第19話 教師

 あたしは現在、オキュバ伯爵夫人ブランディーヌ・ソーダクライト、通称マダムの授業を受けている。ジャスパーグリーンの瞳にシルバーの髪の女性で、厳しいお母様とは違って朗らかで優しい先生だ。

 マダムは早くに旦那さんを亡くしていて、あたしがラプソンにいる間、住み込みで家庭教師をしてくれている。ヘリオストロープへ行っているオフシーズン、マダムは領地へ帰る貴族夫人の交代要員として宮廷で女官をしているそうだ。


「この様に、建国以前から封臣だった貴族をオートクラトゥ、建国以降に王家の支配下に置かれる事になった貴族をフェブルクラトゥと呼びます。今日はここまでにしましょうか」

「はい。ありがとうございました」


 実に和やかに歴史の授業が終わると、アメリーが見計らった様にお茶とお菓子を出してくれた。


 マダムは、算数、読み書き、歴史、宗教、刺繍やレース編みなど色々教えてくれている。エメリック兄様とジスラン兄様には分野ごとに何人も先生がいるので、1人で全部教えられるというのはすごい事だ。

 楽器の演奏までも教えてくれていたのだけど、そちらはフィルがちょいちょい遊びに来てくれる事で度々お休みとなっていた。というか、そもそもセンスが無さ過ぎる上に練習量が減った事でさらに上達しなくなった為、免除となった。また、算数が簡単過ぎてこちらは卒業した。その為、最近はマダムの手の空く時間が多く、ユーゴの教育に充ててもらっている。


「ユーゴの様子はどうですか?」

「読み書きはもう問題ないですよ。計算は苦手な様ですね」


 通常、家庭教師は子供が学園に入る前に必要なくなるので、解雇となってしまう。知識が豊富で人柄の良いマダムなら次の勤め先には困らないだろうけど、できればずっといて欲しいので、ユーゴの教育を引き受けてくれて良かった。平民に指導するなんて嫌だという貴族は多いのだ。


 ただ、まだ30代のマダムがこのまま独身でいるのはもったいないので再婚したらいいのになとは思う。

 あと……マダムに幸せになって欲しいというのは勿論なんだけど、実は先日、お母様のサロンで、住み込みの家庭教師がそこの主人と深い関係なのだという話を聞いてしまったのだ。しかも結構よくある話らしい。お父様に限ってその様な事はないと……思うけど……


 でも考え出すと止まらない。あたし達がヘリオストロープへ行っている期間は宮廷にいるというのは本当なのだろうか。だってあたしがここを出る時はマダムはまだ邸にいるし、帰って来たらもう邸に戻っているのだ。もし宮廷で女官をしていないのだとすると、夏の間中この邸でお父様と一緒という事で……

 だとすれば、お母様はそれを黙認しているという事になる。お母様が良いならあたしが口出しする道理はなく、お父様もまだ若いから仕方ないと理解はしている。

 けれど感情はまた別物で、お父様に対してもマダムに対しても、裏切られた様な残念な気持ちが湧いてしまうのだ。それにいくらよくある話とはいえ、妻子のいる家に愛人を囲っているお父様ってどうかと思うし、大好きなマダムでも父の愛人かと思うと気まずい。


 そんなこんなで、マダムを引き留めたりせずに早いところ全教科卒業した方がいいのかなと考える様になってしまった。いやでも考え過ぎ……よね?

 う~ん……

 そうだ、フィルに聞けばいいんだ! 宮廷でマダムを見た事があるって言ってもらえたら杞憂だと分かる。


「マダム、今度フィルと一緒に授業を受けてもいいですか?」

「まぁどうして?」

「マダムのお話はとても分かりやすいのでフィルの為にもなると思うんです」

「殿下には一流の先生が付いていらっしゃるでしょうから、私なんて足元にも及びませんよ」

「それが、そうでもないみたいなんです」

「そんなこと仰っては駄目ですよ」


 あたしを窘めたマダムは困った様に笑って、手に持っていたカップを口に運ぶ。


「明日の午前中は刺繍をやりましょうか。殿下にプレゼントして差し上げたらきっとお喜びになりますよ」


 いや、いっそフィルに刺繍を教えてあげてくれないだろうか。そっちの方が喜びそうな気がする。でも王子が刺繍っていうのは言っていいものかどうか悩む。女装よりは衝撃は少ないだろうけど。

 ……ってあれ? 話を逸らされた?



