僕と私は理由を求める

神田椋梨

第1話 真也は理由を認めたくない

「ねぇ真也さん、この式の意味が分からないんだけど教えてくれない?」

「これがわかんないんすか?もうテスト三日前じゃないですか、流石にまずいっすよ」

「うるさいなぁ、私は数学弱者なんだから仕方がないの!ほら教えてっ!」

「はいはいわかりましたよ。えーとxの定義域が……」


紅葉が目に美しく映り、空気が肌には寒くなってきた秋の日。

テストを控えた僕らは、高校の教室の端に居残ってテスト勉強をしていた。


「こんな感じです。わかりましたか、凪さん?」

「まぁ何とかね。えへへ、また聞くよ。ありがとね」

「いえ、自分でよければいくらでも」

「“いくらでも”なんて簡単に言っちゃいけないんだよ。そういうことを誰にでも言っているとすぐに利用されちゃうんだからね」


誰にでも言うわけがない。

君だから言うんだ。僕は君の役に立ちたいんだ。


「いえいえ、自分はそんな八方美人な人間では無いっすよ。そうですね……じゃあ対価に英語を教えてくださいよ」

「英語?英語ならいいよ。私得意だもん。いくらでも聞いてね。ふふふ」


――君だって“いくらでも”って言っているじゃないか。


でも僕は知っている。君が誰にでも優しくて、分け隔てなく接することを。

だから僕と二人っきりで勉強をしている今、きっと何も気にはしていないのだ。

君の眼に僕はどう映っているのだろう。

ただの友人なんて嫌だ。


「そういえば、今日は居残り勉強する人が少ないっすね、と言うか僕ら二人だけ。拓斗も鈴木さんも居ないなんて珍しい」

「そういえばー、そうだねぇ、やけにいつもより静かだと思ったら拓斗君が居なかったのか。それに鈴ちゃんも居ないのはさびしいねぇ。むぅー」


凪さんは机に突っ伏して伸びている。

つられて僕も腕を伸ばして机に顎を付ける。


「きっとみんな塾に通ってるんすよ。来年はもう受験ですからねー。大変だぁ」

「あれっ?言ってなかったっけ?私も塾に行っているんだよ」


――えっ?てっきり塾に行っていないから居残って勉強していると思っていたのに……。


すかさず横を向くと、うつ伏せでこちらを見ている凪さんと目が合った。

大きくてきれいな目だ。凪さんと話すときは必ず目を合わせてしまう。

あまり女子の目を見て話すと気持ち悪いと思われるらしいが、これは不可抗力だ。

それに笑うと上がる口角が可愛らしい。

後ろの窓の外からの逆光と相まってなんだか魅力的だ。


「じゃ、じゃあなんで居残って勉強しているんですか?塾に行けばいいのに」

「ふふ、わかってないなぁ真也さんは。皆で居残って勉強することこそが青春の1ページに刻まれるべきことなんだよ。塾で黙々とやっていても楽しくないでしょ?」

「ははは、確かにそうっすね。それにここでこうやって勉強していれば、美味しい差し入れが出てきますしね」

「そうだよ!差し入れのために居残っていると言っても過言じゃないんだから」


――違う!僕はお菓子目当てに居残っているんじゃない!


そんな会話をしていると教室に大柄なお爺ちゃんが入ってきた。

手にはビニール袋が下げられている。


「おーやってるかぁ?あらら今日は真也と凪ちゃんだけか。はいこれ差し入れだよ」

「わーい、ありがとうございまーす!今日は……バームクーヘンですか、先生センスありますねぇ」


凪さんはすぐに先生の差し入れに飛びついてしまった。


「いつもありがとうございます先生。例のごとく他のクラスには秘密ですよね?」

「そうしてくれると助かるね。定年間近だけど、お小言は言われたくないからね」

「そうは言っても毎回お菓子持ってきてくれるなんて、先生はやっぱり優しいねぇ」

凪さんは既に二つ目のバームクーヘンに手を付けている。


僕も袋を開けてかぶりつく。

甘くておいしい。でもちょっとわざとらしい甘さだ。

大げさなくらいが丁度いいのかもしれない。


「まぁ君たちが自分たちで勉強してくれることが、僕にとってはとても嬉しいことなんだ。差し入れは少しでもそのやる気を継続させてあげたいっていう僕の気持ちだよ。それじゃあ僕は行くから戸締りだけはよろしくねぇ」


先生は教師としての喜びを語った後、教室を出て行った。

差し入れを前に二人で佇むこととなってしまった。


「凪さん、そんなに食べて大丈夫なんですか?女子は色々気にするんじゃ……」

「いいんだよ、たくさん勉強した後には糖分が必要だからね。真也さんが食べないなら私が全部たべちゃうよ?」

「いえ、自分も食べます。第一今日の勉強量で言えば、僕の方が多いのは火を見るより明らかなので、僕がたくさん食べるべきです」

「えー駄目だよ。頭が消費した糖分で言えば私の方が絶対に多いんだから」


そう言って凪さんは残った三つのバームクーヘンの一つを僕に手渡し、残り二つをポケットにしまって席に戻ってしまった。


「ほら、勉強するよ!時間ないんだから!テストは待ってくれないよ!」

「勉強するべきなのは自分より凪さんですよー。ほら頑張って」


こんな中身のない会話でも楽しい。

だが正直言ってしまえば全く勉強に集中できない。

暗記系の科目はてんで頭に入らないから仕方なく計算問題ばかりやっている。

これは絶対に凪さんのせいだ。


それにこんなに教室は広いのに隣に座らなくってもいいじゃないか。

入学した時、僕と凪さんの席は隣同士だった。

それから席替えは何度かあったが、テスト勉強の居残りの時はその最初の席に座るのだ。本当に何故だかわからない。

だからやめて欲しいんだ、勘違いをしてしまうから。


6時前になると電車の時間なので戸締りをして教室を出る。

校門のところで凪さんとは別れる。

いつもならもっと人数がいるのだが今日は二人だけだ。


「それじゃあまた明日」

「じゃあね真也さん。お達者で」


少し歩いてから凪さんの方を振り返る。

高めに結ばれた長いポニーテールが揺れている。

秋の夕暮れの中、赤く染められた彼女の背中は妙に暖かそうだった。

対照的に僕の心は冷えるばかりだ。


僕は勇気が欲しい。

傷つきたくないし傷つけたくない。

でも今の関係を壊したくない。

もし僕の勘違いだったら……、そんなことは考えたくない。


それでも……それでも冷えたままは嫌なんだ。


居残る理由を必死に考えていた。

でもどれも上滑りしてしまう。

テスト勉強なんて都合の良い言い訳だ。


心ではわかっているんだ、凪さんと一緒に居たいだけということは。

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