ヴァルハラフィクサー

朝神佑来

第1話


 眩い月明かりが降り注ぐ夜空のもと、二人の少女が互いを睨んでいた。

 ひとりは赤髪。もうひとりは白と紫。二人の間には大きく距離があるが、一歩でもどちらかが迫れば即座に間合いが詰まるであろうことを、渦巻く殺気が示していた。

 浅からぬ因縁がある。底知れぬ憎悪がある。或いは、果てしなく愛してすらいる。この空間、この世界、この空のもとには、ただ二人の少女だけが存在していた。


 あまねく全てを切り裂かん程の殺気を撒き散らしながら、少女は笑顔であった。

 無い目を赤髪が隠す隻眼の少女も、融け落ちかけた隻翼の少女も。

 眼を薄く開け、白い歯を剥いて、あどけなさを残す顔を歪め。

 今、この瞬間こそを生涯待ちわび続けたと言わんばかりに、笑っていた。


 構えた剣と、向けた槍と、その切っ先よりも鋭い一つと二つの瞳は。

 彼女たちが肉体の時間だけを置き去りに、ヒトでいられなくなった事の証であり。

 

 故に、この咆哮は。

 互いに互いの名を叫んだ、この雄叫びは。


 歓喜であり。

 寂寞であり。

 告白であり。

 想い、であった。



 *



 マルクト国は今日も青空に包まれていた。

 ケセド国やコクマ国はよく雨が降ったり曇天だったりするらしいが、国主であるルシテル様が晴天を好むために、マルクト国は基本いつも晴れている。

 かつて存在したという自然災害というものを学校で習って以来、私は、放課後になると決まって屋上へ足を運んでは夕焼けに照るビル群を眺めてばかりいた。正確に言えば、それらを照らす空、このマルクト国を覆う人工の天蓋を。


 あの透き通るような青をした空は、そこに映し出されたハイビジョンの映像にすぎない。あれがあるから私たちは規則的な昼夜のもと、気象コントロールによる規則的な天候の変化という恩恵を預かれる。適度に晴れては適度に雨が降り、ウィンタースポーツが恋しくなれば雪が降る。それが、私にとっての空だった。

 マルクト国を一望できるここに来ると、だからいつも思うのだった。本当の空がいったいどういうもので、もしそれが災いばかりをもたらすようなものだとしたら、その空と付き合い続けた過去の人類は、その空を私と同じように愛せたのかと。


 日の光が落ち始め、だんだんと夜のとばりが降りてくる頃。

 キィ、バタン、と屋上の扉が開いて閉じる音を聞いてから振り向けば、そこに彼女は立っている。

 整って綺麗なくせにいつも不機嫌そうな顔をしている、ぶっきらぼうが突っ立っているような同級生。白い髪と、その毛先が薄紫に染まっているのが特徴の、ポニーテールの女の子。


 「ロヴィ」


 そんな彼女とは対照的に、私は笑って彼女の名を呼ぶのが常だった。


 「こんばんは、フィス。サボりですか」

 「ぃや、サボってなんかないし。放課後にサボるって何さ、何をサボんの」

 「特進用のカリキュラム――は……無いんでしたね、御免なさい。はあ……愚痴を言える相手もいないと、どうもわたしは、勝手にあなたを同類に見てしまうようで」

 「悪かったね、劣等生で。こんな時間まで居残り?」

 「ええ。まだ教室で机を睨んでますよ、わたし以外は」


 私は手すりに背中を預けて、彼女は手すりに両腕を乗せて外を見る。

 横から彼女の赤い瞳を見ていると、灯り出すビルのネオンが反射して、僅かにちかちかと光っていくのが見える。私の視線には気付いている筈だが、いつも彼女はビルの明かりから目を離すことはしなかった。


 彼女の名をデンドロビウムと言う。


 長ったらしいので、彼女を呼ぶ時や紹介する時は「ロヴィ」という愛称を使っている。マルクト国の国主ルシテル様の一人娘で、あえて古臭く呼ぶなら王女様。生まれが故にやがてはその国主の座を継がねばならない運命にある、生まれながらにして人生の往く先を定められた災難な女の子である。


 名前に関しては、私にもフィサリスという仰々しい名前がついているが、これもなんだか舌が回りづらいので皆はフィスと呼ぶし、自分でそう名乗ることも多い。

 ロヴィは勉強ができるし、頭も回るし、運動もできる。どんな無理難題も何だってこなして見せる彼女は、それでも決められた進路を歩かされ続ける。進学先だって決まっているし、だからそこに行くための勉強をこんな時間までやらされている。特進カリキュラムを選択した生徒は他にも居るが、渡された課題をさっさとこなしていの一番に彼女が屋上に来れるのは、彼女自身の優秀さも勿論あるけれど、それに加えて、どこか漠然とした窮屈さが理由なのだろうと勝手に思う。


