第20話
「……ただいま」
「あ、おかえり!」
僕が帰ってきて部屋に入ると、真白さんがぴょんとベッドの上で身体を起こした。
「あれ? 今日早いね?」
「ああ、うん。いつもより学校が早く終わったからさ」
「ふーん、そうなんだ?」
通学鞄を机に置いて、少し考えた。
……さて、どう切り出そうか。
そう考えていると、
「ねえ、ソータくん。もしかして……何かあった?」
と、彼女のほうから訊いてきた。
「え? どうして?」
「いや、何か深刻そうな顔してるからさ」
「……そんな顔してる?」
「うん。だって、ソータくんすぐ顔に出るもの」
真白さんは笑ってから、僕に優しげな視線を向けてきた。
「何があったの?」
「……」
僕は腹をくくった。
「ねえ、真白さん。その、率直に聞きたいんだけど……真白さんが元の身体に戻ることって――できるの?」
「……」
真白さんはすぐには答えなかった。
それは分からない――と、彼女がそう答える可能性もあった。そもそも、今がどういう状態なのか、彼女自身それを把握していないのだから。
でも、真白さんの顔は……まるで、この瞬間を予見していたように見えた。
「できるよ」
答えは、本当にあっさりと返ってきた。
「……え? で、できるの?」
「うん。できるんだと思う。実際にやってみないと分からないけど……でも少なくとも、できるとは言われたから」
「言われた? 誰に?」
「うーん……あれは何だろうなあ。天使、って言えばいいのかな」
「て、天使?」
突拍子もない言葉が出てきたけど、真白さんにふざけている様子はなかった。
「ほら、前に言ったでしょ? わたし、一度だけ天国まで行ったって。そこで会った人がね、わたしにこう言ったの。『君はまだ戻れるから、早く戻りなさい』って」
「……そうなの?」
「うん。その人、背中に羽根生えてたんだ。だからたぶんいわゆる天使ってやつなんじゃないかとは思うけど……すごく丁寧な人でね、色々親切に教えてくれたんだ。だから、わたしはどうすれば元に戻ることができるのか……知識としてはそれを知ってるよ」
僕はちょっと困惑した。
答えがあっさり返ってきたこともそうだけど……それじゃあつまり、真白さんはその方法を知っていた上でずっと戻らなかったということだ。
なぜ?
なぜ、彼女は戻らなかった?
「……その、どうして真白さんはすぐに戻らなかったの? その時にちゃんと戻っていれば、幽霊になったまま彷徨う必要だって――」
「戻りたくなかったの」
真白さんはきっぱりと言った。
声にはっきりとした拒絶があった。
僕は少し、息を呑んでしまった。
真白さんが口元に
「……それにさ、お父さんだってわたしなんていないほうがいいって思ってるよ。まぁしょうがないよね。昔から生意気ばっかり言って、喧嘩ばっかりしてたから。それにお兄ちゃんにだって迷惑ばっかかけてたし……わたしは、あの家にいないほうがいいんだよ。わたしなんていても迷惑なだけだからさ」
真白さんの言葉は、まるで自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
強がっている――とも言えるだろうか。
でも、僕には彼女がどうしても……泣いているように見えた。
雪が降り積もった世界が見えた。
そこで泣いている女の子。
永遠に閉ざされた、終わりのない冬の世界。
女の子がどれだけ泣いても、その声が誰かに届くことはない。
振り続ける雪が全てを食べて、奪い去っていく。
声も、熱も、何もかも
僕には、どうしてもあの女の子と真白さんの姿が重なって見えた。
……いや、あの子は真白さんだ。
いま、唐突にはっきりとそう思った。
あの子は真白さんなのだ。
……ダメだ。
そんなところにいてはダメだ。
彼女を〝あの世界〟から引っ張り出さなくては。
強くそう思った。
「真白さん、実は――今日、真白さんのお父さんに会ったんだ」
「え?」
真白さんが驚いたように顔を上げた。
「さっきは早く終わったなんて嘘ついたけど……実は学校サボったんだ」
「ど、どうして……?」
「真白さん、率直に言うよ。もしちゃんと、本当の意味で目覚めることができるのなら――君はそうすべきだ。このまま、ここにいちゃいけない」
「……ソータくん」
真白さんはショックを受けたような顔をした。
でも、僕は続けた。
「もちろん、僕だって真白さんと一緒にいたい。でも、やっぱりこのままじゃダメだ」
「……」
「真白さんのお父さん、すごく後悔してたんだ。真白さんに謝りたいって。真白さんが事故に遭ったのは、全部自分のせいだって。お父さんは真白さんのことを嫌ってなんていないよ。それはお互い様っていうか……すれ違いなんだよ、きっと。お互いに嫌われてると思ってるだけなんだ。だから――」
「――やめて。聞きたくない」
突然、真白さんが強い口調で言った。
僕は思わず口を噤んでしまった。
「ま、
「……謝りたい? お父さんが? わたしに?」
真白さんは笑っていた。
