死神とハニーミルク

第1話 ブラックの邂逅


その朝は、前日の予報通りに空は灰色の雲に覆われ、石畳には土砂降りの雨が打ち付けていた。


午前7時。

大通り沿いに店を構える喫茶店の女主人は、昨日までと変わらず店を開けた。



カウンターへ戻ろうと背を向けた時、店の扉が開いた。

雨の音と冷気が店内に入り込む。


「おはようございます」


女主人・オリヴィアは、雨に打たれただろう今日一番のお客様を迎えるべく振り返り笑顔を作った。

しかし、たった今店内に入ってきた―上から下まで真っ黒な服装の―紳士は、傘こそ畳んではいるがコートや靴は一切濡れていなかった。


「…………おはよう。ブラックのホットをいただきたい」

「ふふっ。はい、かしこまりました」

「何か?」

「いえ。お召し物が真っ黒だったので、ブラックの注文に納得してしまって」


鴉のような黒髪、黒真珠の瞳。コートにシャツ、靴先まで真っ黒の装い。まるで。

――まるで、喪服のよう。

そう思った時、カウンターの目の前に腰かけた客が息を呑んだ気配がした。


「……何か?失礼でしたでしょうか。すみません」

「いや。――そんなことはない」


それからは、注文のブラックコーヒーを出した以外に会話はなかった。

紳士はどこからか新聞を取り出し視線を落とすと、少しずつ賑わいを見せる店の中で存在を忘れそうなほど静かに過ごしていた。




午前8時10分。

今日の一番客である黒い紳士が会計を済ませ、店を出る。

去り際、「また来る」と短く言葉を残してくれただけでオリヴィアは上機嫌になった。だからだろうか。あの紳士の傘が店内の傘立てにあるのを見つけるまで、この土砂降りの中を紳士が傘も差さずに出て行ったことに気づかなかったのだ。


そんなことがあるだろうか?あの柄まで真っ黒な傘と他の人の傘と間違えるということはないだろう。しかし、いくらなんでもこの雨だ。傘を忘れたなら店に取りに戻るはずだ。

まだ、彼が出て行ってからさほど時間は経っていない。今から追いかければ間に合うかもしれない。


その時、店の扉が開いた。

雨の音と冷気が店内に入り込む。


「……いらっしゃいませ。あら、ロラン教授!朝からいらしてくれるなんて珍しいですね」


来店したのは顔なじみの客で、隣街にある大学で数学教授をしている老紳士だった。


「ああ、オリヴィア。参ったよ。つい先ほど、この先の駅前で大きな自動車同士の事故があってね。通行人や駅の建物も一部巻き込まれて、しばらくは運行できないだろうから、午前の授業は休講にしたよ」

「そうですか。そんなに大きな事故が……」


――胸騒ぎ。

オリヴィアの心臓がどくどくと音を立てはじめた。

駅前での大事故。例の黒い紳士は、たしか駅に向かって背を向けなかったか。この雨の中、傘も差さず、視界が塞がっていなのではないか。車の運転手からもよく見えなかったのではないか。事故に、巻き込まれてはいないだろうか。


「また来る」と、そう言って小さく微笑んでくれた。雨音から逃れて静かな朝を一緒に過ごした、大事なお客様。


居ても立っても居られなくなり、一時的に店をアルバイトのケイトに任せ、黒い傘を持って駅に向かって飛び出していた。

彼が本当に駅に向かったのか分からないし、巻き込まれている可能性の方が低いのかもしれない。事故現場にいないのなら、それでいい。それなら、店で彼が来るのを待っていればいい。


気持ちが急くばかりで、横殴りの土砂降りの中で足を進めるのは大変だった。服も靴も、髪まで濡れて体温が奪われる。

やっとの思いで辿り着いた駅前は、凄惨な事故現場となっていた。


慌ただしく行き交う警官隊に、救急隊。雨音にかき消されてよくは聞こえないが、子どもの泣き声がする。

衝突したまま、駅の入り口まで滑ったのだろう2台の自動車は、どちらもボンネットが半分以上ひしゃげ、フロントガラスは砕けていた。救急隊と思わしき人たちが、変形した車の扉を開けようと必死になっている。――まだ中に、人がいるのか。


思わず目を逸らすと、血だまりが見えた。

雨で急速に流されているが、真っ赤な血が大量に流れている、その場所に――。


――黒い紳士が立っていた。


傘も差さず、一人、血だまりの前に立っていた。

忙しなく動き回る人たちの中で一瞥もされず、まるで最初から彼らに見えていないかのように。存在しないかのように。




オリヴィアは、紳士が今朝店に訪れた時、彼のコートの肩や裾、靴にいたるまで濡れていなかったことを思い出した。


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