10.『月夜』

 翌日、日高が目を覚ますと室内はまだ薄暗く、襖の隙間から差し込んだ光が北山の布団に細く道筋を付けている。


 ーーこの細さでは、量子論的振る舞いは見られないな


 部屋を舞う細かいチリに反射し時折キラリと光る瞬間をぼんやりと追いながら、日高は徐々に意識を覚醒させていった。


 男子勢はまだ全員布団の中だ。

 沙織はもう起き出しているだろうか?


 勝手に襖を引くわけにもいかず、とりあえず洗面所へと向かう事にした。




「おはよ〜ひだか〜」


 洗面を終えてその足で食堂に向かうと、誰もいないがらんとした部屋の隅で沙織がひとり腰掛けていた。脇には丸っこい石油ストーブが置かれ、上に置かれたヤカンがパチパチと音を立てている。


 沙織は朝食を食べるでもなく、窓の外を見ながらボンヤリと座っている様だった。手には湯呑みが握られ、机の上にはポツンと急須だけが鎮座していた。


「おはよう… ってかもう昼だな。沙織は朝食食べたのか?」


「朝食というほどのものは食べてないわよ。オヤツにラスク買ってあったから、それをちょっと食べただけ」


「そうか。何にしてもお腹が減ったな…」


 日高が椅子を引き、沙織の隣に腰を下ろすと脇から空の湯呑みが差し出された。


「お茶はセルフサービスです〜」


「はいはい、わたしゃ出がらしでも結構ですよ」


 日高は急須から湯呑みに茶を注ぐと、2、3度ふぅふぅ冷ましそれからずずっとひと口飲んだ。


 ガラス窓の向こうから差す太陽の光が、外側からじわじわと身体を暖めていく。


 背の低い生垣に整えられた山茶花の艶やかな深緑が、生き生きと日光を跳ね返している。


 2人は時折お茶をすすりながら、会話もなく窓の外を見つめていた。

 心地よい無言が食堂の中を漂っていた。



「材料もないし、お昼はどこか食べに行きたいわね。ーーもうそろそろ皆起こした方がいいかしら?」


「うん、そうしよう。さーて、起こしに行きますかね〜」


「私、昨日はお風呂に入れなかったから、帰ってきたらシャワーでも浴びたいわね。日高起こしてきてよ、私は管理人さんに相談してくるわ」


「わかった。…じゃあいこうか」


 2人は名残惜しそうに陽だまりから身体を引き揚げると、それぞれ動き出していった。




〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



「やったー!もう一泊させてもらえるんですか!?」


 街中に一軒しかない何でも屋と化した食堂で、うどんをすすりながら北山が喜びの声を上げる。


「まぁ、もう既に13時を回っているし今から帰るのは難しいからなー。観測の疲れを甘く見ていたよ。それに、今夜も晴れそうなんだろう?」

 瀬川はキムチチャーハンを口に運びながら答える。


「嬉しいですねー。初日は全然晴れなかったし、昨日は観測に手一杯で星見てる様な余裕無かったですからね」

 日高は地元の郷土料理だというチラシ寿司だ。


「食費は我々からの持ち出しだが、宿泊費は助成されるからな。一晩中月があるが…天気が良いなら泊まらない理由は無いだろう。で、今夜はどうするんだい?」


「実は、昨日伊勢崎先輩にカメラを貸してもらったんです。ーーほら、ノイズ処理の話があったじゃないですか。その辺を理解するには、自分で写真撮って編集してみるのが一番早いって、それで伊勢崎さんの使ってないカメラを貸してくださったんです」