……それは今まで見たことのない笑みだった。真白さんが、真白さんじゃないみたいだった。
「そんなの嘘よ。絶対嘘。お父さんはわたしのことなんて、何とも思ってない。どうでもいいって思ってる。わたしに口出しするのは、ただ世間体が気になるから。それだけだよ」
「ち、違うよ。お父さんは本当に後悔して――」
「……遅いのよ」
「え?」
顔を上げると、真白さんが泣いていた。
ぼろぼろ泣きながら、笑っていた。
「今さらそんなこと言われてもさ……遅すぎるのよ。わたしに謝ってどうするのよ。あの時、お母さんがどれだけお父さんが来るのを待ってたか……お母さんがどれだけ苦しんで死んだか! なのに、お父さんは来てくれなかった……わたしはどうしてもそれが許せなかった。それを思い出すと、自分でも分かんないくらい、すごく心が
「……
「ねえ、ソータくん。さっき、わたし戻れるって言ったよね?」
真白さんは涙を拭った。
その顔には諦めのような表情が浮かんでいた。
「確かに最初の内なら戻るっていう言い方もできたのかもね。でも……いまの〝わたし〟にとっては、もう戻るっていう言い方は正しくないの。戻るというよりは――返すって言うべきなのかな、この場合は」
「……え? ど、どういうこと?」
彼女の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
彼女は続けた。
「多分、ソータくんは〝わたし〟が自分の身体に戻ればそれでいいって思ってるんだろうけど……そうじゃないの。厳密なことを言えば、すでに〝わたし〟と眠っている本物の令月真白――〝あの子〟は別の存在なのよ」
「……別の存在?」
「そう、別の存在。本当なら起こるはずのなかったことが起きて――〝わたし〟と〝あの子〟は別々の存在になってしまったの。だからもう戻るっていう言い方は正しくないの」
「……」
……なんだ?
真白さんはいったい何を言おうとしているんだ?
起こるはずのなかったこと?
それはつまり――
「〝あの子〟の時間は事故の直前で今も止まったまま動いてない。ずっと眠ったまま。だから本当なら〝わたし〟だって時間は止まったままのはずだった。だって〝わたし〟は誰にも見えないし、声も届かない存在なんだから。でも……〝わたし〟の時間だけが動き始めてしまった。〝あの子〟を置き去りにしたまま」
「……」
「〝あの子〟から離れて一人歩きし始めてしまった時点で〝わたし〟はもう違う真白になっちゃったんだよ。でも、魂と呼ばれるものは一つしかない。だからいまはもう――戻るというよりは〝わたし〟が持っている魂を〝あの子〟に返すって言ったほうがいいのかな。それが、本物の令月真白が目覚める条件」
「……ちょ、ちょっと待って。それじゃあ――そうしたら今ここにいる〝君〟はどうなるの?」
「消える。消えてなくなる――ただ、それだけ」
「え――?」
揺れた。
視界が、足元が、全部揺れた。
僕は自分が立っているのか座っているのかさえ分からなくなった。
「もちろん、目を覚ました〝あの子〟は〝わたし〟が見てきたものなんて、何も覚えてない。というより、そもそも知らない。だって事故の直前で時間が止まってるんだもの。だから〝わたし〟が消えるってことは――全部消えてなくなっちゃうってことなんだよ。ソータくんとの思い出は、全部。そして〝あの子〟は何も知らないまま目を覚ます。そういうことになるんだよ」
「そ、そんな……」
「まあ、当然だよね。だって、〝わたし〟はそもそも存在しないはずのモノなんだから。〝わたし〟が消えなきゃ、帳尻が合わなくなる。だいたい、こうやって〝わたし〟とソータくんが話してること自体、本当はあり得ないことなんだから。そう、あり得ない。本来、あってはならないこと。そう考えたら……まぁ、そうなるのもしょうがないよね?」
「……」
何も言葉が出てこなかった。
理解しようとするのを頭が拒否していた。
もし、それが正しいのなら。
彼女の言うことが真実だとすれば。
僕は今、彼女に『消えろ』と言ったも同然なんじゃないのか――?
「ごめんね、ソータくん」
ハッと顔を上げた。
彼女は、また泣いていた。
「わたし、いま意地悪なこと言ったよね。ごめんね。でも、ソータくんの言うことは何も間違ってない。わたしもずっと、このままじゃダメだって思ってたの。でも、どうしても戻る勇気がわたしにはなかった。だからソータくんに
「ま、真白さん、違う! 君は誰にも迷惑なんて……!」
焦りが僕を突き動かした。
とっさに手を伸ばした。
でも――
「ばいばい、さようなら」
消えた。
僕の手が届く前に、真白さんは――目の前から、完全に消えてしまった。
「――え? ま、
部屋が静かになった。
僕一人だけだった。
まるで、最初から誰もいなかったみたいだった。
「……そんな」
思わずその場にへたりこんでしまった。
――その日、〝彼女〟は僕の前から消えた。
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