 私は、彼女ほどえらい立場にあるわけでもない。

 ただ祖父の代で樹界に行くことが認められて、家の仕事が安定しているものだから、今の今までマルクト国で過ごせているにすぎない。仕事がなくなるか、とって代わられるかすればすぐさま地界に真っ逆さまだろう。そんな立場の人間は、樹界において珍しくもなんともない。特に、マルクト国においては。

 ただそれでも、漠然とした窮屈な感覚に関しては理解できるつもりである。樹界に相応しい優秀な人間であるために、優秀な人材に育つために、優秀になるためのカリキュラムを組まれ、優秀であるためのルールを叩きこまれ、優秀になってお国に滅私奉公を約束する。そうすれば地界に落ちることなく、この国で安定した生活を享受することが出来る。周りの大人たちからそう口すっぱく何度も何度も言い聞かされ続けて、そうして十余年の時間が流れた。

 だから私は、教室からも家からも離れて、こうやって屋上で過ごしている時だけは、誰からも強制されることのない自分でいられる気がしていた。そしてそれは、同じように屋上にやってきては景色を眺めるロヴィにも、きっと同じことが言えるのだろうとも勝手に思っていた。


 「フィスはもう決めましたか?」

 「何を?」

 「進路です。進学するのか、職に就くのか。貴女の家は――鍛冶屋でしたっけ」

 「よくご存じで。一応、進学ってことにしてる。考えたくないだけだけど」

  

 自分の未来について考えたくないので、聞かれたらとりあえずそう答えるようにしていて、だから今は進学先を探しているのだと周囲からは認識されている。されているだけの、宙ぶらりんで中途半端な状態にいるのが私の状況である。


 ロヴィの言った通り、私の家は代々続く鍛冶屋の家系だった。今の時代、実戦向きの刀剣を造れるような鍛冶屋――もとい技術屋はみんなゲブラー国に行くが、うちは専ら観賞用の小綺麗な金属細工ばかり作るのが得意だった為、そういったものを好む先代の国主様に気に入られてマルクト国に居を構えることとなった。

 当代のルシテル様もそのご趣味は親譲りらしく、祖父が打った観賞用の綺麗な槍を献上されたときの満面の笑みは今もありありと思い出せる。家の仕事が安定しているとはつまりそういうことで、あのちんまい国主様に家の仕事を気に入られているから、私は今こうしてここに立っているのである。

 そういえば、ロヴィと私は同い年なのだから、槍を献上したときには既にロヴィは産まれていたのか。ルシテル様はあの身体でどうやって出産したんだろう、とかなんとか考えていると、いつの間にかロヴィの眼がじっと私のことを見つめていた。


 「……どうしたの?」


 私がそう尋ねると、ロヴィはゆっくりと口を開いた。


 「フィスには、夢はありますか」

 「…………夢?」


 返事するよりも先に戸惑いを見せた私に、ロヴィはこくりと頷いて答える。


 「夢です。いつかしたいこと、いつか行きたいところ、いつか見たいもの。……貴女には、そういったものはありますか?」

 「……いや。考えたこともなかったな……。周りからはいつも、いい子でいろ、としか言われないし……。自分のことなんて、なおさら」

 「そうでしたか。……つかぬことを、お聞きしましたね」


 小さく息をついて、また外へ顔を向けるロヴィに向かい、私は問い返す。


 「ロヴィには……あるの? 夢……」


 夢。睡眠時に、あたかも現実の経験であるかのように感じる一連の観念や心像のこと。または、将来に実現させたいと思っている事柄。樹界においては前者の意味で用いられる単語であるが、彼女が言っているのは後者だ。

 理想の人間が暮らすため、理想の人間をつくるための理想郷。出生から死亡に至るまで、あらゆる道筋をそうであれと定められるこの世の中において、「夢」は幼い子供だけが産むことを許される空想そのものに過ぎなかった。その時笑って聞き流していた大人たちに、いつの日か忘れろと吐き捨てられるもの。それを、今も彼女は持っているというのだろうか? 誰よりも夢見るを許されないであろう、彼女が?