「あれ、そんな話していたかな?」


「あー、大西先輩達は寝てましたね」


「ーーすまんな。昔は強かったんだがな」

 瀬川が目を伏せながら言う。


「とにかく、今夜は星の写真に初チャレンジ!!! いやー楽しみだなぁ!」


「おおぅ…」

 生姜焼き定食の最後の一切れを食べ終えた北山が、若干引き気味に日高を見ている。

 沙織は終始苦笑いだ。


「まぁ、帰りは寝てて良いから最後の夜を目一杯楽しめよ」

 瀬川がそういって、湯呑みの茶を呷った。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




「さて、ではやりますか!」


 北山が元気よく号令を掛けると、5人は手分けして車のトランクから荷物を降ろし、代わる代わるグランドへと運び込み始めた。


「あっ、瀬川先輩、三脚はその辺でいいです」


「ん? もっと真ん中じゃなくていいのか?」

「いいんです、奥の方は鹿が来ますからー」

「なんと…鹿が出るのか…」


 瀬川は若干眉を寄せると、ぐるりとグラウンドを見渡す。まだ薄明の残るグラウンドには動物の気配は無い。


「大丈夫ですよ。刺激しなければ襲ってこないと思いますよ。そんな感じでしたから」

 と、日高が補足する。


 大方機材が揃った所で練習も兼ねて望遠鏡の組み立てを沙織がやる事になった。


 望遠鏡と一言に言っても、厳密にはそれは3つの異なるパーツに分けられる。今回の場合は、三脚、赤道儀、そして望遠鏡本体ーー鏡筒と呼ぶ事もあるーーだ。


 天体を大きく拡大するという性質上、天体望遠鏡は振動に非常に敏感だ。その為機材は下に行くほどゴツく頑丈である。


 沙織が組み立てる口径76mmの屈折式望遠鏡は、持とうと思えば片手で持てるほど軽量なものだが、ステンレス製の三脚は望遠鏡本体より大きく重厚だ。


 よいしょと広げて石突きを地面に突き刺し上から軽く体重を掛けて座りを確認すると、次はその上にケースから出した赤道儀をそえつける。


 赤道儀というのはいわば望遠鏡を天体に向け続ける為の追尾装置だ。


 アマチュアが使用するようなポータブルのドイツ式赤道儀は大方、ウォームギア機構とステッピングモーターを内蔵しており、地球の自転と反対方向に360°を1恒星日で回転する事で自転の影響をキャンセルする事ができる仕組みだ。


 この機械仕掛けの追尾装置はエンコーダー等の補正機構を持たないものでも理想的な追尾精度に対して±数秒角ーー1秒角は1/3600°ーーという高精度を実現しているものが多い。

 その為には、高度な機械加工技術と、高い剛性を持った躯体が必要になる。結果として、高価で重たくなってしまうのが赤道儀の常であった。



「よーいっしょっと! で、ここのネジを締めて… はい。おっけー完成!!」


「オッケーじゃないよ沙織… 極軸導入しなきゃ」


「きょくじくどうにゅう?」


「そう、赤道儀の回転軸と地球の回転軸を合わせないと正確に追尾できないんだ」


「えー、、そこは手動で設定なの? こんな時代なんだから、ボタン1つで向きを自動認識して勝手に合わせてくれたりできないのかしら?」


「ま、まぁそういう機種も無いことはないけど…高いしやっぱりビギナーには基本が分かるシンプルな機械が良いと思うんだ」


 そう言って日高はポケットからスマホを取り出すと画面にコンパスを出して、沙織の設置した望遠鏡と向きを見比べ始めた。


「うーん、もうちょいこっち」


 望遠鏡に強い振動を与えない様に、三脚をずりずり動かして多少角度を調整すると、今度は赤道儀の軸端部をクルクルとねじり始める。

 

 その部分は蓋になっている様で、程なく取れると中からプラスチックのパーツが顔を出した。


「さぁ、沙織 ここ覗いてみて」

「えっ、ここも望遠鏡になってるの?」


「そう、ここが極軸望遠鏡って言って調整専用の望遠鏡なんだ。調整が終わったら使わないから、普段はカバーしてあるんだよ」


「そんな仕掛けがあるのねー。 うーん、幾つか星が見えるようだけど… 」


「一番明るいのがあるだろう? それが北極星だよ」


 沙織は一旦赤道儀から顔を離すと、北の空に視線を彷徨わせた。


「えーっと、あれがカシオペアよね。ーー線を結んで延長して… あれが北極星ね! 

 んー…日高は北極星が望遠鏡に入ってるって何でわかったの?」


「あぁ、赤道儀を真後ろから覗き込めばだいたい視野に入ってるかどうかは分かるんだよ。ちょっと慣れが必要だけどね」


「そこは訓練が必要なのね…。とにかく!