 その日の午後、遊びに来たフィルの着せ替えを終え、メイクを施す。


「ねぇフィル、宮廷女官のオキュバ伯爵夫人って知ってる?」

「しらない」


 あたしにアイシャドーを塗られている最中のフィルはそう答えた。

 目を瞑っているせいなのか若干カタコトなのが可愛い。


「ブランディーヌ・ソーダクライトなら分かる?」

「ううん」

 

 フィルは首を横に振りそうになり、ハッとした様子で不動の姿勢を保つ。


「どこの人?」

「どこだろう……」


 そう言えば宮廷女官としか知らないわ……


「できた。動いていいよ」


 ふうと小さく息を吐いたフィルは手鏡を手に取り、相好を崩した。

 どうやらお気に召した様だ。


「女官はいっぱいいるからなぁ」

「だよねぇ。じゃあ顔を見たら分かる?」

「全員の顔は分からない」


 あたしは、うちの邸は勿論お爺様のお城の使用人だって400人くらい全員、見れば顔くらいは分かるけど、王城となるとそれ以上だから把握しきれないのも無理ないか。入れ替えも頻繁だし女官だけでも相当な数だろうからねぇ。


 結局、何の手掛かりも得られなかった。



 翌日、刺繍をしながらマダムに聞いてみる。


「マダムは宮廷ではどんなお仕事をしているんですか?」

「色々ですよ」

「例えば?」

「お掃除やお洗濯もしますし、配膳やお茶汲みもしますし……」


 なんだそのユーティリティプレイヤー。しかも掃除や洗濯って下級使用人の仕事だ。てっきり管理職みたいなのを想像していたんですけど……


「あの、マダムの能力を正しく評価されていないのではないでしょうか」

「まあ嬉しいわ。でも夏の間はどこも人手が足りなくてお手伝いが必要なんですよ」

「そうですか……」


 そうなんですか……?