 ロヴィはくすりと微笑んで、見たこともない笑顔を見せて答えた。



 「地界に行きたいんです。わたし」



 「はぇ」


 その言葉の理解を頭が拒み、私は豆鉄砲を喰らった鳩になった。

 

 「地界って…………地界? あの地界??」

 「そう、その地界です。樹界の根が張る、外ですね」

 「ここみたく、管理も何もされてない……っていうか人間が生きてるかも定かじゃない、魔女もクリフォもわんさか居る、その」

 「はい。その地界です」

 

 ロヴィのにこにこは失せることを知らなかった。

 まるで私の反応が楽しいと言わんばかりに、こくこくと肯定を繰り返す。


 ……クリフォとは何か、彼女の笑顔を見つめながら改めて考えるべきだろう。

 クリフォとは、肉体を持たない不定の生命体のことである。ひとまとめに「化け物」と呼ばれることも多く、ずっと昔に「悪魔」や「妖怪」と呼ばれてきたものの正体であることが判明している。

 そして、それらは肉体を持たぬが故に、生まれながらにして肉体という器を渇望している。指を咥えて人の営みを見るしかできなかったはずの彼らは、いつしか人間が発する感情や意識、電気信号といった波を掴み取るという手段を手に入れて、人の無意識に滑り込むようになり――そして自らを顕そうと試みて、クリフォは人に「なりそこなう」ようになった。


 その「なりそこない」と呼ばれるものに成り果てたそれを救う手立ては存在せず、迅速な殺害こそが最も有効な手段であると学校でも教えられる。「なりそこない」はクリフォが得た肉体を自らの形に合わせようともがいた結果に発生する現象であり、原型を留めない異形となったそれが、激痛と苦痛にもがいて暴れまわることで周囲に甚大な被害を及ぼすのである。


 私達が住む樹界という場所は、そうして生まれることとなった。


 クリフォが跋扈する地上を離れ、クリフォに穢されることも犯されることもない、人間が人間のまま生きていける国々。巨大な幹と、それに連なる枝の先に成った、直径一千キロメートル前後のガラス球の果実。それが私達の住む国である。

 徹底した管理と統制によって、外部からクリフォが侵入するような事態は無くなり、なりそこないが発生することも殆どなくなったけれど、それは内部に限っての話。ロヴィが口にした樹界の外――即ち地上、地界は未だ行き場を持たないクリフォで埋め尽くされている筈である。


 そしてロヴィは、そこに行くのが夢だと言った。


 少し長めの思考を経て、豆鉄砲を喰らった鳩は漸く人に戻ってきた。


 「地界は…………いいものじゃ、ないと…………思うけど」


 人に戻れた私がやっと口にできた言葉は、そんな程度のものだった。


 「いいものじゃないなんて、ここも同じでしょう。程度や形に違いがあるだけです。どちらも同じ世界なのだから……行ってみたいと思うのは自然でしょう?」

 「……いや、そうかもしれないけど、だからって。……ばけものに、なっちゃうかもしれないんだよ、ロヴィ?」

 「なりそこなう心配をしてるんですか? ふふっ。あれらは人の感情や意識が強くぶれた時を狙われなければ起きませんよ。だからわたし達には無償で精神安定剤が処方されるんじゃありませんか。…………まあ、けど、でも」


 そう言ってロヴィは、その細くてしなやかな右腕を空に向けて差し出した。



 「いいかもしれませんね。なりそこなって、なにもかも、滅茶苦茶にするの」



 その言葉は。

 やがて国を担うであろう王女が見せるものにしては、あまりにも恐ろしく。


 その姿は、

 

 見惚れるほど、儚かった。


 伸ばした右腕をそっと下ろして、かつかつとロヴィが私に歩み寄る。

 口にした言葉の意味と、その姿の強烈な印象に思考を奪われていた私は、その所作に反応を示すことができず、容易く距離を詰められてしまう。

 

 「は、ぅぇ」


 情けない声しか出せない私の唇に、彼女の人差し指が押し当てられる。 

 すぐ目の前に彼女の瞳がある。鼻腔に届く彼女の匂いと、肌を覆う彼女の体温と、唇を塞ぐ彼女の指が、私の心の内をじわじわと征服していくようだった。

 目を細めて妖しく笑う彼女の顔は、たった今はじめて見た代物で。


 「秘密ですよ?」


 目の前のデンドロビウムという少女が持つ、正しく生来の姿であるように思えた。


 

 りん、りん――と、予鈴が鳴った。


 最終下校の十八時が近いことを示す鈴の音だ。

 それが鳴って少しして、私の許から彼女の指がするりと離れた。

 