 この北極星を極軸望遠鏡の視野のど真ん中に合わせればいいの?」


「いや違うんだ沙織君。北極星は地球の自転軸に近い位置に見える恒星だけど、その位置は厳密に地球の自転軸とは一致していない。北極星も一晩の中で非常に小さな円を描いているんだ。わかるかね?」


「は、はい… 日高先生?」


「つまり北極星を頼りに地球の真の自転軸の位置を知るには、日付時刻を元に北極星の見かけの位置を決定し、そこに北極星を合わせるという操作が必要になるのだ」


「は、はあ… っていうか日高何そのキャラ…」


「ーー恥ずかしくなるから真顔でツッこまないで… とにかく日付時刻を合わせよう」


 そう言うと日高は金庫のダイヤル錠の様な細かく数字の刻まれたリングをぐるぐる回し、続いて赤道儀の赤緯体もぐるりと回すとポケットからスマホを取り出して望遠鏡から離れた。


「さ、もう一回覗いてみて」


「はーい。 ーーさっきと何も変わらないわよ?」

「良いからそのまま見てて」


 そう言うと日高はスマホの画面を光らせ、極軸望遠鏡の入射側ーー沙織が覗いている方と反対側ーーに斜めにかざした。


「あっ! なんか模様が見える! 何かしら、目盛り??」


「そう、それが北極星を導入すべき位置を示す目盛り。レチクルって言うんだ」


「で、日高は何でスマホで照らしてるの?ーーーもしかして、レチクル光らせる照明がついてないの??」


「…暗視野照明はオプションだったらしくて、購入当時は付けなかったみたいだね…」


「ーーとにかく、この目盛りに合わせれば良いのね。 えーっと、75、80、85、90、00…

 どこに合わせればいいの?」


「それ西暦の下2桁なんだ。北極星は歳差運動で年々位置が変わるからね。23年ぐらいの位置を狙ってくれ」


「00までしか無いんですけど…」

「勘で頑張れ」

「これで精度が要るなんて言われても…鬼ね」


「慣れたら意外と何とかなるもんよー」


 沙織は赤道儀の方位角ーー左右ーーを調整するネジと仰角ーー上下ーーを調整するネジを締めたり緩めたりしながら調整をしていく。


「うーん、、うーーー… おっけ! 日高、確認してくれる?」


「はいよ。ーーおっけ。お疲れ様。もう三脚をズラさないように気をつけて。動いたらやり直しだからね〜」


「はぁー、これは難しいわよ。手順覚えるまでに何度かやらなきゃダメね。こんなもの、プロユースじゃなくて市販品として販売してるなんて中々ハードルが高い業界ね」


「星の人達の間では当たり前になってしまっているけど、確かに言われてみると確かに…」


「これ、子供にせがまれてお父さんがうっかり買っちゃった日には半ベソよ? そういう意味では、高くても自動導入?の機能がある機種の方がいいのかもね」


「そうかもなー。使えなきゃ面白さも伝わらないもんなー…。 さぁ、次は望遠鏡本体のファインダーの調整をしよう!」


「えーーーまだあるの!??」


 沙織の魂の叫びを聞いて、横で双眼鏡を三脚に組み付けていた大西と瀬川が思わず笑い声を上げた。






 望遠鏡を無事に組み終えた頃には、すっかり夜の帳が降りていた。ただ、南の空には高く煌々と月が照っている。



「思ったより月、明るかったわ…」

 銀マットにごろりと寝転んだ日高がぽつりと漏らす。


「初日は曇ってたから真っ暗に感じたけど、月明かりがあると全然印象違うわね…」


「それな」


「ーー諸君、すまない…私の力不足で…」

「いや、大西先輩のせいじゃないですよ…マジで違うからこれは…」


「でもスッキリ晴れていい気分じゃないか。

 データも取れて、観測もできて、準備した甲斐があったな」

 瀬川の声が端の方から飛んでくる


「ーーあの、瀬川先輩は昔から星を観られていたんですか?」

 日高が身体を少し捩って訊ねる。


「昔からというか、高校生の時からだ。親の仕事の都合で転勤が多くて、その度に色々な部活動に所属していたんだがどれもいまいち身が入らなくてな。ーーそれで高校ではサボれそうに見えた地学部に入ったんだ。」


 瀬川が寝転がったままでぽつりぽつりと語り始める。


 「そしたら地学部の顧問がとんでもない先生で、うまいこと騙されて1年後には何故か必死に研究をやっていたよ。最初は雷の研究をやっていて星は対象じゃなかったが、天文台は使い放題で、使いたいと言えば8時9時まで先生が付き合ってくれる環境だった。

 それでそのうちに天文がやりたくなって、色々テーマを探して、金星の紫外線観測をやろうって話になってね。その辺の絡みで、当時美空天文台に勤めていた先生の所によく通っていたんだ」


