第16話 チューリングワールド(2)
ガンダーレ兄弟の長男であるウエズリーは、ジョーのリサ博士に対する突然の暴挙と、今は互いに抱き合うジョーとカナの様子を見て、呆然と立ち尽くしていた。
そんなウエズリーをよそに、次男のミエズリーは、三男のスエズリーと共に、床に倒れたままにされているリサ博士をひきずるようにして運び、さっきまでジョーが寝ていたソファーに寝かせた。
ミカはすぐさま、その部屋に備え付けてあった救急箱を取ってきて、リサ博士の応急処置を行った。
「ママ! ママ! しっかりして! ママァ!」
顔面血だらけのリサ博士は、口を少しだけ開けてぐったりとしており、ミカは、リサ博士の気道の確保と止血を急いだ。
ミカとリサ博士の様子を見ていたミエズリーがつぶやいた。
「あいつ、ただじゃすまないぞ」
スエズリーが不安げな表情でミエズリーに訊ねた。
「どうなるの?」
「兄貴を怒らせちまったからな」
「兄さんを?」
「ほらっ、兄貴があいつの所に行ったぞ」
ウエズリーは足早にジョーの方に近づいていった。その靴音は、明らかにすさまじい怒気を帯びていた。
「おい、お前、こっちに来い! 早く来るんだ!」
ジョーの元に来たウエズリーは、ジョーの右腕をひっぱって強引に立たせた。
「何するのウエズリー!」
「カナさん、全部こいつのせいです! 今からこいつをチューリングワールドに連れて行きます。予備訓練なしで!」
「予備訓練なしですって? バカなことを言わないで!」
「カナさん、こいつはもう、どうにもならない所まで来てしまったんです。こいつ自身が選択したことです!」
「俺が、選択した?」
ジョーは視線を泳がせたまま何かを繰り返しつぶやいていて、それがウエズリーの怒りと苛立ちをさらに増大させた。
「おい、よく聞け! 今からお前には、あそこに見える精神可視化装置に入ってもらう」
ラボの窓から、直径が5mくらいある球体状の装置がいくつか見えた。
「あの装置は、特殊電磁波の〈ブースト〉を全身に浴びせてその人間の感情や思考などをデジタル化する装置だ。通常は予備訓練をして、身体をブーストに慣らさなければならないが、お前にはいきなり行ってもらう!」
ジョーはつぶやくのを止めて、ウエズリーの話を静かに聞き始めた。ジョーは何かを考えているようだった。いつの間にかカナがジョーの傍らにいて、彼の左手を両手で握っていた。
「装置は、ブーストとお前の身体細胞との反応に基づいてデジタルデータを作成し、そのデータをTWに転送する。つまり、TWの住人になるということだ」
ジョーのそばを離れようとしないカナをみて、ウエズリーはますます苛立ちを募らせた。
「制限時間はおよそ一時間で、それ以上はだめだ。この装置から放射されるブーストは、放射線とまではいかないが、かなり強いエネルギーを持ってる。受け過ぎると体が持たない。だが一時間もあれば十分だ。向こうの世界での一時間はこっち側のおよそ一年に相当する。向こうはほとんど思考の世界なんだ。行けば分かるが、とにかく速い。初めは圧倒されるだろう。だが拒まずに受け入れろ!」
自分の責務に忠実な人間、そういう種類の人間はよく経験していることだと思うのだが、一時の気の迷いや感情の錯乱は、普段通りに仕事ををこなすうちにしだいに落ち着いてくるものだ。その仕事において長年培われてきた真摯な思いが、あらゆるものに対して先行し始めるためだろうか。
ウエズリーの口調が、いつもの調子を取り戻そうとしていた。
「私とミエズリーとで、お前をW030025に連れて行く。そのTWにはミエズリーが見つけたレベル3がいるはずだ。いいか、TWではとにかく俺たちの言うことを聞け。俺たちとはぐれたらもう二度とこの世界には戻れないからな」
すでにミカとカナの話に出てきたレベル3という単語を聞いたとき、ジョーの体が反射的に反応した。
「そのレベル3の名前は〈アルバトロス〉という」
「アルバトロス」
ジョーはその名前を呟くように繰り返した。
「彼に会って我々に協力するように要請するんだ」
「……断られたら?」
「もう、話はついているよ」
ミエズリーが何か面倒臭そうにうつむき加減で答えた。
「話がついている? ちょっと待って、そんな話聞いていないわよ」
カナが食ってかかるように言った。