 「そろそろ帰らないと。母さんに心配されますから」

 「ぁ……うん……」

 

 かつ、かつ


 一歩ずつ、私から離れていく彼女が立てる足音が、だんだんとスローモーに聞こえてくる。

 一歩、一歩。屋上の扉に向けて、私の許から彼女が去っていくにつれ、つながった何かがぷつりと途絶えてしまいそうな気がしていた。地界に行きたいと彼女は言った。ここには存在しない何かを求めているようだった。それは何だ? クリフォか、無法か、無秩序か、それとも不規則か――……いや。

 彼女は、それらすべてを求めているんじゃないのか。

 法を、秩序を、規則を、戒律を、何もかもを捨て去りたいと、そう願って?

 硬直していた脚が動き出す。彼女が空に差し出したように、私も彼女に右手を差し出した。同じだ。まるで同じじゃないか、私と。彼女の言葉で、私の内にずっとあった漠然というものの形がはじめて明瞭になった。

 それらが窮屈というものの正体であることを、彼女はとっくに知っていたんだ。


 「ロヴィ」


 呼び留めた背中が、ゆっくりと振り返る。


 口にしようとして、喉のあたりでつっかえる。

 私も、本当の空が見てみたい。外というものを知悉したい。無法を、無秩序を、世界というものの本来の姿を。だから私の夢は、きっと。


 貴女と。

 同じ秘密を、共有できるならば、と。


 「……フィス?」


 巡る思案が、矢張り私を拘束した。

 そんなもの全部、私ひとりの妄想にすぎない。勝手に考えを巡らせて、勝手に彼女に私を押し付けているだけに過ぎない。その思いを口にして、否定されない保障がいったいどこにある? 怖いのは拒まれることじゃない。徒に彼女を傷つけることだ。

 「わかるよ」、「一緒だよ」、「そうだよね」。

 そんな容易い言葉が人を容易く殺しうることを、私はよく知っている筈だろうに。


 伸びた右手はゆっくりと下りて、取り繕った笑顔の仮面が被される。


 「また、明日ね」


 それでも卑しく、私の欲がこぼれ出て。

 デンドロビウムは、困ったような顔で笑って、そして答えた。


 「ええ。また明日」


 キィ、バタン、と扉が開いて閉じる。

 私と彼女をつなげていた何かは、もうとっくに切れていた。

 日の光が失せかけた空のもと、私は屋上でひとりになった。


 「はあぁぁぁぁ…………」


 大きく、長く、息をついてから。


 「……帰るかぁ」


 そうするより、他になかった。

 どうせ、明日も会えると思っていたから。今までがそうだったし、勝手にお互いが同じ場所で顔を合わせていただけではあったが、二人が揃うことが常であったことは事実なのだから。

 けれど、夢くらいは……私も一緒だよと、意を決して伝えるべきだったかもしれない。ここを出て、ここでは知りえないことを知りたい。それは確かに、まぎれもなく私自身の意思だから。

 明日、また会えたら改めて伝えようと思った。

 教師に見つかる前にと、そそくさと帰路についた。

 途中でロヴィとすれ違うようなことはなかった。



 ロヴィが屋上に足を運んだのは、その日が最後だった。



 * 

 

 

 受験が終わり、そこそこの学校から合格通知が届いた。

 両親はよく頑張ったと褒めてくれたが、私の心はずっと上の空だった。


 ロヴィと屋上で会った最後の日の翌日。

 流れていたニュースの中に、ルシテル様の横に立つデンドロビウムの姿があった。

 仰々しい二つ名と長ったらしい本名と、派手な衣装を身に纏っていた。

 ニュースの内容は何一つだって理解できなかったけれど、彼女が私の横に立つことはもう二度とないのだろうという確信だけは持てた。


 どうしようもない寂しさと訳の分からない無力感で胸がいっぱいになって、友人連中に相談しようかとも思ったが、いったいどんな言葉にすればいいのかがてんでわからず、自由登校を命じられた最後の一か月間は大半を家の中で過ごしたが、たまに学校に足を運んでは屋上でぐぇぇと鳴いていた。

 

 (メジャーデビューした推しに対する気持ち的な? かかさず読んでたウェブ小説の作者が書籍で活躍するようになっちゃった的な? いやそりゃあ私個人が勝手にこじらせて勝手にショック受けてるだけっちゃそうなんだけどさあ、それはそれとして寂しいもんは寂しいわさぁぁぁ……)

 