「へぇー… 瀬川先輩からそういう話を聞くのは… 新鮮、ですね。…なんというか…」


「あんまり、星に興味がある様に見えない?」


「えっと、まぁ… 正直そう思っていた所もありました。事務方に特化してるというか…」


「そうだな…。今はサークルの副会長を任されている以上まずは、そっちの仕事が優先している。ーーこう見えても結構忙しいんだぞ、大西は全然役に立たないからな。ただの行灯だこいつは」


「心外だなぁー、と言いたい所だが正直瀬川無しでは成り立たないからなぁ。先輩方との折衝とか… 私は瀬川と同期で本当に良かったと思ってるのだよー」


「気持ち悪いな大西」


「ーーでも大西先輩の、そういう素直な所は私けっこうす…… いいと思いますよ?」


「あれっ? さおりちゃん、今好きって言いかけなかった?? ねぇ、言ったよね??」


「…普段鈍感なのに何でそういう時だけ…。

 やっぱり気持ち悪いです!!」


「ええー、そんなぁ〜(しくしく、しくしく」


「もはや伝統芸ですね…。暗くて見えないからって効果音まで配信してくれなくていいんですよ…」


 日高が呆れてツッコミを入れる。



 入部初っぱなに勝手に機材をバラしていたのを厳しく叱責されて以降ーーこれは勿論日高が事前に許可を得なかったのがいけないのだがーー日高が瀬川に対して抱いていた気まずさは時間が経つにつれて若干苦手意識にすら変化しつつあった。


 しかしこの合宿の立案、運営を通じて瀬川のイメージは大きく変化した。

 避けずに向き合ってみると瀬川の一種冷徹とも感じられる部分は、目的の達成の為に妥協を許さない姿勢故のものだとわかったのだ。


 大西も瀬川も、1年が持ち込んだ計画を真剣に吟味し、不備を指摘し、実現できる様に導いてくれた。 機材の事に詳しいとか、星の観測を頻繁にしているとか、ある意味でそういう点でしか天文の人間を見ていなかった日高はこれまでの自分の視点の浅さを恥じていた。


 ーー先輩はやっぱり1年多くやってきているだけの事はある。心を入れ替えて、色々学ばなければ…。




「さて、ぼちぼち写真撮ってみますかね〜」


「おーたけちゃんやるのかー。がんばえー」


「私はせっかく組んだんだから、望遠鏡動かしてみようかな! 北山君、操作教えてー」


「はいはいはい、おまえら元気やな〜」


 1年が動きはじめたのを見て、2年2人組も身体を起こした。


「ふぅー、やっぱり寝転がってると脚が結構冷えますなぁ」


「君たち、俺は明日運転だから先に失礼するぞ」

「瀬川が戻るなら私も戻ろうかな。眠いんだなーもう」


「了解しましたー。おやすみなさい」


「おう、久々に月光浴できてスッキリしたよ。寒いから頑張りすぎない様にな」


「はーい、おやすみなさーい」

「おつかれっすー」

 奥の望遠鏡組からも声が飛んでくる。



 大西と瀬川の足音が遠ざかり、周囲がまた静かになると、いよいよ日高はカメラに向き直って星の撮影を始める事にした。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 天文の世界は、狭い。


 日高が星を観るきっかけになった地域の名物天文おじさんは、眼で星を見せる事に特化していたので日高の持つ知識や技術も自ずとそれに偏ったものとなっていた。

 いわゆる、眼視、観望会の技術である。


 一方、天体趣味という分野の中で大きな存在感を持つのが『天体写真撮影』であった。


 これは昨晩日高達が行った様な科学観測を目的とするものではなく、鑑賞用として天体や星空の姿を美しく写真に描写するものである。


 鑑賞用といっても、天体の光を集める事に変わりはない。

 美しく写実的な天体写真を得るには、しっかり光を集められる機材と、その過程で光子フォトンの情報を取りこぼさない様な原理原則の理解に基づいた丁寧な仕事が必須である。


 これが正に伊勢崎が日高に天体写真への取り組みを勧めた理由であった。


 しかし、天体写真にはお金がかかる。


 まず入門機の一眼レフデジタルカメラですら日高の様な仕送り生活の学生では購入する事は難しい。今夜、日高が伊勢崎から借りている様な型落ちとはいえ中級モデルの一眼レフカメラとなると夢のまた夢である。


 そういう訳で日高にとっては初めての星の撮影。この貴重な機会を生かさない手はないのだ。



(まずは、電源だな)