「カナさん、報告が遅くなって申し訳ありません。実は私も今朝初めてそのことをミエズリーから聞かされたのです。ミエズリー、今朝のことをカナさんに説明してくれ」
ミエズリーは、昨日の夜から今朝までのことをざっくりと話した。
「とにかく今回は、僕が彼と話をつけたんだ。彼は我々に協力してくれるそうだ。少なくともオー・プロジェクトに関してはね。そういう契約……いや約束をした。ただそれでもやはり、ジョー本人と話をしたいって」
「約束って?」
カナは訝しげにミエズリーの顔をのぞきこんだ。
「ああ、別に深い意味はないよ。協力してくれれば、君たちの身の安全を保証するって言っただけ。だって、オー・プロジェクトを成功させれば、結果的にそうなるでしょ?」
ミエズリーはカナと目を合わせなかった。カナは、何か腑に落ちないという感じでミエズリーの顔を見ていた。
「さあ、話はこれくらいにして、やるべきことをやろう! ただこうしていても時間を無駄にするだけだよ」
そう言うとミエズリーは、さっさとラボを出て行ってしまった。ミエズリーの様子にウエズリーも少しだけ不信感を覚えたが、とりあえずジョーにラボを出るように顎で促した。
ジョーがラボの出入り口の方に向かおうとしたとき、カナが再びジョーの手を握りしめた。
「カナ、心配しなくてもいいよ。君のおかげで、だいぶ落ち着いたから」
「でも、ジョー……何か不安だわ」
「不安か……そうだね。でも、大丈夫だよ」
「どうして?」
「君がいる限り僕は前に進むことができる。なぜか、そう確信できるんだ」
さっきまでとは違う、静かに微笑むジョーの言葉が、カナの手を緩めさせた。
「さて、行くか」
「絶対に無理をしないでね、ジョー」
「ああ」
ジョーが装置に向かおうとしたそのとき、突然、目の前が眩しい閃光がひらめくと共に、ジョーの頭の中に、声とも文字ともとらえ難いものが響いた。
『……ツ・カ・イ・タ・ケ・レ・バ ツ・カ・ウ・ガ・イ・イ オ・レ・タ・チ・ハ・イ・ツ・モ・ソ・バ・ニ・イ・ル……』
その間、ジョーは、立ったまま身動きが取れなかった。声さえ出すこともできず、体全体が小刻みに震え始めた。
(な、なんだ、これは?)
「ジョー! どうしたの!?」
ジョーの異変に気付いたカナの顔色が、さっと変わった。
(これってまさか、あのときの私と同じ!?)
カナの記憶が明確な輪郭とともに眼前に広がった。それは、DNAの塩基配列を初めに読んだときに自身に起きたことと重なっていた。これまでみたことのない何千、いや何万種類という、鮮やかな色合いを伴う物質、そしてその設計パターンが、頭の中に溢れたときのことを。
ジョーは、助けを求める視線をカナに向けようとした。しかし、これはおそらく彼女にもどうすることもできない、覚悟を決めるしかないと思ったジョーは、目を閉じて、その内に響く声のようなものに身を委ねることにした。
それは、不思議な感覚だった。実際には聞き取れた言葉は最初だけで、あとは言葉でも音楽でもなく、どこかで誰かにずっと大切にされてきたような重要な何かを担う熱体がジョーの全身を覆う、そんな感覚だった。
だが、しばらくするとその感覚は急速に薄れていった。カナをのぞく周りの人間がそんなジョーをほとんど気にしていなかったところをみると、せいぜい数十秒ほどのことだったようだ。
ジョーは静かに目を開けた。
「治まった……」
ラボの外で待っていたウエズリーが、さっきからカナとふたりでぐずぐずしているジョーにしびれを切らした。
「おい、早くしろ!」
ウエズリーが怒鳴ると、カナが睨むような鋭い視線をすぐさま返し、わずかだが時間を稼いだ。
「ジョー、大丈夫?」
カナは、吐く息が聞こえるような小声で言った。混沌とした意識の中にジョーが置き去りにされているように思えた。
「ああ、もう大丈夫だ。心配ない。終わったよ」
ジョーの額には少しだけ汗がにじんでいた。ウエズリーが靴のかかとで二、三度床を蹴った。
「カナ、今のことは、また後で話すよ」
カナはジョーの目を見てゆっくりと頷いた。
「じゃ、行ってくる」
「気を付けて」
カナの方に少しだけ顔を傾けながら、左手をすっと上げると、ジョーはウエズリーの方に走っていった。
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