 卒業式を終えたこの日も、教師の目をかいくぐって屋上に足を運んでは、やっぱりぐぇぇとひとしきり鳴いてから数分でそこを後にした。廊下を清掃する小型ロボにまだ残ってるのかと怒られながらそそくさと校舎を後にして、いずれ来る春休みに思いを馳せてどうにか気持ちをプラスに向けようと試みるのだった。


 (……けどまあ、せめて……もう一回ぐらい、話したかったなぁ……)


 やけに静かな通りを歩き、慣れ親しんだ我が家に着く。

 人の気配は無い。両親は帰ってきているはずだが、開けっ放しのカーテンの向こうには誰もいないリビングがあった。テレビの電気もつけっぱなしだった。

 鍵は持っているので、がちゃりと開けて帰宅する。


 「ただい……ま」


 返事はない。

 家の中は明るかった。


 出かけているのだろうか?

 リビングやキッチンを見て回るが、帰って来たらしい痕跡があるだけで、肝心の父さんと母さんがどこにも居なかった。

 

 「お父さん? ……お母さん?」


 呼べど、自分の声が聞こえるばかりだった。

 きっと出かけたのだろう。手帳に連絡のひとつでも寄越してくれればいいものを。つけっぱなしのテレビの前に陣取って、面白くもない昼過ぎのドラマに目をやってみる。どこかで見たことあるような俳優が、実に冗長な台詞で間を延ばしていた。なんだか気が散って、ふとフローリングに目をやると、赤黒いジャムのようなものがぺとりと付着しているのが見えた。母さんが零したのだろうか?

 ……手帳。そうだ、手帳端末だ。こちらから連絡を入れればいいじゃないか。

 ポケットから手帳を取り出して、液晶をスワイプして連絡先を開く。父さんと母さんのアイコンを見つけて、どちらかをタップしようと試みた時だった。


 「……あれ?」


 たんたんと指先でつつけど反応を示さず、一切の動作が効かなくなる。

 その内に手帳の液晶が真っ赤に光り出して、警告音と共に音声を発した。


 『都内――区――の――にてクリフォ値の超過を観測。周辺住民の方々は、セフィラの誘導指示に従い速やかに避難して下さい。繰り返します、都内――区――』


 聞き覚えのある住所が、そこから流れていた。

 なりそこない警報なんて久々に聞いた。それも、ずいぶん近いじゃないか。


 (久しぶり――いつぶり――前にこれを聞いたのって――いつだっけ)


 なりそこないが現れることは樹界の中じゃ随分珍しいことだった。珍しいということは、本当に時たま起こり得るということだ。なりそこなわないまま人の精神に潜むことで人を乗り物としてクリフォが侵入してくることはままあるし、だから樹界に居ても絶対になりそこなわない保障というものはない。だから私達には定期的にメンタルチェックが行われていて、希望すれば精神安定剤の処方も受けることが出来る。


 (前は――そうだ――前? 前なんてあった? いや)

 (あったんだ、確かにあった、忘れ――いや、思い出さないように)

 (おじいちゃん、そうだ、おじいちゃんが)

 

 何より、樹界においてもクリフォはいる。クリフォと呼ぶのは罰当たりだから、誰も呼ばないようにしているだけだ。ただ悪魔や妖怪と同じ、不定の生命体であって人の肉体を求めるという共通点に則れば、神様だってクリフォと言える。神様即ち信仰心は樹界のガラス球の中にぎっしりと詰まっているし、強い宗教観や信仰心もまた抑制の対象であるから、そう、だから常々、精神医療を、行っていて。

 記憶と、認識の相違も、そうやって、創り出す。


 (そうじゃない、違う、よく見ろ)


 (よく見ろ)

 (この部屋を)

 

 だから時々、薬との相性が悪いと、幻覚と、幻聴を引き起こす。

 例えば、私が座っているソファに、なにかの皮が付着しているとか。

 テレビが赤いとか。床が赤いとか。すべてが肉と臓物で汚れているとか。

 全部、フローリングに付着していた赤黒いジャムが見せる幻だ。

 

 (そうじゃない、そうじゃない、そうじゃない!! 振り返れ、今すぐ!!)


