第二話 隻眼の魔女 プロローグ

 帰宅。靴を脱ぐのと同時、ボタンを引き千切るようにしてシャツを脱ぐ。パンツも、下着もだ。洗濯かごに投げ捨てるように放る。下着がはらりと床に落ちたがそれを拾うことさえもどかしく、無視してバスルームに向かう。


 コックを捻る。シャワーノズルから勢いよく冷水が降り注ぎ素肌を叩いた。それは火照った体に気持ちよかったが、それでも下腹部の疼きは治まらない。


 昂ぶる――激しく、狂おしいほど。その情欲に逆らわず下腹部に手を伸ばしかけ――意思を総動員させてその手を止める。


 手慰みで解消してしまっては勿体ない。


 もうすぐ――もうすぐだ。もう少し我慢すれば、今夜には――



 ――なによりも愛しい暴力に身を任せることができる。



 シャワーの水音だけが響く浴室で一人ほくそ笑む。かの《魔眼(デビルアイズ)》の顔を力一杯殴りつけてやったらどれほど気持ちがいいだろう。


 それを想像しただけで軽く達しそうになり、頭を振ってその夢想を追い払う。


 まだだ。今じゃない。ちゃんと我慢してその至高の瞬間を迎えようじゃないか。



   ◇ ◇ ◇



 人間は二つの種類に分類できる。異能を使えるものと、そうでないもの。そして異能を使えるものもやはり二種類に分類できる。社会に迎合できるか、否か。


 要因はそれぞれとして、社会に迎合できなかった俺たち社会の癌は犯罪者としてそれなりに罪を犯しつつ法の目から逃れるように街に潜んでいる。


 しかしそんな俺たち異能犯罪者の中にも、天敵である警察や公安との敵対も辞さず凶行に及ぼうとするものがいる。異能犯罪者同士の諍いという域を超え、一市民にも被害が及びかねない愚行――その行為は異能犯罪課の目を引く。


 特に公安・異能犯罪課の連中は、一度ロックオンした標的は逃さない。逮捕・拘束――または殺害するまで執拗に追ってくる。俺たち異能犯罪者にとってもっとも関わりたくない相手が公安に属する連中だ。


 だが先日、そんな愚行に及んだ連中がいた。辰神哲司とその一派だ。連中はこの街の裏社会――異能犯罪者たちをまとめる異能犯罪組織・スカムのトップである天龍寺兼定を襲い、この街の悪党――いや、日本の悪党のトップに立とうとした。


 これだけでも大事件だが、連中は更に後天的に異能に覚醒しつつある一般人を攫うという凶行にも及んだ。


 事件が明るみに出れば裏社会に激震が走るだけでなく、異能犯罪課の連中の怒りも買っただろうが――幸い、辰神がそのスカムの一員であったこと、誘拐された一般人の親が娘の奪還を依頼したこと、辰神自身が愚かだったこと――そういった事情が重なり、事件は一晩で解決出来た。夜が明ける前には事件でできあがった死体の処理も終わり、攫われた女学生も無事奪還。事件を闇に葬ることができた。


 あの事件からおよそ一月が経つ。街は日常を取り戻していた――と言えれば良かったのだが、そうはならなかった。


 襲撃により隻腕となった元会長・天龍寺兼定は身体欠損による異能の弱化により前線から退き、彼の言葉で二代目スカム会長となった俺は事件を収束させた後、兼定氏の付き人で俺の友人でもあったカズマくんに三代目を継がせた。このことと組織に残っていた辰神一派の離反でスカムは元の半分ほどの規模になり、街をまるごと支配する絶対的な力を失った。


 これにより今までそうそう起こらなかった異能犯罪者同士の小競り合いが起こるようになり、また街の覇権を手にするべく市外から犯罪組織の連中が訪れては抗争の火種を作ろうと街で暴れるようになった。


 少なくとも平和に見えていたこの街は、ある意味調停者であったスカムの衰退によりあっという間に治安が悪化した。


 とは言え、スカムの構成員が全員追われる身になったわけではないし、本拠のある街の中心部は未だスカムの勢力下にあり、この一体ではスカムが幅を効かせている。


 さらにつけ加えるなら、スカムの資金源であるレストランや遊興施設は稼働中だし、その最たる違法賭博格闘――通称バトルアリーナも絶賛興行中だ。


 そのバトルアリーナの今日のファイナリストの一人である俺――山田中(アタル)は、試合までの時間を控え室でぼんやりとして過ごしていた。


 ――と、その控え室の扉がノックされる。

「どうぞー」


 応じたのは俺ではない。俺の家主にして本業――何でも屋の雇い主、天龍寺夏姫だ。今夜は……というか俺がバトルアリーナに出場するときはセコンドとして控え室からリングサイドまで付き添ってくれる。


