食わず嫌いの治し方

水村ヨクト

第1話 いじめと異変

「ピーナッツバター、塗る?」


 ピーナッツバターパンをかじりながら、お父さんは私にピーナッツバターの小瓶を差し出してきた。


「いらない。りんごジャムの方が好きだし」


「そうか」


 私はお父さんの顔を見ることなく、りんごジャムをパンに塗り始めた。

りんごジャムの方が、という言い方はちょっとだけ間違えているかもしれない。だって私はピーナッツバターを食べたことがないから。食べたことのないものとなんて比べようがないんだから、りんごジャムの方が、なんて言い方は多分間違えてる。

 でも、きっとりんごジャムの方が好きだ。五十手前のおじさん(つまり私のお父さん)が好んで食べてるものが、りんごジャムより美味しいわけがないもん。きっとピーナッツバターは私の嫌いな味に違いない。

 と、ピーナッツバターを食べない理由を頭の中で考えながら、私はジャムパンをかじりながらスマホを開いた。


「……やば!遅刻する!」


 スマホ画面には、いつもならとっくに出かけているはずの時間を五分過ぎた時刻が表示されていた。私は急いで鞄を手に取り、パンを咥えて玄関を飛び出した。


「なんで時間教えてくれないのお母さん!」


 なんて文句を垂れながら。

 パンを咥えながら走ってるだなんて、恋愛漫画の女子高生じゃないんだから……なんて考えならが私はいつもの通学路を全速力で走った。いや、女子高生っていうのは合ってるんだけれど。

 途中、イカつい犬に吠えられて心臓が止まりそうになったが、それでもどうにか走り続けた。あの犬、毎朝必ず吠えてくるし、その度に私はバカみたいに驚くしホント嫌い。

 それから、遅刻しそうな朝は必ずすれ違うあいつも嫌いだ。全速力で走ってる私に全く気を遣うこともなく、歩きタバコを吹かしてるクソ野郎。

 ほら。今日だって前から歩いてきた。

 初めてすれ違った時も私は走っていたが、すれ違った時に煙を吸い込んでしまって、死ぬほど咳込んだ覚えがある。許さん。

 それからはあいつとすれ違ったら、その後十メートルくらいは息を止めることにしている。それでも苦しいけど、あの臭い煙を吸い込むよりは何倍もマシだ。

 駅前の顔が嫌いな政治家のポスターの横を走り抜けて、私は何とかいつもの時間の電車に飛び乗ることができた。

 セーっフ……なんて頭の中で呟いて、まずは空いている席を探す。と言っても、この時間に席が一つでも空いていたら奇跡みたいなものだけど。

 案の定空いてる席は見つからず、私は仕方なくドアの横辺りに寄りかかって、自分の前髪をスマホでチェックしたり、友達からのLINEを返したりして時間を潰した。……というかそれから学校まで全く何もないので飛ばしちゃうことにする。ホントに何もない時間だった。まぁ、こういう時間も嫌いじゃないんだけどね。そんなこんなで学校に到着。



「ミカ、ユウ、モモ。おはよ~」


 私がいつも絡んでるメンバーに朝の挨拶をすると、みんなもいつものノリで返事をくれた。


「おはよ~、りん。あれ? リップ変えた?」


「あっ分かる~? この間発売されたばっかのやつ」


「あー、あれね。めっちゃいいじゃん!」


 いつもの会話。中身なんて大して無くて、それが楽しくて、心地いい。そんな会話を私はミカ達と楽しんでいると、その会話の流れをぶった切るようにして、浅田あさだ真奈美まなみが声を掛けてきた。声を掛けてきた、というより、新しい話を勝手に始めた、という方が正しい表現かもしれない。


「ねぇ皆聞いてよ! この間ウチ倉橋くらはし先輩とイイ感じだって話したじゃん? それがね? なんと……」


 予想が付くよ。そんなに笑顔なんだから。


「付き合うことになったの~!」


「え~! おめでとう~!」


 なんて言っちゃって。また彼氏持ちが増えるのか~。しかも倉橋先輩って。

 倉橋恭二きょうじ先輩と言えばスポーツ万能、成績も良くて、その上イケメン高身長の最強物件ですよ。真奈美がゲットかぁ。まぁ、驚きはするけど意外じゃないよ。だって、見るからにお似合いだもの。