 ずるずると何かが這う音も。間延びして延々と続くゲップみたいな声も。全部。

 私の背後に居る、絶え間なく脈動と変動を続ける肉塊が出す音で。

 出力しているのは、そこから生えた、母の頭。

 

 「ぁ」


 肉塊が、立ち上がって、私を見下ろした。

 ぼたぼたと引きちぎれて零れ落ちた肉と肉の間から、父の頭も転げ落ちた。


 「ぃいぃいぃいいぃいあぃああぁぁあぁああああぃぃぃいぃぃぃぃいず」

 「………………違う」

 「ぁぁああああああああああああああああああああずぅうううぅうぅぅ」

 「厭だ、おじいちゃん、なんで、また」

 「ふぃぃぃぃぃぃざぁぁぁああぁぁあじぃぃぃいいぃぃぃぃぃぃいいづ」

 「なんで――お父さんも、お母さんも、なんで、なんでッ、なんでッッ!!!」


 変動し続ける不定であるはずのそれが、指と、腕によく似たものを形作り。

 ぶるぶると震わせながら、私の頭に近づく、寸前。


 「ぶぎぇッッッ」

 

 窓ガラスを突き破って飛来した一本の槍が、肉塊を壁に串刺した。

 

 「痛ぁぁぁあぁぁだぃぃぃぃいいぁぁぁあぁぁああああぁあッッ」


 同時に、たくさんの足音が轟き始めて、床を揺らす。

 ごてごてした黒いスーツを身に纏った沢山の人が家に押しかけてきて、土足で踏み荒らしながら銃器を構えて、忙しなくなにかの機械をがちゃがちゃと設置し始めた。それらが誰で何であるかを私は知っていた。学校で習ったから。いや、それ以上に。

 前にも、経験したことがあったから。

 

 セフィラだ。

 樹界における、なりそこない駆除のための集団。

 なりそこない警察、なんて言い替えてもいい。


 「対象のクリフォ値、未だ安定せず。対象を含め、全域で高濃度のクリフォが検知されています」

 「ご苦労。……一軒家で助かりましたね。集合住宅だったら目も当てられない」 


 抜けた腰を持ち上げることもままならない状態で、黒いスーツを着ていない人が最後に家に足を運んできた。他の人達に比べると、いくぶんか小さく見えた。

 白い髪と、紫の髪先と、それを纏めた、ポニーテール。

 女の子だった。彼女は父さんと母さんを串刺した槍を引き抜くと、横目で私を静かに見下ろした。見覚えのある、綺麗な顔だった。


 「特級粛清官殿。クリフォ値の超過対象は、この家そのものです」

 「…………」


 「……ロヴィ」


 その顔は。

 いつか、もう一度目にしたいと願っていたもので。

 その姿と、佇まいは。

 彼女が、既にここでないどこかへ行ってしまったことの顕れで。


 「ロヴィ……だよね。……よかった。また……会え」


 それでも、今はただ、私の前に、また彼女が現れてくれたことが


 「が」


 「…………」


 「ぁ」


 嬉し


 「なりそこないが――人の言葉を喋るな」


 いつかのように、彼女が差し伸ばした手は

 手の先は

 私に向かい


 槍を


 

 *



 どちゃりと音を立て、なりそこなって形を失いかけていた少女が倒れ伏す。


 「マルクト・セフィラ管制部に連絡を。早急かつ大規模な浄化作業が必要です」

 「了解しました。……デンドロビウム粛清官」

 「何か?」

 「彼女は――…………」

 「なりそこないですよ。器の記憶に引っ張られ、言葉を話すことなど珍しいことでもありません。それとも? この融解しかけていた肉塊が、人だとでも?」

 「…………いえ」


 穂先を振るい、血肉を飛ばして、デンドロビウムは視線を合わすことなく命じた。


 「クリフォは伝播します。意識や感情といった波を捉え、破壊をもたらしながら撒き散らされる。引き続きクリフォ値の観測を行って下さい」

 「……はっ」


 自ら破壊した窓ガラスを通り抜け、周辺に人の気がないことを探る。

 同時に、部隊員が全員屋内に展開していることを確認し、筒状精神安定剤を手早く取り出して吸引した。

 すぅ、はぁ、と深く息づき、指先でへし折ったそれを再び胸元へ仕舞い込む。


 (見知った顔のなりそこない――これで何件目? わたしが手にかけたのも、これで……駄目、落ち着きなさいデンドロビウム。取り乱せば、自らがなりそこなう)


 マルクト国をはじめとする樹界下層の国々において、なりそこないの発生件数はここ数年で急な上昇傾向にあった。下層は地界に近いということもあり、地界から昇って来るクリフォが上層に至らぬよう受け止めるフィルターの役割も担っていたため、もともと上層や中層に比べて発生件数自体は多かったものの、それでもデンドロビウムが対処したなりそこないの数は際立っていた。

  

