ミチとの遭遇

天田 結之

第1話 認知

 水面に夕日が溶け込み、プールサイドは茜色に染まっていた。

 頭から塩素の匂いがする水がしたたり落ち、ミチは煩わしいとばかりに水泳帽を脱ぎ捨てる。これだけ塩素に浸かっていれば、いつか理科室にあるホルマリン漬けの魚の気持ちもわかるのではないか。あの魚の回りを満たす冷たい水はきっとプールの塩素とは比べものにならないくらい濃いだろう。苦しくないのだろうか。いやきっと苦しいはずだ。

 ――助けてあげたい。

「でも、どうやって?」

「どうって、そんなの、瓶を割って自由にしてやればいいに決まってるじゃん!」

 ミチのくだらない質問に律儀に答えたのは、同じ水泳部でクラスメイトのクラカナであった。クラカナこと倉持夏奈は、3ヶ月前にミチが転校してくるやいなや、お世話係のようにつきまとい、都会とのギャップに困惑するミチを人知れず支えた第一友人である。

「でもさあ、魚ってエラで呼吸するんでしょ。やっぱり真水に戻さないとダメかな」

「この話、まだ掘り下げるのかいキミは。そもそも、あの魚はもうとっくの昔に死んでるし。水に戻したところで意味ないんじゃないの。しいて言えば、早く腐るだけだと思うよ」

「じゃあさ、じゃあさ、一日中塩素に浸かってる私らって、普通のJKより長持ちするってこと? あの魚みたいに」

「うー、それ以上しゃべらないで。なんだか気持ち悪くなってきた」

 クラカナに一方的に話を打ち切られたミチは「ちぇっ」と毒づき、つまらないとばかりに近くにあった固形の塩素を振りかぶってプールに投げ入れた。塩素の塊は小さな波紋を残して夕日色の水に沈み、すぐに見えなくなる。

「よし。これで明日もばっちりアンチエイジング」

「に、なるわけないじゃん、ばーか」

 目には見えないが確かに水底に沈んでいるはずの塩素の塊を、ミチはいつまでも目で追いかけた。自分に足りない何かを、気怠さに耐えながら探し出そうとするように。



  ●暗闇レベル1


 ――何を何処でどう間違えたのだろう。

 月の裏側よりは幾分かましな程度に日当たりがいい自分の部屋で、ハジメは深いため息をついた。暦を信じるとすれば、もう八月。世間で言うところの夏休みも、じわじわと終わりが近づく。

 思い出せば、恥ずかしい人生を送ってきた、とハジメは思う。別に、最近読んだ文豪の作品に影響されたわけではないが、少なくともあの作品の主人公と今の自分は似た心境のはずだ。こうなった今だからこそわかる。

 ――俺の本質は孤独であると。

 別にこじらせているわけではないが、ハジメは自分が最低最悪のクズ人間で、ゴミ以下の存在に思えてならないのだ。

 自分の身の丈にぴったりの大輪田高校を受験し無難に合格。喜ぶ家族を遠い目で眺め、どこまでも冷めた気持ちが抜けないハジメは、教科書販売の日以来、部屋に引きこもっている。つまり、世間で言うところの引きこもりである。

 小学校・中学校と、お調子者というキャラクターで通してきたハジメは、クラスの人気者であった。自身が全く関知していないところで伝説になっていたりもする。

 だがしかし、大輪田高校にハジメのことを知る者は誰もいない。あえて自宅から離れた高校を選んだのも、恥ずかしい過去に区切りをつけたかったからに他ならない。

「は~あ。アルマゲドンでも起こらないかなあ――」

 窓の外に沈む夕日を眺め、物騒なことを呟いたハジメは机に向かって作業を始めた。米びつから取り出したお米の一粒一粒に呪詛の言葉を書き込むのが最近の日課となっていた。



   ***



 ミチが教室の違和感に気づいたのは、新学期初日のことであった。

 掃除の時間は自分の机は自分で教室の後方に下げるのがルールである。

「あの席は、誰の席だっけ?」

 廊下側に一席、誰も手をつけない椅子と机があることを不審に思ったミチがクラカナに聞くと、少し溜めてから「ああ、あれはハジメちゃんの席だよ」という答えが返ってきた。

「ハジメちゃん?」

「と言っても、私は会ったことないんだけどね。ずっと不登校の子なんだ」

「ふ~ん」

 不登校と聞いても、ミチには特に感想らしい感想は浮かばなかった。前に通っていた都会の学校にも不登校児は何人かいたし、テレビやネットでもよく話題に上がっている。

 ――そんな珍しいものでもないか。

「ささ、掃除するべ、掃除するべ」

 箒を持ったクラカナに急かされ、ミチはなし崩し的に不登校児の椅子と机を教室の後ろに下げた。あとから考えれば、別にミチがやらなければならない仕事ではなかったが、そのときだけは、私がやらねば、という使命感があったのだ。



  ●暗闇レベル2


 一晩中米に呪詛の言葉を書き綴っていたハジメは、不意に朝日を浴びたくなった。

 もう何度見たかわからない夕日ではなく、あえて朝日を浴びたいと思ったのは、今のままではいけないというハジメなりの危機感があったからだ。

「行くか」

 引きこもりは、部屋の外に出ることに恐怖を感じるという。

 それが全くのステレオタイプであることを証明すべく、ハジメは意を決し、ドアノブを握る。そして回す。

 だが、ドアノブは回らない。

「誰だよ……、鍵かけたの誰だよ……」

 ハジメは混乱して部屋中を転げ回った。部屋唯一の窓は西を向いており、朝日は差し込まない。窓から顔を出しても、家の東側にそびえるアパートの外壁が邪魔で、朝日は届かない。このままでは朝日を浴びることができない。

 ――俺には朝日を浴びる価値がない。

 外に出ることを諦めたハジメは、小一時間、悶絶した。

 そして、しばらくして冷静さを取り戻すと、あることを思い出す。部屋に用意された米びつに、米を継ぎ足しに来るのは、いったい誰であろう。その者の協力があれば、自分はこの監獄から脱出できるのではないか。

 一縷の希望に、ハジメは胸を躍らせた。

 窓の外から聞こえる雀の鳴き声が、自分を非難する罵声に聞こえ始めるまでは。

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