歩きスマホをしていただけなのに

人生

第1話 前置きと後日談




 振り返ってはいけない――それは日本の神話のみならず、海外の神話にも見られるある種の禁忌タブーだ。


 愛しい人を追って冥界を訪れた主人公が、その人を連れ帰る際に神様に言われるのが、「冥界を出るまで振り返ってはいけない」――


 おとぎ話「鶴の恩返し」における、「覗いてはいけない」という約束もそのタブーの一種と見ていいだろう。


 見るな、覗くな、振り返るな。その約束を破ると、悪いことが起こる――禁忌を犯した者には悲劇が訪れるのだ。


 しかし人は、見るなと言われると見てしまいたくなるもので……たとえば、恋人のスマホが目に入るところにあったら。誰かの日記が手の届くところにあったら。

 ちょっとした好奇心から、人は過ちを犯す。


 ……好奇心は猫をも殺す。


 ふとした瞬間に日常からこぼれ落ちるなんて、誰も思わない。


 私はただ、歩きながらスマホを見ていただけなのに。




                  ■




 知らない人に声をかけられても、ついていってはいけない――

 放課後は寄り道せず、真っ直ぐお家に帰ること――



 ――帰り道に、決して後ろを振り返ってはいけない――



 小学校低学年のころ、帰りの会で先生に言われたことを思い出す。


 なんでそんなことを、今更。


 ただ、それはほんの一瞬、気の迷いというわけではないけれど、ふと頭に浮かんだ光景で、記憶というほどはっきりしたものではなく、もしかするとそんなことなどなかったのではないか、それは私の妄想なのではないかというほどに曖昧なイメージだった。


 まるで世界の終わりみたいに不気味な赤色の空を見上げると、そんなイメージはすぐに頭のなかから掻き消えて、私はついさっきまで何を考えていたんだっけ、とループするのが目に見えているような、そんな取り留めのない思考をもてあそびながら帰路につく。


 それにしても、不気味な空だ。赤黒いというか、赤紫色をしている。台風が近づいているときはこんな夕暮れになるらしいけど、肌にまとわりつくような湿気をおびたこの空気もそれが理由だろうか。


 学校からの帰り道、いつもの通学路。登校するときも下校するときも、いつだって周りには誰かしら通行人がいたはずなのに、今日その日に限ってはなぜだかまるでひと気がなかった。


 早く帰ろうと、足を動かす。


 制服が汗ばんでいた。ねっとりとした、さながら幾重にも重なった蜘蛛の巣のなかを突き破って進んでいるかのように、一歩ごとに気持ち悪い感覚が強くなる。

 身体が重く、息苦しい。

 少しだけ足を止め呼吸を整えていると、


 わん、わんわんわん


 どこからか、犬の鳴き声がした。


 ふと、振り返りそうになる。


 ……たぶん、ペットの散歩でもしているのだろう。振り返ると飼い主の人と目が合うかもしれない。それはちょっと気まずいし、ご近所さんだと愛想よくしなければならない。

 そうした想いから、その懐かしい鳴き声に背を向け、私は歩みを再開した。


 ……むかし飼っていた犬。私の不注意で家を飛び出してしまって、それっきり帰らなくなった。そのときの私は幼くて、その顛末に想像を働かせることは出来なかったけれど。

 高校生にもなった今は、たまに、少しだけ、朝のテレビ番組で今日のペットを紹介している映像をふと目にした時なんかに、胸の痛みとともに思い出す。


 考えたってどうしようもないのだけど、あのときちゃんと門を閉めていればとか、そういうことを考えては気分が重くなるのだ。


 後悔を引きずるように、重い足を前に進める。


 早く帰ってシャワーでも浴びて、気持ちを切り替えたい。



「おねえちゃん」



 ――振り返ってはいけない。



 知らない子供の声。だけどなんとなく頭に浮かぶのは、黒い枠の中で無邪気に微笑む女の子のイメージ。ご近所さんの娘さん。私もこんな可愛い妹ほしかったな、そんなことを何度か思ったけど、両親の前で口に出すことは躊躇われた。だってほら、高校生だし。さすがに弟や妹がどこからか湧いてくるものでないことは知っている。



「おねえちゃん、ねえ」



 ……うるさいな。



 咎めているのだろうか。私は関係ないのに。だけどほら、よく言うじゃない。近所の大人がもっとちゃんと見ていれば、なんて。


 私は視線を伏せながら、足早にその場を離れようとする。


 前に進むしかないのだ。たとえどんな嫌なことがあっても、それらを忘れて。

 抱えたままでは、ほら、こんなにも足取りが重くなる。


 私は歩き続ける。


 ほら、自宅はもうすぐそこだ――




                  ■




 ――あれは、夢だったのだろうか。


 私が目を覚ますとそこは病室で、近くにいた母親が泣きながら抱き着いてきた。

 あんなにも激しく感情をあらわにしている母は初めてで、私は呆然とされるがまま、後から冷静な顔でやってきた医師や看護師を見ると、母がなんだかとっても場違いに思えた。


 なんでも、私は登校中に事故に遭ったらしい。


 まったく記憶にないのだが、目が覚めて病院にいたということはまあ、そういうことなんだろう。本当に、まったくもって実感がない。


 ぼんやりと、思うのは――は、私をどうしたかったのだろう。

 少なくとも、悪意があってそうしたわけではないだろうとは思う。

 寂しかったのだろうか、なんて。


 あるいは――そもそもは、私の知るものではなかったということ。

 その姿を借りた偽物が、私の後悔に訴えかけ、振り返らせようとしていたのではないか。


 もし、背後を振り返っていたらどうなっていたのだろうか。


 そんな取り留めのないことを日々、ふとした瞬間に考える。


 ――たとえばそう、ラジオなんかを聴きながら。



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