 デンドロビウムがこの地位に居るのは、彼女自身の身を案じたルシテルの意向によるものである。市政官として国を守る立場に立ち、指揮権を持つセフィラとなれば、なりそこないの対処を行いながら彼女を安全な場所に匿うことができると。

 だが、デンドロビウムは市政官ではなく、粛清官となることを選んだ。

 自らの意思で槍を持ち、自ら前線に立って最高戦力として戦うことを望んだ。


 「なりそこない二体のパッケージングは完了しましたか?」

 「はい。浄化班もじきに到着するとのことです」

 「そうですか。――では撤収しますよ、みんな。次の現場が既に定まっています」


 その一言で、セフィラ隊員たちはぞろぞろと無人の家を出始める。肉塊と化したなりそこないの死骸が詰まった大きな黒い箱を二人がかりで持ち出し、最後の四人が装甲車に乗り込むと、入れ違いに浄化班が到着する。

 

 上空にまで届きそうな、高く伸びた白い炎。

 それが、その地のセフィラの活動終了を告げるのろしであった。


 

 *



 『君は市政官より、粛清官の方が向いているぜ』


 そんな、あんまりだ、と叫ぶ声があった。

 彼女は学生だ。来年には受験も控えている。私の母校で、私と同じく、満ち足りた学徒の生活を送らせてやりたいのだ、と。私のそれとは違う、平穏無事な生をこそ、彼女に、娘にくれてやりたいのだと。

 両者の言葉を、当人である娘は静かに聞いていた。

 何故自分が粛清官に向いているのか、続く言葉を待っていた。


 『瞳だ。瞳の形が僕と同じなんだ。魂の形と言い替えてもいい』


 射し込む人工太陽の明かりを吸い込んで解き放つ、黄櫨の髪がはためく。

 母は怯えていた。娘は納得していた。

 この者と相対する度、わたしとこの人はどこかで似ているようだと感じていたから。


 『強制はしない。絶対でもない。勅とは違う。あくまで、僕個人の意見だ。畏まらずに聞いてくれ、デンドロビウム』

 『…………はい。タナトス様』

 『君が望むなら、僕との契約を許そう。それだけの価値が、君の魂には在る。君自身の意見を聞かせてくれないか? ――デンドロビウム』


 『僕という神と契った魔女となり、この地のセフィラとなることを望むか?』

 

 樹界の植林者、タナトス・ヘルヴンズ・アーダメイヴのこの問いに。

 デンドロビウム・オムニシアはイエスと答えた。


 ルシテル=マルクト・オムニシアは、国主としてそれを祝し。

 ただ母として、拭えない嘆きを抱き続けた。



 *


 

 「……積極的ですね、貴女は」


 静かな、静かな樹界の夜の底。

 母から授かった宝槍を携え、自室と繋がる広いバルコニーに、彼女は足を運ぶ。


 脱走の報告があった。管制部と、クリフォ管理局からの連絡だ。

 パッケージングは完璧だった。対処も迅速だった。そんな言葉に意味は無い。

 現に今、それは自らの力で外壁を昇り、ここにまでたどり着いている。


 その者の目に、生気はなかった。

 デンドロビウムには、それこそが人間らしいと思えた。

 夢も光も希望も未来も何もない。それでも這い、ここに来たことを。

 手ずからもう一度処分を行うという形で、賞賛としようとした。


 「……あのパッケージは、思考を奪う。意識や精神といった波長、波を奪い去る――防音室を想像してもらって構いません。それに、一寸の隙間なく、敷き詰める。そうすることで、あなたのようななりそこないを脅威の座から引きずり落とす」


 這いずるそれに、穂先を突き付ける。

 生気のない瞳がデンドロビウムを見上げる。崩れ落ちた体で、それでも。


 なりそこないは、活力に満ちている。生きるという渇望で突き動く。

 その想いすべてを奪い去り、ただの肉塊へ貶めるのがパッケージであり。

 それは即ち、目の前のこの存在には、何もかもを失って尚も突き動く心があった証左に他ならない。


 「仮にわたしと貴女の立場が、真逆であったとしても――」

 「――きっと、同じことをしたと思います」


 その正体がなんであるかを、理解しているが故に。

 デンドロビウムは、その目を真っ向から見つめ返した。


 「左様なら」



 「…………フィス」



 その名を告げた、その瞬間。

 失われていた生気が、どこかから湧き立ち。

 その瞳に、光が、力が宿るのを、デンドロビウムは確かに視た。


 ――夜の静謐を撃ち砕く金属音が轟き響く。


 突き出された宝槍の穂先は、刃と化したそれの右腕で受け止められた。

 圧を通じて意志が届く。踏みしめる両脚を形作り、それを支える腰を組み立て、首を据えて、それは立ち上がった。

 