 その彼女の言葉に入室してきたのは三人――厳つい金髪の青年に、隻腕の老人。そしてその老人の陰に隠れてしまいそうな小柄なパーカーの女。


 先頭の金髪が俺を見るなり破顔する。


「お疲れ様です、兄さん」


「おう、カズマくん――それに爺さんも。シマの見回り?」


「いや、そうではない。食事に外に出て――お前の話になったのでな。今日はお前の試合(カード)があることを思い出して寄ってみたというわけだ」


「はぁん……ついでに賭けてけよ。儲けさせてやるから」


「そうさせてもらおうか」


 老人がうむと頷く。


 現れた三人はカズマくんに兼定氏、シオリだった。言葉を交わす俺たち男に対し、女性陣は黙したまま。夏姫はカズマと兼定氏より、パーカーで顔を隠した女が気になるようだった。


「ああ、夏姫ちゃんは初めてだよな。彼女がシオリ。今は爺さんの護衛をしている。で、シオリ――この人が夏姫ちゃん。俺の……まあ、家族だな」


 間をつないでやると、夏姫がかしこまって頭を下げる。


「あなたがシオリさん……初めまして、天龍寺夏姫です」


「……どうも」


 丁寧に挨拶する夏姫に、無愛想に頭を下げるシオリ。互いに複雑なのは良くわかる。シオリは俺の親代わりみたいなもんで、一時は麻薬中毒を患い、辰神に利用され兼定氏を隻腕にしたその人だ。シオリにとっても夏姫は自分が隻腕にした老人の孫で、かつて唯一の家族だった俺が現在家族と呼ぶ相手。


 ちなみにシオリの麻薬中毒――薬物依存症は一週間前に完治している。普通に治療したらクスリを抜くだけでもっとかかりそうだが、スカムのコネで薬物依存症に詳しい治癒能力者(ヒーラー)を何人か雇い、治療に充てた。あとはシオリ本人が再びクスリに手を出さなければ問題はない。


「で、兄さん。今日はどんな相手と戦うんすか?」


 嬉々としてカズマくん。こいつは賭けそのものより俺の試合(カード)見るのが好きだからなぁ。


「知らね。俺ブックメイカーと面識ねえし。むしろ現会長のカズマくんが知ってるべきだろ。胴元なんだし」


「いや、バトルアリーナは丹村さんに任せてんすよ。俺よか詳しいし、あの人なら安心だし。ブックメイクもノータッチっす。つかそれ知ってたら俺賭けられないじゃないすか」


「自分の賭場で賭けられねえとかクリーン過ぎるだろ。公営ギャンブルじゃねえんだからイカサマならともかくそれぐらいいいんじゃないの?」


「そうなると楽しめないっすよ」


「儲けを優先しろよ。カズマくんほんと悪党向いてねえな。足洗ったら?」


「そんなぁ……」


「あんまり三代目をいじめちゃ駄目だよ、二代目」


 カズマくんをからかっていると、夏姫が口を挟んでくる。


「一応私は相手のプロフ確認してるけど?」


「ああ、そんじゃ聞いておこうかな」


 夏姫が情報を仕入れた努力を無駄にするのも気が引ける。答えると彼女は満足げに頷いて、


「流れの喧嘩屋だって。ヤクザ屋さんの代理戦争に参加したり、地方で喧嘩賭博したりしてたみたい。百九十五センチ百二十キロ。超ヘビー級だねぇ」


「だってよ」


 夏姫の言葉にそうつけ加えると、カズマくんは顔をしかめる。


「そんなやべえ奴リングに上げて平気なんすか? その、八百長とか、賭場荒らしとか」


「リングに上げたのは俺じゃなくてカズマくんの部下。平気だろ、そういうことしでかしそうな異能犯罪組織と繋がりの有無はブックメイカーが調べてるんじゃねえの? 八百長なんかしたらスカムに命狙われるってのは普通に考えてわかるだろ。賭場荒らしなんてそれこそその場で殺されても文句言えないし」


 そもそも八百長はともかく、賭場荒らしは俺が知る限りこのバトルアリーナで起こったことはない。この街の支配者たるスカムにはっきりと敵対する行為だ、おいそれとできることではない。


 それにバトルアリーナはスカムの主催・運営だが、スカムだけで成り立っている訳では無い。裏社会にも顔が効く金融屋や俺たちとパイプを繋ぎたい黒い会社の取締役、政治家など関わる人間は意外と多い。バトルアリーナを荒らすということは、これら全員を敵に回すと同義だ。


 だからこそ、衰退したスカムでもこのバトルアリーナを取り回せるのだが。


 ――と、再び扉がノックされる。今度は返事をする前に扉が開かれ、バトルアリーナの運営スタッフ――つまり、カズマくんの部下が入ってくる。


「失礼しま――うお、会長! それに初代も――お疲れ様です!」


 入室してきたスタッフは思わぬ顔に背筋を伸ばしそう言って、改めて俺に。


「――先代、時間です。リングの方へ」


「ここにいるときは選手Aとして扱って欲しいなぁ」


 言いながら椅子から立ち上がる。


「行こうか、夏姫ちゃん」


「うん――じゃあお爺ちゃん、行ってくるね。カズマくん、あっくん応援してね。その――シオリさんも」


 持っていたタオルを首にかけ直し、夏姫。それに頷く来客三人に見送られ――俺たちはこの街の悪党どもが熱狂するリングへと向かった。



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