 日高がカメラボディーの左上にあるセレクタをカチッと動かすと、背面の液晶にメーカーのロゴが表示され続いてセンサークリーニング中という文字が数秒浮かび、ついに撮影設定の画面に切り替わった。


(よし、じゃあオリオン座を撮ってみるか…

 三脚のロックは…っと)


 ボックスの傘立ての中で打ち捨てられた傘と同化しかけていた金属製の三脚はカメラ1台を載せるには大袈裟ではあったが、申し分ない安定感を醸し出してた。


 丸いボールから首が生えた様な自由雲台のT型ロックハンドルを捻ると、軽いフリクションを残してカメラが傾き始める。


 ボディーを持って、大まかにオリオン座の方向へレンズを向ける。


(すごい滑らかな動きだなこの自由雲台…、もしかして結構高いやつなのか?)


 レンズを向けおわると、試しにファインダーを覗き込んでみた。


 視野の中は思ったより明るく、視野の縁を示す黒色の枠もハッキリ視認できる。しかし、オリオン座の星々は確認できず実際の視野がどうなっているのかさっぱりわからない。


(これは多分ピントが出ていないんだな…

 えーーっとピントリングは… ここか)


 レンズの胴部分はズームリングになっていて、ピントリングはその付け根付近にある。


 本来はズームリングを回して視野の大きさを決め、その後でピントを調整しなければならないが今は大きくピントがズレていて星の確認すらままならないのでとりあえずピントが先だ。


 ファインダーを覗きながらリングをグニグニ回していると、視野の中に複数のボンヤリとした滲みが現れる。更にリングを回し込むとそれは一点に収束していき遂に鋭い光の点になった後、また広がり始めた。


 日高は慎重に鋭さのピークを見極めながら、リングを少し戻してピントを決めた。


 視野の中ではもう片足に体重を乗せて身体を傾けたオリオンの存在が確認出来る。


(よし、構図もとりあえずこれでいいだろ。

 次は…えっと撮影設定か)


 携帯のメモを見ながら、伊勢崎に教えられた通りに感度、シャッター速度、絞りを調整していく。


(ISO-1600 , F3.2 , 5秒 … よしっ)


 日高はカメラからぶら下がったリモコンーーレリーズと呼ぶーーを握るとその中央のボタンを押し込んだ。


 ジジッツ ジジジジジッッ


 明らかな何かの動作音がして、シャッターは切れない。


「あれっ!? なんで??」


 慌ててファインダーを覗き込むと、さっき合わせた筈のピントがぼやぼやに戻っていた。


(あっ、、、オートフォーカスだ、、)


 伊勢崎から教えられたメモ書きにも

『オートフォーカスの切り忘れに注意』

 と書き込んでいたが、注意されるだけあってまんまとやらかした様だ。


 携帯の画面を薄く光らせて、レンズの側面を照らし出すと[AF]というタブが見つかる。


 爪をかけて[OFF]の位置に切り替えると、日高はため息を一つ吐いて再びピント合わせに取り組み始めた。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



 5秒の短い露出の後シャッターが戻るパタパタとした音がしてプレビュー画像が表示された。


「蒼い…」


 写し出された月夜の星空は、透明感のある青みがかったグレーの様な色合いだった。

その中でオリオンの星々が輝いている。

ベテルギウスの濃いオレンジに、リゲル、ベラトリックスの鋭い白色。


 思わず見上げる星空は、確かに透き通った様ではあるが決して蒼くはない。星々の色も写真ほどハッキリはしない。


(色は光なんだな…)


 光が少ない時、人間の眼はモノクロモードになり色を捨てて世界を見ている。それは物体の距離や形を把握する方が生存の為に重要だからなのかもしれない。


 何者にも等しい時間の流れの中で、カメラのセンサーが圧縮した5秒間の世界の光。それが1枚の画像に圧縮されて人間の眼では見る事の叶わない、微細な光と色の世界を描き出す。


 その事実に、日高はクラクラする様な高揚感を覚えた。


(もっと別の天体も撮ってみよう)


 ごくりとつばを飲み込むと、日高は撮影を再開した。



 脇では、望遠鏡の操作に悪戦苦闘する沙織とそれに指示を飛ばす北山が賑やかに盛り上がっている。


 放射冷却でよく冷えた高原の校庭で、合宿最後の夜はあっという間に更けていくのであった。




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