タイムパラドクス エンゲージメント
京路
5分後の君へ
単に先読みするという意味ではなく、文字通り5分後の出来事を見ることができる。
正確には、見えてしまう、というべきかもしれないが。
彼女と出会ったのは、大学生の時。雨上がりの交差点で信号待ちをしているときだ。
「あなた、車に泥をはねられますよ」
白杖を持った女性にそう声をかけられた。
黒いロングスカートにカーディガン、長い黒髪の美人。同い年くらいだろう。顔はこちらを向いているが、視線の向きに違和感。目が不自由なのだろうか。
「僕ですか?」
「そう。白いジャケットのあなたです」
目が見えなそうなのに、色を言い当てている。
「えっと、泥をはねられるって、これからですか?」
「そうです。正確には2分43秒後に」
「もしかして占い師さん?」
首を振る。
「――多分信じないと思うので別にいいですけど、私は5分後だけが見えるんです」
とんでもないことを言い出した。
「さっき――もう2分30秒前ですが――車にはねられた泥でそのジャケットをひどく汚される様子を見ました。なんだか大事そうだったので、一応、お伝えしようと思っただけです」
「えっと、予言、ってこと?」
「正確には予見ですね。見えるだけなので」
言葉を選んで、答える。
「それって、本当なら、すごくないですか?」
「すごいです」
淡々と返してきた。小さなため息混じりに付け加える。
「……すごく、困ります」
その様子に、嘘や霊感商法的なものは感じなかった。
「ありがとう。これ、死んだばーちゃんが買ってくれたのだから。気を付ける」
「多分、無理です」
機械のように冷たく断言した。
「私は、先を見ることしかできない。つまり、変えることも避けることもできないんです。あなたのジャケットは、確実に、あと52秒で泥をかぶります」
「おお」
そこまで言い切られると、かえってやる気も出てくる。
僕はジャケットを脱いで、丸めてシャツの中に入れる。
さらに車道から目いっぱい離れてみた。
「これならどうやっても――」
と、ものすごい音を立てたダンプカーが交差点を突っ切っていった。
その瞬間、水たまりの泥水が視界いっぱいにはね上げられた。
「なっ」
逃げる間もない。頭から泥水が降り注ぎ、隙間からシャツの中に滑り込んでくる。
慌てて取り出してみると、見事に泥だらけ。白地にタールが染みて、クリーニングで落ちるかもわからない。
膝から崩れ落ちそうになる。僕が進学に合わせて一人暮らしするのに、ばーちゃんが買ってくれたものだ。それからすぐ形見になってしまった。
すべて彼女の言ったとおりだ。
見ると、彼女のほうも泥まみれだった。
「それじゃ」
そのまま立ち去ろうとするので、慌てて呼び止めた。
「待ってよ、君も濡れちゃってるじゃないか」
「ええ。多分、無理に回避しようとしたから、反動が大きくなったんですね。だから、なるべく見たことには逆らわないようにしてるんです」
「じゃあ、なんで僕に教えてくれたの」
「それは――」
少し言いよどんでから、答える。
「あまりにも悲しそうだったので。余計なお世話だったかもしれませんけど」
「そんなことない! むしろ感謝したい」
何も知らないで泥をかぶるより、一応心構えと、抵抗する機会を与えられたほうが、納得感がある。
「ていうか、僕に言わなければ、君まで汚れなかったんじゃ?」
「別にいいんです。そんなことは」
あきらめきったような薄い笑み。
なんとなく、放っておけない感じがした。
「よかったら、うちに来ない? 僕のせいみたいなもんだし。恩人にはお返ししなければいけないって、ばーちゃんも言ってたんだ」
言ってから安いナンパみたいだなと思ったけど、彼女は、少し考えた後にうなずいた。
「どうやら、5分後の私はついていってるようなので」
それから3年。
いろいろあって、彼女――早見美景と僕は付き合うことになった。
僕も社会人になって、いっぱしの給料をもらえる身分になった。
この日の夜も、美景が気になっていたアクション映画を見た帰りだった。
映画は彼女の少ない趣味のひとつだ。いつもは家で、音声だけ5分遅れに編集して、視覚と聴覚を一致させたりしているのだが、大画面で見れる映画館にもたびたび行っている。洋画なら字幕で話はわかるし、アクション大作なら後半は大体が銃声と爆発音だから意外と違和感なく楽しめるようだ。
「やっぱりアクションは火薬の量ね」
すぐ横で美景が神妙につぶやいた。いつものように涼しげな表情のようだが、口元がわずかに緩んでいる。それは、表情の変化が少ない彼女にとっての最大限の感情表現――つまり、かなり満足そうである。
ちなみに彼女とは腕を組んでいる。別にいちゃついているのではなくて、現在の視野を持たない彼女への配慮だ。腕を組むのに理由があるのは、付き合い始めの時は助かった。
と、彼女の口元に食べかすを見つけた。映画館のキャラメルシロップチョコチップ大納言小豆ポップコーンという暴虐なまでの糖質を空にした、その名残だろう。こう見えて、甘いものには目がない。
ちょっとしたイタズラ心がうずいた。
彼女の視界に入らないように、真下から素早く食べかすを取り去る。
はっとして美景がこちらを見上げるが、かすは見えないように手の中に隠す。
「ほっぺについてた。ポップコーン」
「――――っ」
まばたき。目をぐるぐるさせて、頬はどんどん染まっていく。
心の中でガッツポーズを決める。未来視する美景になかなかサプライズは成功しない。ただ、ひとたび成功すれば、驚く様子はめっちゃかわいい。
「もう、普通に言ってよ」
「ごめんごめん。ついね」
「ちなみに日進くん、3分後に犬のふんを踏むから」
「え、うそ?」
「さて、どうですかね」
すねられた。それもまたかわいいが、今回はちょっと困る。腹いせで偽予知を言っただけならいいけど――。
懐の箱を確認する。
多分、人生最大のサプライズ。
犬のふんは気になるが、決行する。
「ねえ。この場所、覚えてる?」
「このって――この交差点?」
予定では、5分後も同じ場所にいるはず。
「もしかして、私たちが最初に出会ったところ?」
「そう。ここで声をかけてもらえた。結局ジャケットの染みは落ちなかったけど、今となってはよかったと思う。美景と出会えたから」
「な、なに? 改まって」
彼女の死角で、スマホのタイマーのスイッチを作動させる。
5分後に振動する。
それと同時に懐のものを出すことを、決意。
そして今、精一杯の決意と勇気で、発する。
「結婚しよう」
「え?」
美景の視線が、僕と合う。
5分の時を超えて、今の僕と。
「な、なんで――うそ――」
戸惑う声。
大きな瞳が震えて、涙があふれてくる。
彼女の手が、それを受取ろうとして――
停まる。
「ごめんなさい」
悲壮な声で、拒絶。
「受け取れない」
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