 やっぱり納得いかないし気になって仕方ないので、数日後、遊びに来たフィルにこっそり見てもらう事にした。


「今ね、ユーゴがオキュバ伯爵夫人に勉強を教わってるの。それをちょっと見てみてくれる?」

「このあいだ言ってたやつ?」

「うん」

「いいよ」


 フィルを連れて、マダムがユーゴに授業をしている、使用人用のフロアである地下を目指す。

 部屋の前に到着し、音を立てない様そっとドアノブに手を掛けると……


「キャロル?」


 お母様に声を掛けられて、反射的にビクッと飛び上がった。

 ドアノブから手を放し後ろを振り返ると、腕を組んだお母様があたし達を見下ろしている。


「何をしているの? ユーゴの勉強の邪魔をしては駄目よ」

「私達も混ぜてもらおうかと思いまして……」


 覗き見しようとしていたとは言えず、苦し紛れにそう答えた。


「必要ないでしょ。暇ならダンスの練習でもしなさい。殿下、付き合ってあげて頂けますか?」

「はい」


 良い子のフィルは素直に頷いたけど……あんた、後悔するわよ。


 そうしてあたし達は1階の舞踏室に連れて来られてしまった。

 お母様の監視……もとい、指導の元、フィルとダンスを踊る。


「1、2、3、1、2、3、キャロル肩が上がってる!」

「はい」

「1、2、3、1、2、3、姿勢が悪い! 下を向かない!」

「はい!」

「1、2、3、1、2」

「あっごめん」

「3……」


 5回目にフィルの足を踏んだところでようやく解放された。


「殿下、ごめんなさいね。今日はここまでにしましょう」

「はいっ」

「ありがとうございました……」


 2人であたしの部屋に避難する。


「えらい目に遭ったね……」

「怖かったね……」


 フィルはお母様の指導の厳しさにびびっている。

 でも怒られたのはあたしだけだし、今日はフィルがいるから随分マシな方だ。


「フィルは上手だったよ。あ、足大丈夫?」

「うん、平気だよ」


 お茶を飲んで少し休んだ後、フィルは帰って行った。



 お母様と2人で夕食を終え、食後のデザートを食べていると、何気ない様子で尋ねられた。


「それで、今日は殿下と何をしようとしていたの?」


 あのタイミングで普段地下に行かないお母様が現れたのはどう考えても不自然だし、いつもはあたしとフィルが何をして遊んでいるかなんて気にもしないのにこんなこと聞いてくるのも変。やっぱりフィルにマダムを見せてはいけないんだわ。


「フィルにマダムを紹介しようと思ったんです」

「どうして?」


 お父様の愛人ではないという証拠が欲しかったからなんて言えない……


「フィルにマダムを紹介しては駄目なんですか?」


 必殺、質問に質問返し!

 なんかもう黒っぽいし、お父様の愛人ならそれでも構わないから事実が知りたい。フィルにも勉強を教えてもらうという方向で話を進められないかしら。


「マダムにはキャロルの家庭教師として来て頂いているのだから、ユーゴの指導をして頂けるだけでもありがたい事なのよ? 殿下のお相手まで求めるべきではないわ」


 くそ、先に釘を刺されてしまった。あたしが雇い入れたユーゴの事を持ち出されると言い返せない。

 でもマダムはお茶会へ行く訳でもないし、空き時間が多い。あたしだったら暇を持て余す方がしんどいわ。それに別に遊んでもらおうとしている訳ではない。


「ちょっとご挨拶するだけですよ?」

「駄目です」

「ご挨拶が駄目なんてお母様らしくありません」


 お母様、子供を説得するのに挨拶が駄目はないでしょ……しかもお母様は普段挨拶に厳しい人なのに。

 こんな説得力のない説明で納得すると思わないで頂きたい。ちょっと意地になってしまっているのは自分でも分かっているけど、もう少しきちんとした理由をください。

 するとお母様は軽く溜息をついた後、意を決した様に真剣な表情で口を開いた。


「……これから言う事は誰にも言わないって約束できる?」


 え⁉ 言うの!?


「はい……」


 ちょ、待って待って、心の準備が!


「全員下がって頂戴」


 内心動揺しまくるあたしを余所に、お母様は使用人達がダイニングルームを出て行くのを待つ。

 あたしは唾液を飲み込み、小さく喉が鳴った。


「マダムにはね、宮廷で密偵をやってもらっているの」

「……へ?」


 予想外過ぎる事実に脳が思考を停止した。


「マダムは我が家ではない別の家の家庭教師という事になっているから、殿下と顔を合わせる訳にいかないのよ」


 女官の方が本当で、あたしの家庭教師の方が嘘だったの!?


「何の為に……ですか?」

「あなたの為よ。とにかく、そういう事だから殿下にマダムを紹介してはいけません。お父様にも言っては駄目よ。いいですね?」

「え、お父様は知らないんですか?」

「事情があるのよ……」


 悲し気に目を伏せられてしまって、何だかこれ以上踏み込む事ができない。

 その雰囲気は反則でしょ……怒られる方がマシだわ。



 う~ん、納得がいかない。マダムが夏の間ちゃんと宮廷で働いているならお父様の愛人である可能性は低いけど、あたしの為に密偵……? お父様に内緒?? 余計気になる。お母様が教えてくれないならマダム本人に聞くしかないわ。

 翌日、マダムとの授業が終わった後、人払いをしてお茶を飲みながら切り出した。


「マダムはお母様に密偵をさせられているんですか?」


 マダムは一瞬目を見張って、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。


「させられているだなんて滅相もないです。奥様への恩に報いる為に、夏は宮廷で働きたいと私から申し出たのです」

「恩?」

「まずは私の事をお話ししましょうか。私の本当の名前はアリス・フローライトと申します」


 まさかの偽名だった!