 私たち二年三組のカースト一位グループのそのまた一位の女。それが浅田真奈美なんだから。彼女がクラスの意見を握ってるって言っても言い過ぎではないと思う。

 まぁそんなこんなで、私たちは担任の先生が来て朝のホームルームを始めるまでの間、恋愛トークに花を咲かせることにした。主に真奈美の惚気話なのだけど、それもそれでちょっと面白いからあり。


「……おはよう……っ」


 私たちは会話を続けた。輪の外側から聞こえてきた気がする声など聞こえていないといった具合で、話が続く。

 声の主は加賀かがしおりだ。加賀栞は所謂カースト最下位の生徒で、私たちとは無縁の存在。だから暗黙の了解として決まっているのだ。加賀の挨拶は無視しろ、と。

 いや、無視なんて甘いものではなかった。私たちは加賀を、いないものとして扱っているのだ。今もそうだったが、彼女の挨拶など全く無かったかのように会話が盛り上がっている。

 それでも、それでも加賀は毎朝、私たちに挨拶をしてくるのだ。性懲りもなく、恥じることもなく、飽きることもなく、ただ一言「おはよう」という音を空間に残して、自分の席に向かう。その空間に残った音は、誰の耳にも届かない。

 モサモサの髪の毛に、黒ぶち眼鏡。猫背で、ちょこちょことした歩き方で加賀は自分の席へと座った。私の席の後ろの、彼女の席に。


「ひっ……」


 小さな悲鳴が、加賀の口から零れた気がした。私は真奈美の惚気話を熱心に聞くフリをしながら、加賀の方を横目で見た。

 よく見えなかったが、恐らく、そう、これは私がちょこっとだけ見た光景だから、憶測でしかないのだけれど、彼女の机の引き出しに、土が入れられているようだった。

 いじめ。

 そう表すのがきっと最も適してる。それ以外に言い方があるとすれば何だろう。そう、例えば、憂さ晴らしのサンドバッグ代わり。そんな行為なのだろう。

 さっきも言ったけど、このクラスには暗黙のルールがある。加賀を無視すること。それと、言い忘れていたもう一つ。彼女には憂さ晴らしに何をしてもいい、ということだ。もちろん親や教師に怪しまれない程度のことだが。その程度のことなら、加賀は誰にもチクったりしない。そして、彼女がいじめのようなことをされるのは、決まってクラスの空気が悪い時だ。

 例えば、担任の先生の機嫌が悪かったから。

 例えば、定期テスト直前だったから。

 例えば、クラス内で喧嘩が起きたから。

 例えば、今日は雨が降ったから。

 そんな理由で彼女の机に土が入れられる。彼女の上履きに画びょうが入れられる。彼女の愛読書が水びだしになる。

 それでも彼女は怒らないし、誰にもチクらない。私にはそれが全く理解できない。それが加賀栞という人間なのだ。

 だから、私はそんな彼女が嫌いだった。だって絶対嫌なことをされてるはずなのに、何にも文句を言えないなんて、変だし。何を考えてるか分からないから、気持ち悪い。

 あーもう。加賀栞のことを考えると頭が痛くなりそうだから、やめやめ。今日だって放課後みんなでSNS映えするビュッフェに行く約束なんだから、嫌なことは忘れよう!

 そう頭の中で叫んで、私はその日一日、加賀栞なんて最初からいなかったみたいに、笑って過ごすことにした。

 が、その考えも、一時限目の休み時間に一瞬で打ち砕かれた。学年中で嫌われている、坂本の国語の授業が終わった直後だった。彼女は私に話しかけてきたのだ。……いや、こんな風に意外な感じで語ってるけど、まぁそろそろ来るとは思っていた。だって彼女は毎日私に話しかけてくるのだ。


「……ねえ。あの……今日の戸波となみさん、いつもより可愛い、よね? ……あっごめん……気持ち悪いよね、私なんかが」


 なんて。私のことを褒めてくれるのは嬉しい。嬉しいよ? でも、正直しつこい。嫌いな相手に毎日執拗に声を掛けられるなんて、面倒臭いことこの上ないもの。

 だから私は、その言葉を無視して、今度こそ加賀栞などいない者として、一日を過ごすことにした。最後にもう一度、加賀の方を横目で見たら、何だか不気味に笑っていて、気持ちが悪かった。