 「ッ――――――!?」


 静謐を撃ち砕きながら、渦巻き立つ炎が暗闇すら夜から奪い去る。

 黄金に染まる瞳を見た。炎の色に赤く染まる長い髪を見た。

 眼球がはじけ飛んで血液を吹き流す左の眼孔を見た。

 残った右の瞳で、こちらを確かに見つめるフィサリスの姿をそこに見た。


 「――ロォォオオヴィィィィィイイイッッ!!!!!!」


 左の眼から血涙を、右の眼から涙を流し、振りかぶった右腕でデンドロビウムの槍を弾くフィサリス。そこから半歩踏み込み、まっすぐに斬り返す。その剣戟を柄で受け止めるものの、乗せられた力はデンドロビウムの身体を後方へ向けて大きく吹き飛ばした。

 

 (何――!? 何が起きッ――いや! 納得よりも理解を優先しなさいデンドロビウム!! 数秒前まで彼女はなりそこないだった、クリフォに食われた人間だったッ!! それが今は――わたしを吹き飛ばす膂力すら持ち合わせ――……!?)


 噴き上がる炎熱が自らをも焼き尽くし、苦悶に表情を歪ませながらもフィサリスは前を見続ける。足元に渦巻く炎、白銀の剣と化した右腕、人の形。その様相を記憶と知識に当てはめるのなら、彼女は――。


 「内なるクリフォと契り――魔女になったの……!? フィスッ!!! わたしと同じ、忌まわしい魔女にッ!!!」


 駆け、宝槍を振りかぶりながらデンドロビウムは問いただす。

 相対するフィサリスはそれに応えるように、そうすることを望み、求めていたと言わんばかりに剣を振るい、その槍戟を受け止める。

 

 (――剣が……重いっっ!? 成って日が浅いとはいえ、わたしの契約相手は樹界の最高神ですよ……!? 彼女はッ――いったい、何と……!?)

 「…………し……かった…………ッ!!」

 「……っ!?」


 「許せなかった、寂しかった、寂しかった、許せなかったッ!!!」


 やがて形勢は反転し、フィサリスの剣をデンドロビウムが受け止める。

 吐き散らされる言葉と炎が見せる姿は、真昼の明るさを優に凌駕し。

 刃と刃を隔てて尚、肉薄する距離に立つ彼女の姿は、デンドロビウムにとって何よりも明確な『彼女』に見えた。


 「私の元から離れてしまった貴女が!! 貴女の背に二言目を繋げられなかった私が!!! 恨めしかった、許せなかった、私は――私はッ!!! 貴女と!! 同じ時間と!! 同じ秘密が!!! ――欲しかったぁあぁああああああッ!!!」


 そして、その在り方は。その有様は。

 自分自身と同じ胸中を吐き出す姿は、まるで。


 「だったら――それごと抱えて死んでおきなさい、フィサリス・ノウェル!!! 同じ化け物に成り果ててまでお互いを求めて、いったい何になると言うんですかッ!!!」


 鏡写しのようだと、自己ごと嫌悪せずにいられなかった。


 刹那、二つの切っ先は互いに互いの胸元を向く。

 一人は衝動のままに。一人は決着のために。

 内なるものを喰らいつくして尚、留まることを知らない炎が目指す果ては、何もかもを焼き尽くした後の自失であり。それを鎮めること叶うのは――両者ではない、他者の手によるものにしか、有り得ることはなく。



 「――――ぁ」

 「が――――っ!!?」



 そして、それは――唐突に。

 第三者が放った、一発の銃弾によって果たされた。


 向かい合った体勢で同じ銃弾に撃ち貫かれた両者は、交錯する形でどさりと倒れ。

 闖入者はその片方、赤髪の少女だけをそっと両腕で抱えた。


 「……待――ちな…………さっ……」


 倒れ伏したデンドロビウムが視線を向けた先には、人工月の明かりを吸い込んで反射する、清流のような銀色の長い髪があった。

 見えたのはそれと、白いジャケットの裾の先。たったそれだけではあったが、この地に似つかわしくない装いから、それが地界から来た存在なのだと、薄まる意識でデンドロビウムは推測する。


 「…………魔……女…………ッ」


 絞り出したその声が、白い魔女の飛び立つ脚を止めることはなかった。

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