「奥様とはご結婚される前からの知り合いで、主人が亡くなった後、お嬢様の家庭教師として雇って頂きました」


 そう。マダムはカロリーヌが物心つく頃にはもう家庭教師として邸にいた。だからどうにも腑に落ちない事がある。お母様はあたしの為に密偵をやってくれていると言っていたけど、それが必要だとしたらフィルと婚約したせいだろう。でもフィルと婚約したのは9歳の時。なのに、それ以前にもマダムと一緒に夏を過ごした記憶がないのだ。


「夏の間はこれまでもずっと宮廷にいらっしゃったんですか?」


 なんか尋問しているみたいで嫌だわ……


「いえ、お嬢様が殿下と婚約される前は神殿で祈りを捧げて過ごしておりました」


 祈り?

 首を傾げるあたしに、マダムは悲哀の漂う微笑みで言い足す。


「亡くなった主人の弔いです」


 これは……たぶん今でも旦那さんの事を想っているんだろう。こんな顔で亡くなった旦那さんの話をするマダムが、お父様の愛人であるとは思えない。


「ごめんなさい……」


 愛人だなんて疑って。

 

「いいえ。私は主人が亡くなった後、修道院で余生を送るつもりでいたのです」


 うっかり謝罪が声に出てしまって焦ったものの、マダムは『あなたにとってつらい事を聞いてしまってごめんなさい』という意味で捉えてくれた様でほっとした。

 けれど訳の分からない事を言い出した。いくら愛する旦那さんを亡くしたからって自ら修道院に幽閉されに行くなんて、殺人未遂の罰でそうなるかも知れない身としては到底理解できない。


「なぜですか!?」

「私の主人、イヴェット伯爵は冤罪で汚名を着せられたまま亡くなったのです」

「え……」


 さらっとオキュバ伯爵夫人ですらなかった事が分かったけど、何だか不穏な言葉が飛び出てきて、話の腰を折るのもあれなので黙って聞く事にした。


「婚家のフローライト家は資産家で、私達が結婚する少し前に大きな城が完成しました。そこで城のお披露目を兼ねた結婚披露晩餐会を行い、当時の国王も招いたのですが……」


 当時のって事は今の国王のお父さんか。


「恐らくその時、絢爛過ぎる城に悪感情を持たれてしまったのでしょう。その後、主人は突然、横領の罪で連行されてしまったのです。身に覚えのない事だからすぐに戻れると言って出て行きましたが、そのまま投獄され、領地も財産も没収されてしまいました」


 イヴェットというのはラプソンから馬車で半日程の近場にある街だ。今は王領地だけど、元は伯爵領だったのか。そこに国内最高峰の城があるというのも聞いた事がある。良い立地の良いお城……てことは。


「もしかして、前国王が立派なお城を自分の物にする為に、持ち主を無実の罪で捕らえて奪い取ったという事ですか?」

「今思えばそうです。当時は無実であると主張する事しか考えられませんでしたが……」


 お爺様のお兄さん、何て奴だ! こりゃお爺様を国王に推す人がいたのも納得だわ。


「誰の目から見ても理不尽な所業でしたが、巻き添えになるのを恐れて表立って声を上げてくれる者はいませんでした。その中で唯一、諫言して下さったのがマルティーヌ様だったのです」

「お母様……ですか? お爺様ではなく?」

「ええ……その頃マルティーヌ様が微妙なお立場にいらっしゃって、ヘリオストロープ公も干渉できなかったのだと思います」

「王太子の婚約者だった頃なのですね……」


 マダムは瞠目して驚いている。


「ご存じだったのですか」

「はい」


 お爺様は、ご自分とお兄さんの関係が悪くなると、結婚した後のお母様の立場が悪くなるとか、結婚そのものに障りが出ると考えたんだろうな。


「でもお母様は私が知っているという事を知りません。教えてくれた人から、当時とても傷付いていたので口にしない様にと言われました」

「そうですね……」


 なぜかマダムは酷く心を痛めた様子で俯く。


「マルティーヌ様は婚約者である当時の王太子に、主人の無実を訴えて下さいました。でもそのせいで、政治に口を出すなと王太子の不興を買ってしまわれたのです」


 それが婚約破棄に繋がった、そしてそれは自分のせいだ……とマダムは思っている訳ね。


「良かったと思いますよ」

「え……」

「もし陛下がうちのお母様の事を愛していたら、無実を訴えたくらいで嫌いになんかならなかったはずです。だから最初から愛なんてなかったんです。きっかけが何であれ、壊れるべくして壊れたのですから、マダムが気に病む必要はありませんよ」