 翌朝。異変は起きた。

 昨日と同じく私は自分の部屋からリビングに降りて来て、朝食のジャムパンと食べようとしたそのときだった。


「え、お父さん。何食べてるの」


 まず、真っ先にその疑問が浮かび、声に出た。


「何って、パンだけど……」


 お父さんはきょとんとした顔で、私の顔を見た。

 いや、何でそんな顔するの。もっと意地悪な顔とか、自慢げな顔をしてよ。じゃないと、私がおかしいみたいじゃん。だってその、パンに乗せてるの……。


「そうじゃなくて、パンに乗ってるの、何?」


 お父さんは何が何だか分からないといった様子で、戸惑いながらもはっきりと答えた。


「ピーナッツバターだよ? どうした? 凛」


 ピーナッツバター? いや、そんな訳ない。だって、パンにに乗ってるのは、何というか、その、黒い何か……。そう、パンの上の何かを塗りつぶすみたいに、黒いインクのような何かが見えるのだ。

 私は自分の目を疑った。咄嗟に、お父さんのコーヒーカップの真横にいつも置かれているピーナッツバターの小瓶に目を遣った。

 見えない。

 いや、小瓶なのはギリギリ分かるのだが、中身が何なのか、全く分からないように、ラベルが真っ黒く塗りつぶされていた。


「……どういうこと?」


 分からない。目の病気? それとも脳? とにかく、お父さんとお母さんにどれだけこの、黒いインクのことを話しても、何のことを言っているのか分からないといった様子なのだ。


「きっとまだ寝ぼけてるのよ。ほら、また遅刻しちゃうんじゃないの? 学校」


 なんて言われる始末だ。

 でも、黒いインクで見えないのはピーナッツバターだけだし、帰ってきたら案外何事も無くなってるかも……なんて、考えながら、私は渋々家を出た。

 この日も私は走って駅に向かった。いつも通りの通学路を――いや、いつも通りではなかった。いつも通りではなかったのだ。所々が。

 だって、あのイカつい犬。今日も今日とて吠えられたのだけど、その姿を見てやろうと声の方向を向いたら、犬も例のインクで真っ黒く塗りつぶされていて、吠えてなかったら何なのか分からない状態だったのだ。

 それに、歩きタバコクソ野郎も、インクで塗りつぶされていて見えなかったし(煙の臭いが無ければこちらもやはり分からなかった)、顔が嫌いな政治家のポスターも、子供の悪戯みたいに黒く塗りつぶされていた。


「え、え……どうなってるの?」


 なんて独り言を素で吐いてしまう程に、その光景は異様だった。おかしい。学校に着くまでに、駅の構内も、電車の中も全て、所々見えなくなってしまったものがあるのだ。それなのに、周りの人々は普通に過ごしている。何も変なことなど無いかのように。私の目は、頭は、どうなってしまったというのだろうか。……怖い。

 それでも実害はないので、何事もなく学校へ到着してしまった。


「……おはよ」


 私はいつものメンバーにいつもより控えめな挨拶をした。


「おはよ~。どした? なんか元気なさげ?」


 ミカもユウもモモも、いつも通りの挨拶と、心配の言葉を掛けてくれた。それに遅れて、奥で倉橋先輩との惚気話を披露していた真奈美も、挨拶を返してくれた。

 その風景に何の違和感も無かった。黒いインクで見えなくなったものも無かったし、私はやっぱり気のせいだった、寝ぼけていただけだったのだと安心した。だから、私は気を取り直して朝の会話を楽しむことにした。


「……おはよう……っ」


 いつもの、芯の無い声が、また後ろから聞こえた。加賀だ。

 私も皆も、特に気にする様子もなく、彼女の声を聞き流した。のだが。


「え」


 私はつい、声に出していた。ミカ達が私に注目する。


「どうしたん?」


 私は狼狽え、やがて乱れていた目線をミカ達に戻し、答えた。


「う、ううん。何でもない。何だっけ?」


 その後、私たちはいつもの女子トークに花を咲かせていたはずだが、私はその内容を一切覚えていない。

 だって、彼女の……加賀栞の顔が、例のインクで真っ黒に塗りつぶされていたのだから。

 怖くなった。どうやっても、顔を洗ってみても、頬を叩いてみても、彼女の顔は一向に見えることがなかったから。だから、彼女が自分の教科書に落書きをされていたことに気付いた時の表情も、本を読んでいるときの表情も、全く分からなかった。

