象徴しているようで、虚しい気持ちになる。
僕は残りかすだ。
誰にも相手にされない、ただ男という形を持っているだけの残りかす……。
やばい、また泣きそう。
「もしかして六条さんって、年齢イコール彼女いない歴じゃないですよね?」
こいつ、なかなか強烈な質問を、何食わぬ顔でしてくる。
だが待ってほしい。その問いには僕も反論できる。
「生憎中学時代に一度だけつきあったことがある」
「えー! それはそれで、別の意味で速いですね! 中学って言えばまだどいつもこいつもガキじゃないですか。え? でも一度だけ? 最近まで付き合ってたとかですか?」
よく動く口だ……。
「いや、一週間でフラれた」
「……」
野木の視線が、憐れむような色に変わる。
まあそういう反応になるよな、と思う。
中学時代に一度だけ、彼女がいたことがあった。ただ恋人関係というには、あまりにも短すぎた……。デートも一度だけで、賞味一週間で自然崩壊した。
その当時付き合っていた女が原因かは定かじゃないが、それきりずっと恋人はいない。
その女を失ったことで、恋に関するツキってのがたぶん全部なくなった。
それぐらい、衝撃的な出来事だったんだと思う。
「はあ、ほんと嫌になりますね……人生」
「急になんだよ……」
野木の溜息に、なんだか
本当は野木のため息の意味が分かってた。ふとした瞬間になにもかも投げ出したくなることがある。会社なんてやめてやりたいって。
でも僕はここに長くいすぎた。
二年の新人に付き合って全部投げ出せてしまうほど、もう若くはないんだ。
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