 お母様が国王をどう思っているかは知らないけど、太っちょでお召しまくりの国王よりうちのお父様の方が何倍もマシよ。イケメンだし。


「お嬢様……」

「そもそも悪いのは前国王ですよね。被害者のマダムのせいだなんて思う人はいませんよ!」

「……ありがとうございます」


 マダムは涙ぐみ、ハンカチで目頭を押さえている。

 急かさない様に黙って落ち着くのを待つと、マダムは再び話し始めた。


「亡くなった主人は財務長官をしていました。そして主人の後任となったのがエミール卿です。エミール卿はまず主人の横領の調査と証拠収集を命じられたそうです」

「ないものを探すんですか……」


 お父様って苦労人よね。


「ええ。国王としては横領をしたからあんな城を建てられたのだろうと踏んでいた様ですが、証拠は見付からなかったそうです。でも裁判で、主人から借金をしていた者が虚偽の証言をして、最終的には自白させられました」

「自白……?」

「後から知った事ですが、1年以上に及ぶ裁判の期間中、主人は食事も睡眠も碌に取らせてもらえなかったそうです。それでも残された私と息子の為に頑張って否認し続けてくれたのだと思います」


 なんという酷い話……食事と睡眠が取れないんじゃ意識も朦朧として来るだろうな。この国では1度有罪が確定してしまうと上訴ができないから、力業で付されたのね。

 って、ん?


「息子さんがいらっしゃるんですか?」

「ええ」


 初耳なんですけど!


「今14歳です。裁判が終わって全てを没収された後、私は実家に戻る事が許されましたが、実家に戻ったところで次の結婚を迫られます。ですから平民として生きて行かねばならない息子の将来の為にも、共に神殿に身を寄せました。息子は今も神殿におります」


 なるほど、それで修道院で余生を送るという選択か。


「あの、息子さんもこの邸で一緒に暮らしたら良かったんじゃないでしょうか?」


 マダムは眉を下げて微笑む。


「奥様にもその様に言って頂きました。でも罪人の子を匿っていると知れたらジェイドバイン侯爵家にご迷惑がかかりますからお断りしたんです。息子は今では神官の見習いとしてそれなりにやっていますのでご心配には及びません」

「会えたりはしているんですか?」

「ええ。ラプソンの神殿におりますので」

「私も会ってみたいです」

「ありがとうございます。お嬢様の事はよく話して聞かせていますから、きっと喜ぶと思います」


 え、どんな話してるんだろ……お母さんを独り占めしているって妬まれたりしてない?? あたしには母親がいて、乳母がいて、さらにマダムもだなんて恵まれ過ぎた環境だ。

 あたしと2歳差って事は11歳からお母さんと全く一緒に暮らせなくなっちゃったんだよね。まだちょっと寂しい年頃だったんじゃないかしら。

 というかそもそも、あたしの為の密偵なんて必要ないんです……


「密偵なんてやめてください。もしばれてマダムが危険な目に遭ったりしたら息子さんが悲しみますよ……」


 お父さんもお母さんも罪人になったりしたら可哀想過ぎるわ。


「情報は多いに越した事ありません。何もやましい事がなくても罪になる時はなるのですし、ばれたとしてもどうにでもなります」


 マダムの目はバレる事も捕まる事も全く恐れていない。

 柔和な笑顔の奥に凍て付く様な鋭さが垣間見え、たぶんもう、マダムの倫理観は壊れているのだと感じた。理不尽に旦那さんを亡くした事は乗り越えた訳ではなく、愚直に生きては馬鹿を見ると悟った……そんな雰囲気だ。


「もしバレてマダムが罪に問われる様な事になれば私だってつらいです!」

「その様な事にはなりませんからご安心ください」


 安心できないよー!