 そして、その日の二時限目休みに、彼女はいつも通り私に話しかけてきた。


「……戸波さん、今日は、元気ないみたいだけど……何かあったの?」


 私は怖かった。彼女の顔が、まるで暗い穴を覗いてるみたいに永遠に真っ黒だから、吸い込まれそうで、見ていられなかった。いや、普段は顔なんか見ないで無視するのに、今日はつい、見てしまったのだ。加賀の顔がそんなだから。


「……なんで」


 私はつい、そう言ってしまった。そして自分が間違いを犯したことに気付き、私は逃げるように教室から出た。教室からヒソヒソと声が漏れ聞こえた。


「戸波、加賀に返事したぞ」


「うそ……全然関わってるイメージないのに」


「いや、加賀はいつも戸波に話しかけてたけど」


「返事してるところは初めて見たな。でも加賀と関わろうだなんて……戸波、ちょっと変になったか?」


 一字一句合っていたとは思えないけど、多分そんな声が聞こえた気がする。そうだ。クラスの腫れ物である加賀と話すなんて、どうかしてる。

 あああ。おかしい。おかしいよ……何なのこれ……。何がどうなってるの。

 頭を抱え、トイレの個室で、私は少しだけ、泣いた。

 その日一日、私は大人しくしていた。もうあの黒いインクは見たくなかった。しかし、最後の六時限目の坂本の国語の授業で、私はまた、泣きそうになってしまった。

 坂本の顔が、黒いインクで塗りつぶされていたのだ。



 帰りの電車の中、私はスマホを弄るでもなく、まだ新しいリップを塗り直すでもなく、今日起きた出来事について考えることにした。いや、いくら考えても分かることではないと思う。だけど、考えずにはいられなかった。何も分からない状態で、帰り道にまたあの政治家のポスターや、イカつい犬を見るのは嫌だった。

 考えて考えて、頭が痛くなりそうになったそのときだった。


「うるせぇなクソガキども!」


 中年のおじさんが、そう叫んだのだ。

 私は何事かと思って状況を見ると、どうやら男子高校生グループが怒鳴られているようだった。そんなにうるさかっただろうか。私が考え事をしている間、何となく男子高校生たちの会話は聞こえていたが、それはヒソヒソ話で、別にうるさいといったほどではなかったと思う。

 ……あんたの方がよっぽどうるさいっての……。

 自分が少し不快だったからって、最低限のマナーは守っていた高校生たちを怒鳴りつけるだなんて……私はああいう大人が嫌いだ。

 嫌いだ。と認識したまさにその瞬間だっただろう。そのおじさんの顔が、また、黒いインクで塗りつぶされた。いや、また、と言ったけど、塗りつぶされた瞬間は初めてだった。そして、その瞬間を見て、私は気付いた。


「もしかしてこれ、嫌いなものが見えなくなってない……?」


 そうだ。思い返してみれば、ピーナッツバターだって、イカつい犬だって、歩きタバコクソ野郎だって、政治家のポスターだって、国語の坂本だって、加賀栞だって、全部嫌いだった。嫌いの度合いは違えど、みんな同じに嫌いだ。

 ……だとしたら、もしかしたら、これは私のとって都合のいいことなんじゃないか? いや、なんて素晴らしいんだろう。嫌いなものを見なくて済む。視界から嫌いなものが消えてなくなるなんて、そんなに素晴らしいことはないのではないか。

 嫌いなものなんて、見ただけでイライラするし、楽しい気持ちが台無しになるんだから、いっそ見えなくなった方がマシだ。今までタチの悪い病気か何かだと思っていたけど、きっとこれは神様がくれた私へのご褒美かもしれない。毎日頑張ってるもん。こんなに頑張ってるんだから、嫌なものは見なくていいよね。

 そう考えるようにしたら、とっても気が楽になった。駅を出てすぐに見える嫌な顔の政治家ポスターも、イカつい犬も、見えないだけでこんなに気分が楽だなんて思ってもみなかった。嫌なら見なけりゃいい。全くその通りだよ。

 私は家まで、スキップしながら帰った。

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