「私、フィルとは結婚しませんからやめてください!」


 マダムは今にも泣き出しそうな顔で頭を横に振る。


「お嬢様……その様な事をおっしゃらないでください……私は本当に大丈夫ですから」


 あぁ駄目だ。マダムは自分のせいでお母様が婚約破棄されたと思っているから、このタイミングでフィルとは結婚しないなんて言ったら、自分のせいであたしの婚約まで駄目にしてしまったと思わせてしまう。というか既に思っている。まじでしくった! 先に言えば良かった!! でもこんな話だなんて思う訳ないじゃないの……


 あたしがどんなにお母様がされた婚約破棄はマダムのせいじゃないって言ったところで、長年持ち続けてきた良心の呵責はそう簡単には消せないだろう。でもまずはそこを何とかしないと。

 これ、お母様が今〝旦那とラブラブでとっても幸せ!〟だったら結果オーライって事になってたんだろうになぁ。娘が父の愛人問題を気にするくらいに冷めているからね……


「ところで、お父様に内緒って言われたのですが、どうしてですか?」

「私の事をお話しするのは構わないのですが、奥様の事について私からお話しする訳には……」


 マダム、お母様に忠実過ぎるでしょ……。あと、嘘を吐かないでくれるのは嬉しいけど、それ1番気になるやつだからね? いっそ知らないって言ってくれた方が良いんだからね?


「じゃあ、掃除や洗濯をしているというのは本当なんですか?」

「ええ。王妃付きの女官なので頻度は多くありませんが稀にします」

「!?」


 めっちゃ中枢にいるじゃん! フィルに紹介してたらかなりまずかったじゃん!! そりゃお母様も本当のこと言うわ。というか、フィルがしょっちゅう出入りしているだけでもだいぶ危険じゃないの。

 ……そっか、家の中をあちこち歩き回られると困るけど、フィルはうちに来たらほとんどあたしの部屋にいるから問題ないのか。

 でも王妃付きの女官って誰でもなれる訳ではないよね? しかもマダムは警戒されて採用される訳ないと思うんだけど……


「ご主人の事があったのになぜ王妃付きの女官になれたんですか?」

「奥様が上手く取り計らってくださいました。それに宮廷ではドペルタ子爵夫人ウラリー・クリソコルと名乗っています」


 また違う名前が出てきた! なんか本当にスパイって感じね……

 いやいやそれでも危険過ぎない?


「イヴェット伯爵夫人としてのマダムを知っている人と会ったりしないんですか?」

「私は元々家で本を読んでいる方が好きで社交界は苦手でしたので、知り合いは多くないんです。それに髪の色とお化粧を変えると雰囲気が変わりますので、似ていると言われた事すらありませんよ」


 確かに、マダムの瞳は珍しい色ではなく、シルバーの髪色の方が珍しくて印象的だから、髪を暗い色に変えたら印象がだいぶ変わるかも知れない。

 でも宮廷で名乗れるのはドペルタ子爵が実在の人物だからで、その奥さんも存在するのよね?


「ドペルタ子爵夫人本人が登城したらどうするんですか?」

「その辺りは奥様が手を打ってくださいました」


 ……お金か? お金を積んだのか?

 お母様ってばどうしてマダムが申し出た時に止めなかったのよ……と思っていたけど、だいぶ積極的に協力してない? マダムが密偵をやる事でお母様にも利点があるという事なのかしら。それにマダムが得ている情報って何なんだ?

 ……お母様は国王の事がまだ好きで、国王の関心を得る為に役に立つ情報を集めている……とか? もしくは王妃に何か攻撃を……いやでも、そこまでするかな。けどもしそうなら事情まではあたしに言えないのも納得なんだよな……


 マダムはお母様についての情報をくれる事はなさそうで、あたしはこれ以上の詮索を諦めた。

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